幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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 お絵かき 2004年編
Welcome!
ぐるんぱが私にくれたもの
-物語は平和への橋となる-


奥村 三菜子(35歳)
昔・ラボっ子、今・大学院生
お仕事・日本語教師


    奥村パーティ20周年文集を開くと、
    10年前の私に出会える。
    何を考え、何を夢見ていたのかがよみがえってくる。


         10年後、この30周年文集を開いたときにも、
         10年前の私に出会いたいから、
         今、私が考えていること、
             願っていることを記しておこうと思う。








  その1 「ファンタジーもノンフィクションである」の巻

 『ハリーポッター』。私はあのお話が大好きです。ファンタジーの骨頂、世界のベストセラーです。
 物語は私たちに「出会えるはずのない世界」を見せてくれる、とよく言われます。『ハリーポッター』然り、ラボっ子のベストセラー(?)『ピーターパン』然り。「ホグワーツ」も「ないないないの国」も、残念ながら実在はしませんし、科学の発達した現代にあってもそんな世界を生み出すのは不可能なようです。しかし、実在しない世界であっても、その世界の中に生きている人々(動植物)の「感情」は、ノンフィクションの世界に生きている私たちの感情と何ら変わりはありません。両親を亡くしたハリーの悲しみ、悪に立ち向かうピーターの正義感、そういうものは私たちの日常にも当たり前に存在している感情です。ですから、たとえ物語の舞台が「出会えるはずのない世界」であったとしても、物語の中の感情は「すでに出会ったことがある世界」「今出会っている世界」「これから出会う世界」なのです。だからこそ、私たちは物語に触れたときに感動できるのだろうと思います。自分に引きつけて感じることができるからです。「所詮は夢物語」とはならない所以です。
 『ぐるんぱ』は、劣等感を感じたり、自分の価値を模索したり、自分の居場所を探したりしながら、それでもとにかく一生懸命に生きている多くの現代人(私を含みます)にとっては感動の物語です。ゾウが街を闊歩して、パン屋でクッキーを焼いたり、自動車工場で車の修理をしたりしてたらびっくりです。ですが、ぐるんぱの悲しみや喜びは私たちの生きている世界には実在する感情ですし、それが自分のことのように感じられるから、この物語は決して荒唐無稽なお話ではないのです。こういうふうに考えると、ファンタジーも立派なノンフィクションと言えるわけです。


  その2 「ノンフィクションもファンタジーである」の巻

 私たちは自分の実経験や実体験の中でさまざまな感情に出会うものです。しかし、私たちが一生の間に経験できる感情は限られたものでしかありません。一人っ子である私には兄弟姉妹間で起こる感情を経験することはできません。そして、自分が経験したことがない感情は想像の域から出ることはできないのです。ですから、兄弟姉妹がいる子どもにとっては、『ポワン・ホワンけのくもたち』の子どもの雲たちの感情はノンフィクションになり得ますが、一人っ子の私にとってはどこまでいってもファンタジーでしかありません。そういう意味では、世界に実在する感情であっても、人によってはファンタジーのままでしかない感情もあるわけです。
 しかし、普通に生きていればただのファンタジーのままで終わってしまうかもしれない感情を、「実在の感情」により近く経験できるのが物語の世界です。『ポワン・ホワン』のような物語の世界を経験したおかげで、私も少しは兄弟姉妹間の感情に近づくことができました。また、私はこれまで友達から仲間はずれにされた経験は幸運にもありませんが『みにくいアヒルの子』で仲間はずれにされる感情に触れましたし、『トム・ソーヤ』では麻酔なしで歯を抜く痛み(2話)や本物の暗闇の中での恐怖や空腹の辛さ(4話)を感じ、『国生み』で火の怖さを体感しました。これらすべて、私が今の世の中で普通に生きていれば、絶対にあるいはなかなか経験のできない感情や感触です。私はたまたま恵まれた環境で生まれ育ちましたが、世界を見渡せば暗闇の恐怖や空腹の辛さに日常的にさらされて生きている人々はたくさんいます。ですから、これらは実在の感情や感触なのです。
 世の中には、自分自身は知らないけれども、確かに存在する感情がたくさんあります。経験のある人にはノンフィクションであっても、経験のないものにとってはファンタジーでしかない感情がたくさんあります。しかし物語は、そのようなファンタジーでしかない感情を実際のものとして感じられる大きなきっかけとなるのです。

