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SENCHOの日記
SENCHOの日記 [全292件] 71件~80件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
ラボ・カレンダー11月 ことばはときとしてむなしい。でも、ことばの力ををいまこそ! 10月31日 (木)
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いきなりフットボールの写真で恐縮だが、
どういうわけか母校のティームが開幕3連勝していて、
しかもいまだ無失点である。
ICUは女子学生の比率が高く、
6対4よりもう少し女子が多いという状況なので、
フットボールのようなはげしい運動をする男子はきわめて少ないのである。
講義スケジュールやアサインメントがきついから
練習も週3でしかできないので
いかに合理的に効率よい練習をするかがだいじである。
まあ、フットボールは机上の作戦が半分をしめるので
ミーティングも重要で記録写真屋ヴィデオは必需品だ。
4年前から全試合の記録撮影をしているので、
シーズンである秋はけっこう忙しい。
今年の夏はひまでボーッとしていたが
秋はけっこう公的機関の仕事などもはいってばたばたしている。
まあ国やいろいろな組織にラボの話ができるいい機会ではあるが。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。とうとう霜月11月だ。
今年もあと二月。
芭蕉は『奥の細道』の冒頭で
「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、
行かふ年も又旅人也」と書いた。
月日は次つぎと通り過ぎて永遠に帰ってこない。来ては過ぎる年も旅人」
ということだ。
この有名な書き出しの出典は
唐の天才詩人李白が「春夜に従弟の桃花園に園する序」という文である。
夫天地者萬物之逆旅 夫れ天地は萬物の逆旅にして
光陰者百代之過客  光陰は百代の過客なり
逆旅というのは旅館のことで、
「天地はすべてのものの旅館であり、光陰(月日)は永遠の旅人なのだ」と
春の桃の花見の飲み会にもいちいちこんなことを書く李白は
さすがというほかない。李白の文はこの先にも続きがあって、
「だからわれわれの人生も夢のようなものである。
そんなはかない存在のわれわれだが、
この天地から詩文をつくる才能をいただいている以上
おおいに飲んでよい作品をつくろうではないか。
もしできないやつがいたら、そいつは罰ゲームで一気飲みだぜ」というものだ。
なんか、酔っぱらいが飲む理屈をつけているようにしか見えないが、
クリエイターとしての自負と気概があらわれている。
芭蕉も人生の終末を見据えながら、
たぶん帰れないであろう旅立ちにあたって、
この偉大な詩人へのオマージュとして、
また詩人としての自分の決意としてこのことばを引用したのだろう。
ぼくは芭蕉研究家じゃないから聞き流してね。
でも芭蕉もちゃんと漢籍を勉強していたんだなあ。 
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さて、前置きが長くなったる11月の絵は”Frederick”である。
こぞんじレオ・レオニの絵本に題材を求めたものだ。
奇しくも昨年の11月のカレンダーもこの作品である。
うーむ、『フレデリック』」を描けば11月の絵に入選するのか? 
それは冗談だが、晩秋から冬をテーマにした応募作品は比較的少ないし、
なかでも晩秋は冬よりも稀少なのだ、
ねらうにはチャンスである。なんて邪道はいかんけど。
描いてくれたのは青山明外くん(小4/藤沢市・渡部P)だ。
「あきと」と読むのだろうか、どなたかご存知の方はご教示あれ。
めくった瞬間は、あっやられたという感じだった。
11月の絵だから、ぼく自身も先入観で紅葉とリンクする
赤系、茶系、橙系の色合いを勝手にイメージしていからだ。
やはりおとなはいかんなあ。
まだ12月の絵は見ていないが、
おそらく今年の作品のなかでは最も抑えた色調だろう。
ほかの月にくらべれば迫力や派手さはない。
でも、じつに落ち着いた感じが気に入った。
そこで20分くらいじっと眺めてみた。
きびしい季節にむかって準備するのねずみたちが
とにかくていねいに描かれている。するといろいろ見えてきた。
まずとにかくバランスがいい。平面的なようだが奥行きがけっこうある。
これは大事なことだ。
さらに色調は抑制的なのたが、じつは色数はかなりある。
背景、木の葉、ぶどうやトウモロコシなどの作物など、
それぞれに同系色を微妙にかえて味をつけている。
要するに単純に一色で「塗り絵」されたものがひとつもないのだ。
これはたいへん根気のいる作業だし、
そのことを楽しめないと持続できるものではない。
それは明外くんか絵が好きなだけでなく、
この物語への思い入れがかなりあるからだと信じる。
そのあたりどうなのだろうか、ぜひきいてみたい。
とくに背景の色変化は絶妙で、ここは計算では描けない感覚の勝利だと思う。
ただ、その感覚がよびおこさせるものが物語にあったのだろうと思いたい。
いずれにせよ、今書いたようなことが
入選の大きな理由になっているのではないかと想像している。どうかな。
昨年の同作品の感想と重複するが、
レオニの絵本はだれにでも楽しめる一方で
人間の尊厳とか存在に関わる重要なテーマを、やわらかに提出してもいる。
「あるがままを愛する」「自分の心に自由に生きる」。
それらのことは口でいうのは簡単だが、じつはなかなか社会はゆるさない。
フレデリックのような孤独、孤立もまた表現者のたいせつな資質である。
青山くんもまた、理解されようと思ってこの絵を描いていないだろう。
だから彼もすぐれた表現者の資質をもっているはずだ。
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この物語はまた、「ことばの力」が大きなテーマである。
そのことばの力はけして楽観できる状況ではない。
20世紀以降、現実がフィクションをこえてしまうくらいの
劇的なシーンをつくりだすため、
現実や世界をことばで支えることが難しい時代が続いている。
その傾向はますます強く、詩人、文学者にとっては、
現実とことばの関係のあやうさ、現実に対することばの「脆弱性」を
どのように強力な想像力で補うのかはじつに悩ましいことである。
たとえば9.11の同時多発テロにしても、
あんな悪魔的シナリオを書くライターはいない。
「嘘だとさけびたくなるような真実」は
「ほんとうだと信じたくなるようなフィクション」をふきとばしてしまう。
しかし、そんな時代や状況を「ことばの力」でうちぬこうとたたかうのが
ワード・プロフェッショナル、作家や詩人の仕事であり責任である。
レオニはこの物語ではさらに「ことばの力」が生み出す
「絶望を希望にかえる力」「命を活性化する力」を描きたかったのだろう。
彼はオランダで生まれ、イタリアに住んだが
ファシスト政権から逃れてアメリカに亡命する。
そのおだやかな画風からは想像ができないきびしい人生をあゆんだ人だ。
そんな背景をもつからこそ、「ことばの力」「ことばをつくるたいせつさ」
「ことばをつむぐものの孤独」を、
おだやかにしかし強く表現したかったのだろう。
そして、そのレオニの思いは世界中にうけつがれ、
日本の藤沢の少年にもまちがいなく届いたのだ。
このライブラリーはぼくがプロデュースした最後のシリーズの一作なので
思いも深いし記憶も鮮明だ。
ラボっ子の選考会もたいへん勉強になった。
また語りの市原悦子さんが、
最初事務所サイドで「市原のひとり語りならいいが、
子どもたちとの共演は彼女の世界観がかわるから」と難色をしめしたのに対し、
その二三日後に出演快諾の返事がきて一同喜んだのをおぼえている。
その謎は正確には不明だが、
本番が終ったスタジオで市原さんが
「江守さんが、たいへんでめんどうかもしれないけど、
おもしろくていい仕事とおっしゃってのはこれだったのね」と
赤いスカートでニコニコとおっしゃったのが、
たぶんそのこたえなのだろう。
芭蕉が引用した大詩人李白は8世紀、唐の時代に活躍した。
遣唐使の阿部仲麻呂とも親交があり、
仲麻呂が帰国途中に遭難死したときいたとき李白は号泣したという。
かつての長安、現在の西安市の公園には仲麻呂の追悼碑がある。
ぼくも見にいったが、その裏の追悼文は李白によるものだ。
李白は62歳のとき船にのって酒に酔い、
月をとろうとして溺死したともいわれるが証明はされていない。
ラボ・カレンダー神無月の絵 『おやすみみみずく』=共生の森で 3 09月29日 ()
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。はや神無月だが、二日ばかりフライイングである。明日と明後日は時間がないので、もう今日書いてしまうのだ。
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絵の題材となったのはイギリスの女性絵本作家パット・ハッチンスの"Good -Night Owl!"『おやすみみみずく』(渡部茂男訳)。2003年リリースのラボ・ライブラリーSK29『ノアのはこぶね』に収録されている作品だ。
今回、カレンダーの絵を描いてくれたのは原恒太くん(小1/調布市・木村P)。
主人公のみみずくを、どーんときもちよくかいている。
物語はみみずくが住居にしている大木を中心にすすむので、
構図は原作絵本のそれといっしょである。
だから一見、ただ模写したように見えるかも知れないが、
そんなかんたんなことではない。
まずラボの絵本のサイズはB5変形ほぼ真四角の小さなサイズである。
対してカレンダーの絵はB3横使用であるから大きさもプロポーションもぜんぜんちがう。
恒太くんの身体の大きさはわからないが
小1なら、たぶん横にした画用紙は肩幅くらいある。
ここに、この作品のようにパランスよくおさめるのは、たいへんなことである。
とくに枝ぶりの微妙に曲線などはおとなでもむずかしい。
拡大して模写するのはたいへんなのだ。
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話はちょっとだけそれるが、この絵本は大型版もでている。
ハッチンスの原画はみたことがないが、どの程度の大きさなのだろうか。
ふつう絵本作家は仕上がる絵本の大きさの
120パーセントから150パーセントの大きさで描き、
印刷のときに縮小することが多い。
そのほうが絵がぎゅっとしまってよいといわれている。
だから絵本原画展にいくと、みんな意外に原画のサイズが大きいのにおどろく。
話をもどす。サイズとプロモーションがこれだけちがうと、
自分なりのイメージがないとは描けないということだ。
しかしこの作品がすごいと思うのは、そんなことは一部。
この絵もまた細部をよくよくしつこく描き込んでいる。
単純になりがちな木の幹や枝もこの書く色を使いわけている。
これもたいへんな作業だ。
それと、これはぼくの個人的にな好みだが、
全体的に色のトーンが原作よりもやわらかく
「ぬけた感じ」がしていてきもちいい。
原作はもちろんすばらしいのだが、
恒太くんの色あいはやきり現代的でおしゃれだと思う。
これまで何回か書いたが、茶色の面積が多い作品はけっこうむつかしい。
この作品もプラウン、イエローオーカー、そしてイエローと
親戚どうしのような色合いなのだが、
その濃さと透明感がほどよいのでとってもかっこよくなっている。
とくに背景のイエロー(画像でみるより実際は
もう少し赤身というかオレンジがはいっている)が最高だ。
このバックできまり! というところだろう。
また、抑制気味につかっているビリジアンとコバルトが、
いい味になっている。これまたおしゃれだ。
原くんがいつごろこの物語に出会ったのかはわからない。
でも、たぶんはじめて聴いたのは
もう少し幼い4~5歳のころではなかったろうか。
それをあたためていて、なにかパーティで活動したとか、
なんらかのきっかけがあって筆をとったような気がする。
そのあたりはぜひうかがってみたい。
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原作者のハッチンスは1942年ヨークシャーの生まれ。
生物と自然への愛をヒューモアたっぶりに描く画風で人気がある。
彼女の作品は自然科学図鑑ではないが、
デフォルメしつつも鳥たちの羽などの色や構造をかなり正確に描き込んでいるーそのことで子どもたちは自然への興味がわいてくるだろう。
 ご承知のようにみみずくは夜行性である。
昼間に爆睡しようとするが、いろいろな鶏がやってきてさわぐのでまったく眠れない。
しかし、夜になってほかの鳥たちが寝ようとすると
「ぶっきょっこー」とみみずくは元気になる。
昼間、みみずくは眠たくても「ああねむたい」としかいわない。
「うるさい!」とか「しずかにしてくれ」とはいわない。
森の一日はいろいろな個性の共生の一日である。
違いを認め合い唄い合う
さまざまな才能のきらめきをハッチンスはやさしく語っているのだろう。
ハッチンスは『風がふいたら』でイギリスの最高絵本賞、
ケイト・グリーナウェイ賞を1974年に受けている。
個性といえば、この物語のライブラリーの日本語音声には
ラボ・パーティの子どもたちが参加している。
その選考会は演出の西村正平先生によるワークショップ形式で行なった。
それはほんとうに子どもひとりひとりの個性とむきあう作業だった。
オーディションということばは好きではない。
だが、スタジオにいけるのはかぎられた人数である。 
選考をしなければならない。ぼくは選考会のたびにいったことがある。
「ライブラリーのパンフレットやテキストには
『日本語・ラボ・パーティの子どもたち』とでます。
でも、それはスタジオにいった人たちだけのことではありません。
この選考会にきたみんな。
いや、この企画に応募して応募動機や音声をおくってくれたすべての人のことです。
ですから、みなさんは『このライブラリーの製作に参加したんだ』と、
どうどうと自慢してください。
ぼくも、こんなすばらしいたくさんの子どもたちと仕事をしたんだと、
ずっと自慢します」
最後にちょっと毒を。
よく「個性をのばす教育」ということがいわれるが、
ぼくはあまりそのことばを信じていない。
「育てなければのびない」なんてのは個性ではない。
ほっておいても、へたをすればたたかれても、
うちのめされても勝手に伸びていくのが個性だと思っている。
07/09/13 司修先生との再会! いのちの画家は銀河鉄道に3.11以降の社会を問う 1 09月12日 (木)
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神奈川近代文学館に「賢次+司修 注文の多い展覧会」を観にいった。
午前11時、首都高湾岸線は驚くほどすいている。
雲行きがあやしいがベイブリッジを渡るころには陽が射してきた。
右手にランドマークとインターコンチがかすんでいる。
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神奈川近代文学館は「港の見える丘公園」のてっぺんにあり、
緑にかこまれたとても愛すべきミュージアム。
ぼくはここがお気に入りで何度も訪ねているが、
そのきっかけが1998年にリリースした宮沢賢治のラボ・ライブラリーである。
刊行の1年後だったと思うが、
文学館の主催で司先生の作品を中心とする「日本の絵本原画展」があり、
そのとき賢次のライブラリーの原画もたくさん展示された。さらにポスターやチラシには『セロ弾きのゴーシュ』のコダヌキが大きくつかわれた。
もちろん、協力・ラボ教育センターとクレジットされ、
ぼくもオープニングによばれて
主賓の司先生の後にずうずうしくもあいさつしたりした。
この近代文学館は、そのたたずまいもすてきだが、
なにより作家と作品をたいせつにする(あたりまえのことだが)
心がいきとどいている。
そのことを司先生もよくご存じなのだろう。
それで長くおつきあいされているのだと思う。
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※会場には撮影コーナーもある。
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司先生とはじめてお会いしたのは1988年の『トム・ティット・トット』にさかのぼる。
もう四半世紀前だ。賢次作品のリリースは1998年。
これが司先生との最後の仕事だが、もう15年前である。
それ以来、すっかりごぶさたしている。
あんまり会わす顔がない(もともとないか)。
文学館についたのはちょうど正午。
館内の港が見えるUnteiというカフェで
オーガニックのコーヒーと海苔とオリーブをつかった和風サンドでランチをすませる。
となりの席の妙齢のご婦人お二人としばし会話をする。
司先生と昔からお知り合いですがと訪ねると、
過日、世田谷美術館で司先生のお話を聴き、
すっかりそのお人柄に魅せられたのだとおっしゃる。
開場は13時なので、先に展示を観ようと席を立ち、
ブックストアによると司先生のご本がいろいろ販売されている。
8月にでたばかりの白水社『絵本の魔法』を購入する。
ありがたいことに気恥ずかしいことに、
ラボのライブラリーもとてもいい位置に平積みされている。
さきほどのご婦人にもカフェできっちり宣伝したら、
ほんとに購入してくださった。やはりうれしい。
そして原画も『雪渡り』『ゴーシュ』などのラボの作品が展示されていた。
なにか旅にでた子どもにひさしぶりにあった感覚につつまれ涙腺があぶなくなった。
会場は二階にあるホールで定員は200名。ほぼ満員である。
司先生の本を購入するか持参すればサインをしていただけると告知されていたので、
ややまよったがはしたなくも整理券をもらう。13番だ。
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講演は冒頭で先生の故郷である前橋でひらかれた
障害をもつ子どもたちの絵画作品に
各界の著名人が詩や物語をつけたものがスライドと朗読で紹介された。
賢次とは直接関係ないが、絵と物語、
テキストとの関係を考えさせる「つかみ」だった。
講演は90分。その内容をすべて書くことはしないが、
司先生の「ぶれない」命への思い。戦争への激しい悲しみと嫌悪。
画家としてのきびしいスタンスが、
おだやかな口調で会場をつつみこむように語られた。
柔和さなのなかにこそきびしさがあるのだ。
水仙の花が咲くとき、亡くなったご母堂が帰ってくる。
亡くなってから、親の存在がいや増し、
まだ心のなかに生きていることを実感されるというくだりや、
先生が胆石の手術をされて、
生死の境からもどった病室で『雁の童子』の絵を描きはじめたことなどは、
ぼく自身の父親のこと、また自分の手術のことと重なり
恥ずかしながら大きく共感しゆさぶられた。
そして、東日本大震災以降、しばらくは展覧会を観にいこうとか、
画集をみようとといった「なにかを得よう、なにかを学ぼう」
という気持ちになれなかったという告白のような話にはうちのめされた。
それは大江健三郎氏もから同じ話をおききになったという。
若き日、先生は「画家にとって絵本や挿絵は糊口のための余技」
のように思ったこともあるとおっしゃる。
ただ今ふりかえると、やはりご自身に必要な作業だった。
そのなかでラボの作品も含めて、
賢次の絵本や挿絵はたくさん描かれたが、
つど受け止め方、考え方が変化し、
そのたびに少しずつ賢次に惹かれていったという。
そして先生はいま『銀河鉄道の夜』の挿絵をスクラッチボード、
黒と白で描かれている。
その作業中の作品をプロジェクターで紹介してくださった。
最後はカンパネルラのアップの顔だが、
とても女性的に描かれていた。
設定ではカンパネルラはジョバンニの年上の友人だが、
賢次のなかの思いは妹のトシであるという先生の絵思いからそうなったと語られた。
「妹(いも)の力」である。
司先生がご自身の絵を解説されるのはめずらしいことだ。
ぼくは先生と仕事をするときは、
あまり余分なことは伺わなかったし、
とにかく全力で自由にやっていただくことを心がけていた。
だから、今回のように作品への思いをおききする機会はたいへん貴重だ。
画家は絵で語るのだから、解説や解釈はいらないからである。
したがって、ぼくが毎月書いているカレンダーの絵の感想などは
野暮のきわみである。
ただ、好きなものは好きで、
どうして好きなのかを表現することで描いた子どもや周囲の激励になればということだ。
話はそれたが、先生は『銀河鉄道』を通して3.11以降の世界を問い返そうとしている。
先生が賢次作品の絵本をはじめて描いたのは、
高度経済成長のまっただなかだった。
そのときといまの日本はどう変化したのか。
かつて第二次大戦のとき、多くの画家が戦争賛美、戦意高揚の作品を描いた。
あるいは描かされた。
しかし、先生の身近に、まったくそちらに組せずに、
日常的な風景を描き続けたアーティストもかなりいたという。
そういう人びとの存在は、
ときとして世界に対する無力感にさいなまれそうな魂への最大の励ましだとおっしゃる。
今、この世界で日本で芸術家としてなにが可能か、
命の尊厳とやすらぎのためにできることがあるはずで、
それは賢次が純粋に考えていた農村と芸術というテーマからも学んでいると結ばれた。
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講演が終わり、サイン会にならんだ。
ぼくの番になり「たいへん、ごぶさたしています。ラボにいた三澤です」
と勇気をふるってごあいさつすると、
先生はいつもの少年のようなきらきらした瞳(今年喜寿をむかえられたとは思えぬ)と、
おおげさな手振りで驚いてくださった。
「賢次もトム・ティット・トットも、ラボの子どもたちが愛しつづけています」
と伝えると、先生はほんとうにうれしそうに
「そうですか。ありがとう」と笑顔でこたえられた。
15年のときを一気にこえて、ああぼくは十分報われたと思った。
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会場には、地元の石橋テューター、三島テューター、
さらには川崎からは島岡テューターもお見えになっていた。
石橋テューターのご子息もこられていて、
韓国交流のキャンプの今夏限定のバッジをもらってしまった!
展覧会は今月29日まで。みなさんぜひ。
http://www.kanabun.or.jp/
日にちは前後するが、その前日
Rameeshaこと元ラボ事務局員である板谷安子さんのベリーダンスの公演を観に
武蔵境へいった。
武蔵境は大学の関係でしょっちゅうでかけているが駅の北側はひさしぶりだ。
今夜はアイリッシュハープ、アルパ、
そしてギター、ベースのユニットとのコラボレイションだ。
板谷さんは幼い時から日本舞踊を学び、長じてベリーダンスに魅せられた。
彼女はラボ時代の後輩である。
といっても直接の部下だったわけではなく、
せいぜい新刊が出る時などの研修で話をするくらいだった。
ただ、とても素直で、ぼくのぐだぐたの研修を熱心に聴いてくれたこと、
そして感性豊かだということが印象に残っている。
板谷さんが踊りを学んでいることは、つい最近まで知らなかった。
それがこの春に突然「踊りに専念するべく退職する」というあいさつをいただいた。
仕事でもたいした関係もなかったぼくに、
わざわざ直接に報告をくれる律儀さに感服したが、
それは踊り手としてプロになることへの決意の強さの表れでもあると感じた。
で、今夜はプロ宣言して最初の大きなステージだ。
会場には、多くのラボ関係者も姿を見せていた。
常に素直でひたむきだった彼女の人柄のなせる業だ。
休憩をはさんで16曲、アンコールも含めて17曲はあっというまだった。
踊りは激しく、やさしく、美しかった。
また、アイリッシュハープの透明感ある音色、
アルパのねっとりした音の比較も楽しめた。
仕事をやめて踊りに専念するという決断は、
そうかんたんなことではなかったはずだ。
満面の笑みを会場にふりそそぎ全身で舞うRameeshaの姿からは、
なにかを吹っ切った者のさわやかな覚悟が伝わってきた。
そして改めて確信した。
身体による表現者にとって素直さは、
最もたいせつな資質なのだ。がんばれRameesha!
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ここで少し賢次関連の続き。
今年の9月21日は賢次没後80年だ。
賢次は文学史の位置づけできびしくいえば
「地方インテリの悲劇」の体現者であり、作品数もけして多くない。
しかし、ぼくは賢次は作家とか農業指導者とかいった
人間がはれるようなレッテルにおさまる人ではないと思っている。
むしろ、19世紀末の日本の東北に一瞬出現し、
40年にみたない年月、シリウスよりもまばやく全天に輝きをはなち
そして、また一瞬に宇宙のかなたに流星のごとく飛び去った
「現象」とでもいうべき存在だと感じている。
彼の後に文体でも言語でも、それを模倣するものすらあらわれていないのも
そのあかしだと思う。

