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0705
小夜 & GANO トーク =<1>

sayo

小夜は5歳になる女の子。幼稚園に通っています。もうすぐ4歳になる妹の早百合、
忙しいお仕事をもっているおかあさん、それにGANOおとうさん。
じつは、、仮想家族、幻想家族なのですが…。




〔やまなし/水仙月の四日/あざみ野/ふたりのイーダ/きつねの窓/幸福の王子〕


(6)やまなし――宮澤賢治
幸せの文様は光の網のゆらめきに似て…

がの/ヤマボウシの並木はここで終わりです。よく歩きましたね、疲れませんでしたか。5月の光線は強いし、お帽子をもってきてよかったね。その道を越えると、むこうは鶴見川ですよ。
小夜/気持ちのいい風がきます。水のある風景はこころがなごみます。
がの/あらぁ、きょうは水がにごっていて、川の底までは見えませんよ。ゆうべ、はげしい雷雨がありましたからね。
小夜/賢治さんの「やまなし」で、小夜にとっていちばん印象に深いのは、水の底で光のアミがゆれるシーンです。おかあさんに読んでいただいたあと、いまもそのイメージが頭のなかいっぱいに広がっています。
がの/「波から来る光の網が、底の白い磐(いわ)のうえで美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました」……水がレンズのようになって水の表面にできたヒダを川の底に映しているんですね。
小夜/おとうさん、小夜はそれを見たことがあります。去年の夏の終わりでした。
がの/家族みんなで山の奥の温泉へ行きましたね。お散歩で旅館の近くの渓谷に出、下まで降りたところに湧き水がありました。透き通った水がキラキラ輝いていました。
小夜/そこで光の踊り子が楽しそうに踊っていましたね。お魚も見えました。
がの/小夜ちゃんはそこに坐り込んでしまい、いつまでも動こうとしませんでした。
小夜/もっと見ていたかったのに、おかあさんに叱られてしまいました。「置いていくわよ、クマさんが来ても知りませんよ」と。そんなにいわないでもいいのに。
がの/ずいぶん長く待たされていたからね。
小夜/そよとすずしい風がきて、水のうえに小さなヒダができます。そのヒダが糸のような線をつくって砂のうえに影を落とすのですね。その線が伸びたり縮んだり、一瞬ごとにちがう形をつくって水底に映っていました。きれいでした。小夜は、もう、夢中でした。ですから、おはなしのカニさん兄弟はいいなあ、いつもあの光のダンスを楽しめるから、幸せだろうな、と。
がの/さて、幸せでしょうか。カニもお魚も、いつもいのちの危険にさらされながら生きているすがたが、おはなしの前半で書かれていたじゃないですか。
小夜/そうそう。恐かったですねぇ。カニさんのすぐ目の前で、それまでゆうゆうと泳いでいたお魚が、アッという間に青い光のなか、消えてしまうのですから。
がの/カワセミでしたね。渓流の宝石と呼ばれる美しい鳥ですけれど、そんなこわい性質もあるんですね。それに、消えたあの黒いお魚は、小さいカニさん兄弟を食べてやろうとねらっていたのかも知れませんよ。そうだとすると、カニさんはカワセミに助けてもらったことになる。
小夜/それに、よくわからないのは、クラムボン。なんでしょうか、クラムボン、て。
がの/笑ったり、跳ねたり、また、死んだり、殺されたり…。さあ、小夜ちゃんはなんだと思いますか、クラムボン、て。
小夜/ずうーっと考えても、それがわかりません。おかあさんはアメンボのことかしら、とおっしゃいました。そういえば、ひょっとして、ミズスマシのことかな、と小夜は思ったのですけれど。
がの/わかりませんねぇ。カニのことを英語でクラブCrab というのね。ですから、もしかするとカニの赤ちゃんのようなものかな、とも思ったのですけれど。
小夜/「クラムボン」の「ボン」は、小さい子を呼ぶときの、○○坊、○○ちゃん、○○くんに相当する接尾語かも知れません。
がの/ところがね、研究者のなかには、クラムボンは賢治の妹のトシさんのことだと解釈するひともいます。
小夜/フーン、妹の死の悲しみを形にしたものですか。「クラムボンは死んだよ」「クラムボンは死んでしまったよ」という、歌みたいな、おまじないみたいな文章が見られます。
がの/悲しみの青い水の底にすんでいるカニ。青は悲しみの色で、これが愛する妹を喪った賢治の悲しみをあわわす、と。