  その3 「ファンタジー感情がホンモノに近くなるために」の巻

 物語は「出会えるはずのない世界」をより現実的に感じさせてくれます。物語にはストーリーがあるからです。「悲しい」という感情をそれだけで説明しても心のひだの中には入ってきませんし、たとえ入ってきたとしても、その感情はすぐに忘れてしまいがちです。しかし、物語にはストーリーがあるので、説明はなくとも感じる材料がたくさんあり、そのストーリーのおかげで長期にわたって記憶にとどまり根を張る感情となります。ここが、例えば道徳の教科書と物語との大きな違いです。「ウソをついてはいけません」と道徳の授業で口を酸っぱくして教えるよりも、『はだかの王様』や『ピノッキオ』に触れるほうがずっと私たちの心には刻まれます。感情は暗記するものではありません。新しい感情を注入できるような即効薬もありません。感情はあくまで時間をかけてじわじわと周辺から染み込んでいくものです。ゆっくりと時間をかけて中心部に到達したときにはじめて感情としての意味を持ちます。しかし、ここまでは平面部で、新しい感情への入り口(きっかけ)です。その中心部から奥の方へ立体的に入り込んでいくに従って、ようやくホンモノに近づいていくのです。平面から立体へ、この過程があって初めてファンタジー感情はホンモノ感情になり得るのです。
 ここで決して忘れてはいけないことがあります。読んだり聞いたりして感じる「経験」は、身体を使った「体験」には絶対に劣るということです。テーマ活動の意義はここにあるように思います。感情が「奥の方へ立体的に入り込んでいく」ためには、身をもって経験する過程が必要です。火は熱い、火は熱い、といくらイメージしても、それはやはりノンフィクションの亜流でしかありません。本当は実際に火に触って「あちっ!」という経験をするのが一番なのですが、こういうのにはある程度限界があります。ここで役に立つのがテーマ活動なわけです。テープ(今はCDですね)を何度も聞くうちに、「火は熱いんだ」と暗示にかかってきます。これは、しかし、まだ、先ほど書いた「平面部」なのです。ところが、「火は熱いんだ」を身体で表現することで、その熱さは「立体的」になってきます。強烈なイメージを持つことはもちろん大切ですが、これに加えて身体を震わせたり、跳び上がったりすることで、その強烈なイメージはより記憶に刻まれていきます。確かに、これにしたってファンタジーにしかすぎないと言えばそうですが、ファンタジーにもランクがあって、軽いファンタジーもあればリアルなファンタジーもあります。要は、いかにリアルなファンタジーに育てていくかが大切なのです。そのためには身体を使って表現するという過程は欠かせません。
 ①物語の中にどっぷり浸ること、②身体を使って表現すること、この二つはファンタジーがホンモノに近くなるためには絶対不可欠な要素である、と私は思っています。