そして。賢次のすさまじいまでの純粋さとそれゆえの苦悩、
自然と人間の共生、真の幸福への格闘といった流星賢次のコアなるものは
21世紀に入ってから、その輝きを年こどに増していると確信する。
まるでハレー彗星のごとく賢次星は大きな透明の尾をひいて
地球に接近してきている。
そこから学ぶことは少なくない。
その感覚を時代を司先生もぼくなんかの千倍くらいおもちなのだろう。
さて、こころからは雑談である。
ラボの話もででくめるが、めんどくさい人はここで終わり。

2020年に東京で夏期オリンビックが開かれる。
札幌と長野の冬期五輪をあわせれば4度目だ。
ぼくは1964年の東京のときは小学校6年生で、
そうとうな衝撃だった。
札幌のときはちょうど大学受験の冬で、
ICUはずいぶん試験日がはやく、
二日目がちょうど90m級(現在のラージヒル)が行なわれる日で、
試験終了後「さあ、帰ってジャンプみよう」とつぶやいて三鷹駅に急いだのを覚えている。
ふしぎなことに長野五輪になると少し記憶がうすれている。
開会式の演出は浅利慶太氏だったが、
御柱をモティーフにすえて日本の伝統と歴史を表現したようだったが、
うーんとなってしまった。
クライマックスで、ご本人にはなんの罪もないが
スケートの伊藤みどり選手が巫女というかシャーマンのようないでたちで
現れたときにはどん引きしてしまった。
とくに、その年は賢次のライブラリーの製作に追われているときだったので、
あまり五輪に関心をもつ余裕がなかった。
ただ、司修先生の家に絵を描いてくださいとお願いにあがった日が
ジャンプ団体の日だった。
その10日くらいまでに先生には文書で企画と条件をお知らせしていたが、
電話での感触は「個展も近いのでスケジュール的にはぎびしい」というものだった。
ぼくは無礼にも「音楽は林光先生、監修も天沢退二郎先生、
英語はパルバースさんです。これ以上のユニットは考えられません。
先生以外の画家を考えていません。
作品数が多いのですべてとはいいません。
ただこのメンバーに司先生がいらっしゃらないのはありえません! 
どうしてもご無理ならどなたか若手を紹介していただき、
先生がアートディレクションしてください(これも今思えばひどい話である。
若手にも失礼だし世界の司修に無礼の極み)」と一方的にいった。
その迫力にまけたか、それまで毎年会社から中元でおくっていた
先生お気に入りの梅干しがきいたかわからないが、
「わかりました。時間をください。○○日にきてください」との返事をいただけた。
先生の家は武蔵村山で当時は立川から武陽交通という
先生指定のタクシーでいくしかなかった。
とりわけ寒い日で空はどんより。
タクシーのラジオではジャンプ団体の実況を放送しているが
こちらはそれどころではない。
松本氏と「最低2作品は描いてくださることになるまで席ををたたない」
と確認した。まるで居直り強盗。
司先生のアトリエについたとき、
アナウンサーは悲痛な声で「原田失敗! 日本逆転されました」とさけんだ。
いやな予感。
ドアをノックすると、先生のおだやかだがずっしりした声が「どうぞ」。
どんなお顔をされているかとドキドキ。
すると、先生はいつもの少年のようなちょっといたずらっぽい瞳で笑いながら、
「ラボの賢次じゃ、ほかの人にはさせられないですね。
ぜんぶぼくがやります。いや、やらせてください」といって頭をさげられた。
心のなかでガッツポーズである。
前述したが先生のラボでの最初のお仕事は1988年の
『トム・ティット・トット』である。
それが今も多くのラボっ子に愛されつづけていること。
また、教材ではなく作品であること。
抽象、具象を問わないこと。
子どもむけ、子どもにおもねる必要のない全力の作品であること。
これらのラボのロングセラー度とライブラリーへのこだわりのスタンスが
先生に認めていただいるから、
やはりかなりの無理をしてもおつきあいしてくださったのだと思う。
短い冬の日がかたむき、むかえにきたタクシーがホーンをならした。
外にでると壱岐が白い。シートに腰をしずめると思わず「ふーつ」とため息。
その瞬間。ラジオが「やりました、日本、再逆転で金メダル、
ジャンプ団体金メダル」とさけんだ。
それが長野五輪のいちばん記憶かもしれない。
東京の圧勝。その背景にはやはり経済力が大きく関わっている。
ロビーワークもプレゼンの準備や練習もコストをかけなければ成立しない。
石原知事の時代から東京五輪招致にはすでに莫大に金がつかわれている。
マドリードの政府高官の「われわれには日本のような巨人に対抗できる経済力はない」
というコメントが印象的だった。
猪瀬知事が決定後にいみじくも
「戦いであり、ビジネスだ」といいきったのは真実なのだと思う。
オリンピックそのものを否定するわけではない。
安倍総理ではないが、ぼく自身、1964年の五輪はものすごいインパクトがあり、
終ったあとの喪失感もまたすごかった。
閉会式で最初は美しい国ごとの隊列で歩いていた選手が、
次第に入り乱れ、ついには日本の旗手が肩車された場面は感動した。
スポーツの力にふるえた。
七年後を目標にする若いアスリートたちのモティベイションは確実にあがるだろう。
経済効果もあるだろう。
感動を共有する体験をもつことはたいせなことだ。
ただ、国家と国民はけして一体ではないことを常に頭におかねばならない。
国家は国民に委託された装置に過ぎない。
憲法改悪、TPPなど、いきおいですすめてはこまる。
そしてなにより、世界に安全を約束したことをどう実行していくのか。
監視する責任き国民にある。
1964年の開会式では自衛隊のブルーインパルスが
五輪のマークをジェットで描いた。
大仕事を終えた五機はその五色の煙をひいたまま、
国立競技場から西に帰投したが、そのときぼくの家の上を通った。
ぼくは東の窓をあけたぼうぜんとそれを見上げていた。小6の秋だった。
夏の終わりに 想像の瞬発力と持久力 08月30日 (金)
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写真は横浜「みなとみらい」の日没。撮影は2年前だ。
今年もなんとか夏をやり過ごした。
昨年と同様に8月の9日から一泊で湯田中温泉にでかけた以外は
都内でおとなしくしていた。
最近はFacebookなどで
ラボの国内キャンプ、国際交流のようすがリアルタイムにわかる。
見ないほうが身体にいいのだが、なにか目をつむるのも変なので
結局は毎日チェックする。
テューターのみなさんやご父母の報告と感想、
そしてなにより子どもたちの笑顔から
この季節がいかに心の筋肉をたくましくするかが伝わってくる。
ともみあれ無事にラボの夏が終わったようで
もう「ひとごと」のはずなのにホッとしている。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
二日ばかりフライイングだが
今週の土日はいろいといそがしいので書 いてしまうのだ。
題材となっているのは"The Sky Blue Seed"『そろいろのたね』だ。
描いたのは、堀部莉央さん(小5/徳島市・鈴江P)。
原作は文が中川李枝子先生、絵は実妹の大村百合子(現・山脇百合子)先生の
名コンビの絵本である。
このあまりに有名な作品はタッチもフォルムも色彩も
じつに「やわらか」でむだがなく、子どもの心にスッとはいってくる。
したがってこの物語を題材にした「カレンダーの絵」は、
毎年かなりの応募点数がくる。
いうまでもなく「比較的模写しやすい」からだ。
しかし、この堀部さんの絵を見ておどろいた。
「そらいろのいえ」そのものは、さすがに水色なのだが、
全体はまったく堀部さん自身の世界になっている。
これはなかなかできることではない。
もう個性といっていいし、独自の世界観を表現しはじめているといっても
過剰な評価ではないと思う。極端にいうと「作家性」さえ感じるのだ。
この物語で多くおくられてくる絵の構図は、
大きくなった家にみんなが楽しくシェアハウスしているシーンを
正面から、すなわち家だけを描いたものである。
この絵もそうなのだが、独創的なのは、
もう密林のリツーハウスのようなつくりになっていることだ。
しかもよくみると、子とも部屋や木のウロのなかなどは
夜のだんらんが描かれている。
これは本人にきいてみないとわからないが、
堀部さんはこの物語が大好きで、
そらいろのいえに自分も住んでみたくて、
いろいろと想像力をふくらませて
その発展型を構想したらこうなってしまった
ということなのではないだろうか。
想像したもの、それは観たことのないもので、
それを心に従って描くのはけっこうな力と、
その想像を持続させる力、すなわち「想像の瞬発力と持久力」が必要である。
子どもの場合、瞬発力はときとしておとなよりすぐれていることはよくあるが、
想像の持久力となると、人生のキャリアがもとめられるからたいへんなのだ。
じつはこの瞬発力と持久力のある想像力が創作力の源泉だ。
近年、この十年くらいにでてきた若手の作家をみると
瞬発力でいい作品が書けても持久力がなくて消えてしまうケースが多い。
「ずっといろいろな変化球を投げつづけられる地肩の強さ」とは
林真理子氏のことばだが、まさにそういうことだ。
堀部さんの作品の持久力は、まず色数の多さである。
ためしに数えてみてほしい。
新しい絵の具やクレパスなどが手に入ると、
とにかくたくさんの色を使ってみたくなるものだが、
実際にやってみると現実に色にとらわれてしまい色数が限定されてしまう。
でも堀部さんは自在に、じつに細かく多彩な色を使い分けていて圧倒される。
煙突の色の変化、家の内装の水色もだ水色ではな、濃い線と薄めのバック、さらにピンクのドットでおしゃれにしている。
また、より驚くのはいろいろな画材、
すくなくとも鉛筆、クレパス、色鉛筆、不透明水彩を使い分けていることだ。
これまたたいへんな力で、表現したい色とそのための画材も考えるのはなかなできない。
で、より注目すべきは「いえ」があざやかな水色中心に描かれていて、
ぐっと前面にでてきていること。
そして背景の木の幹や枝葉、花などが抑制した色で描かれていて
その対比がすばらしいことだ。
しかも、これだけ描き込むとバックはどうしても手抜きっぽくなるが、
とにかくしつこく描き込まれている。
さらにさらに「同じ表現の面積」があまり偏らないようにしているのもすごい。
ずっと見ていられる絵だ。
そうやってながめていたら、家の左下にキツネがちゃんといるのにびっくり。
やはりこの家は堀部さんの理想の発展型なんだろう。
キツネもちゃんと共生してる。ラボっ子の絵はやさしい。
とにかくこの物語は「そろいろ」というタイトルにひっぱられて、
空色を多くつかってまう。
たしかにSKY BLUEは重要なもてモティーフだが、
堀部さんは独自の世界観で再表現したのだ。
これも一種のテーマ活動だろう。注目の描き手だ。
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さて、堀部さんの作品のおもしろさを伝えるために少し原作のことを書く。
ストーリィそのものは「エゴイズム」という根源的テーマにふれているので、
じつはかなり深く重たい内容である。
ラストでせっかくみんなに愛された「そろいろのいえ」は
キツネのエゴで崩壊し、キツネがノックアウトされて終わり、
その後のことは語られない。
あやかしの力でつくられた「そいろのいえ」は
所詮まぽろしのユートピアだったのか。
ゆうじや、子どもたちや、動物たち。そしてキツネはこの後どうしたのか。
読み手はいろいろ考えさせられる。
わがままキツネがダウン、パチパチでは終らない。
家の崩壊は一種のカタルシスではあり、
太陽にどときそうになりばらばらになった青い家のかけらが、
まぶしい空からきらめきながら落ちてくる場面は想像のなかでは美しくさえある。
話はとぶが、ぼくはクリーデンス・クリア・ウォーター・リヴァイヴァル
というバンドの"Have You Ever Seen The Rain"を思い出してしまう。
この歌は「おいらは知りたい。晴れた空からふってくる雨を、
あんたはみたことがあるかい」という一節が
ベトナム戦争で米軍がゲリラ殲滅に使用したナパーム弾のことを暗喩している
という評判がたち、一時期放送禁止になったくらいだ。
ともあれ、青空から家のかけらがまいおりてくるというイメージは、
とても「子どもむけの話」でかたづけられない。
だが、この絵本がそうしたいろいろなヘヴィなテーマを内包しつつ、
またラストがあまり救いのない終り方であるのに、
幼い子どもたちに長く愛されているのは、
中川先生の平明でやさしいリズムのことばと、
大村先生のおだやかなタッチと色彩によるところが大きいと思う
だから、子どもの心にいろいろな疑問符はのこしても、
いやな読後感がのこらない。
いわゆるハッピーエンドであることが、
子どもの本にとっての必要条件でも十分条件でもないことは、
この作品が証明している。
ラボ・ライブラリーの作品を見ても、
単に「めでたしめでたし」だけの物語はそう多くない。
『白雪姫』でも姫は結婚して大団円だが、
お妃は燃え殻になって終る。
それは姫も娘を生んだとき、
またいずれ真紅の情念にとらわれのではないかということを暗示させている。
『ありときりぎりす』『はだかの王様』『幸福な王子』
『ロミオとジュリエット』『かいだんこぞう』など
「いわゆる完全に幸福な結末ではない」作品は、いっぱいある。
『妖精のめうし』もそうだし、きわめつきは『鮫どんとキジムナー』だ。
とくにキジムナーは、まったく救いのないヘルプレスなストーリィだ。
だが、じつはこの物語は
おそらく多くのパーティでもそうだろうが、圧倒的に子どもたちに人気がある。
その理由のひとつが、
沖縄というある意味で日本人のひとつのルーツに根ざしていること、
さらにはなんといっても本多先生の
まさに沖縄の色彩ダイナマイトが炸裂した強力な版画のパワーである。
筋書きだけをひろうと残虐で無救済な物語が
この絵によって、壮大な沖縄の自然と人間の激しい相克の物語に昇華している。
鮫どんは孤独でありキジムナーも孤独な妖精である。
孤独どうしが交錯し絆を結ぶかに見えるが結局は破綻し悲劇的結末をむかえる。
しかし、この物語のなかから、鮮やかな絵本のなかから、
子どもたちは多くを感じとる。
そして、おおげさだが自分の生き方について考える。
教材として教え込まれるより、
自分が出会った物語や絵画や音楽から、
子ども自ら学ぶ力をもっている。
子どがそういう力をもっていることを信じられない者は、
子どもに関わる仕事をにつかないほうがいい。
ひとつの物語の終わりは、
じつは新しい物語のはじまりなのだ。
それは、この絵がはっきりしめしている。
歩道橋をつくるより、歩道橋がいらない街が好きだ! ぼくたちは! 08月01日 (木)
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 三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
はやくも葉月だ。はげしい季節だ。
毎年書くがせつない季節でもある。
絵の題材となったのはThe Ocean-Going Orchestra『うみのがくたい』