小夜/あらら。そうしますと、おはなしの後半に出てくる“やまなし”って、なんでしょうか。
がの/悲嘆と絶望の底にいる賢治に投げ与えられた“希望”だといいます。
小夜/よく熟したやまなしが天井からトボンと落ちてきて、月あかりの水のなかには、いい匂いがいっぱいに広がった、とありました。
がの/2日ほど待てば、おいしいお酒になるんですって。
小夜/あっ、やはり“希望”のおとずれですよ。おはなしの前のほう、「五月」のときは、いきもの同士がとったりとられたり、食べたり食べられたりの、こわい生存競争の世界を書いていて救いがなく、あとのほう、「十一月」のときは、さあ、つぎの第一歩を踏みだそうという、明るい希望を書いているのでしょうか。
がの/そうかな。そうかも知れないね。「五月」の水のなかの様子は、小夜ちゃんのいう生存競争、弱肉強食の食物連鎖をするどくえがいています。賢治は、自分だけの幸せはほんとうの幸せではない、みんながいっしょに幸せでなければ自分の幸せはないし、永遠の幸せではない、と考える人でした。ほら、「銀河鉄道の夜」のジョバンニに、そう語らせていたじゃないですか。ですから、自分と同じように生きている動物たちも幸せでなければならない、同じ仲間同士で食べたり食べられたりするなんて、それはいけないことだと考えていました。「よだかの星」でも、そのことが書かれていましたね。
小夜/「よだかの星」ですか。とっても悲しいおはなしでした。どう生きればいいのか、賢治さんの苦しい迷いの見られたおはなし。
がの/賢治が菜食主義者だったことは知っていましたか。肉もお魚も食べないんですよ。「貝の火」では、キツネのホモイが自分のみにくい欲望に気づくことが書かれています。食べたいから食べる、本能のままに食べる、それでいいのだろうか、とみんなに問いかけていますよ。
小夜/あら~、小夜はお肉もお魚も大好きですよ。いけないことでしょうか。
がの/生きものを殺しながら自分を生かしていることを、悲しみとし、みにくい欲望と考える賢治のような人もいます。賢治の場合、そういう無理をするからいつも病気がちだったといわれることがあります。わが家は、おかあさんもおとうさんも、そんなふうには考えません。もともと貧乏ですから、そんなにおいしいものは食べられませんが、でも、つつましいながら、おいしいものをありがたくいただいています。おかげで家族みんなが健康です。小さな幸せと云えませんか。
小夜/生きているものをひとの手で殺して、それを食べている…。小夜はなんだかこわくなってきました。いけないことをしているような…。
がの/でもね、こうも考えられませんか。たとえば世界じゅうの人がお魚を獲ることをいっぺんにやめてしまう。そうしたら、海も川もお魚でいっぱいになってしまいます。それに、お魚を獲ることでおかねを得て生活している人が世界には何億といます。木だってそうですよ。木を伐ることをやめてしまう。そうしたら地球がぜんぶ木に占領されてしまう。いいことか、それとも悪いことなのか、それは別として、獲ったり獲られたりしながら、この地球のうえでバランスよくみんなが生きているんじゃないでしょうか。適当にね。小夜ちゃんの大好きなご本。これをつくる人がいて、どんなに一所懸命いいご本をつくっても、それを読んでくれる人がいなかったら、それはただの地球の資源のむだづかいでしかないでしょう。たくさんの木を伐って、それを紙にし、本にするのですから。木を伐りすぎることがいま問題になっていますけれどね。
小夜/どう考えればいいのか、むずかしいわ。賢治さんはそういうむずかしいことをずうーっと考えていたんですね。
がの/でもね、悲嘆の闇があって、また救いと希望の光がある。賢治はそのこともしっかり書いてくれました。
小夜/やまなし、ですね。カニの兄弟がアブクを吐いて、その大きさを競って遊んでいるとき、トブンとやまなしが落ちてきました。あのこわいカワセミかと思ってカニたちはドキッとします。“やまなし”って、どんな梨ですか。
がの/梨といえば、横浜のハマナシ、秋ごとにくださる方がいて、よく食べますね。わが家の秋のたのしみです。二十世紀、長十郎、菊水といったおいしい梨がありますけれど、ヤマナシについては、知りませんね。おうちに帰ったら調べてみましょうね。いつも目にする梨のようではなく、もっと小さい、ズミの実のようなもののように思いますが。

