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――ラボ・ライブラリー制作余話 & 周辺情報集 《物語寸景〔1〕〔3〕〔4〕〔5〕〔6〕つづき》

※日記、BBS、またはいろいろな方の掲示板やE-Mailに“ものがたり”をめぐって書き込んだものの再録です。ご了解くださいませ。

CONTENTS
《ラマンチャの郷士ドン・キホーテの悲しみ/ギリシアの古神クロノスと「日時計」/消えた妹トシを求めて…宮澤賢治の彷徨と挽歌》




◆7-3:ラマンチャの郷士 ドン・キホーテの悲しみ

〔to: かつどん(神奈川)さん〕
そうですね。わたしもこころから期待し、影ながら応援いたします。
この「ひろば@」で見るかぎり、めったにテーマ活動に採りあげられることのないものがたり。十代のひとたちには、まだむずかしいのでしょうか。
さて、“かつどんパーティ”のみなさんは、「ドン・キホーテ」のどこに面白さを見ているのでしょうか。どう見てもトンチンカンなラマンチャの郷士の生き方のどこに魅力を感じているのでしょうか。あるいは感動を…。それがとても知りたいです。

ロシアの大文豪ドストエフスキーが、この世のあらゆる書物のなかでこれを「最もかなしい書物」と言っているのはご存知かと思います。人が最後の審判に引き出されるときには、忘れずにこの書物を持っていくとよい、とも。
「かなしい書物」かどうか……、は、人それぞれの感じ方によるとしても、わたしも、この「ドン・キホーテ」は傑出した世界の名作文藝だと思っています。
主人公は、純粋すぎるほどの理想家ですね。見たくもない、むくつけき現実を前にしては、ウソにはウソをもって購(あがな)わざるをえないという不条理な状況を思うと、それは確かにかなしいといえるでしょう。
自分の大事にしていた夢を守ろうとすればするほど、ラマンチャの郷士の努力は、やることなすこと、トンチンカンな、かなしくも滑稽なものになっていきます。その悲喜劇の連続がこの長編ものがたりですね。
事実、この主人公は、自分の信じていた騎士道の夢と真実が現実離れしていることを承知していると思います。いや、承知しかけているんだと。だから、自分の信じてきた夢を「今こそ!」と、ムキになって保障する必要があり、結果、当初の夢よりももっともっと荒唐無稽な、次なる夢を考えだし、そこに突進する、無為に……、そういうおかしくも悲しい理想病者がドン・キホーテであり、ちょっと言い過ぎを許してもらうなら、
神から稀れなる高貴な感情をさずけられた“かたわもの”と呼んではいけないでしょうかね。
何をやってもハズレ、ソンばかりしているわたしなんぞは、しずめその写し絵みたいなもので、そのためか、妙に親しいものを感じるんですけどね。  2010.10.12


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◆7-2:ギリシアの古神クロノスと「日時計」

<カトリーヌ 2008.10.24>
“If only we poor mortals could escape the hand of the god of Cronos.”
「あはれ一切の衆生、神クロノスの手を逃れること能わず」
「日時計」に出てくるこのセリフ、どこからの引用でしょうか。西欧人に常識の一節なんでしょうね。

「あはれ一切の衆生…」の出典がどこか、それは、「日時計」もギリシア神話の数十の書籍資料も処分してしまって、確認のしようもないのですが、カトリーヌの理解とわたしの記憶では、ちょっと違うところがあります。クロノスは“clock”の語源にもなっている「時」の神、ゼウスやデメテルなどの父親の、ギリシアの古い神。少し時代がくだってローマ神話とごっちゃになって(と、わたしは思うのですが) サトゥルヌスとして語られるようになります。そこまで来て、本によっていろいろな書き方がされ、異教の神々をオリュンポスから追い出し、悪いことを一掃して平穏な黄金時代をつくったティタン神とするものもあれば、自分の子どもをむさぼり食らう、とんでもない怪物のように書いてある本も。

 ふつうの理解としては、自分がこの世にもたらしたもの一切をきれいさっぱり消し去り滅ぼしてしまう神、といえるかと思います。「日時計」のクロノスは、たぶん、カトリーヌが書いているように、ひとりの存在がこの世で刻んできたいっさいのものを、時の流れのなかで隅からひとつずつ消していき、やがて死によって、拭ったように消される、そのことを言っているのではないでしょうか (認知症のひとの記憶のように)。

 もし資料が手元にあるようでしたら、「旧約聖書」の「創世記」第三章のあたりを見てください。西洋のひとはこのへんを人口に膾炙しているのかもしれません。あるいは、ミルトンの叙事詩「失楽園」(渡辺淳一の「失楽園」と間違えないように!) にも書かれていたような。ヨーロッパの教養人はこのへんをよく読んでいますので、もしかすると…。まさかとは思いますが、バイロンの「ハロルド卿の旅」にも、このへんのことが書かれていたような記憶が。

 いまのわたしこそが、日々「時」にさらわれ「忘却」の神のふところに誘い込まれています。悲しい、避けられぬ人間の摂理。(2008.10.24)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆7-1:消えた妹トシを求めて…… 宮澤賢治の彷徨と挽歌
         ≪関連:「物語寸景(6)6-5」“宮澤賢治。創作の源流へ遡る”≫