(文・大塚勇三 絵・丸木俊)である。
描いたのは中島愛乃さん(小4/津山市・岸本P)。
例によってフライイングで昨日めくったら、
一気にさわやな風が吹いてきた。
とにかく瑞々しい作品だ。そして奥行きと透明感がある。
今年のカレンダーの絵はみなそうだが、この作品も描き込みがすごい。
クジラやイルカはもちろん、
小さなさかなたちもまでもていねいに濃淡や色変化がつけられている。
とくにクジラの両どなりを泳ぐさかなたちは、
なにげないようでいてとっても手がこんでいる。
これだけたくさんのにさかなを一匹ずつ描くのは、
それだけでもたいへんだが、愛乃さんは全部を意識して描きわけている。
ふつう10歳くらいだったら、
体力的にもとにかく数を描くだけでせいいっぱいのはずだ。
しかも左側のさかなたちにつかった黄緑がにくい!
このわずかな緑が好きだ。
とにかくこのさかなたちのおかけで動きと奥行きが出で、
さらに密度が濃くなっている。
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また、海そのものも、とてもよく描き込まれている。
これも均一に塗ってしまいがちなのを
とてもデリケートに濃淡や変化をつけている。
それともうひとつ。
クジラやさかなたちの右45度上にむかうベクトルが力づよくてきもちいい。
そして一頭だけ右下でイルカが逆に身体をひるがえしているのも。
より動きがかんじられる。
ふつうこれだけ描き込むと重厚になるのだが、
色の選択がいいのだろう。すばらしい透明感がある。
いつも思うがラボっ子の描く絵はやさしい。
これは審査の先生方も皆おっしゃることだ。
ラボっ子は親や周囲のおとなたちの愛情を
たっぷりと太陽のようにあびて育っている子どもが多いから
(ラボを続けさせてもらえるのはほんとうに恵まれているし、
ライブリーをもてるのも幸せなことだ!)、当然なのかもしれない。
もちろん愛乃さんの絵もやさしい。
しかし、それは強さに裏打ちされた「かなりほんもののやさしさ」のように思える。
それは、これだけの描き込みとねばりで
作品にむかっていことだけでも十分証明されている。
その強さは、愛乃さんの場合どこから来るのだろう。
そのあたりをぜひ関係者にうかがいたいものだ。
また、愛乃さんがこの『うみのがくたい』をえらんだ理由もきいてみたい。
これは推測の範囲でしかないが、
愛乃さんの場合もこの物語に
なみなみならぬ思い入れがあるにぢかいない。
それはクジラやイルカたちに「強い意志」を感じるからだ。
船を救おうという意志か、はたまた海そのものをまもろうという思いか。
ぼくはオカルデイックな能力はないが、なにか感じることはたしかだ。
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原作絵本の絵は「原爆の図」で夫である丸木位里氏とともに
ノーベル平和賞の候補にもなった画家の丸木俊先生である。
ぼくは埼玉の丸木美術館でも広島でも長崎でも
先生の「原爆の図」と何度も対面している。
とくに長崎は長男が小1、長女が保育園のときに連れていった。
広島や埼玉は高校生くらいになれば自力でいけるだろうと思ったからだ。
「強烈すぎるか」とも思ったが、
現在32歳の長男はしっかりと記憶にあるという。
長男が明治の政治経済にいながら卒論にチョムスキーをえらび、
アクティビストとしての彼に着目して
「テロリストの再定義」を書いたのも
長崎の原体験が影響しているかもしれないという。
『うみのがくたい』の絵は丸木先生は2年をかけて制作されている。
イルカやサメなどの動きにたいへん苦労されたという。
近所にすむ「おさかな博士」の少年と
なかよくなって助言をうけたというエピソードもある。
その半面、人間の生命や尊厳をおびやかすものへの怒りは苛烈で、容赦はなかった。
かつて「ラボの世界」のインタビューでラボったちが
お宅をたずねたときも、
核エネルギーと人間が共存不可能であることを説いてから、
どくろのお面を全員につけさせて,
「原発反対!」とシュプレヒコールを子どもたちとともにされたと
取材から帰った事務局員が感動していた。
『うみのかぐたい』は、また音楽がテーマでもある。
海、夕焼け、音楽、海のいきものたち。
すべて美しいモティーフだ、いや、モティーフ、
動機というよりキエティーフ、すなわち動かない静機といってもいいかもしれない。
海は、遠くに開かれ、水平線の先にはなにも見えないがゆえに、
古来から多くの想像がなされた。
不老不死の国や黄金の国、さまざな楽園を人は想像した。
そして多くの命が冒険にでて帰らなかった。
いや海に還ったというべきか。
戦もあった。若きかけがえのない魂がやはり海に消えた。
この物語の音楽も夕焼けも、すべては海にきえた命への鎮魂のように思える。
これは何度か書いた話だが、
あるとき5歳のラボっ子が『うみのがくたい』についてこういった。
「先生、あの船はほんとうは沈んだだよ。だからあのお話ができたんだ」
 また、かつた瀬戸内海の高島という島で「海の学校」をやっていたとき、
若い漁師のおにいさんがこういった。
「海はこわいところさ。でも、命の生まれるところでもあるんだ」
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七月中旬。
35.7度という人畜有害な気温であったが、
ランチ後、本多豊國先生の「花花猫猫展」にむかった。
最終日である。もっとはやく行きたかったが、
スケジュール上、楽日になってしまった。
本多先生は毎日顔をだされているということだが、
その日はラストということもあって夫人もいらしていた。
先生とは年1くらいに日比谷公会堂などでお会いしているが、
夫人とはひさしぶりである。
ぼくの病気のことも先生からお聞きになられていて、
元気すぎるぼくの顔 をごらんになり、とても喜んでくださったのが泣けた。
会場になったTana To Bouは
ギャラリーというより普段はアートフラワーなどを
扱っているショツプのつくりだ。
そこに岩彩や墨絵お版画による花や猫をモティーフにした作品 を展示されている。
不忍通りを本郷通りの交差点で左折し、
六義園の入り口を少し過ぎた本郷通りに面した素敵なスペースだ
rere
茶畑和也夫妻のときも思ったが、
アーティストの夫妻もまたひとつの作品のように見える。
芸術の本質には反社会的な部分がある。
もちろん、ただ反社会なだけでは芸術家はすべからく抹殺されてしまうが
(事実そういう時代もあった)情況や時代や
社会を貫通する強力な想像力こそが芸術家の資質であるとするならば、
それはときには国家や大衆社会と相容れないことがあるのは自明だ。
だから、自民党の憲法改悪草案の97条、
基本的人権項目の削除お表現の自由に対して
「公共の利益」などの条件をつれるなどは論外である。
話をもどして、芸術家はその本質ゆえに
家庭という小さな組織におさまらない方も多い。
しかし、本多夫妻の表情を見ればわかるように、
夫の才能を信じて全力で支援することに
自己実現をもとめる妻と、そのサポートを全面的に信頼し、
妻をもっともよろこんでもらいたい受け手として
創作を続けてきたアーティストというカップルも、
じつは多く存在しているのである。
そんなわけで、照れるおふたりに作品の前に立っていただき
何枚が撮影させていただいた。
先生は「乾くのを待つ間の仕事」と謙遜されるが、
会場には大小の意志に岩彩で描かれた猫が多数あり大人気である。
ぼくもふたつばかりほれこくんだのがあったので、
購入させてもらった。
本多先生との出会いは1990年、
ラボ・ライブラリーの『なよたけのかぐや姫』の制作のときである。
この作品はCD化したときの最初の物語である。
本多先生はこの作品の絵を木版で制作された。
絵本を見ればわかるが、じつに細かい線がたくさんあり、
衣装のなかにはかくし絵的な彫り込みまである。
通常は時間からいっても手間からいっても
リノリウム板によるカットになるところだ。
しかし本多先生は「日本最古の物語は木の感じをだしたい」と
木版に挑戦された。
しかし、絵本であるから原画は1枚あればいい。
通常の版画家は何枚か刷って番号をつけて出展する。
本多先生はそれぞれの絵を1枚だけ1色で刷り、
それに手彩色で色を加えた。
よく考えるととんでもないことである。
「あのときだからできたんです」と本多先生は豪快に笑われたが、
それ以来、ラボとはぬきさしならぬ関係になってしまった。
この日、もうひとつの出会いがあった、
会場のはじで電動車いすで熱心に『んなよたけのかぐやひめ』
の絵本を観ている女性がいた。
詳しくは書かぬが、おそらくは進行性の筋肉の病気とたたかっている方で、
介助の方がもっているひらがなのボードを
右手の指でたどって会話することができた。
聴覚はしっかりとされていて、
ぼくの早口のことばも十分理解され、
その質問や「ツッコミ」がとてもウイットにとんでいるのに感動してしまった。
音楽も大好きとのことなので、ぜひCDを聴いてみたいということだった。
というわけで、公開お願いをする。ラボのWくんかHくんかUくん(わざとらしい)、
なんとか『なよたけ』を1セット、本多先生に贈呈していただけないだろうか。よろしく!
※すでにお願い済み。
本多先生の最近の作品は、透明で温度のある色彩と
「ぐわん」というしゅう曲したような力が蓄積したタッチが多いが、
本多先生の幹型のところにある女性の横顔が、
「なよたけ」をほうふつとさせる美しさを感じた。これもまた先生の一面だ。
わかれぎわ、またラボ・カレンダーの季節てすねと本多先生がにこにこしながらいった。「ええぼくも楽しみです。またお会いしたいですね」
そうあいさつして炎天下の本郷通りにでた。すると30mくらいの後ろから「暑いから気をつけて!」というでっかい声がおいかけてきた。
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最後に、ラボは
夏活動まっさかりである。
この夏も国内外で多くの出会いと成長と発見の物語が生まれるだろう。
心よりその安全と充実を祈念してやまない。
IntoleranceとTolerance/ 海も風も山も雲も自らを名付けない。レッテルはいらいない。 06月30日 ()
いやな空気が時代をつつもうとしている。
経済に目が向きすぎるとき、子どもたちにひずみがあつまる。
子どもが巻き込まれる事件が多い。
しかも子どもが加害者になってしまう悲劇も。
そして社会が息苦しい。
主張することはたいせつだ。しかし、受け入れることはさらに
勇気と誇りを必要とする。
すべての迫害、差別、紛争の根底には非寛容がある。
寛容さだけで国際的力学に抵抗することは難しい。
しかしintolerance、非寛容の暴走をとめることができるのは寛容だけだ。
深い意味でのtoleranceとはなにかが
これからの地球のテーマになるだろう。
そのためにも、ラボっ子たちには
世界の文化に尊敬をはらうことができる垣根のない心を
物語から学んでほしいと思う。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
もう6月も終わり、今年も半分過ぎたのだ。
いつも書くが、泣いてもわめいても、富む人にも貧しい人にも、
心豊かな人にも嘘つきにも、よっぱらいにも、
ひねくれものにも勤勉な人にも、
そして詩人にも主婦にも、子どもにも、
時と季節は容赦なくさらさらと、けしてもどることなく流れる。
ただ、その人の経験や環境によって感じる
主観的な時間は異なるかもしれない。
年齢を重ねるほどに、既知の事象は省略して感じるので、
1日も1年も加齢に比例してはやく進行するように感じる。
幼いときの夏休みの1日のあきれるくらい長かったことか。
さて、七月の絵は"The Ant and the Grasshopper"『ありときりぎりす』に
題材を求めている。
描いたのは佐佐木大斗くん(小4/半田市・井本P)。
おそらくはアリの隊長Ant1に叱責されている
はたらきアリたちを見下ろすキリギリスたちという場面だ。
この物語では、まったく対称的な人生が微妙にすれちがい、
一瞬のふれあいがところどころにあって、
それが物語のたくみな伏線になっている。
物語の話は後にして、絵そのものについてまずは書こう。
正当派といってはなんだが、どうどうとそしてびっちり、
真正面から物語にむきあってかなり考えながら、
しかもていねいに描いているのに関心する。
大斗くんにはあったことがないが、
彼はおそらく何時間でも絵の前にすわって
しつこく描いていられる少年なのだろう。
いきおいだけでは、これだけの持続力が求められる作品はかけない。
この作品もやはり、細部の描き込みがすごい。
洒落者のキリギリスの衣装がこっているのは当然としても、
黒だけのアリも濃淡をつけていて、
さらには動きまで感じさせてくれる。
アリの隊長のパワハラ的ぶち切れがなんともおかしい。
もっともこの隊長は、アリの生存のために身体をはる中間管理職で、
ラストではちょっとかっこいいシーンもある。
「去年の夏はすてきな連中。今は場所をくっているだけだ」と
凍死したキリギリスたちにきびしいことばをなげつつ
「こいつら埋めなきゃならんな」と、
最後は彼らの尊厳をまもる。おいしい役だ。
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アリとキリギリスとどちらの人生がいいという、
二元論的議論はむなしい。
ただ、はっきりしているのは、どちらも、
それぞれの人生を「生ききって」いる。
それがカタルシスである。
ラボの主人公にはこの「生ききり」パターンが多い。
最後は非業の死を遂げても、
「それぞれの信じるところを生きる」ので浄化されてしまうのだ。
「シーザー」などもその好例だ。
あの物語の登場人物は、概ねおっさんばかりだが、
みんな生ききるので、とっても若々しい。まるで青春群像劇のようだ。
話をもどして、地面や背景の草花もよく描き込まれている。
とくに地面は単純な茶色の面積が大きすぎるとしずんだ作品になるが、
イエローオーカー(黄土色)やイエローの濃淡、
とくに手前を明るくしているのはなかなかの技である。
また青空もわずかな広さだがしっかり塗って、
雲も描いていてこれも隙間がなくてうれしい。
大斗くんは演出家になったら、空間をうめるタイプの演出家になりそう。
そして、なんといっても虹にふれねばならない。
虹はある意味、この物語のキリギリスの象徴のようだ。
あざやかで一瞬の美しさをのこして、すぐに消える。
ところで、日本では虹は「虹のかけはし」のように縁起のいいものになっているが、中国なとでは不吉な予兆とされている。
やはり自然現象は地域によってちがうのだ。
虹は自然光のスペクトルであり、赤橙黄緑青藍紫の七色である。
その色ごとの屈折率の違いから、七色にわかれて見えるのが虹だ。
ちゃんとその順番をまもっているのは、あたりまえだが、
けっこうたいへんなことだ。この虹の色がきっちりかけているので、
この作品は大成功したともいえる。
これは推測にすぎないが、大斗くんは、