    (バラ科の落葉大高木。山地に自生。枝は黒紫色。葉は互生し、長楕円形。
    五月、径2センチの白色五弁花を散形につける。果実はナシに似るが、小形で、
    茶色または紅色に熟す。オオズミ、山林檎――「大辞林」による)

小夜/山梨県はブドウやモモの産地として有名ですけれど、ヤマナシもたくさんとれるのでしょうか。
がの/そういえば、山梨でヤマナシのことを聞きませんねぇ。そんなうわさはナシです。
小夜/おはナシにも聞きません。それなのにどうして山梨県というのかしら。山梨にお住まいの方で、もしそのことをご存知でしたら、お教えくださいませんか。
がの/クラムボンもヤマナシも、ほんとうのところはよくわかりません。これも賢治のイーハトヴの世界だけに見られる固有なものなのかも知れませんよ。
小夜/天井の波はダイヤモンドの粉のようにゆらゆらと燃え、川底では光の網が、カニたちのまわりで、伸びたり縮んだり、楽しそうに踊っています。最後はとってもきれいな印象ですね。でも、おかあさんは、このおはなしにおかあさんガニが出てこないのが不満なんですって! いカニもおかあさんらしいわ、笑ってしまいますね。(2005年5月27日)

〔To: Play with meさん 2005.5.28〕

明るい日差しの中の遠浅の海辺、ゆらゆらとした明るい網目の中を小さいお魚が泳いだり、小さいカニが歩いているのを昨日のように見えたんです。ちょうど「クラムボンはわらったよ」「クランボンはぷかぷかわらったよ」といっているような小さな小さなカニさんでした。
            ☆
ほんとうに夢を見ているようですよね、水底にうつった光の網の優雅な踊りは。妖精だってあんなにしなやかには踊れないと思います。小夜は逗子へ磯あそびにつれていっていただいたときも、あのきれいな光のおゆうぎを見ました。カニさんになっていっしょにおゆうぎができたらいいのになあ、と思いました。先生のおうちは海辺のお近くですか。そしたら、一日じゅうあの光のたわむれを見ていられますね。うらやましいです。

〔To: Hiromi~さん 2005.5.28〕

やまなし…山梨生まれの私もやまなしがあるのかどうか知りません。多分ないと思います。
            ☆
Hiromi~先生やまじょまじょ先生ならヤマナシのことをきっとご存知だろうなと思っておりました。ヤマナシってどんなくだものか、山梨県とヤマナシのあいだにはどんな関係があるのか…。「そのとき、トボン。黒い円い大きなものが天井から落ちて、ずうっとしずんでまた上へのぼっていきました。キラキラッと黄金(きん)のぶちがひかりました」 ちっちゃなカニさんにとっては「大きなもの」だったでしょうが、「トブン」とありますから、これはそんなに大きなものではないだろうと想像されます。また、雨つぶくらいのものなら「ポツポツ」でしょうし、カシの実やドングリくらいですと「トポン」とか「ポシャン」、もっとおおきなリンゴくらいなら「ドボーン」とか「バシャーン」というかも知れません。「トボン」と落ちたヤマナシはその中間くらいの大きさではないかと想像しますが、どうなのでしょう。とっても知りたいです。