  その4 「戦争を知らない私たち」の巻

 今年・2005年、戦後60年を迎えました。日本では「戦後還暦」とも言われ、被爆胎児も還暦を迎える年となりました。平和を願う活動、イベント、式典が各地で開かれ、戦争の惨劇を二度と繰り返してはいけないといったメッセージが世界中で叫ばれています。それにもかかわらず、世界ではまだまだ戦いが続いています。殺すほうにも殺されるほうにも喜びなどかけらもない戦争が続けられているのです。
 平和をおびやかしているのは戦争だけではありません。飢餓、病気、貧困、天災、事故、差別……、世の中には数え切れないほどの「非平和」が存在しています。こうした「非平和」に関する情報に触れるたびに、まず私が考えるのは「当時者の感情や状況」です。それを考えること抜きに、正しい支援・援助はあり得ないと思うからです。「私がやってあげたいこと」と「当事者がしてほしいこと」が一致するとは限りません。大切なのは、「こんな状況の中、直面している人(たち)は何をどう感じているのだろうか」と広く深く想像することです。それがあって初めて行動のスタートラインに立てると思っています。
 あちら側にいる人の感情をこちら側の者が想像するのはたやすいことではありません。ここで役に立つのが、「「ファンタジー感情がホンモノに近くなるために」の巻」で書いたような経験と訓練です。小さい頃からこの経験と訓練を積んできた子どもは、大人になって非現実的な場面や抽象的な場面に遭遇したときに、高度な想像力をはたらかせることができるようになります。世間でよく言われる、「他人の気持ちになって考える」とか「相手の立場に立って考える」とかいうことが非常に高いレベルで実践できる大人になれるのです。子どもの頃に物語の世界で培った、ファンタジーの世界からホンモノの世界へと入っていく過程をたどりながら、「当事者の感情」により接近できるようイマジネーションを稼動させることができるからです。ラボでテーマ活動を通して得た経験は、こうやって、大人になった今も私の中に生きています。物語との深い接触、そして表現活動の体験はこんなふうにも役に立つのです。
 表現活動の効果に関しては、世間でもさまざまな事例があります。「いじめ」について理解を深めるために、学校や企業ではいろいろな役を配した寸劇などのワークショップの手法がとられていますし、また、愚民政策をとってきた権力国家に対して一般庶民がどのように国家にアプローチしていくかを考えるため、演劇を取り入れたワークショップが行なわれて成功したという報告もあります。これらはすべて、身体を通して表現することで、ファンタジーの世界をホンモノに近づけるためのものとして位置づけられています。
 このようなわけで私は常日頃から、「想像力は世界を平和にする」と考えています。当事者の気持ちにお互いが近づけるようになれば、非平和は減るにちがいない…、と信じています。人でも文化でも、「他」を知ることで「自」を知り、また「自」を知ることで「他」を知る、このサイクルを「平和構築サイクル」と私は勝手に名付けています。「他」を知るためには「想像力」が欠かせません。想像力を欠いたまま「他」を知ることなどできません。もし、できると思っている人がいたら、それは自分勝手な思い込みです。自分勝手な思い込みで「他」を知っているつもりでいる限り、ホンモノの平和はあり得ない、と私は考えています。さまざまな価値観を持った人々の総合体が、すなわち私たちが生きている世界です。この世界には本当にいろいろな人がいて、そして、日常的に感情のぶつかり合いが起こっています。そんな世界で楽しく平和に生き抜く知恵が「想像力」には隠されているのではないでしょうか。


  その5 「物語とことば」の巻

 さて、ここからは話題を少し転じて、「ことば」について書いてみようと思います。なにしろ、ラボのモットーは“ことばがこどもの未来をつくる”ですから。ラボの活動を語るとき、「ことば」は欠かせないのです…(?!)。私は現在、「子どものことば」をめぐる研究をしているので、子どものことばの獲得や発達について考える時間を日常の生活の中に多く持っています。また、仕事柄、「ことばを学ぶこと」は避けられないテーマです。私が「子どものことば」や「ことばを学ぶこと」について考えるとき、折に触れて思い出されるのがラボのテーマ活動。そんなことについて、これから書いてみたいと思います。

1.「だやい」「はがやしい」はどうやって獲得されるか?               
 「だや~い」「はがやし~ぃ」。私の大好きな富山弁ベスト2です。皆さんはこのことばの意味を県外の人にどうやって説明しますか?「だやい」→「だるい・疲れる」、「はがやしい」→「悔しい・腹が立つ」と説明することはできるかもしれませんし、これで大体の意味は伝わるでしょう。しかし、少なくとも私にとっては、「だやい」ものは「だやい」のであり、「だるい」のではありませんし、「はがやしい」ものは「はがやしい」のであって、「悔しい」のではありません。「だやい」でしか表せない感覚があり、「はがやしい」でしか表せない感情があります。
 このようなことばを、しかし、どうやって私たちは身につけたのでしょうか。「だやい」とか「はがやしい」とかいった、特に感情や感覚を表すことばは、たいてい、ある「場面」
をともなって使われます。風邪で熱が出たとき、梅雨の湿気が高いとき、山登りの途中で、「だや~~~い」と、「だやい」ユーザーは口にします。「だやい」ユーザーによってさまざまな場面で発せられる「だやい」を耳にするときには、たいてい聞き手もその感覚や感情を同じ場面で共有していることが多いです。(一緒に熱が出ることは稀ですが、山登りのときなどはお互い同じ気持ちであることが多いと思われます。)私たちが新しいことばに出会うとき、そこにはたいてい「場面」がくっついています。そして、ある程度「だやい」との接触場面経験が積み重なってくると、そのうち、経験的に学んだ「だやいと思われる場面」で、自分から(ときには恐る恐る)「だやい」と発信してみます。そのとき対話の相手が同意してくれたり、一緒になって「だやい」と言ってくれたりすれば、ビンゴ!成功です。「だやい」の使い方が正しかったという証明になるのです。これでようやく、この人は「だやい」を獲得したことになります。これを図にすると下のようになります。「蓄積」や「伝達」は、そのことばの捉え方が正しいかどうかを確認するためのチェックポイントとなっています。また、「蓄積」ではインプット型の確認を、「伝達」ではアウトプット型の確認を行なっています。また、「蓄積」と「発信」の間を行ったり来たりするプロセスも大切なポイントで、ことば使用の貴重な経験となっています。