たぶんナレーターのような視点でこの物語を描いたのではないだろうか。
おそらくアリにもキリギリスにもおなじような愛情をそそいていて、
同時に距離もとっているような気がしてならない。
本人と話してみたいところだ。
ご承知のように、この物語の原作はアイソーポス(イソップは
英語読みを日本語にしたもの)の寓話がもとになっている。
日本では昔、「働かざるもの食うべからず」で刹那的な人生はだめよと
道徳の教材に使われたりしたこともある。
そんなわけで、この物語の原作はあまり後味がよくなく、
子ども時代に好きじゃないと思っていた人は多いだろう。
ただ、ラボ・ライブラリーでは、みごとに別の物語によみがえらせてしまった。
悠然と流れる季節と自然の営みを縦軸に、
異なるふたつの人生を横軸に折り合わせた構成は、
再話というより別の作品といっていい。
アリもギリギリスも、その命の長さに差こそあれ、
結局は大地に還り、生態系にのみこまれていく。
彼らのつかのまの輝きも淡い恋も、勤勉や忠誠も、
自然と季節はまったく無視してゆっくりと、
しかし確実にめぐっていく。
そこに人間もふくめて生き物の思いは介在することはできない。
もし、自然や季節が神か仏であるなら
それゆえにおそろしく、すさまじいのだろう。
アイソーポスはその実在がうたがわれもしたが、
年代には幅があるが、奴隷として実在したことはほぼ定説になっている。
彼の寓話的語りは、「こうやったら、人生をトラブルなくすごせるよ」
という知恵を伝えることがねらいだったようだ。
だが、彼はデルポイの街で市民を挑発したことがきっかけで虐殺されてしまう。
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6月25日、いまや世界的アーティスト(もともと海外評価は高かった)
になられた永山裕子さんの個展にいってきた。
ラボとの関係でいえば『ひとつしかない地球』の絵本の絵(2004)、
C. W. ニコル氏の『はだかかのダルシン』(2006)の
絵本の絵を担当していただいたご縁である。
永山さんの仕事の中核は、
ラボの絵本でわかるように抽象や半立体のオブジェだが、
水彩もまたとてもたいせつな領域になっている。
アブストラクトの仲間からは「魂をうったのか」
みたいなきびしい意見もあったという。だが永山さんにとっては、
描きたいものを描きたいテクニックで描いているにすぎない。
こういうタイトルはついてるが、じつは水彩や素描ということばで
おさまる作品は一点もなかった。
あいかわらずのものすごいパワーと繊細さと豊かさと
切なさに圧倒されるばかり。
平日の初日のオープンと同時に銀座メルサにかけつけたが、
すでに多くのファンの人たちが開場をまっていてびっくり。
永山さんの飾らない人柄がそうさせるのだろうか。
なんとかごあいさつできたが思いがいろいろあふれてきて
半分もいいたいことがいえなかった。
会場は当然撮影禁止だが、
「わたしがOKするから作品といっしょにどうぞ」といってくださった。
しかしぼくのどへたな撮影で作品を見せてはいかんと思い、
入り口で撮影せていただいた。
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永山さんとの出会いは2003年の暮れにさかのぼる。
そのころは『ひとつしかない地球』の制作にとりかかっていて、
宮沢和史氏への曲の依頼や他の曲の選曲、
牟岐先生の音楽録音などとけっこうはちゃめちゃなスケジュールであった。
そのなかでの最大の悩みは絵本の絵の描き手の選定だった。
GTS-!はけっこうテーマ性やメッセージ性が強い歌が多く、
また韓国ラボとのコラボという特殊な一面もあった。
ともあれ、なんか説明的なイラストはありえない。
1枚で歌の世界とスパークする力のある絵がほしいと思っていた。
そんななかで、名前はださないがある女性のエッチング作家の作品が気になり、
ついには気に入って、代理人をされているギャラリーを通して打診した。
すると「企画はとても魅力的で、ぜひやりたいけど、
エッチングの時間のかかり方と、今かかえている大きな仕事を考えると、
残念ながらおうけできない」という返事。
ひどい話だが、それでぼくはぶちきれて、
代理人に「どうしたらいいんですか、ぼくはほかに候補者をしらないです。
どうしたらいいんですか」とせまった。やっばりひどい話だ。
するとその気迫におびえたか、「この人はあぶない」と思ったのか、
日本橋のある画廊の女性オーナーを紹介してくれて
「彼女ならそういう企画には理解があるし、
いろいろな画家とつきあっているからいいかもしれません。
ぼくから下話をしておきますから連絡してください」といってくれた。
いい人である。
で、その二日後に、はやくも件の画廊にいくと、
オーナーが「おはなしはわかりました。
ひとり紹介したい女性の描き手がいます。
フランスでの評価は高いけど日本ではこれからかも」
「どんな作品ですが」「あいにくサンプルはこれしかないの」
といって見せてくれたのが展覧会のパンフレットであり、
それには一点だけ布をつかった半立体のオブジェが紹介されていた。
それを観た瞬間、ほぼ心はきまった。
帰ってサイトで他の作品もわずかに観られたが、それでますます確信を深めた。
「連絡はとってみるけど、とびまわってる人だからねえ」
というオーナーのことばをききながし、
翌日から連絡をとりはじめた。
すると、もうクリスマスまで一週間ほどの金曜日の夕刻、
東急プラザで教室があるから、その後なら時間がとれるという返事がきた。
で、ぼくはラボの絵本をしこたまもって
企画書ももって、宇野くんとふたりで渋谷にでかけた。
卑怯な作戦ではあるが、ぼくたちはまず高松次郎氏、
野見山暁治氏、元永定正氏、中西夏之氏などの
ラボがほこる絵本群を見せびらかした。
みんな永山さんの師匠にあたるようなアーティストばかりだ。
これも失礼な話である。
しかし、永山さんは「この絵本、ぜんぶください!」、
といってかかえこんでしまった。
で、それから少し落ち着いてから企画の話になったが、
ちょうど水彩のテキストなどの仕事もかかえていて
スケジュール的にはきびしい、というようなことをいわれた。
「ひまな人にはたのみません」とこれまた失礼なことばを投げかけ、
さらに「いっさい注文はつけません。説明的な絵もいりません。
歌のイメージから好きななように、好きな画材で思い切り描いてください。
ただし子どもという意識は捨てて全力でお願いします」と頭をさげた。
結局、一週間ほどまってほしいということでその場の会見はおわりになった。
帰り道、宇野くんが「うけてぐたさるでしょうかねえ」というので、
「わからない、でも心は動いたはずだよ。
もしうけてくだされば最高のクリスマスプレゼントだ」
永山さんから0Kのメールがきたのは翌日だった。
次の仕事は2006年の『はだかのダルシン』だった。
ニコルさんに彼女の絵でいきたいと『ひとつしかない地球』を見せたら
10秒で「うん、いいねえ」と顔がほころんだ。
そしてぼくたちは2006年の正月に『妖精のめうし』の録音にウェールズにとんだ。
すると年末に「ウェールズまで、わたしもいっていいですか。
切符とっちゃいました。光とか風とか色とか感じて描きたいから」と連絡がきた。
その後も、原画展や子ども広場のワークショップやインタヴューや
カレンダー審査などでさんざん協力していただいた。
いっぱい失礼なことや無理な注文をしたのに、
常に挑戦する姿は「やさしくて強い」「深くて透明な」作品に
いまもはっきりとでている。ぜひ見にいこう。7/6まで。
銀座セントラル美術館。
ところで、今回、一部の批評家から「水彩ではない」みたいなことを描かれたそうだ。
しかし永山さんは「描きたいもの描いてるだけだもん」と平然。
そう、レッテルはいらない。海も山も自分を名付けないぜ!
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その10日ほど前、東武線特急200系「りょうもう号」に乗って
足利市に向かった。
足利市は人口およそ15万人、下野の国南西部に位置し、埼玉、群馬にも近い。
今回の小さな旅の目的は二つ。
足利市立美術館で開催されているブラティスラヴァ世界絵本原画展と、
つい最近国宝に指定された鑁阿寺(ばんなじ)である。
世界絵本原画展はビエンナーレだから
一昨年6月に選出されたグランプリ、金のリンゴ賞、
金杯などの入賞作品の原画を中心に鑑賞することができる。
浦和で行われていたのを見逃していたので、これがラストチャンス。
グランプリは日本なら絵本の題材としては敬遠されそうな競馬を、
異なる技法で多彩に描いた韓国の若手作家チョ.ウンヨン氏の
『はしれトト』で、力とスピード感、闊達さと
揺るぎない造形確かさに惹きつけられた。納得のグランプリ。
足利市立美術館の作品収集予算は年間数十万円しかなく、
なかなか厳しい。それを市民の寄付でなんとか支えている。
がんばれ。また、足利市にはほかにも早雲美術館、
そしてなんといっても伊万里、鍋島に特化して世界的にも評価の高い栗田美術館など、
心惹かれるミュージアムがある。
これからしばらく足利市を少しずつ見て行こうかな。
基本的には公設、私設を問わず地方の美術館には、
鋭いキュレーターがいらつしやるからおもしろい。
調べたら、足利市市立美術館のキュレーターもかなりの方のようだ。
さらに、地方の美術館は周囲の環境がすてきな場合が多い。
足利市市立美術館は街中だが、
奈良美智氏の「あおもりけん」がいる青森県立美術館や、
尾道市の平山郁夫美術館などは、
それぞれすばらしい風と光のなかにあってなんどでもいきたい。
今回の足利市行きは、
先日、スペースユイの「はんまけいこ展』でご一緒した
石川厚子テューターがアレンジしてくださった。
多忙な現役テューターに付き合わせて恐縮である。
加えてやはり青山でもお会いした石井テューターが鴻巣から、
宇都宮から杉本元テューターも参加、
さらにさらに石川パーティのお母様方も来られてすごいことになった。
幸か不幸か、平日午前の地方美術館はがらがらなので、
たっぷり時間をかけて鑑賞したあとは、
個人の御宅を店舗にしたステーキハウスでランチとなった。
ランチタイムを過ぎても会話がもりあがり、
お店に「あのー、そろそろ」といわれてしまったのは失態。
お母様方と石井さんとはここでお別れし、
石川さんの車で杉本さんと三人で鑁阿寺へ。
ここは12世紀末に建立された、現在は真言宗大日派の名刹である。本堂が国宝に重文から再昇格したのだが、その肝心の本堂を撮影し忘れた! アホである。
でもなつかしい再会もあつたので◎。
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『ありときりぎりす』は、ぼくがはじめて取り組んだテーマ活動なので、
じつは思い入れが深い。この物語はいまでもほぼ素語りできる。
1974年の秋、当時のシニアメイト(ボランティアだった)有志が、
事務局からの誘いで、キャンプを手伝うだけでなく
テーマ活動をしてみようということになり、
取り組むことになったのがこの物語だったのだ。
ぼくはAnt1をやったのだが、これが原点かもしれない。
ぼくらは昔のラボセンで冬のつどいという名の
交流会でテュータースクールとならんで発表した。
観客は事務局と少しのテューター。
でも、出場しているシニアメイトとなかがよい東京近郊のパーティの
子どもたちが数十人観に来てくれた。
事務局もテューターもラボっ子たちも、
キャンプでくだらないことばかりやっているシニアメイト、
すなわちキャンプでだけ遊んでくれるお兄さんおお姉さんか、
テーマ活動をまじめにやるとは思っていなかったようだ。
それが、けっこうしんけんに発表してしまったので、
なんかおおさわぎになってしまい
とうとう年明けの国際交流のつどい(当時は結団式)にでることになってしまった! 
いやはやびっくりだ。
けっこうぼくらなりにくふうもしていて、
ナレーターをふたりの子どもが英日でかけあいしながら語ったり、
キリギリスが亡くなる前の冬の場面に挿入歌をいれたりした。
おもしろいのは、はじめはアリのアンテナとかキリギリスの
衣装のようなものをつけていたり、
ありの城のドアなどを神でつくつたりしていたが、
次第によぶんだと気づいてけずっていった。
その後、ブレーメン、ポアンホワンと発表し、
最後は『ロミオとジュリエット』を全話発表して解散した。
メンバーの多くが社会に出る時期だったからだ。
やがてシニアイトはラボっ子のなかから育成することになる。
『ロミオとジュリエット』の発表の後の打ち上げが終って外にでると、
静かに雨がふっていた。それは青春のひとつのくぎりの雨だった。
季節のVelocity 通り過ぎる春 やり過ごす夏 たちつくす秋  06月01日 ()
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なんか暗いタイトルなので、せめてさわやかな写真ではじめよう。
上は京都・祇王寺。
清盛に寵愛された白拍子の祇王と仏御前が出家した寺として有名。
雨上がりの朝の苔が美しい。1年前の撮影。
下は直指庵の庭と葉もみじ。ああ夏がくる。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
はや6月、水無月である。
今年も半分すぎるのだ。えーっ、ウソ! とかいってもむだなのだ。
泣いてもわめいても月日はさらさら流れるのだ。
タイトルにVelocityというききなれない英語を書いたが
これは速度の意で、speedの格式張ったいい方、スカしたいい方である。
野球のビッチャーの球速などは、
VELOCITY 95mph(時速95マイル)などと書かれる。
Veocityはまた音楽用語でもあり、電子楽器の音の強弱を表すスケールだ。
電子楽器の音のやりとりにはMIDI(Musical Instruments Digital Interface)
という国際標準信号が使用されているが、
キイボードを押し込む速度が音の強さに反映することから
速度の意であるvelocityが使われている。
最初に書いたように季節は容赦なくめぐる。
人間の思いも、祈りも、嘆きも喜びもまったく気にしない。
人の誕生や死すらも季節と自然は関わりをもたない。
その速度はまったく停滞しないがゆえに
おそろしくはやい。
だからこんなことばを使ってみたのだ。
春は今年も静かに通り過ぎた。
夏は例によって、なんとかやり過ごすのだろう。
で、秋になって、ただ立ち尽くすのだ。
還暦ともなるとじつにセンチ。
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題材の物語は中国のイ族の昔話を再話した『不死身の九人きょうだい』
"The Invincible Nine Brothers"。
描いたのは中本怜恩くん(小4/いわき市・志賀P)だ。
※なんと、よく考えたら去年も7月の絵で入選しているではないか!
今気づいてこの文を挿入している。
恥ずかしいのが、先に書いた下記の文は反省の意味で残しておく。
連続入選はぼくがかれんさに関わった22年ほどのなかでも
数名いる。やはり力があるんだよね。