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(5)水仙月の四日……宮澤賢治

がの/宮沢賢治は北国の冬についてたくさんおはなしを書いています。「水仙月の四日」のほか、小夜ちゃんはどんなおはなしを知っていますか。
小夜/「雪渡り」。四郎ちゃんとかん子ちゃんの“かた雪かんこ、しみ雪しんこ”のお歌がたのしいし、白いキツネさんの幻燈会、小夜にもご招待券をいただきたいわ。
がの/「雪渡り」のあんな雪、小夜ちゃんは見たことないよね。雪が大理石よりもっと硬く凍りつき、天も地もまるごと結晶したみたいという、冬の寒さのきびしさ。
小夜/この冬、横浜にも2回か3回、雪がありました。でも、さっき突然降ってきた雹と同じで、すぐ溶けてしまいました。
がの/賢治はそのほかにも、「ひかりの素足」とか「氷河鼠の毛皮」とか「氷の後光」といったおはなしで北の地方の冬の風景を描いていますよ。これらは、小夜ちゃんはまだ読んでいませんでしたね。そして、この「水仙月の四日」ですけれど…。

narcissus01


小夜/おとうさん、水仙月って、いつのことですか。
がの/いつのことだと思いますか、小夜ちゃんは。
小夜/雪がいっぱい、いっぱい降りますから、1月か2月。
がの/ふんふん。
小夜/そのころのことだとして、どうして水仙月というのでしょうか。
がの/そこは宮澤賢治だけの世界で、わたしたちの世界とは違うのよ。イーハトヴという、岩手県のなかのどこか特別なところ、賢治のユートピアです。その世界ではこの季節のことを水仙月と呼んだのではないでしょうか。
小夜/1月とか2月とかでなく、水仙月ですか。すてきですね。きっとバラ月、ヒナゲシ月、ナデシコ月などもあったかも知れませんね。
がの/はっはっはっ、バラ月、ヒナゲシ月、ねぇ。でも、考えてみれば、昔の日本の人も1月、2月とは云わず、睦月、如月、弥生…というふうに呼んでいましたからね。
小夜/あっ、イギリスやアメリカでもそうですよ。1月はJanuary、2月はFebruary ですから。こういう呼び方のほうが、なんだか、きれい。
がの/でも、水仙月が実際にはいつか、といったら、いちばんきびしい冬の季節が過ぎ、積もった雪を割るようにしてスイセンの花が顔をのぞかせる時期のことでしょうから、小夜ちゃんがいうのがだいたいあたっているのではないですか。
小夜/冬の最後に雪ばんごが大暴れをしたおはなしでしたね。
がの/灰色の長い髪をふり乱して荒れ狂う雪ばんご。ネコのような耳をもっているという。こわいですねぇ。「雪女」のおはなしは、小夜ちゃん、よく知っていましたよね。
小夜/はい。これもこわい、こわいおはなしです。
がの/あのね、旧暦の1月15日のことを地方によっては小正月と云っています。柳田国男という民俗学の先生が「遠野物語」という本の103番目のおはなしで「雪女」のことを書いています。それによると、「小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は雪女が出て遊ぶとも云ふ。童子をあまた引き連れて来ると云へり」とあります。あの地方ではそんなふうに信じられ、語り継がれていて、それを材料にして賢治は童話を書いてくれたんだと思います。
小夜/そうすると、新暦で2月上旬のころ。パチパチパチ…。小夜のあたり~!
がの/雪ばんごにお仕えする雪童子(ゆきわらす)という存在を賢治は創造しています。
小夜/その雪わらすにお仕えするのが雪狼(ゆきおいの)でした。これは人の目には見えないけれど、雪あらしのときは、これがそこらじゅうを駆けまわり、咆えまくります。
がの/このおはなしで、雪はどこでつくられると云っていましたか。
小夜/雪は、寒いとき、お空の高いところでつくられて、ひらひらと降ってくるわ。
がの/賢治はそうは書いていませんよ。空のカシオピイアがガラスの水車をキッキとまわすと、それが雪になる…。あるいは、アンドロメダがランプのアルコールをシュッシュッと噴かすと、それが雪になる、と。
小夜/わあ、賢治さんのすばらしい想像力ですねぇ。ちょっぴりむずかしいですけれど、小夜はそんな賢治さんの空想力が、だんぜん好きですね。
がの/雪だけのまっ白な世界。でも、賢治はそのなかであざやかな色を捉えていますよ。
小夜/スイセンの色。それに、小さな女の子の赤い毛布(ケット)、雪おいののまっ赤な舌。
がの/群青の空から落ちてくるサギの毛のようなまっ白な雪とか、桔梗色の天空とか。ビール色の日の光、やどり木の青と黄色。それに「まもなく東のそらは黄バラのように光り、琥珀いろにかがやき、黄金に燃えだしました」なんて、うっとりさせられる表現です。
小夜/ほんと、恐いほど、悲しいほどにきれいなイメージで、胸の底がシーンとしてきます。
がの/さてさて、このおはなしの眼目は、冷たい雪のなかで展開する雪わらすと赤ケットの小さい女の子とのあいだの、ふしぎな愛と友情であり、やどり木に象徴されている死と再生のドラマですが、もう、おしゃべりが長くなりすぎましたので、つづきはまたあとにしましょうね。
小夜/はい。でも、もうひとことだけ云わせてください。雪わらすは、雪ばんごの命令に逆らい、自分の役目もなげうって小さな女の子を救いますね。賢治さんがこのおはなしでいちばんおっしゃりたかったのは何か、と思うとき、小夜は「烏の北斗七星」で云われていることを思い出します。「どうか、憎むことのできない敵を殺さないでいいように、早くこの世界がなりますように」という主人公のお祈りのことば。これは、それと通じる考えではないでしょうか。
がの/お~、すごい、すごい。小夜ちゃんはこのおはなしのいちばん大事なところをしっかり捉えてくれましたね。同じ人間どうしが争ったり殺しあったりする、それはぜったいにあってはいけないことですから。2005年05月17日