    受容           蓄積 ― 確認1
(あることばに出会う)→(そのことばに何度も出会う)
              失敗 → ↓↑ ← 試行錯誤
                  発信           伝達 ― 確認2
           (そのことばを使ってみる)→(自分の発信が相手に伝わる)                                   
                                 ↓
                               うれしい!
                          (全身の記憶として留まる)
                                 ↓
                                獲得 
                       (そのことばが自分のものになる)
© Minako OKUMURA

 ことばの獲得で何よりも重要なのは、「蓄積」の部分です。蓄積なしに獲得はあり得ません。「だやい」と接触する場面を何度も経験することが、最終的に「だやい」の獲得につながるのです。
 こうしたことは子どもがことばを覚えるときには必ず通るプロセスです。さまざまな人々との間に起こることばとの接触経験(そばで見ている/聞いているだけの場合もあれば、自分自身が参加している場合もあります)が豊かであればあるほど、子どもは、そのことばの豊かな使用者になります。ことばとの接触経験を豊かにするには、いろいろなタイプの人に数多く接する場がたくさん必要となります。ですから、大家族の中で育つことや地域との交流をはかること、そして友達をたくさん得ることなどは、とても貴重なわけです。
 これはもちろん大人にも当てはまります。四国で生まれた山ザル・奥村テューターがいい例です。富山に住んで30年以上、「だやい」との接触場面を豊富に経験した奥村テューターは今や立派な「だやい」ユーザー。「だるい」を表す西の横綱「しんどい」と富山弁「だやい」を見事に使い分けていらっしゃいます。「だやい」「しんどい」「だるい」の三つを自分のものとし、「病気やつかれなどのために、からだが重い感じで、うごくのもおっくうだ(『例解新国語辞典第四版』三省堂による「だるい」の説明)」と辞書で定義されるような状況にあるときに、自分の気持ちに最もぴったり合うことばが選択できる引き出しを三つも持っているなんて、なんと幸せなことでしょう。
 このように、子どもも大人も新しいことばを獲得するときには、①そのことばが使われるいろいろな場面を経験し、②そのことばを使ういろいろな人に出会い、③何度も失敗を繰り返しながら時間をかけて、そしてようやく自分のものにしていくのです。ですから、一つのことばを自分のものにするための即効薬などないのです。これは外国語学習でも同じことが言えるでしょう。