お名前の読みはレオンかレオ(家入レオは女性だけど)だと思うので
推測で「くん」と書いたが、女性だったらごめんなさい。
作品と作者のジェンダーは性役割という心理学用語があるように、
いろいろと意味がある。
ただジェンダーによって作品の評価を変えたり、
ステレオタイプな判断をしてはいけないということだと思う。
ともあれ、怜恩先生のことを知っている方教えてください。
さても、梅雨時の絵にえらばれたのも納得のさわやかさだ。
その爽快感の要因は大きくわけて二つある。
ひとつは色味の透明感、Tranceparencyである。
空と雲そして山から、
おぼれる王様の背景の森のような緑にいたるグラデーションがかもしだす
透明感はセンスといい明度・彩度といいすばらしいのひとことだ。
とくに背景全体は、なにか現実の中国奥地、
雲南省の秘境、たとえば麗江の大自然を見ているような胸さわぎがする。
これもすごい。雲にもうまい影かついてるので立体感もよくでている。
もうひとつは、なんといっても
傲岸な権力者が九人きょうだいのひとりに
「めっためたにやっつけられている」ところだ。
しかも右下のまっ先に目がいくところに描かれているからなおさら迫力。
最近、権力者たちのいかにも権力者的な発言に疲弊しているので、
これはじつにきもちいい! 
怜恩くんの「ドヤ顔」が目にうかぶようだ。
たたかう君の絵筆をたたかわないやつらはわらえないぞ。
また毎回書くことだが細部の描き込みが
この作品もしつこいほどに行なわれている。
背景はもちろん、左の屋根を宝石のような色違いの円で装飾した
粘りとかんばりは思いついてもなかなかできない。
そしてあたかも「落ちゲー」のような遊び感覚もあってたのしい。
さらに右端の城のなかもかなり手をいれている。
近寄って目をこらすと細い輪郭をとったうすめの下書きがある。
しかし彩色はだいたんにやっているので気にならない。
サインペンなどで輪郭をとり、
塗り絵をしてしまうと世界がずたずたになってしまうのだが、
こうした目安のアタリ程度の下書きならだいじょうぶ。
透明感とは裏腹の粘りと根性は、とってもだいじ。
怜恩くんは、おそらく自分が正しいと信じたことからは、
ぜったいに逃げだしたりたりひいたりはしないだろう。
この物語はイ族の昔話を再話したものだが、
イ族は雲南省を中心に現在約7800万人くらいの人口がある。
イ族というのは外からの呼称で、
「ノス」「ロロホ」などいくつかの系統別の自称がある。
中国は56の民族があるウルトラ多民族国家で、
そのなかでは漢民族が圧倒的多数であり、
のこりの55は少数民族である。
そのなかでイ族はトップ10に入る人口を保持している。
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イ族は文字をもたない。
じつはこの物語のライブラリー刊行は1992年。
その2年ほど前の冬のはじめ、
中国語版「はだかの王様」の録音に北京にいったときのこと。
このときは、交流のある北京月壇中学の生徒のお母さんで
北京放送のアナウンサーの方がコーディネイトしてくださり、
北京放送テレビ劇団の役者さん、
しかも中国でも大人気となった「おしん」の吹き替えを
担当したメンバーが参加してくれた。
その打ち上げの席で北京放送日本語部長の李順然氏
(この人は赤坂で生まれたので日本語すごい)から、
「中国のお話をつくるなら、
文字をもたない少数民俗の昔話がぜったいにおもしろいですよ。
もちろん中国はことばの国でもあるけれど、
それは文字の国ということでもあるし、
さらに漢字は概念をひっばってきてしまうから、
どこかで散文的です。漢詩は別ですけどね。
そこへいくと文字をもたない民族は自然も豊かなところにずっといるし、
文字がないがゆえに詩的で想像性もすばらしい」といわれた。
国営放送のエライ人からそんなことをきくとはびっくりだが、
やはり作品づくりに関わっている人は
国家とか体制とか気にしない人もいるんだなと思った。
実際、そのときに出会ったディレクターやエンジニアのなかには、
「いかに楽するか」といったダメな人もいたが
外国作品もかなり学んでいてクリエイティヴで尊敬できる人がかなりいた。
そんなことはともかく、
うっとおしい季節と時代を押し流す絵を描いてくれた怜恩くんに拍手!
逃げるなとこの作品は教えている。
信念からの逃走者は、はなから負けているのだ。
Decision Height 青春の決定高度/空とぶ還暦  1 05月21日 (火)
ひはい
いわゆるゴールデンウイークはどこにもいかないのが基本。
現役のときはずっと仕事で録音をしているか
「制作資料集」を編集しているかどっちかだった(笑)。
さもなくば勉強しているかである。
で、今年は頼まれ仕事もあったのだが、すべて放棄して読書に集中した。
10日間で60冊以上とノルマ化してなんとか70冊ごえをした。
それはいいが、わずかな仕事を放り出したおかげで、
連休あけは激烈なスケジュールになった。自業自得。
上の写真は、5月8日に高度1200フィート、約400m上空から撮影した
国際基督教大学周辺である。
ICUは東京ドーム13個分のひろさだが、近くには野川公園、
多摩墓地、東京外大、ASIJなどの大きな緑地帯がある。
三鷹、調布のこのあたりで23区がやっとくいとめられているのだ。
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断っておくが、ラボ関連の話はなかなか出てこないので
必要に応じてスクロールしてほしい。
さて、ICUの人口芝が完成してから早くも1か月。
これまでその写真や工程は何回か紹介したが、
フィールド全体を画像にのこすとなると高いところから撮影するしかない。
フィールドのすぐそばに高い建物があればいいが、ICUにはない。
そこで選択肢としては、
・巨大クレーンでゴンドラを吊る。(費用と危険度で無理。これでは罰ゲーム)
・ヘリコプターによる撮影(いちばん費用が高い! ので却下)
・ラジコンヘリによる自動撮影(これもけっこう高く1カット約8万円弱)
で、最後にのこったのは固定翼のレシプロ(プロペラ)機による撮影で、
これがいちばんじつは安い。カメラマンの費用をのぞけば、
今回協力してくれた東京航空のセスナ機だと1分1250円。
まるで空のタクシーだ。
で、流れというかいきさつというか、
ともあれ空中撮影などやったことのないぼくがメインで撮影することになった。
出発地は調布飛行場。(ユーミンの「調布基地をおーいこし」は、ここ)
新島や大島、最近では三宅島などへの定期(ライン)便が飛んでいるほか、
チャーターによる遊覧飛行や今回のような撮影などの業務飛行、
さらには個人のフライトなどがある。
天気晴朗、しかし風はけっこう強い。
北風なので北にむかって離陸するという。
機長は飛行時間12000時間ごえの達人、染谷さん。
「今日もけっこうゆれるよ」と
にこにこしながら事務所にはいってこられたとき、
作業用のジャンパー姿なので、
社長さんか営業部長かと思ったら、とんでもないこの方がすごい人だった。
セスナのSKYHAWKは4人乗り。しかしたいへんせまい。
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乗ったらほぼ身動きはできない。
機長席は左、横にはフリーダ(今回の人工芝の施工会社でフライトのスポンサー)八木課長が搭乗。後部左側にはぼくが、
その横にはサブカメラマンをつとめる星くんが座った。
事務所でCrew Passを首がらさげてもらい、
ワゴン車で滑走路に直接むかう。
裏門みたいな金網のフェンスを守衛さんがあけてくれた。
空はうそみたいに青く、
陽射しがこれから乗るSKYHAWKの翼端に鋭くぎらついてかっこいい。
よっこらしょと乗り込むと染谷機長が「いきますか」とひとこと。
プロペラがまわりだし管制塔から
「JA4139 RANWAY315 Crear for Take off」と着陸許可がでる。
おっ、ここから渋い航空英語でのやりとりだとわくわくしていると、
「ええ、こちらタワー、富士重工(ICUのとなり)付近周回ということですか」「そうです」「ラジャー」。それでおしまいだった。
この飛行機は最大速が100ノットだから200Kmくらい。
離陸は70ノットくらいだという。
滑走をはじめてスピートにのったと思ったときには離陸していた。
上昇してすぐ右に軽く旋回。ぐわんとゆれる。
と、あせるまもなくICU上空。
そりゃそうだ飛行場から歩いても30分くらいのところだからね。
機は左にバンクして旋回する。だから左側からしか撮影できない。
右の席は空ばかりだ。夢中でシャッターを切る。
フィールドをいろいろな方向から撮影できる。
ただヘリコプターではないので、完全に真上から撮影するのは困難だ。
すると染谷機長が「ほぼ真上からいきましょう」
といきなり45度の最大バンクをとった。
Gがかかる。ぶれないように必死にカメラをかまえた。大地が転回する。すごい迫力だ。
「OK、撮れました」「じゃあ帰るよ」と、
まるでドライブに家族をつれていったお父さんのよう。
そしてすかさず右旋回。
csacas
都心が目に入り、かすむ新宿やスカイツリー。
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多摩川が乱反射する。富士山がしずかに遠い。
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cdac
なんて思いにふけっていたら、あざやかに着陸。飛行時間は8分。
フライト代はこれに保険などの諸経費をいれて17000円くらいだった。
写真は100枚以上撮った。
大学の広報や人工芝会社のPRに使われる。
なんとか役割をはたせたので一安心。
でも、空をとべるっていいなあ。空だけは自由であってほしい。
制空権とかやめてほしいよ。
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下が染谷機長。撮影のアドバイスもいろいろしてくださった。
いちばんすごいのは
「シートベルトしめると動きにくいから撮影しづらいよ」
「えーっ。法律上いいんですか」
「まあ離着陸のときはね。でもまあいっしょ」
…いっしょってどういう意味だ!
そめや
そして、
連休をはさんで3連チャンでラボOBOGとの食事会のようなものに呼ばれた。
いずれも10名内外の集まりだが、メンバーがほとんど重複しないもすごい。
写真は49歳~52歳という80年代なかばに大学生コーチやカレッジメイト、
表現活動などで活躍したメンバーだ。
女性二人のショットの右は神奈川支部大津留パーティにいた
(大津留先生お元気かな)
越本千加さん。そして左は同じく神奈川の金綱パーティの金綱純子さんだ。
二人は1983~86年に大学生コーチの女性陣のツートップだった。
越本さんは故郷の長崎で美容関係の指導者として活躍中で、
とくに昨年からはさまざまな要因、
親にネグレクトされたり、いじめにあったりして、
高校を中退したり、行き場のない若者たちのリスタートを支援し
手に職をつけてもらおうという
新しい学校の講師もつとめている。
九九の段階でつまずいていたり、敬語どころか普通の会話も
なかなか成立しないというシビアな状況の生徒たちと
粘り強く向き合っている。
えらいなあ。
この日は、研修と会議で長崎から上京し、さらに誕生日ということで
懐かしい仲間が集まったのである。
彼らがラボ現役当時、ぼくも30代なかばで若かったが
全力で彼らと向き合っていたことはたしかな記憶だ。
多くがFacebookでやりとりしているので、久しぶり感はないのだが、
27年ぶりにリアルに対面すると一気に時間が逆転する。
やはり物語や交流で共に苦労も喜びもわかちあい、
感動し、ときにはぶつかりあって紡いだ絆は、
思った以上に太くそしてやわらかい。
組織を離れてすでに4年近くたつのに、
遠ざかれば遠ざかるほど近づいてくる。おそるべしラボ。
あさ
れゆ
次は3月の写真。
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荒川区にある「d-倉庫」というキャパ98名の小劇場に、
パトリック・シャンリィの戯曲、「Doubt」を観に行った。
2005年のトニー賞ストレートドラマ部門を受賞した作品である。
シャンリィを日本に紹介し、このドラマの翻訳をしている
鈴木小百合さんのお誘いで、彼女も含めて5名の大学同級生が集まった。
じつはこの戯曲の日本初演は5年前で、文学座によるものだった。
そのときの女性校長役は寺田路恵さんで、
疑惑の主となる神父役が清水明彦さんだった。
寺田さんは鈴木小百合さんが最初に英語スクリプトを担当した
ラボ・ライブラリー『ヒマラヤのふえ』のナレーションをされており、
清水さんは『おやすみみみずく』のみみずく役であるので、
吉祥寺の会場で鈴木さんも俳優さんも
ぼくもたいへんおどろいたのを覚えている。
今回は演出がイギリスの方で、寺田さんの役が、
元タカラジェンヌの旺なつきさん、清水さんの役が、
高橋洋介さんである(劇場の外での写真で左端の背の高い男性)。
上演時間は2時間弱だが、あっという間のできごとという印象。
それほど凝縮されて、かつテンポのよい舞台だった。
残念ながら演出家にはお会いできなかったが、
斜めの線を意識して空間をひろげた装置や、
それぞれのキャラクターの際立ち方など伺ってみたいこと満載である。
俳優さんたちも脚本を心から気に入っているのが伝わり、
そのことは翻訳した鈴木さんもとてもうれしいといっていた。
芝居がはねてから、仲間と日暮里まで歩いた。
このあたりは生地屋さんがたくさんあり、「布の道」という表示がある。
それから渋谷にでて昼からやっているスパニッシュバルで
4時間近く盃を重ねた。
いい芝居を観て、いい仲間といいワイン。うーむ、バチがあたりそう。
写真を見ればわかるが、役者さん以外は同級生で、
皆、昨年と今年で還暦を迎えた。
そしてぼくを除いて皆若々しい。
じつは、この土曜日に鈴木さんの呼びかけで
神楽坂で「Viva還暦!」という会があり、30名でさわいだ。
その写真も紹介したいが、
ちょっと弾け過ぎなので略。
5月11日は各地で支部発表会があった。
神奈川と東京のどちらにしようか悩んだが、
その前日に三鷹に行ったばかりという薄弱な理由と
新刊が多く、また『十五少年漂流記』かが出るというまあまあの理由から
川崎に行くことにした。
写真掲載は発表順。
 平岡パーティ『みにくいあひるのこ』
 渡部パーティ『ライオンと魔女と大きなたんす 石舞台』
 早川パーティ『十五少年漂流記 さらば、ぼくたちの島』
しかし、午前の部が終わったとたん、どうしても打ち合わせをしたいという
仕事の緊急連絡が入り、やむなく午後の部は不参加。
これも連休にさぼったむくいなのだろうか。
午後発表の富山パーティ、大塚パーティ、賀谷パーティのみなさま
申しわけありません。
午前はどれもたのしい発表だった。
いつも書くことだが、ラボ活動は教育活動であり、
テーマ活動はそのなかで重要な教育プログラムだ。
だから発表そのものをevaluateするのは、
じつはとっても難しいとずっと思っている。
声が大きいとか、動きがわかりやすいとか、
身体表現をくふうしているとか、CD通りにいっているとか、
そういったことは関係ないとはいわないが、
それほど本質的なことではないと個人的には思っている。
その思いは組織を離れて時間が立てば立つほど確信にかわってきている。
とくに、こうした大舞台での発表は、
テーマ活動のスタイルだけでいえばかなり特殊である。
たいせつなことは、ここにいたるまで、
そのパーティと個々の子どもたちが、
どのように物語と睦み合い、
むきあってきたのかだということなのだと思う。
その道筋や「もがいて、たどりついたもの」が
見えてくる発表はたのしいし、皆がきっと感動する。