賢治の風光――それは幻視か幻聴か。
「水仙月の四日」は色彩とひびきに満ち…。


小夜/「アンドロメダ、あぜみの花がもうさくぞ、おまえのラムプのアルコオル、しゅうしゅと噴かせ」…スイセンのお花だけでなく、あぜみの花もおはなしに出てきましたよ。あざみのことを賢治さんのおうちのほうでは「あぜみ」というんですね。
がの/ちがいます。あぜみは小夜ちゃんがいつも気にしている「あざみ」のことではなく、「アセビ」のこと。「馬酔木(あしび)」と呼ぶこともあります。やはりスイセンと同じように春のはじめのころに見られる花。釣鐘のような小さな花がかたまりになって咲きます。
小夜/あっ、そうなのですか。アセビなら小夜の行っている幼稚園の花壇で見ましたよ。
がの/それにしても、カシオピイアとかガラスの水車とか、アンドロメダ、アルコオルのランプとか、こうした文章をみると、宮澤賢治という人は日本人離れをした発想をする人だとは思いませんか。日本の基層にある古い文化や伝統をこうしたきれいなイメージにくるんで表現できるめずらしい人。
小夜/そして、ほんとうに美しいリズムをもったことばです。こんなことを云ってはいけないのかも知れませんけれど、おはなしのスジなんてどうでもいい、そのゆたかなイメージ、心地よいことばのリズムにふれるだけで、もう、十分で、小夜は「ありがとうございます」といいたいくらいだわ。
がの/おや、小夜ちゃん、うまいこといいますね。
小夜/「雪童子(ゆきわらす)はわらって革むちを一つひゅうと鳴らしました。すると、雲もなく研きあげられたような群青の空から、まっ白な雪が、さぎの毛のように、いちめんに落ちてきました。それは下の平原の雪や、ビール色の日光、茶いろのひのきでできあがった、しずかな綺麗な日曜日を、いっそう美しくしたのです」。ね、おとうさん、うっとりしてしまいますね。涙が出てきそうなくらいきれいです。
がの/色彩に満ちた世界、その空間をヒュッとかすめる鋭い音。その世界に見られる微妙な動きをこまやかに捉えています。「もう、よほど冷たくなってきたのです。東の遠くの海のほうでは、空の仕掛けを外したような、ちいさなカタッという音が聞こえ、いつかまっ白な鏡に変わってしまったお日さまの面を、なにかちいさなものがどんどんよこ切っていくようです」。すべてが死に絶えたような静謐の世界での、ちょっとした動き、ちょっとした音、ほんのかすかな変化に、賢治の神経はピリピリ敏感に反応していることに感動してしまいます。
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小夜/「丘の稜(かど)は、もうあっちもこっちも、みんな一度に、軋るように切るように鳴りだしました。地平線も町も、みんな暗い烟(けむり)の向こうになってしまい、雪童子の白い影ばかり、ぼんやりまっすぐに立っています。その裂くような吼えるような風の音の中から……」
がの/ふ~ん、小夜ちゃんは、いつの間にそんなにおじょうずにご本が読めるようになったのですか。幼稚園のおともだちはまだ字が読めないのとちがいますか。
小夜/そんなことはありませんよ。詩織ちゃんも沙奈ちゃんも読めます。でも、裕美ちゃん、智世ちゃんはまだみたいですけれど。
がの/おとうさんもおかあさんも、これまで小夜ちゃんに字を教えたことはありません。いつから読めるようになったのですか。