2.「お前はニワトリだ!?」                           
 これまで書いてきたことは、自分の母語ではないことばを学ぶ場合にも当てはまります。すでに「鶏肉」という日本語を獲得している人にとって”chicken”はその英語版として置き換えて使うことができますから、先に図で表したようなややこしい道すじを経る必要はありません。しかし、日本語の「鶏肉」には「ニワトリの肉」という意味しかありませんが、英語の”chicken”には「ニワトリ・ニワトリの肉」以外に「弱虫・臆病者」などの意味もあり、その意味でもよく使われています。ですから、英語圏の人にとって”chicken”は日本語の「鶏肉」よりももっと広い意味世界を持ったことばなのです。多くの日本人が「大根」と聞いて、野菜である「大根」と同時に「大根足」や「大根役者」を連想するのと同じようなものです。一つのことばを聞いたときに広がる意味世界を自分のものにするには、先ほど示したことばの獲得の道すじをどうしても通らなければなりません。
 「鶏肉」と”chicken”については、それでも言い換えが可能です。しかし、ある言語には一語で言える表現があるのに、別の言語にはない場合も往々にしてあります。例を挙げてみましょう。「面倒くさい」。これほど私がよく使うことばもありませんが、これは中国語にも同じような表現があって、「麻煩(mafan)」と言います。使うときの表情も日本人が「面倒くさい」と言うときとそっくりですので、置き換えて使ってもまず差し支えありません。ところが、これを英語でどういうのか?ドイツ語でどういうのか?となると、う~~ん、なかなか適当な単語が見つからないのです。これを表す単語はどうやらフランス語にもないようで、中国で中国語を覚えたフランス人の友達は、フランスに帰ってからも面倒な状況になると、いつも「麻煩、麻煩」とフランス語に混ぜて言っています。実に正確な使い方をしているので、つい笑ってしまうことさえあります。このフランス人にしても、やはり、先ほどの「獲得の道すじ」を経たからこそ、これだけ正確に使いこなせるようになったのです。(中国でよほど「麻煩」なことを経験したのでしょうか…?)
 さて、ことばの意味が分からないとき、便利なものとして「辞書」があります。そこにはことばの意味が説明されていますし、場合によっては例文もついています。しかし、この「辞書」には実は大きな落とし穴があります。次の文を読んでどう思いますか?

 ○イラク戦争がやっと始まった。
 ○犬がようやく死んだ。

それぞれ「えっ?」と思った方と、「ふむ、ふむ」と思った方がいらっしゃると思います。それでは、これはどうでしょうか。

 ●心配していたイラク戦争がやっと始まった。
 ●大好きだった犬がようやく死んだ。

こうなると、「えっ?」と思う方がほとんどでしょう。
 日本語の先生をしていると、日々このような生徒たちの誤りを耳に/目にします。あるポケット英和辞典を調べてみると、「finally=最後に、やっと、ようやく、ついに、結局、etc.」と書いてあります。(もっと丁寧な辞書ももちろんあります。)また、和英辞典でも「やっと/ようやく=at last, finally, etc.」となっています。これでは、日本語を学習している学習者はどれを選べばよいのか迷ってしまい、しまいには ”♪ee nie mee nie miney mo…(イーニーミーニーマイニーモー)♪” で決めることになってしまいます。
 上の●の文では、日本語母語話者はおそらく、「やっと」「ようやく」ではなく、「ついに」「とうとう」などを使うのではないでしょうか。「やっと」「ようやく」「とうとう」「ついに」「結局」など、同じような意味を表す同義語は、どんな言語にもあります。では、これらのことばの使い分けをネイティブスピーカーはどうして知っているのでしょうか。これにもやはり、先に示した「獲得の道すじ」が必要となるのです。ですから、母語ではないことばを学ぶときにも、この「獲得の道すじ」を経た経験が多いほど、母語話者に近いことば感覚を獲得できるのです。「獲得の道すじ」で強調した「蓄積」や「発信」や「伝達」のプロセスを経ようとすると、机の上の勉強では限界があります。また、接触経験の量や質といった面を考えると、そのことばが話されていない場所での習得は不利となります。英語を学ぶなら英語圏の国へ、中国語を学ぶなら中国語圏の国へと言われる理由の一つだろうと思います。