そんなことをことを描きながら矛盾したことをいう。
ぼくは、自分が制作した作品のなかでも『十五少年漂流記』には
いろいろな思い入れがあるが、
『十五少年漂流記』に取り組んだ早川パーティに感動して、
発表後の通路で早川パーティの前でみっともなく号泣してしまった。
『十五少年漂流記』のラストシーンは、とっても苦労した部分だ。
とくに少年たちが夕映えの水辺線にチェアマン島が消えていく
のをじっとながめるオーラスのナレは10回以上日本語と英語を書き換えた。
そのナレをつとめた男の子のことばは、
びっくりするほどうちのめされるほど、
ぼくの心のいちぱん深いところに入ってきた。
まるでぼく自身がぼくのために語っているように思えた。
それでぼうぜんとしているうちに「海へ」の歌がはじまった。
するとコーラス隊の横で、物語の名場面が
フラッシュバックのように表現された。
まるで映画のエンドロールのようだ。
ともすれば、あざとい表現なのかもしれないが、
ぼくはおどろいてしまった。
というのは、あの歌の日本語は911の直後に、
あふれるような気持ちをうけて書いたという背景があるとともに、
まさに映画のエンドロールを意識して、物語をふりかえりつつ、
世界は海でつながっているのだから、
いつか平和な凪の世界にいけるはずだ、さあ旅にでよう、
という未来への希望をたくしたものだ。
でも、そんなふうにやってほしいとは
「テーマ活動の友」や「資料集」にはかけない。
物語はリリースされたらラボっ子たちのものだからだ。
しかし、現実に、早川パーティは物語を聴き込み、
いろいろな話し合いを通して、
そのエンディングをしようということになったという。
それを確認したぼくは、一気に感情があふれてきて号泣してしまった。
この感動ひとつだけでも「十分すぎるほど報われた」と思った。
ものをつくる人間にとって、こんな幸せはない。
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次の写真は発表会の前日、ICUのフィールドで
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左から関東学生アメリカンフットボール連盟理事長、
東京外国語大学学長、国際基督教大学学長、連盟事務局長だ。
次は試合開始前に選手を激励する日比谷ICU学長。
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試合が終了し、両ティームのキャプテン、
ヴァイスキャプテンがフィールド中央で握手した。
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どんなことばをかわしたかはききとれない。
雨のなか彼らはそれぞれのベンチにダッシュでもどる。
勝利したティームは歓声にわきかえり、
敗れた側は重苦しい沈黙に心をぬらす。
全力をつくして負けたから悔いはないというのは嘘だ。
全力をだせなかったからやられたんだ。
次は見てろよギタギタにしてやるぜ、くらいでいい。
全力をだして負けたなんていうのは、下手を認めた証拠だ。
キャプテンは、顔をあげたままでベンチまで帰ってきた。
国際基督教大学Apostlesと東京外国語大学Phantomsの定期戦は今年で3回目。ICUにとっては初のホームゲーム、
しかも新装なった人工芝フィールドでの初公式戦とあれば、
いうまでもなく「負けられないたたかい」である。
あいにくの荒天であったが、自然芝に劣らない浸透性をもつフィールドは最後まで水たまりひとつできなかった。
しかし、ICUのプレイヤー、コーチ、チア、スペクテーターにとっては
水びたしの結果になった。第4Q、ラスト4秒で外大はフィールドゴールを選択。ボールは新しくなったゴールバーのどまんなかをを鮮やかにこえた。17対16。わずか1点差でも負けは負けである。
試合なかば一時はあがった雨は終了のホイッスルとともにはげしくなった。
敗北は魂の軋みを学ぶためにある。
そこから自らの弱さを自覚し、前進する意味を学んだものは強くなる。
学ぶものがあったなら、敗北蹉跌でも挫折でも失敗でもない。
ふみや
航空用語で、
風が強かったり、視界が悪かったりするとき、
着陸をするかやめるかを決める、決定高度(ディシジョン・ハイト)
というのがある。
そのときたよりになるのは計器であり管制官だ。
しかし、最終的に判断するのは操縦している自分自身だ。
決定高度は人生にも数回あるんだと
染谷機長が教えてくれた気がする
Tolerance, Sensitivity and Imagination!  平和のリーダーの資質 まんまる「かぶ」万歳 05月01日 (水)
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冒頭のタイトルに並べた寛容、感受性、想像力は
平和な世界、諍いなき世界、飢えや差別や貧困なき世界をめざして
舵をとるリーダーにとって必要不可欠な資質だと確信していいる。
しかし、今の日本のリーダーは
それとは逆の息苦しい閉塞感をつくりだそうとしている。
あまり政治的な言辞は、この日記になじみにくいが
そんなことをいっている場合ではない。
自分たちのことを「美しい」「強い」と声をあげるのは
自己愛の特長である。
想像力を失えば思いやりも、未来を信じる力もなくす。
感受性を失えば、人の痛みもわからなくなる。
寛容を失えば、非寛容が暴走する。
なんでこんなぶっそうなことを書くかといえば。
最近、憲法についてめずらしくまじめに勉強している。
ジョン・ロックなどの立憲主義の基本に立ちかえって読んでいる。
というのは、さっき書いたように、今の日本のリーダーは
なにか「個人」よりも「国家」にシフトしようとしか思えないからだ。
ロックは『統治二論』のなかで
「そもそも国家は、人間が自由を守るための人為的な装置に過ぎない。
その国家のやり過ぎをふせぐのが憲法の役割」と書いている。
これが立憲主義の根本だ。
だから民主主義をたいせつにする国は憲法を
かんたんに変えられないようにしている。
いわばリーダーたちがプッツンしたときのために最初からかけている安全装置だ。
国民があって国家は存在する。
国のために命をなげだす時代はもういらない。

