幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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2-8 小学校低学年への英語導入       

〔BBS/ To: みかんさん〕……昨日(11月15日)、横浜市教育委員会主催のスクールミーティング。すごいメンバーが雁首そろえて来たんですよ。教育長以下、教育改革推進部長、授業改善課長、教育対策課指導主事といった市の教育関係の主だった人が4人。それに地域を代表してわたしともう二人の自治会会長、三つの小学校の校長と副校長、それに教職員40数名、PTA役員と一般の父母60名前後、その他。テーマは小学校に英語を導入することをめぐる意見交換、討論(実質は、すでに計画はできていて、それを現場に下ろす地ならし、では?)。
 横浜市はすでに20年前から、5年生、6年生には国際理解教育として一定程度の英語を入れてきたが、平成20年度より1年生から週1コマ程度を入れる計画とか。意見交換はたいへん活発なものでした。小学校教育の現場にある先生がたにしてみれば、英語教育の免許はもっていない、無免許運転をさせるつもりか、英語力に自信がない、母語による表現力を身につけるのが先決だ、とか、今でも手いっぱいなのに、さらにこの上負担をふやすことになり、授業が薄められ責任ある十分な教育活動ができない、とか、これまでおこなってきた国際理解教育をすこし充実させるということでいいのではないか、とか…。予想はされましたが、現場の不安と混乱には大きなものがあり、とりわけ、使いやすい、すぐれた教科書や副教材がぜひ必要だ、との強い声が聞かれました。

 横浜市教育委員会の考える小1からの英語は、そもそもどこに目標がおかれているのか。言語習得か、コミュニケーション能力をつけようというものか。薄っぺらな新しがりやが、ただのうわべのファッションとして行政サイドからがこんなものを押し付けようということなら、教育現場はたまったものではない。プランにどうもしっかりした軸が見えてこない。そういえば、ラボにおいても、いつからか知らないが、外国語の導入は何歳ごろが適当か、パーティ活動は何人のグループ構成が適当か、といったもっともプリミティヴなことを、みんなで考え合うこと、議論することを、どうしてなのか、やめてしまったようですが。

 歴史的にも、安政5年(1858)、井伊直弼大老により(勅許なく)調印された日米修好通商条約にもとづく開港以来、横浜は日本の自由貿易の原点であり、世界の窓口であり、生糸輸出により世界経済への道の力づよい先導役を果たしてきた、その横浜こそ一歩先んじてこれを制度化し実施したい、と。しかし、今の子どもたちには、そんな歴史は実感から遠い。そして、付けたりかもしれませんが、この計画を実効的に進めるためには市民力が欠かせず、地域人材に目を向けなければならない、とわたしのほうを向いてニヤリ! の一幕も。市民ボランティアへの期待。テューターのもつ能力は地域活動として期待され、ここで十分に生かされると思われますが、ホイ来た! と飛びつくのは早計で、いささかなりとも収入が目当てなら、ま、手を出さないほうが無難でしょう。「英語が多少できることをひけらかそうとして…」という周囲の冷たい目もあることも覚悟しなければなりません。本気に地域の子どものことを考える方なら、ぜひ!

 ラボ・パーティの活動を知るわたしの目からは、この場の雰囲気は、ある意味で異様な光景でした。小学校低学年の英語は「領域」とされ(意味不明)、まったく教育評価の対象にはならないとのことでもあり(先生にとっては、そんないい加減は許されない)、国の指定する教科書どおりの、マニュアルに依存したところでおこなわれるコミュニケーション・スキルの向上なんて、ウソっぱち、英語力に対する不安、発音がどうのこうのというより以前に(発音などどうでもよい、という意味ではない。ネイティヴの指導助手AETも付くわけだし)、先生一人ひとりがその人格の総体をかけて、子どもの素養を厚く幅ひろくつけること、ひとつでも多く社会的ないい体験をさせるという大人の努力を傾ければいい、あいさつことばをマニュアルどおりに教えても、そんなことではちっともコミュニケーション能力の向上にはつながらない、…というような、考えてみれば、ラボ教育の理念をそのまま語っている自分に気づいたひとときでもありました。ええ、一定の賛同を得ましたけれど。