3.「さみしいな、さみしいな…」                         
 母語にしても、母語以外のことばにしても、どちらにしても、ことばを自分のものとするには「蓄積」や「発信」が大切だと書いてきました。それゆえ、そのことばが話されていない場所では習得が不利になるとも書きました。では、蓄積や発信が有利にはたらく母語は安心して放っておいてもよいのでしょうか。
 現代の子どもたちは、その多くが核家族の中に暮らしていて、地域との交流も昔に比べると少ない中で生活しています。また友達にしても同じ学年(せいぜい1~2学年が前後する)の友達に囲まれて生活していることが少なくありません。これでは、ことばとの接触の経験を豊かにするためのいろいろな場面やいろいろな人に出会うことは困難です。ことばとの接触経験が不足すると、ことば使用者としてのレベルは、そうでない子どもに比べるとどうしても劣ります。ある一つの表現を聞いてそこから広がるイマジネーションのふくらみが小さく、また正確さにも欠けるからです。
 人の話すことばは、つねにそのことばが発せられる背景をともなっています。大げさに言うと、それはその人の人生や価値観そのものなのです。ですから、さまざまな人のことばに接触することはその人の人生や価値観を垣間見ることになるわけです。例えば、「さみしい」ということばはさまざまな場面で発せられますが、「さみしい」と発する人の感情はさまざまです。子どもによって異なるでしょうが、おそらく、小さな子どもが最初に発信し始める「さみしい」は「保育所にはママがいなくてさみしい」のように「いてほしい人がいなくて満たされない」といった意味の「さみしい」ではないかと思われます。しかし、成長するにしたがって、「さみしい」が使われるほかの場面も経験します。「大勢の中の孤独」を表現する場合もあれば、「恋人と一緒にいても感じる寂寥感」を表す場合もあります。また、「さみしい庭」のような表現(「さみしい」は本来この意味から派生しているようですが)もあります。つまり、さまざまな経験をし、さまざまな人と触れることにより、さまざまな「さみしい」を知るようになるのです。そして、さまざまな「さみしい」の引き出しを備えた子どもは、その後の人生で「さみしい」ということばに触れたときに、頭と心にさまざまなイメージを広げることができるわけです。
 これには母語も母語以外のことばも関係ありません。ですから、母語だから安心、母語じゃないから努力を、といった発想ではなく、どちらも「ことば」であるといった認識が必要です。ただ、バイリンガル環境にある子どもは別として、日本に住む多くの子どもは日本語を唯一の使用言語として育つことが多いので、まずは母語である日本語(正確に言うと地域言語≒方言)でことば接触の経験を豊かにする必要があるでしょう。母語でイメージを広げられる経験を積んできた子どもは、母語以外のことばに接触するときにも、それまでの経験を応用させる力があります。俗に、外国語でベラベラ喋る人は母語でもよく喋るなどと言われますが、今まで書いてきたことと無関係ではないと、私は思います。そして、このさまざまなイメージこそが、最初に書いた「高度な想像力」を生み出すのです。


4.ラボ・ライブラリーからの贈り物                        
 ことばとの接触を増やすのに、物語は欠かせません。ことばの獲得にあたって、さまざまな場面やさまざまな人との接触の重要性を強調してきましたが、私たちが普通に生きている限り、当たり前のことですが、現実の「そこにある」世界の中の経験しかできません。もちろん、いろいろな経験の場を求めてラボっ子はキャンプにも行くし、国際交流にも出かけていきます。今やアメリカだって、中国だって、アフリカだって、果ては南極にだって行こうと思えば行ける時代です。でも、どんなに頑張ったって「ないないないの国」には行けないのです。これが、物語が貴重である所以です(と私は考えています)。
 はじめにも書きましたが、物語は「出会えるはずのない世界」に私たちをつれて行ってくれます。「出会えるはずのない世界」とひとことで言いますが、これにはいろいろな種類(レベル?!)があるようです。



 <レベル1:「どこにあるんだ?」の世界>
  「ないないないの国」、
  「くもざる島」、
  「鬼が島」、
  「黄泉の国」、
  のような場所自体がファンタジーの世界。(ホントはどこかにあるかも?!)