〔To: dorothyさん 2008.07.05〕
 たとえば、広く文藝世界を見回して、心に深く刻まれて片時も忘れることのできない「挽歌」を三つ挙げよといわれたら、dorothyさんでしたら、どんな作品を挙げますか? ガーンと打ちのめされて呆然自失させられるような作。
 わたしの場合でしたら、ひとつは斎藤茂吉の「赤光」にある一首、

   のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ屋梁(はり)にいて
       たらちねの母は死にたまふなり

 つぎには与謝野晶子が夫鉄幹を喪ったときに書いたいくつかの歌(白桜記)、たとえば、そのうちのひとつ、

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
       もうけふおまへはわかれてしまふ

 そして第一には宮澤賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」、もうひとつ「青森挽歌」でしょう。

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや) …

 東京ことばで書かれた地の文(賢治のことば)に、妹トシのことばとして花巻弁が差し込まれ、ふしぎな諧調をつくる詩文ですね。ほとんど平仮名で書かれ、「っ」「ゃ」といった撥音も使わぬ、雪の夜のような静謐な調子。とりわけわたしがまいってしまうのは、最後に近い部分なんですけどね。

  この雪はどこをえらぼうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  そんなおそろしいみぞれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれてくるたて
     こんどはこたにわりやのことばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいま こころからいのる !…略…
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ …(永訣の朝)

 トシが死の床でいうことば、今度生まれてくるときには、自分のことばかりでなく、ひとさまのためになるような生き方をしたい、という願い、というよりは、祈りは、母親のイチさんがいつも賢治の耳もとでいっていたことばですよね。「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのッす」。自分の利得ばかりしか考えないで破廉恥な欺瞞を犯すこのごろのケータイ短絡型人間に、イチさんのこのことば、トシのこのことばの一部でもわかってもらえたらなあ、と思いますね。せめてラボにかかわる人びとには、賢治のこの澄み切ったこころを大事な糧にしてもらいたいと、「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」次第ですが。
 それにしても、人間の「絆」って何だろう、すごいなあ、と思います。一人の人間の思想形成、人間形成にとって、「絆」とは…。

 ついでですので、さらに涙をしぼってもらいましょうか。「無声慟哭」から抜粋して…。

  こんなにもみんなにみまもられながら
  おまへはまだここでくるしまなければならないのか
  ……おまへはじぶんにさだめられたみちを
  ひとりさびしく往かうとするか

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 >「ああとし子
  死ぬといふいまごろになって
  わたくしをいっしゃうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ」

 この一節は心を打ちます。何かを頼むことで頼まれた方の心に安寧をもたらす。愛する、ということのあるひとつの形ではないか、と思うのです。〔dorothyさん 2008.07.07〕

〔To: Dorothy さん 2008.07.07〕
 宮澤賢治は第一級の「りっぱな」詩人か、「うまい」詩人か、というと、わたしは必ずしもそうは思わないところがあります。しかしね~、「永訣の朝」「無声慟哭」…、「雨ニモマケズ」も含め、こういう賢治の詩は、わたしごときもののいささかの蛇足も必要としない真情にあふれていますよね。
 かつての日、わたしはこれらの詩句を嗚咽しながらなんべんも口にし、自分の手で一字一字、原稿に書き写しつつ、何度涙したことだろう、何枚の原稿用紙を涙にぬらしたことだろう。わたしには妹はなく、その実感には薄いものがあるのかも知れないけれど、わたしは、その涙にこれ以上ないほどの清らかさを感じ、ことばを超える詩的宇宙のなかに誘いこまれる美しい時間をこころいっぱいに楽しみました。

  鳥のやうに栗鼠のやうに
  おまへは林をしたつてゐた
  どんなにわたくしがうらやましかつたらう
  ああ けふのうちにとおくへさらうとするいもうとよ
  ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
  わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
  泣いてわたくしにさう言つてくれ  (「松の針」より)

 死に瀕する妹に、林から松の一枝を採ってきて与える兄の思い。格別な巧妙さがあるわけでもない、過剰なもの、飾ったもののひと切片もない詩。でも、修羅を誠実に生きた賢治という人の玲瓏な心象は、清浄な気でわたしのこころを満たしてくれます。「詩」なんて呼ばなくてもいいことばの世界がありますね。

 賢治は愛する妹を求めて孤独な旅をします。呆然自失して、青森へ、宗谷岬へ、樺太・サハリンへ…。そこにもトシはいません。トシはどこへ行ったのでしょうか。求めれば求めるほどに賢治の魂は透きとおっていきます。その清いこころが書かせたのが「銀河鉄道の夜」ではなかったでしょうか。あまりタチのよろしくない少年ザネリの命を救って自らは死んでいったカンパネルラ。ここに死んだトシがいます。同じ生きるなら、自分のことばかりにかまけていないでひとのためになって死にたいと願っていたトシが。そのトシ(=カンパネルラ)とともにどこまで行くのかわからない銀河鉄道の旅をする賢治(=ジョバンニ)。その旅には、どんな表現でも及ばない深い哀しみがありますが、でも、読むもののそんな哀しみとは別に、賢治のこころは底まで澄んで、満たされていたのかも知れませんね。
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