幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 海の向こうの世界を見てきた万次郎
 ‘ENGLISH FAIRY TALES’
 キンダークラブ通信 No.9 掲載リポート
Welcome!

海の向こうの世界を見てきた万次郎


 前田祥子 〔2010神奈川支部ライブラリー委員長〕



ジョン万次郎と言えば、
『ABCの歌』を日本に紹介した人、
初めてネクタイをした日本人、
アメリカのゴールドラッシュを日本人で最初に体験した人、
そして、
アメリカに暮らし「アメリカ」を初めて伝えた日本人、
日本とアメリカを最初に橋渡しした人、
アメリカの歴史に最初に名を残した日本人等など、
初物尽くしでした。

けれども、万次郎が実質的にアメリカに滞在していたのは約3年半という短い期間です。
フェアヘイブンに到着して約3年間落ち着いて暮らした日々と、
帰国を決める前に再びフェアヘイブンに2ヶ月とカリフォルニアに3ヶ月滞在。
この他に日本とフェアヘイブンの往復の航海が、行きは2年3ケ月、帰りは3年。
捕鯨船に乗った間を含めて実に8年半余りは航海の月日で、
アメリカのみならず広く世界中を見ていました。




アメリカ民主主義

 
フェアヘイブン、ニューベッドフォードにて

ニューベッドフォードは当時世界一のクジラの港町でした。
ジョン・ハウランド号は出帆から3年7ヵ月ぶりに帰港します。
救助されてから早2年。この間、
万次郎は捕鯨船の仲間に英語を習い、
世界地図を広げたホイットフィールド船長からあらゆる話を聞いていました。

フェアヘイブンに到着すると、
日本では寺子屋へも行けなかった万次郎が学校に行かせてもらい、
ABCからの初等教育を受けました。
初めて正式に学び身につけたのは英語だったのです。
さらに成績優秀だった万次郎は、
測量、航海術、造船技術などといった高等教育を学ぶチャンスも与えられました。

そして、ある日万次郎は何気なく町の公会堂をのぞいて驚きます。
そこでは住民たちが集って自由に意見を述べ合い多数決で町の行政を決めていました。
万次郎には信じられないことでした。アメリカ民主主義との出会いです。

捕鯨船で

万次郎は捕鯨船フランクリン号の船員として太平洋に2度目の船出をしました。
その航海途中でデービス船長が精神異常をきたしたとき、
乗組員は投票で次の船長を決めます。
屈強の荒くれ者ばかりの中で、
小柄だが航海術にすぐれ穏やかな人柄の万次郎は、
もう一人の航海士と同数の15票。
万次郎は自分より年長者の彼に船長をゆずり、副船長になりました。
選挙によって代表を選び自身が皆に認められこのできごとは、
万次郎の胸に深く刻み込まれます。
民主主義を体験しながら世界各地を航海していたのです。

万次郎は英語や科学や航海術を学んだだけでなく、
自由、民主主義、寛容の精神等、アメリカの文化・価値観を学びました。
個人の権利や機会均等などといった民主主義の原理を知っていきました。
また、たとえば貧しい農民の子は同じ土地でやはり貧しい農民として生涯を終えることを
当然のように受け入れる故国と異なり、
親と同じ道を歩まずに自力で名を揚げる世界を万次郎は知っていったのです。



ホイットフィールド船長


ニューイングランドには南部の奴隷制度を批判し奴隷廃止運動を進める協会がいくつかありましたが、
人種偏見がまったくなかったわけではありません。
ホイットフィールド船長は名実ともに熱心な奴隷廃止論者で、
教会の事件はこうしたなかでおきたことでした。
万次郎は船長が示した最大級の敬意と感謝して、自由・平等を肌で感じたことでしょう。

万次郎の人生を照らしたのは、なんと言っても恩人ホイットフィールド船長の存在でした。
熱心なクリスチャンで隣人愛・人間愛を身を持って示す船長と出会い、
フェアヘイブンで愛情に満ちた幸せな日々を過ごし、少年ジョン万次郎は成長していきました。

捕鯨船を下りたホイットフィールド船長は、
晩年は地元マサチューセッツ州選出の代議士として活躍します。
しかし陸に上がってもその気骨と信念の姿勢は変わらず、
議員特権として送られてくる鉄道会社の無料パスを全く使わずに返却するほど、
生涯潔癖さを貫き通したといわれています。


 
デーモン牧師


世界一の捕鯨船寄港地として栄えていたハワイ・ホノルルに、万次郎は何度も滞在しています。
そこで出会って、万次郎の人生に大きな影響力を与えたもうひとりの人物がサミュエル・チーニリ・デーモン牧師です。
人種差別のない世界を求めて布教活動をしていたホノルルの宣教師で、
船乗りたちの教会の新聞『フレンド』紙の創刊者であり編集長でもありました。
『フレンド』紙は、1843年にホノルルで創刊された「ロッキー山脈の西方でもっとも古い新聞」で、
有力なメディアとして注目を浴びていました。
世界中の情報がハワイに集まっていたころのことであり、
その新聞は今も続いて発行されているといいます。