 ご丁寧な手引きや事例集も用意されるとのことですし(そんなものはなくてもいいのに)、先生がたにとって、それはそんなに負担なのかなあ、そんな懸念材料なのかなあ、そんなに自信がないのかなあ、…ひるがえって、ラボの教育はそんなに現実ばなれしたものなのかなあ、と、わたしの脳髄はどろんこ遊びのように掻きまわされました。(2007.11.16)


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2-7 アラン・ブース回想

◇みかんさん(熊本)/アラン・ブースに“再会” 2007.05.24
アランさんの声が大好き。素敵な声だ。私にとっては、ピーター・パンのナレーション役“イブニングスター”の声優さん。1993年に亡くなっている。あの時、もう新しいラボ・ライブラリー作品は望めないのかと思うと悲しくて仕方なかった。でも、CDはいつでも聞ける。ありがたい。
 死亡記事によると、「作家であり批評家であったアラン・ブース氏は、……ロンドンに生まれ、役者、舞台監督(演出家)を経て1970年に来日」とあります。大腸ガンでなくなったとき46歳。

⇒アラン・ブースのことを書いている人がいる! ということで、久々、なつかしい思いに浸りながら日記を読ませてもらいました。ええ、アラン・ブースの語りは、文句なく「ピカイチ」でしたね。何度いっしょに仕事をしたでしょうか。ライブラリー制作の英語吹込みを構想するとき、T.Clark、G.Sorrellsとともにいつもまっ先に思い浮かぶのは彼のことでした。あの、よく透る、北ヨーロッパの空のように澄んでクリアな声は、ほかのだれにも求め得ないものでしたね。
 「トム・ティット・トット」や「ガンピーさん…」を録ったあとのころでしたでしょうか(1989-90)、仕事を離れても、とつぜん電話をしてきて、新宿東口の或る和風の飲み屋にときどき呼び出されたりしたものでした。わたしよりいくつか年下でしたが、お酒の飲めないわたしはよく「おまえなあ、そんなに飲んだら肝臓をこわすぞ」と言わずにいられないくらいの日本酒好きで、わたしはやっかみ半分で、「ほどほどにしておけよ」と脅したものでした。元気でしたが、あのころから病気が彼の体を蝕んでいたんですね。彼の逝去にあたって「イヴニングスター、消える――アラン・ブース氏を偲ぶ」という思い入れ深い追悼文を「テューター通信」に書いたことを、いまもよく覚えています。

 お読みになった本は「津軽―失われた風景を求めて」ですか、それとも「ニッポン縦断日記」ですか。飲み屋での話の多くは、いまはもう細かなことは忘れてしまいましたが、わたしの行ったことのない津軽や佐多岬の話であり、太宰治の話であり、志賀直哉や夏目漱石の話などなど。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される…」漱石のあの「草枕」に描かれた女性、那美さんのことから、日本女性の魅力について、際限もなく。九州のひなびた温泉で湯気のむこうのやわらかな光線につつまれて見えた、なよやかな女性のすらりとした裸体、漱石の筆が描き出す美の、すべてが幽玄に化すその瞬間の感動を、わがことのように語った彼。西郷隆盛について熱く語ったこともありましたね。

 とにかく、日本古典文学をふくめ、けっこう日本のことは比較的よく知っているほうだと自認するわたしなんぞより、よっぽど日本の文化の奥を知っている男で、少々執拗で閉口することもありましたが、彼との話はおもしろかったです。
 「平知盛」や「狂言二番(柿山伏、三本柱)」にかかわっているのはご存知ですよね。彼は、ロンドンでシェークスピア演劇をずうっとやっていました。彼がいうには、演劇とはギリシア演劇に見るように神に捧げることが根底にあるはずのもの、シェークスピア演劇にはそれがない、という知的昏迷を抱えるなかで出会ったのが日本の能楽。それを知って矢も楯もたまらず日本に来た、そうです。ですから、お能についてもかなり詳しく、多少ながらわたしにもその方面に馴染みがあることもあって、最終電車を乗り過ごすほどよく話しました。
 なんだか、次つぎにいろいろなことが思い出され、眼のまわりが熱くなってきて、PCの画面がよく見えなくなりましたので…。
 あの声を懐かしく思い、大事を思ってくださる方がいてくれることが、わたしには大きなよろこびです。ありがとうございました。(2007.05.25)