 <レベル2:「どこにいるんだ?」の世界>
  場所は現実なのだけれども、
  弁当持参でピクニックに行ってボートを漕いじゃうスーパー犬「ヘンリー&アン」、
  ファッションショーなんかして気取っちゃう虫・キリギリス「トランポリーナ」、
  お菓子の分際で駆け引きなんかしちゃう「くるりん坊主」、
  風のくせにタイマンはっちゃう「トプウ」、
  などなどが、うようよ……いるような、登場人(?)物がファンタジーの世界。

 <レベル3:「いつの話だ?」の世界>
  場所も人も現実ではあるのだけれども、
  「平知盛」、
  「ジュリアス・シーザー」、
  「ローラ・インガルス」、
  のようなタイムマシーンがないと経験できない時間的ファンタジーの世界。



 「出会えるはずのない世界」との接触経験を増やすためには、世の中に大量に出回っている本・絵本は貴重ですし、マンガだって、アニメだって大切です。しかし、ストーリーと絵と声と音楽が一緒になったラボ・ライブラリーほど効果的なものはありません。
 先ほど「さみしい」を例に感情の引き出しについて書きましたが、私が人間初期(4歳)に接触し、深く刻み込まれた「さみしい」は『ぐるんぱ』の「さみしい」でした。私がいちばん最初にとり憑かれたラボのお話は『ぐるんぱ』です。「もう9時だから寝なさい!
( ”it’s now nine o’clock♪” : eightではない…)」と親に言われても、ウ~~~ンというモーター音もくたびれて熱ぅ~くなったラボ機(ボタンが赤いラボ機第二世)の前で固まって、繰り返し繰り返し、微塵ともせずに『ぐるんぱ』に聞き入る三菜子少女。親から聞かされた思い出話としてではなく、このときの情景は、今でもしっかり私の記憶に残っています。カエルさん座りしていた自分の姿も、熱くなったラボ機も…。数えたことはありませんが、あのお話には一体何回「さみしいなぁ、さみしいなぁ」が出てくるのでしょうか?最後の「ボクはもうさみしくない!」というセリフにいたるまで、かなりの回数の「さみしい」が出てきます。あのストーリーにあの音楽、そしてあの「声」。ぐるんぱの「さみしいなぁ、さみしいなぁ」という声には本当にさみしさがにじみ出ています。『ぐるんぱ』は、『ぐるんぱのようちえん』というタイトルで福音館書店から絵本も出ています(こっちがオリジナル)。しかし、私が出会ったのがこの絵本ならば、こんなにハマったでしょうか。ラボ・テープで、音楽があり、声のトーンがあったからこそ、小さな三菜子ちゃんは「ぐるんぱワールド」にとり憑かれたのではないかと思うのです。繰り返し歌われる「♪はたらきものぐるんぱ。大足、大耳、長い鼻。からだにあわせてつくった・・・♪」は、ぐるんぱの傷心にともなって徐々にスピードをおとしていきます。私の中にぐるんぱの「さみしい」を流し込むための重要な役目を果たしていたのです。
 この物語は先に挙げたファンタジー世界のレベル2に当てはまります。こんなゾウは世の中におそらく存在しないでしょう。しかし、最初に書いたとおり、ぐるんぱの感情は現実のものです。ぐるんぱワールドの中で4歳の私は、「これまでに出会ったことがある“さみしい”」に加えて「これから出会うかもしれない“さみしい”」を経験し、それが「さみしい」ということばの獲得のための「蓄積」のひとつになったわけです。4歳ではなかなか経験できない種類の「さみしい」の感情を経験したのです。
 私はこのような蓄積や感情経験を、『ぐるんぱ』をスタートとして、あらゆるラボの物語によって授けられました。これはラボのお話が私にくれた大切な贈り物です。


5.テーマ活動、あなどるべからず                         
 前に「リアルなファンタジーに仕立てていくには身体を使って表現するという過程は欠かせない」と書きました。まさにこのとおり、4歳の私が物語の中にどっぷり浸って経験した「さみしい」は、その後、『ぐるんぱ』のテーマ活動をすることによってさらにホンモノに近づいていきました。平面上にあった「さみしい」が立体的に深い「さみしい」へと成長を遂げたのです。実際にぐるんぱになってみることで、その「さみしさ」がじーんと染み込み、ぐるんぱの発表中に胸が苦しくなり、目頭が熱くなったことを今でも覚えています。(今これを書きながら思い出しても涙が出てきます…。)そして最後にやってくる喜びの大きさ。「ボクはもうさみしくない。とってもたのしいゾゥ。とっても、とってもたのしいゾゥ!」このセリフを言ったときの喜びは、テープを聞いていただけのときとは比べものにならないぐらい大きなものでした。テーマ活動を通して、私は「さみしい」を体験しただけでなく、「さみしい」が「たのしい」になる変化までも体験できたのです。このテーマ活動の体験が、感情だけでなく、「さみしい」「たのしい」という「ことばの意味世界」をも豊かにふくらませたことは言うまでもありません。当時、平和な環境で生まれ育って暮らしていた私が普通に生活していれば、もっと後になってしか体験できなかったかもしれない感情を『ぐるんぱ』は与えてくれたのです。私が『ぐるんぱ』以外のテーマ活動でもこれと同様の体験をしたことは、もちろん言うまでもありません。
 こういうことが起こるのが「テーマ活動」です。ですから、テーマ活動はあなどれないわけです。