万次郎は、デーモン牧師と長年つきあいのあったホイットフィールド船長から話を聞いていて、
ホノルルに来るたびにデーモン牧師を訪ね、親しい友人となったのです。
デーモン牧師は万次郎が帰国の計画を立てた際に、
『フレンド』紙で呼びかけて必要物資を集めてくれたり、
日本に関する最新情報を教えてくれるなど親身になって支援してくれました。
そして、かれは早くも1850年に、
アメリカ合衆国が日本と親善を図りたい意図があることを故国の人びとに知らせるよう万次郎に勧めています。

万次郎は帰国を果たしたのち、咸臨丸で渡米した帰路に立ち寄ったホノルルでデーモン牧師と再会し、
またデーモン牧師はそれから20年余り経って来日しています。
デーモン牧師は万次郎の生きざまを興味深く見守っていったのです。



ルーズベルト大統領からの手紙


万次郎の死から35年後の1933年(昭和8年)の夏のある日、
東京田園調布に住む万次郎の長男東一郎の元に1通の手紙が届きました。
差出人は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルト。
手紙には、
ワシントンで石井菊次郎駐在大使と会った時に万次郎の話題が出たことや、
幼き日々に繰り返し聞いた万次郎の話が書かれてありました。
少年ルーズベルトにとって、万次郎は大きな憧れであり、
万次郎の人生はまるで一平民が公爵にまで上りつめたサクセス・ストーリーのように思えたようでした。

実は、ルーズベルトの祖父ワレン・デラノは万次郎を救助したホイットフィールド船長の親友であり、
捕鯨船ジョン・ハウランド号の共同船主でした。
デラノは捕鯨船など多くの船を所有しているお金持ちで、
ホィットフイールド船長が不在の時、日曜日の教会で自分の家族席に万次郎を座らせるほど可愛がっていました。
デラノは小さかった孫にいつも万次郎の話を聞かせていたそうです。



万次郎が伝えたアメリカ、世界観


万次郎は日本人として初めてアメリカに渡り、
英語はもとより、数学、科学、航海術などの知識のほかに、自由や民主主義などアメリカの文化・価値観を習得し、
世界中を航海して国際的視野を培っていきました。
帰国後は、
世界との関係において鎖国日本が今どれほど危機的な状況にあるかと、開国の必要性を語り、
日本の夜明けや国際交流に多大な功績をおよぼしました。
直接的間接的に日本の民主主義と近代化に大きく貢献したのは間違いありません。
外から日本を見ていた万次郎の本領は帰国後に大きく花開いたと言えます。



アメリカの高い評価


第30代大統領クーリッジ

万次郎の功績は日本よりもアメリカで高く評価され、
アメリカの第30代大統領カールビン・クーリッジは
「ジョンマンの日本への帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったことに等しい。
なぜならば、24歳のジョンマンが我が国の本当の姿を、当時の日本首脳部に理解させていたからこそ、
我々の使節ペリーは、あのような友好的な扱いを受けることができたのである。」
と評価しています。

『海外からの米国訪問者展』

1978年、建国200年を迎えたアメリカが、その記念行事の一つとして
ワシソトンのスミソニアン博物館で『海外からの米国訪問者展』を催しました。
それは、
アメリカを訪れ、後に自国に戻ってアメリカを紹介し大きな影響を及ぼした外国人全29名を取り上げた展覧会です。
『クリスマス・キャロル』の作者で『アメリカ見聞録』を著したイギリスのディケンズ、
『新世界より』の作曲家でチェコのドボルザーク、
『蝶々夫人』で知られるイタリアのプッチーニに並んで、
日本からは万次郎のみが選ばれたのです。

ジョン万祭り

ジョン万祭りは、ジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情を記念し、
また、日米の文化にふれあえる草の根交流の場として日本とアメリカで毎年交互に開催されています。
日本では2010年がまだ3回目ですが、
ニューベッドフォード・フェアヘイブンではManjiro Festivalとして1988年より隔年で10月に開催されていて、
2011年で13回目になります。



万次郎に思う


帰国後の万次郎は、アメリカを語り、海の外から見た日本を語り、世界を語りました。
生涯日本人であることを貫き通し、祖国日本を愛し、日本の未来を思う人生でした。

漁師のはしくれだった漂流民万次郎が幕府の重職を担ってアメリカに帰ってきたのは、
旧知の友人たちにとってまさにサクセス・ストーリーでした。
ジョン万次郎という人間の生涯の壮大さには驚くばかりですが、
数あるエピーソードから見えてくるのは、
どんなときでも優しさ、勇気、誠意を失わず、
誰に対しても臆することなく、しっかりとした意思を持ち続け、
愛があふれている人物像です。
万次郎のすばらしい人柄あってこその人生だったと思います。



おもな参考文献

海外屠渡航記叢書5 『ジョン万次郎漂流記 ―運命へ向けて船出する人―』 雄松堂出版
エミリー・Ⅴ・ウォリナー著 宮永孝解説・訳
『私のジョン万次郎』小学館 中浜博著
『中浜万次郎―「アメリカ」を初めて伝えた日本人』 冨山房インターナショナル 中浜博著
『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』 講談社 中濱武彦著
『ジョン万次郎 日米両国の友好の原点』 冨山房インターナショナル 中濱京著




*この記事は、
『神奈川支部ライブラリー研究報告集2010』(ラボ神奈川支部ライブラリー研究会 2011年1月22日発行)
に掲載したリポートから修正して転載しました。
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