物語で育つ子どもたち! 負けてはいけない。
見守るテューターのみなさん!
ラボの社会的重要性が今こそ問われている。
そう思いませんか。

※上の写真は、ついに竣工したICUの人工芝フィールド。
4/13に行なわれたセレモニーでの集合写真。
ICUという人文字をつくったが企画だおれの感じになった。
総予算8000万円の半額を卒業生や職員の寄付でまかなった。
PE、すなわち体育もリベラルアーツをうたうICUでは大事な教科で
基礎体育、個人スポーツ、団体スポーツなどを
卒業までに2単位取得せねばならない。
3学期制なので1学期に0.5単位とれるので、計6種目が必修。
とくにFreshmanのときは英語の集中教育があるので、
それ以外はGEとよばれる一般教養ひとつと、後は体育しか履修することがほぼ無理。
したがってこうした体育設備も重要なのだが、
フィールドだけがでこぼこの土だった(下の写真)。
大学があるのは三鷹だから関東ローム層なので、かわけば砂ぼこりが舞い、
雨がふればぐちゃぐちゃであった。
これで運動部だけでなく、PEでも安全に運動できる。
さて、枕はこれくらいにして本題にいこう。
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三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
はやくも五月である。
ロシア昔話の『かぶ』。The Turnipである。
いわずとしれた有名作品。
故佐藤忠良先生の絵本「おおきなかぶ」は広く膾炙しているが、
ラボではなんといっても小野かおる先生の「かぶ」である。
※佐藤先生と小野先生の絵本のちがいは
これまでにも何度か書いたし、
「制作資料集」にも載っているので今回は書かない。
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このカレンダーの絵を描いてくれたのは
秋山知哉くん(小1/甲府市・間瀬P)。
いやあ元気がでるなあ。ありがとう。
まずは画面いっぱいにはちきれそうなエネルギーがあふれていて
それだけでもう「ファイト一発!」である。
肝腎のかぶは、まんまるでなんともすてき色だ。
この物語も毎年たくさんの絵が送られてくるが
その多くはかぶを比較的単純にオレンジ系の一色でペイントしている。
かぶは画面のなかで占める面積がいちばん広いから、
単色だとどうしても単調になるし、
幼い子どもにとってその広さを塗りつぶす作業はすごい労力だ。
それでバテてしまっているケースはかなりある。
でも知哉くんは、じつに複雑に描き込んでいて最後まで力強い。
おじいさんや孫娘はかぶにおしつぶされそうだが、
「ぬけたぞ!」というやりきった感がみごとにでているので、
とってもきもちいい。
さらによく見ると、かぶの葉や太陽などもしつこく描きこんでいる。
さっきもいったが、かぶはまんまるで、
まるで禅画の宝珠のようでもある。
特筆すべきは、バックの青の処理が
上から下へのグラデーションっぼくなっているところで!
もう、とってもおしゃれだ。
そして下のほうの濃い青のスピード感あるタッチの短い線が
ふしぎな立体感をつくりだしている。
画面の奥には
遠くにおじいさんの小屋もきちんと置いていいるのだが、
この線の作り出す世界のふしぎさで、
それがわざとらしくなく、より奥行きをつくりだしている。
全体が満ち足りていて丸い。
ブリューゲルの『豊穣の国』という名画をおもいだすね。
この満ち足りた感じはすごい。
きっと知哉くんはいろいろな人の愛情を
いっぱいうけて育っているのだろう。
まったくの想像だが、そうであってほしい。
いやそうにちがいない。