       ☆            ☆           ☆

>今、読んでいるのは「ニッポン縦断日記」です。

 ⇒一度読んだきりで読み返すことはしておりませんでしたが、「ニッポン縦断日記」と「津軽―失われた風景を求めて」の2冊は彼がくれたサイン入りの本があり、いまも大事にしております。彼は、北から南から、日本各地を自分の足でほんとうによく歩き、いろいろな習俗と伝統文化を見ていましたが、いまも耳のそばに残っていることばは、日本のもっとも純良なものを残しているのは津軽と沖縄だけだ、ということ。
 津軽にはいまだ行ったことがありませんが、沖縄には何度か。ラボとのからみでは、「鮫どんとキジムナー」を書いたときの取材で行きました。ウチナー口(沖縄ことば)による収録でも行きました。さまざまな人に会ってさまざまなキジムナー伝説をきいたほか、紅型(びんがた)の作業を見せてもらったり伝統の組踊りを見せてもらったり、琉球焼きの壷絵を描くところを見せてもらったりしました。沖縄古典文学の“おもろさうし”にもふれる機会となりました。中国に蹂躙され、島津藩の下で苦しめられ、明治政府に、また米軍に、復帰後の日本に軽んじられ、いじめられ、蹂躙されながらも、堅く守りぬいた文化のあることを自分の目で見て、アラン・ブースもこれをみたのかなあ、と感動の思いを熱くしたものでした。
 みかんさんのお住まいの熊本はどうですか、その土地の純良なものが大事に残されていますか。
 いやいや、彼のいう津軽や沖縄も、歿後にはすっかり変わっているはずで、その意味ではいい時期に死んでくれた、と言えるのかもしれません。アラン・ブースを想うことは、わたしにとっては、日本がここ数年で喪った大事なもの、美しいものとは何なのか、を考えることでもあります。

 >>アラン・ブースさんの声が大好きです。今、「うみのがくたい」を、聴いていますが、これも、アランさんですよね! 「平知盛」も、確かに、そうですね。本当にたくさんのライブラリーに関わっていただいて、嬉しいです。私たちは幸せ者です。

 ⇒彼の英語はほんとうにきれいでしたね。King’s English というんでしょうか、彼の英語になじんでアメリカへ行ったとき、最初のうち、エーッ! わたしはこんなに英語を知らなかったのか、とがっくりしたほど米語を異質に感じたことを覚えています。英語といえば彼の英語、というくらいになじんでいましたので。
伝統的な英語にも通じ、Jacobsの「イギリス民話集」からとった「トム・ティット・トット」の再話は彼にやってもらったように記憶しております。同じJacobs の「ケルト民話集」からの「グリーシュ」も彼による再話だったかも知れません。そうですね、彼にとっても、ラボ・ライブラリー制作は日本での大事なライフワークだったはずですね。

 >>アランさんの声に励まされて、ラボをがんばれている自分がいるような気がします。本当に感謝です。

⇒そんなふうに言っていただけると、もう、……泣いちゃいますね。これからもどうぞよろしく。(2007.05.25)

     ☆          ☆          ☆

「録音本番前にはスタジオのマイクを前にしてあごの骨の動きをなめらかにしておくといって口をいっぱいにあけ、左右に動かしてなにやら喚くように声を発するのがくせだった。豊富な演劇経験をもっていることもあり、発声法とキャラクターづくりには群をぬいて確かなものがあり、もっとも安心して任せられる声優さんのひとりだった」
と記事の中にありますが、本当にたくさんのライブラリーの声でお世話になっているのですね。〔Candyさん/2006.05.28〕


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2-6 子ども絵画教室
  ――希望と訴えをもつ、勁(つよ)く闊達な絵


〔To: Play with me さん 2005年08月08日〕
ギャラリーのほうもふくめて、みなさんの絵を見せていただきました。どなたが指導なさっておられるのか、どの作品にもふしぎな勁(つよ)さと自由さがあります。なによりもすばらしいのは、大きな画用紙を使いながら、きちんと描きあげていること。中途半端でなく、ちゃんと仕上げていることはとっても大事です。途中で投げ出してしまったら、何にもなりませんので。それに、うまく描こうとしていないのがいい。ほめられようとして描いていないのがいい。意識せず、無心に、自分の生きている証しとして書いているのがいい。
なんだかきょうは、午前にはnorinoriさんのところで上野憲男画伯の絵にふれて書き、こんどはまた、たのしい、のびのびとした子どものこころの世界をのぞかせてもらいました。夏の恒例行事なのですか。いいですね、こうした表現活動にふれるのも。

