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昔話と昔話を運んだ道 |
02月10日 (水) |
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本年度の「新・熊本学」という、熊本県立大学の授業の最終回の時、教授の話を聞きながら、思ったことを、書こう、書こう、と思いながら、もう二週間が経つ。
これ以上、時間が経つと、何を聞き、何に感心し、何を考えたのか、きっと、わからなくなるので、書き留めておこうと、思う。
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昔話は、昔の人々の生活の反映であり、「われわれ」と「かれら」の区別と交流、共同体の連帯と亀裂、生活の”ゆとり”などが、みられる。
具体的に言うと、異類と人(異類婚など)、異人(山人、巡礼など)と村人、田舎者と町の者の話は、「われわれ」の強化、語りの場の共有などの意味があり、「笑い話」「怖い話」は、「われわれ」と「かれら」の区別の強化の機能が強い。
「ものしらず話」=中央と周縁
「怖い話」=慣習に反することをすると、罰がある
他人の失敗の批判ー>噂話:世間話ー>現代伝説:
外国へ行くこと
外国から来るもの
新しい社会習慣
古い話の新しい装い
(以上、授業プリントから)
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・神話=儀礼と結びつく。語られる場が限定される(祭り、季節、よそ者が居ないところ)が多い。語る者に資格、身分必要。
・伝説=共同体に関わる。神話より、生活に密接に関わる。本当にあったこと。
・昔話=生活の教え、驚き。作りごとの枠の中で語る。聞く時は本当の話として聞く。
*語り口は形式的なものがある。リアルに語らない。
*夏は語らない。昼間は語らない。冬、夜、長い夜に語るものという制限があるところも。
「昔々、あるところに・・・」(語り始め)
「昔々、トラがタバコをふかしていた頃・・・」(韓国の形式)
「昔々、私が若者だった時・・・」
「・・・実はその時、私はその場に居たが、酒によって追い出され、最後を知らない」(語り収め)
異人=外国人(江戸時代)自分たちとは、生活、価値観の違う人、山人(さんじん)やまんば、別のグループに属する人、廻国巡礼(かいこくじゅんれい)、ハンセン病で故郷を離れ、あちこちの寺、神社を回る人々、六部、琵琶法師、芸を持ち、各地を回る人
自分と違うと感じる人々を、自分とは違うものとして、位置づけ、納得するための、その昔話が生まれたころの、人々の認識を知ることが出来る。
(以上、授業中にとったメモから)
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昨秋、娘と二人、近所の療養所のボランティア養成講座を受け、一応、ボランティアにはなったものの、なかなか、実働は出来ていないのだけれど、ハンセン病になり、故郷を離れ、治っても、帰ることも許されず、帰る所もない、今、平均年齢が79歳の入所者の方々を知り、
映画『もののけ姫』の、あの病気の方たちは、ハンセン病の方々かな・・・と、思い、
外国の方に対する日本人の態度、アジア系への態度と西洋人への態度の差に、理不尽なものを日ごろ感じている、
私には、すべてのことが、ひとつに繋がっているような気がしてなりません。
「かれら」と「われわれ」は、もしかしたら、同じかもしれないと、気づきたくないのかな? 事実を知ることは、受け入れられないのかな?
「へえ~~~!?そうなの?」
「なぜ?」
「そうきたか!」
と、日々、世界のいろいろなお話をCDと絵本で楽しみながら、その世界観を感じ、人々の暮らしを想像し、劇化して、動いていくうちに、ラボっ子も私も、ずいぶん、耳も心も柔軟に、なっているような気がします。
スペイン語での自己紹介(mi nombre es~)も、一回聞いて、すぐ出来ましたもの。ラボっ子って、すごい。(^^)耳も心も開いているからこそ!と、思います。
チリの本を図書館から借りてきてしまった私。ジョビー、もう、家に着いたよね~。南米がぐっと、身近になった、このごろです。
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