  その6 「物語は世界を平和にする」の巻 -結びにかえてー

 ヒトとその他の動物を区別するものとして「ことば」があると言われます。動物にだってことばはあると言う人もいるでしょう。しかし、ヒト以外の動物のことばは「サイン」でしかありません。「エサがあるぞー!」というサイン、「敵が来たぞー!」というサイン、「あなたが好きよ!」というサイン…。これらはもちろんヒトも持っているものです。私が、ヒトとその他の動物のことばの違いを感じるのは、「あなたが好きよ。なぜならば…」を、ヒトはことばを通して表現できるというところです。「なぜならば」を言えることが高度だとか、言えないことが低レベルだとか言うつもりはありません。重要なのは、ヒトが「なぜならば」を表現できるのは、「なぜならば」を考えられるからだということです。私が知っている限りの狭い知識ではありますが、猫の求愛活動で「あなたが好きよ」はあっても、「なぜならば」を言っている猫はいないはずです。
 この「なぜならば」の部分にこそ、先に書いたことばとの接触経験がものを言うのです。ある人が「さみしい」と言うときの背景は、人によってさまざまです。そのさまざまな「さみしい」の感情との接触がことばの引き出しの量を増やし、その質をふくらませると書いてきました。引き出しが豊かな人は、友達Aさんの言った「さみしい」の背景をさまざまな角度から想像することができます。あるいは、Aさんの言う「さみしい」が自分の知っている「さみしい」とは必ずしも同じではないと判断できます。つまり、豊かな引き出しを持っている人は、単眼的ではなく、複眼的に世の中の感情や感覚や出来事を見る力が育っているのです。そして、こういう態度が、「他」を知るための第一歩となるのではないかと思うのです。
 繰り返しますが、ことばの引き出しが豊かな人は、複眼的なものの見方や感じ方ができる人であり、「高度な想像力」をはたらかせられる人です。そういう人は「他」を知る過程においても、「高度な想像力」が駆使できます。このことは、「自」を知る深さに影響を与えます。はじめのほうで「平和構築サイクル」について書きましたが、「他」を知ることと「自」を知ることは切り離せない関係にあると、私は信じています。そして、それが私たちの平和につながる第一歩なのだということも。だからこそ、「想像力」には私たちが楽しく平和に生き抜く知恵が隠されていると考えているのです。その「想像力」を育てるのに大きなきっかけを与えてくれるのが物語や表現活動。ラボっ子が日常的に触れている物語、そして日常的に取り組んでいるテーマ活動には、実はこんなに重要なはたらきがあったのです。
 こういうことに私が気づけるようになったのも、私自身がたっぷりとラボの物語の海の中を泳いできた経験を持つからこそです。私自身がラボの物語とテーマ活動を通して、豊かな「ことばの引き出し」を持つことができたからなのです。
 この「ことばの引き出し」のおかげで、私はたくさんの素晴らしい出会いと、数え切れないほどの思い出に包まれて生きていますし、これからもそんな中で生きていけるだろうと思います。その素晴らしさを実感しているから、私は自分と同じように、豊かなことば経験・ことば体験を子どもたちにも持ってほしいと願っています。そのために私には何ができるのか。それを、今、ラボの物語とテーマ活動で培った「高度な想像力」をフル回転させながら考えているところです。
 子どもたちの未来のために…。
   私たちの平和のために…。


  決して忘れてはいけません、
私のすべてのスタートが『ぐるんぱ』にあったことを…。

あなたのスタートはどこにありますか?



(2005年記)
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