★…同地区のTテューターに指導していただいています。根気よく描けるように励まし、イメージを膨らますような声かけに励まされながらの子供たちの努力もすごいな~~と思います。昨年の作品と比べると本当にタッチが力強く、成長と積み重ねの大切さがよく見えます。(Play with me さん 2005.08.09)

あらためてもう一度見せてもらいました。子どもの絵には、いい絵とダメな絵があります。うまい絵・へたな絵というものはありません。ここで見せてもらった幼児の絵がそのことをよく語ってくれています。彼らにとって、絵は光と風と色を使った特別な遊びです。遊びながら人間のもっとも根源的な願いをあらわしています。天性の感性のまま、自然に、自由に描いて、技巧が表面に出ることはなく、それがふしぎな勁(つよ)さを生んでいるように思います。表現の巧拙や精粗を跳び越えて、とてもいい絵だとわたしは思います。
一方、ダメな絵ってどんな絵か。中途半端な技巧に走り、知ったかぶりをしてへんに自分に媚び、ひとに媚び、気取っているくせに何も語っていない空疎な絵です。うわべだけはきれいでも、人間の根源的なものを見つめる視線がなく、そういうことに注ぐ眼力をもたず、自分との戦いのないケーハクな絵。自分だけで達者ぶっている絵なんて最悪です。それでも、「きれいならいい、楽しければいい、目立っていて刺激的ならそれで十分」というレベルの受け手も世の中にはけっこういるもので、商業主義的な仕掛けにはまって一度は飛びつくけれど、たちまち飽きてしまいます。そういう絵は、よくみると、ごまかしに満ちて粗雑で、丁寧に捉えるべき肝心なところには神経が届かず、あいまいなままになっています。そんな絵、そんなだめな絵本をよく見ませんか。そんな目で子どもの絵や絵本を見てみたいという提案です。

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2-5 志賀直哉『暗夜行路』
文豪の伯耆大山、ラボっ子のだいせん

 ラボのキャンプ地とその周辺を文学がどう描いているか、…ということで、昨年は黒姫の野尻湖(芙蓉湖)を中勘助の「島守」でご紹介しました(「つれづれ塾―その2の〔3〕)。その意味では、このところ書いている松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』の舞台、花姫山の山荘は、ばっちり黒姫のことでしたね。
 いい機会ですので、大山(だいせん)が舞台になっている志賀直哉の『暗夜行路』に、ちょっとふれてみましょう。もちろん、キャンプのおこなわれるところと作品の舞台がぴったり一致しているはずがありませんし、時代も違うし、自然環境もおおきく変わっていることでしょうが、楽しいキャンプにもうひとつの陰影をつけるとして…。

 20代の後半、わたしはある出版社から転職してラボにはいりました。その出版社が出している月刊誌に、署名入りで「日本名作の旅」を2年間連載執筆し、自身で編集もしておりました。児童文学創作者協会会員という肩書きも付されていました。ほうぼうへ取材してまわる機会ともなり、ほんとうに楽しい仕事でした。大学を出てまだ間もない若僧に、大出版社がよくぞこんな企画を任せてくれたものだと、いまにして怖い思いがいたします。
 その第一回は井上靖の『氷壁』でした。この5月末、昔のなかまたちと安曇野や穂高、奥飛騨、上高地のあたりを旅してまいりましたが、上高地や穂高、三十余年ぶりにふたたびそこに立つことができ、感慨ひとしおでした。
ほかに、田宮虎彦『足摺岬』、堀辰雄『風立ちぬ』(軽井沢)、夏目漱石『草枕』(熊本・小天温泉)、三島由紀夫『潮騒』(神島)、石川啄木『一握の砂/悲しき玩具』(岩手・渋民村、函館)、林芙美子『放浪記』(尾道)、などなど。室生犀星『性に眼覚める頃』(金沢)、中原中也『汚れっちまった悲しみに』(山口)、芥川龍之介『羅生門』(京都)、太宰治『津軽』、高村光太郎『智恵子抄』(阿多多羅山・裏磐梯)も忘れがたいです。深沢七郎『楢山節考』(更埴、姥捨)、川端康成『雪国』(越後湯沢)もありましたね。