ぼくは24年間、ラボ・カレンダーをつくってきた。
それだけでも8万枚以上のラボっ子の絵を見たことになる。
その経験は、美術館100館くらいを回ったくらいの学びとなり
ライブラリー制作の糧となったことはもちろんだが、
現在の自分にも影響をあたえている。
子どもの絵、とくに幼い子どもの作品は、
ぐうぜんに生まれる色やかたちがあることを忘れてはいけないが、
おとなやプロでは絶対描けない自由さ奔放さと純粋さがある。
子どもが、その子ども自身、あるがままで生きていることそれだけで
奇跡であり、かけがえのないものであるように、
物語と向きあった子どもの心の風景画である描画作品もまた、
そこにあることですばらしいことだ。
だから、この日記のように「わけしり顔」で解説みたいなことを
ダラダラと書き散らすのなんてよろしくないと思っていた。
でも、組織を離れ、ある意味無責任なファンのような位置で
ラボを中景、あるいは遠景として見るようになってから、
ラボの社会的な存在意義や重要性を再々再々認識しはじめた。
ライブラリー、テーマ活動の可能性を強く思う自分に気づいた。
「ことばの宇宙」編集やライブラリー制作という仕事に
命とからだを削るつもりで没入していた理由を今更のように
反芻しているぼくがいた。
そんななかで、カレンダーもまた、ラボの一年中行事に終わらない
大きな活動だなあと思うのだ。
ラボは絵画教室ではないし、
描画活動を教育プログラムのなかに明文化しているわけでもない。
だが、ラボっ子たちは絵を描く。
いわれなくても描く。
ラボっ子でなくても子どもは絵を描くことばの好きだが、
ライブラリーという栄養、
あるいは心的エネルギー源を常食しているラボっ子は、
前述したように物語でふくらんだ心の風景を描き出す。
テーマ活動で「ことばとからだ」で物語を再表現することは
ラボの根幹的な教育プログラムであるが、
描画活動も
「大好きなお話を自分の目で見えるように」再表現することなのだ。
ことばとからだではなく、絵で表現したいものもあるのだ。
「ことばの宇宙」の表紙が、創刊以来、
原則として子どもの作品でつくられているのも、
そんなラボっ子の描画活動を激励しようという
思いからであり、
カレンダーの活動も、そうした激励強化からスタートしたのだ。

そして、これほど長い間、子どもの絵で毎年1万部近くも発行し続けている
カレンダーは日本ではほかにない。
だからファンとしては、もうちょっと自慢してほしいし、
さらに多くの子どもたちが絵を描いてほしいから、
「なぜぼくはこの絵がすきか」と表現することで、
少しでもサポートになればなあと小細工を弄して
駄文を書いているという次第だ。
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上の写真の左端の迫力に満ちた男性は、
日本のほこる世界的火山学者、理学博士荒牧重雄先生である。
先生は東京大学教授として、また地震研究所で長く活躍され、
現在も東京大学名誉教授、山梨環境科学研究所
(なんといっても今注目の火山、富士山があるからね)所長を
つとめられている。
御年83歳、母と同年、すなわち15歳で終戦をむかえられた世代だ。
先生は今も現役だから、とにかくお元気である。
今夏は鹿児島で国際的な火山学会があるので、すでにご多忙。
先日、この秋の武蔵高校ホームカミングで行なわれる
先生のご講演についての打ち合わせをした。
先生は気象部の大先輩で、
旧制高校時代に部の基礎をつくられた方でもある。
先生いわく「これほど火山が多く地震も多い国なのに、
日本は美しい自然、とくに樹木や草花が地表を覆い隠すので、
日本人は大地やその中身になかなか興味がいかない」そうである。
それにしてもなんという迫力のお顔であろうか。
三名の写真の中央が同窓会総務委員長、
右端がやはり気象部の先輩である。
皆さんぼくより年上で、いわゆるエライ人なので、
60歳のぼくがいちばん下っ端でちんぴらである。
しかも荒牧先生も含めて全員饒舌で、
本題に入る前にマスコミの課題、教育委員会の課題、
日本の大学のレベルについて、海外にいかない若者について、
など、まあ話は縦横無尽。
なにせ、このぼくがだまって拝聴していたのだからすごいだろう。
下は人工芝竣工セレモニーで撮影したもの。
こんなはじけるような若者たちの笑顔が失われてはならない。
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荒牧先生は、戦時中の学校を振り返ってこうおっしゃった。
「武蔵は、意外なほど軍国教育的雰囲気がたく、軍事教練もあったが
みんな嫌っていて、派遣されていた将校もばかにしていた。
真実を見つめ、自分で考えて自分で学ぶことのたいせつさを
教えてくれた教師たちに感謝している」

戦争は人間がおこす最大最悪の不条理である。
正義の戦争など存在しない。
侵略の定義は国によって異なると発言したリーダーを恥ずかしく思う。
それはテロリストの論理とかわらない。


荒牧先生はPCも使いこなしカメラにもお詳しい。
撮影はNikon V1で行なったのだが、
カメラをごらんになるなり、
「ミラーレスだね。Nikonのミラーレスをつかうやつは
けっこうひねくれてるのが多いと思うのだが、やっばりだな」
と豪快に笑われた。
37年目の桜隧道 Where Have All the Wild Things Are Gone? 1 03月31日 ()
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昨年の同日はまだ硬いつぼみだった母校ICUの桜も
今年は満開を過ぎて散りはじめだった。
ぼくにとってはいちばんの見頃だ。
正門から800mのマクリーン通りはまさに桜隧道だ。
舞いかかるのは花びらだけではない、さまざまな想い、
遠くなってしまった憧れとか、
あきらめてしまってひきずってきたものといった個人的なちっぽなものから、
諍いやまない人類のゆくすえとかいったでっかいことまでが、
ときにはうちのめすように、ときにはいやすように降ってくる。
とうとう3月で還暦になってしまった! 

今日は同窓会の「桜祭り」でDAY(Distinguished Alumni of the Year)
という社会的に功績のあった同窓生の表彰と懇親会があった。
DAYはまだ8回目だが過去の受賞者には高村薫氏、平田オリザ氏、大宅映子氏、
そしてわれらが鈴木小百合氏など個性的なメンバーがいらっしゃる。
今年は同期の粉川直樹(こかわなおき)くんが受賞されて、
とってもめでたい。
粉川くんは日本赤十字で長年にわたり
難民や災害復興支援に携わり、世界の激烈な現場でむきあってきた。
とくに1997年からは東京日赤の国際救援責任者としてトルコ地震、
スマトラ津波、パキスタン地震などの現場で活動。
粉川がいくところに災害がおこるとまでいわれたそうだ。
またコソボやアフガンなどの紛争地域にも犠牲者の支援で赴き、
さらにはスマトラの復興のために1年間滞在、
その後は国際赤十字新月連盟の災害対応部長としてマレーシアでも活動した。
そして、東日本大震災後は世界から送られた
600億円のドナー対応を担当。
はじめて支援される側にたったが、それまでの支援体験が役立ったそうだ。
粉川くんは、純朴で気のいいラガーマンであるので写真は掲載しないが、
その名前を記憶にとどめていただければうれしい。
懇親会後、いよいよ完成が近づいた人工芝を見分した。すでにラクビー、サッカー、アメフト、ラクロス、ハンドボールのラインがそれぞれちがう色でうめこまれ、今日は仕上げのゴムチップをうめこむ作業が行なわれていた。4月8日にはひきわたしが行なわれ、13日にはセレモニーとミニゲームが行なわれるが、
ぼくも写真撮影という大役をおおせつかっている。

 桜隧道の花ふぶきは帰るときにはおさまっていた。
 花が吹雪と散りゆくように、若き日の夢は消えやすい。なんて、いってんじゃねえぞ!
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そして、三澤制作所の「ラボ・カレンダー」をめくる。
はやくも4月である。うそだろ。
今月のはフライイングでみてはいなかったので、
めくったとたんに衝撃である。
題材となったのはアメリカのほこる絵本の巨人、
モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』
" WHERE THE WILD THINGS ARE"だ。
作者は堀部奈央さん(小3/徳島市・鈴江P)。
いうまでもなくとは書いたが、
このあまりに有名な原作絵本をご存じの方には余計なお世話だが
奈央さん(たぶんお名前からして女性とは思うが、力強いタッチから
ヨシヒロくんとか読むのかも。だれか教えてください)
の作品がセンダックのオリジナルの
フォルムもタッチもまったく想像させないことにおどろかれたはずだ。
要するに絵の要素としての真似・模倣が
皆無に等しく、原作の物語がもつ本質だけをしぼりだして、
まったく自分のタッチと色とフォルムで再現しているのだ。
ひさしぶりに、全身ビリビリにしびれた作品である。
ああ、今日まで見ないでおいてよかった! 
場面はおそらく主人公のマックスが「かいじゅうたちのいるところ」に
到着した後、おそいかかるかいじゅうたちに「うるさい!」と魔法をかけて、
かれらを支配下におさめたところだろう。
マックスもかいじゅうたちも、色味といいフオルムといい、
奈央さん自身の個性で絵が描かれている。
しかも、描きこみの重厚さはとんでもないレベルだ。
画材は、おそらくクレパスと不透明水彩を
なんどももちかえて使っているのだと思うが、
とにかくものすごいパワーである。
全体のバランスはもちろんすばらしいが、
なによりニクいのは背景である。
ここもかなりしつこく掻き込んでいるにもかかわらず
登場人物たちのパワーを消さないように、
じつにさりげなくボカシている。
これがとってもおしゃれで、とてつもない非凡さを感じる。
かいじゅうたの「まぃったぜ感」、マックスの「おれ様感」はじつにわかりやすい。
マックスの想像世界は、奈央さんのなかで、
さらに力強くひろがって
こうして再び外にてできたのだ。
センダックは「すぐれた絵本は入り口と出口がちがう」と述べているが、
奈央さんという入り口から入った物語は、奈央さんの絵筆という出口から
見事に成長してでてきたのだろう。
すぐれた物語は、宮沢賢治がいうところの子どもを成長させる
「みずみずしい果実」だと思う。
だが、すぐれた物語はうけとめる子どもたちによって、
物語そのものもさらに成長していくのだ。
そんな作品をのこせたということは、
センダックという「ひどく変わったてあつかいにくい、
今世紀最高の子どもの本のアーティスト」の人生すばらしいものだったといえるだろう。
センダックは昨年、おしまれつつ世を去ったが、きっとこの絵によろこんでいるはずだ。
そのとき、NYタイムスはMaurice Sendak, Author of Splendid Nightmares, Dies at 83と衝撃的な見出しをうった。
記事の冒頭は「20世紀で最も重要な子どもの本のArtistとして広く認識されているモーリス・センダック」ではじまっていて、
絵本作家とはいわず子どもの本のArtistと表現しているところに
NY TIMESのセンダックへの評価がうかがいしれる。
基本的にプライベイトを見せない孤高の人だった。
彼の業績についてはぼくなどがいまさら語ることもないが、この機会に重要な本を紹介しておきたい。

原題 CALDECOTT & CO.
センダックの絵本論
モーリス・センダック
脇 明子,島 多代 訳
■定価 3,150円 ■1990年 岩波書店
絵本の祖コールデコットからディズニーや
同時代の若いイラストレーターまで
自身の創作活動に直接間接に影響を与えた人々について
折にふれ率直に語った名評論。
センダックの貴重な語りと、彼の作品への思い、
子どもたちへの思いがよくわかる。
コールデコットへのオマージュともいえる。
原題の「コールデコットと仲間たち」が泣かせる。
一時品切れ状態だったが、今はアマゾンでふつうに買える。
もっていて損はない、というかぜったい読みたい1冊。

Piper of the Dawn
子どもの本の8人―夜明けの笛吹きたち
ジョナサン コット 鈴木 晶 訳 み晶文社

これは中古で買うか図書館だけど名著。
著者のコットはロック雑誌「ローリング・ストーン』誌の名編集者。
その一方、無類の子どもの本好きとして知られるが、
8人の世界的な児童文学作家・研究者と語り合い、
その対話にみずからの評言を加えて、
子どもの本のもつ本能的な知恵と驚嘆の世界をきりひらいてみせる。
このなかで「もっともめんどくさい作家」センダックへのインタヴューは圧巻。

うわべや権威や、あまい菓子やそのばしのぎの理屈や、
なれなれしさといった、子どもが見抜くおとなの手練に常に抵抗しつつ
子どもの心の深いところに寄り添っていたアーティスト。
であるがゆえに、自身は深い孤独を内包していた表現者。
センダック。あなたの作品は永遠に愛され続けているぞ。
ここにその魂をうけとめている子どもがいるよ!
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