 そしてこのシリーズの第10回めが志賀直哉の『暗夜行路』でした。どうしてだか、このときは実際には取材に行っておりませんが、なんといっても“小説の神様”と呼ばれることのある大作家の唯一の長編小説、近代日本文学の最高峰とされるこの傑作の魅力とその舞台を、たいへん力をこめて書いた記憶だけがあざやかに残っています。
 愛に飢えた不義の子の時任(ときとう)謙作は、人と人とを結ぶ醜い関係に疲れ果て、すっかり嫌気がさして、濁り多い日常を捨ててプイッと旅に出ます。一応、精神修養と健康回復を目的とする旅で、向かったのが伯耆大山でした。ここは天台宗の霊場になっていて、当時は、求めれば寺に泊めてもらうことができたようですね。主人公は城の崎と鳥取にそれぞれ1泊したあと、大山の中腹にある蓮浄院への6里の山道をえっちらおっちら登ります。ええ、観光バスなんてありませんからね。そして、寺の離れの、書院造りの一室を借りて、大山の自然だけが相手の静かな生活をはじめます。

   ――戸外は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんりと
   わずかにその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷え冷え
   気持ちよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱屋根滴となって伝い落ちる
   音だった。(。(『暗夜行路』後編第四部十五章より) 

   ――人はほとんど来ず、代わりに小鳥、蜻蛉、蜂、蟻、蜥蜴(とかげ)などが
   たくさんそこに遊んでいる。ときどき、山鳩の啼声が近くの立木の中から
   聴こえて来た。(『暗夜行路』後編第四部十七章より)

   ――静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。そして下には薄い靄がかかり、
   村々の灯もまったく見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな
   動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自
   分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したというようなことを考えていた。
   (『暗夜行路』後編第四部十九章より)

 その生活に一日ごとに馴染むうち、いまわしい記憶は薄らぎ、傷心はだんだん癒されていきます。いくぶんか健康がもどったある日、もう一人のひとと大山登攀に挑みます。深夜に出発して頂上でご来仰を拝もうという計画。ですが、主人公は途中ではげしい下痢をおこし、ついには大腸カタルに陥って危篤状態になります。その報を受けて妻の直子がかけつけます。直子の篤い介護にふれ、妻のおかしたあやまちを大乗的なさとりのなかで主人公はゆるしていく、という内容。
 「この作品は、前後十六年間を費やして完成した志賀直哉の唯一の長編小説である。構成力が強く、奥行きも深い。母あやのあやまちからの出生、子どもの病死、妻のあやまちと、主人公時任謙作には、どこまでも暗い運命の鎖がからまりつく。長い長い“暗夜行路”の日々である。これらの苦悶を克服し、完全調和の境地に到達するまでのこころの遍歴を描いた作品で、内村鑑三の門下にあった作者のキリスト教的倫理観が投影されている」…云々と、恥ずかしながら若い勢いのままに書き込んでいます。
 時任謙作がその孤独と鬱屈と妄想を焼き捨てた山を、いまラボっ子たちはどう遊ぶのだろうか…。そこで、なんとまあ「寿限無」ですか…!? 【2005年07月26日】


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2-4 芙蓉湖(野尻湖)の風をしのび

2004年8月1日
「これは芙蓉の花の形をしているという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い茂った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠(わだかま)ったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境めに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒がしさにひきかえて落葉松のしんを噛む蠧(きくいむし)の音もきこえるばかり静かな無風の状態がつづく」

芙蓉の花の形をした湖、野尻湖のことである。住む人もない小島、これが弁天島である。この夏も多くのラボのなかまが遊覧船で野尻湖の湖水の青さを目にし、涼しい風に髪をくしけずられ、弁天島に降りてひとときをすごしたことだろう。うえにかかげた文章は中勘助の随筆「島守」の冒頭部分。野尻湖をこれほど美しく描写した文章をわたしはほかに知らない。中勘助といえば『銀の匙』を知らない人はいないだろう。28歳のときに書いた作品だが、この作品を書く前後2回にわたって人間ぎらいのこの作家は野尻湖の弁天島にこもって独りだけで暮らす。27~28歳のときということになろうか。あの名作はここで生まれたといっていい。「島守」は最初に島ごもりした、夏の終わりから秋にかけての約1か月にわたる日記のスタイルになっている。もちろん、いまのような観光船もモーターボートもない時代のことである。善良朴直な「本陣」とあだ名される男が時折り食べ物などを運んできてくれるだけという孤独な日々。苦しい自罰のニュアンスもたしかにあり、このストイックな生活の背景には許されぬ恋があったと指摘する人もいる。ロマンですねぇ。

「後ろの森の杉の枯葉をひろう。ひとつずつ拾って左手にためる。涙がでる。かけすぐらいの鳥がゲーゲーと争っている」

「きょうは曇。飯綱にも黒姫にも炭焼の煙がたつ。煙が裾曳くのは山颪(やまおろし)であろう」

「朝。散りしいた木の葉にまじって翅(はね)の生えたいたやの種子が落ちていた。山やまがありったけの風を吹きつくしたかのように今朝は静かである。樫鳥や、木つつきや、島じゅうを木づたい鳴きかわす鳥のなかでひよどりの声がことによく谺(こだま)にひびく。なに鳥か大杉の梢で玉の梭(ひ)を投げるように鳴く。湖水にうつる雲の影はしずかに動き、雑魚の群れは吹きかわった新鮮の気を吸うように滑らかな水面に泡をたてる」

引用したい個所はきりがない。野尻湖、弁天島を知るひとなら、たいがいびっくりなさることだろう。ほんとうはもっと早くご紹介するとよかったのかも知れませんが、いろいろこちらの事情がありまして…。この随筆を読んでみたいという方は、全集本のほか、岩波文庫の『犬 他一篇』(中勘助作)が手ごろでしょうか。短いものです。一読をお薦めいたします。

〔To:Hiromi~さんへ 8月2日〕
野尻湖とそのまわりの自然がこんなにも美しいものかとハッと思わせてくれる
作品『島守』。次の機会までにぜひお読みくださいませんか。1924(大正
13)年初出の作品だそうですから、もちろんわたしたちが知る野尻湖、弁天
島とは大きく違っています。しかし、自然のサイクルとその原質はそんなに変
わっておらず、樹々がカサリと枯れ枝を落とす音、実を落とす音、さまざまな
鳥たちの啼き交わす声、岸辺にひた寄る小波の音、それらのほかには何もな
く、耳の底までシーンとするような静謐さとそこはかとない美しさに満ちた自
然の世界。ラボっ子たちとともに湖の風を受けて白鳥丸に乗るのに、こういう
世界も知って乗るのと知らないまま乗るのとでは、ずいぶんその風光も変わっ
て見えようというもの。ただの低学年向けコースではなくなると思いますよ。

〔To:Play with meさんへ 8月3日〕
野尻湖(芙蓉湖と呼ぶほうが気に入っていますが)。何も知らなければ、「わ
ぁ、きれい」「わぁ、大きい」「わぁ、風が心地よい」といったところでしょ
うが(それでいいのかも知れませんけれど)、すばらしい文章にふれたあとで
見る野尻湖は、ひと味もふた味も違ったこころの風光のなかに描きだされると
いう楽しみがあります。こういうことはよくありますよね。かつてイギリス・
ダービシャーへ引率スタッフとして行くという者にジェーン・オースティンの
『高慢と偏見』を読んでから行ったらどうか、と薦めたことがあります。その
地のことが女流作家の目できれいに表現されているんですよね。結局、行く前
には読めず、帰ってきてから読むということになりましたが、「読んでおけば
よかったぁ」と悔やみを云っておりました。

〔To:サンサンさんへ 8月3日〕
さまざまな出会いで紡がれたキャンプ、十分楽しんでこられたことでしょう。
黒姫はラボに関わったすべての人びとには、こころ寄せられる第二のふるさ
と。目を瞑ればいろいろな情景が思い出されます。
行けばかならず何かいいことがありましたよね。
きっと今もそれは変わりがないことでしょう。
サンサンさんは、もう数えきれないほど黒姫通いをしておられるでしょうし、
野尻湖などは目を瞑っても行かれるほどでしょう。
引率者という意識もあり、その美しさを堪能するゆとりがなかなか持てないこ
とも加わって、ひょっとすると
野尻湖もそれほどには新鮮な思いをもって見ることが
少なくなっているころかも知れませんね。
そんなとき、中勘助の名文、胸にしみわたるその文章にふれると、
野尻湖をつつむ季節の色がパーッと新鮮に蘇ってくるかも知れませんよ。
ひとつの感動が見る対象をくるりと変える、そんな出会いは貴重です。
わたしもあの湖には10年以上行っていないことになりますが、
湖面いっぱいをおおって乳色に降りていた朝霧が、少しずつ、
少しずつ薄くなり、だんだん霽れてきて、むこうの山の緑がしっとりと
すがたを現わしてゆく光景を想像すると、満たされて十分に幸福で、
もう何も要らないという感じになります。


         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2-3 カタツムリ考

  新美南吉「でんでんむしの かなしみ」

 いっぴきの でんでんむしが ありました。
 ある ひ その でんでんむしは たいへんな ことに きガつきました。
 「わたしは いままで うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるでは ないか」
 この かなしみは どうしたら よいでしよう。
 でんでんむしは おともだちの でんでんむしの ところに やって いきました。
 「わたしは もう いきて いられません」
 と その でんでんむしは おともだちに いいました。
 「なんですか」
 と おともだちの でんてんむしは ききました。
 「わたしは なんと いう ふしあわせな ものでしょう。わたしの せなかの 殻のなかには かなしみが いっぱい つまって いるのです」
 と はじめの でんでんむしは いいました。
 「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかの なかにも かなしみは いっぱいで す」

 それじゃ しかたないと おもって,はじめの でんでんむしは、べつの おともだちの ところへ いきました。
 「あなたばかりじゃ ありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです」
 そこで、はじめの でんでんむしは また べつのおともだちの ところへ いきました。
 こうして、おともだちを じゅんじゅんに たずねて いきましたが、度のともだちも おなじ ことを いうので ありました。
 とうとう はじめの でんでんむしは 着がつきました。
 「かなしみは だれでも もって いるのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」
 そして、この でんでんむしは もう、なげくのを やめたので あります。


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2-2 谷川雁詩集に見るカタツムリ

 このところ,古事記,カタツムリ,梁塵秘抄,スサノオ,日本神話,谷川雁…と,このページを賑わせてきた。で,この詩人の詩にカタツムリや貝,蛭,ナメクジといった生き物のイメージが意外なほど多く現われているということに思い至ったというわけ。(こういう詩の鑑賞の仕方を彼は嫌うはずだが,ちょっとだけ…)

  幸福はむしろ藁の上にある/大通りで二月の蝸牛を知っている者はいない… (「首都の勘定書き」より)

  祖国につづく塩水をせき/木浦のなみだという歌をうたい/そのかみ王妃の耳に似たを埋め… (「丸太の天国」より)

  おれたちの故郷のどぶ河の/水底にもだえる赤い蛭よ/おしだまっている小さな巻貝よ… (「故郷」より)

  何もかも淡い音を出している夜だ/かたつむりのはっている土壁に体をこすりつけ… (「請願」より)

  まっ青な貸借対照表で埋まった世界の城に/貝殻むしみたいにびっしりうごめく/平和 平和… (「破産の月に」)

  かれの否定する霊魂のごとき町の/かたつむりに負われた夜… (「たうん・あにま」より)

これくらいにしましょうか。
日本の神話を語るについて梁塵秘抄の今様から「舞へ舞へ 蝸牛/舞はぬものならば…」を引っ張ってくる詩想の原点に,こうした生理的感覚があったとするのはちょっと穿ちすぎでしょうかねぇ。そしてこの詩人の,このとらえどころない,ぐにゃぐにゃした感触をもつものへの生理的指向が何を意味しているのか,女性ならすぐピーンとくるかも知れませんね。なお,カタツムリと貝類は,今でこそ陸と海に棲み分けていますが,もともとは太古の時代から同類の生き物。(04.04.14より)
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うちの息子,おびただしい数のかたつむり飼っていたっけ。男の子って変なものすきなんだなぁって思ってたら、木の上から下にいるカタツムリに狙って落ちて、交尾するんだよ,って言うからびっくり。図鑑でみたら、雌雄同体とかいう生物で、落ちた瞬間、上の方が雄になる,って書いてあって、またまた驚き!
また、しばらく頭から離れなくなりそう。かたつむり――頭の中で舞ってます。
(04.04.15 さとみさんによる書き込みより)

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2-1 梁塵秘抄に見るカタツムリ

  舞へ舞へかたつむり 舞はぬものならば
  馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん
  まことに愛(うつく)しく舞ふたらば 華の園まで遊ばせん

平清盛も,義仲や義経も手玉にとり,源頼朝にも譲ることのなく
乱世を粘り強く生き,頑として院政の権威を守りぬいた,
老獪な「大天狗」の後白河法皇のつくった「梁塵秘抄」。
これは古代の「うた」を中世の声でうたったもので,
内容は,神仏への信仰の思いをうたうものと,
巷の男と女の風俗をうたうものが多いなか,
子どものすがたを捉えたもので,めずらしいですよね。
その種のもので,ほかには有名な,
  
  遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
  遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ

がありますけど,こちらのほうは,必ずしも嬉々として遊ぶ子どもの
健康な姿を愛ずるだけものではなく,病身の貧しい遊女が2階にいて,
外で無心に遊ぶ子ども――この子たちの近い将来に待っている業苦を思って
その哀れをうたったものという解釈もされていますが,
カタツムリの「うた」のほうは,子どもをみごとに捉えていると思われます。
  かたつむりよ,さあ,舞ってごらんよ
  舞わないの。そう。それなら,ほら,あそこに馬の子が来るから
  蹴らしてしまうわよ,いいのね,牛の子に踏み割らせてしまうわよ
  さあ,舞ってごらん。じょうずに愛らしく舞って見せてくれたら
  花のいっぱい咲いているお庭につれていってあげるから。
こんな意味でしょうか。子ども特有の残酷さと同時に併せもつ
無邪気さ,やさしさ,小さい命に向ける慈しみのこころが伝わってきますね。
この俗謡は当時けっこう有名なものだったらしく,このうたを本歌にして
寂蓮法師はこんな短歌をつくっていますよ。

  牛の子に踏ますな庭のかたつむり
  角のあるとて身をなたのみそ
また,カタツムリ(カタツブリ)のことをマイマイ,あるいはマイマイツブリ
(ツブロ)ということがあるじゃないですか。
これは「舞い舞い」(舞へ舞へ)の語に源淵するのかともあて推量してみましたが,
それはぜんぜん違うようですね。
ついでながら,「マイマイムシ」といったら,なんのことと思いますか?
これ,ミズスマシのことですって。
静かな水面をツーーッと走ったり,くるくるまわったりする,
テントウムシの半分ほどの,黒い小さな虫。
さて,カタツムリ,日本古典文学のどこにあらわれているかなあ。
「堤中納言物語」に「虫めずる姫ぎみ」がありますが,
姫の愛したのは,カタツムリではなく「かはむし」(ケムシのこと)だったし…。

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「梁塵秘抄」は大天狗といわれる後白河上皇が「つくった」というよりは,周
囲のものに命じて当時の俗謡をあつめさせ,つくらせたということでしょう
ね。平家か源氏か,朝廷はどうなる,という世がひっくりかえるようなとき
に,のんびりとこういう他愛もない(!)ものをつくらせるタヌキじじいぶり
がおもしろいですよね。
 あそびをせんとや…
をめぐっては,以前から学説が真っ二つに分れているようです。ふつうには,
親の目にうつる無邪気なこどものすがたであり,ほのぼのとしたやさしさが感
じられるとするもの。その一方,片田舎に生まれた少女が貧しさから口減らし
のため悪所に売られ,夜をひさぐ身となって何年か,いつか性病を移され肺病
にもかかってもう直る見込みはなく,近い死のときを待つばかりの不幸な女。
その女が2階の手すりにぐんにゃりと横坐わりしながら,下の通りでキャッキ
ャッと遊ぶこどもらのすがたを力ない目でぼんやりと見ている。
自分の幼かったころを懐かしむ思いとともに,いまは嬉嬉として遊んでいる
この子たちも,やがて自分と同じように修羅の道,苦患の道へ歩む宿業を
負っているであろうことを思い,それをあわれんでうたった唄。どうも
そちらのほうが現実味があるようで,わたしは好きなんですが。まあ,
解釈はどちらでもいいんじゃないでしょうか。(04.03.13)
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