小夜/いつから、なんていわれても…。おとうさんやおかあさんにこれまでに何百というご本を読んでもらってきましたし、ひとりでいるときや小百合ちゃんとふたりのときは、おとうさんやおかあさんを待ちながらいつもご本を見ていましたから、小夜にも知らないうちに読めるようになったのではないでしょうか。小百合ちゃんはときどき「おねえちゃま、読んで」といいますし。
がの/読めるというだけでなく、とってもおじょうずに語れますね。
小夜/そんなこといわれたら、恥ずかしいわ。おとうさんやおかあさん、それに、幼稚園の真由美先生のお話の仕方をちょっと真似しているだけです。
がの/すばらしいのは、読めるというだけでなく、お話をしっかり理解できること。大事なところをきちんと捉えられること。この「水仙月の四日」は、息もつけないようなはげしい雪あらしのなかで、雪わらしと赤いケットの小さな女の子の、次元を異にした交歓、ふしぎな愛情ですよね。女の子は一言もしゃべっていませんけれど。すべてを死でおおい尽くしたような雪だけの世界にさまざまなニュアンスと表情を与え、読むものの胸をポッとあたたかくしてくれるやさしさを見せてくれました。
小夜/「雪渡り」でも、次元を超えたつかの間の交わりが四郎ちゃん・かん子ちゃんとキツネのあいだにありました。だれのこころにもある憧れを書いてくれているんですね。ひとをいじめたり憎みあうのはよくない、どんな争いのなかにあっても、ほんとうはみんながだれとでもおともだちでいたい、という…。
がの/情け容赦もない雪ばんごも、ばさばさの髪を渦まかせながら東のほうへかけて行き、きびしい水仙月の四日は終わりました。いよいよ春です。そこの部分の文章も、おとうさんは大好きです。「野原も丘もほっとしたようになって、雪は青じろく光りました。空もいつかすっかり霽(は)れて、桔梗いろの天球には、いちめんの星座がまたたきました」。黒井健さんの描いている、星あかりの下、雪をかずいてひっそりと眠る山の絵もすてきですねぇ。
小夜/このご本に出会えて、ほんとうによかったわ。
がの/Play with me 先生のおかげですね。
小夜/「スーホの白い馬」を描いた赤羽末吉さんや、ラボの「大草原の小さな家」を描いている伊勢英子さんも、このおはなしの絵本を描いておられるようですので、そちらもぜひ読みたいです。それと、伊勢さんの新しい絵本「1000の風、1000のチェロ」も、すてきでしたねぇ。
がの/小夜ちゃんは、今回「水仙月の四日」のほか、「チュウリップの幻術」も読みましたね。こちらのことは、また機会があったら、ということにしましょうね。
小夜/はい、わかりました。でも、チューリップのことをうっこんこう(鬱金香)と呼ぶこともあるなんて、はじめて知りました。どんなことを思って昔の人はそんな名前をつけたのでしょうねぇ。
がの/白いチューリップの花から湧きあがる、すきとおったエーテル。じつはそれが光のお酒。青いすももの垣根に囲まれた農園で、洋傘直しと園丁のおじさんとが、その光のお酒を飲んですっかり気持ちよく酔います。おとうさんも一杯ごちそうになりたいな~。
小夜/あら、おとうさん。おとうさんはゲコゲコちゃんで、アルコールはぜんぜんだめじゃなかったですか! (2005年5月20日)

きょうは、いつもの図書館ではなく、地域のみなさんがヴォランティアでやっていらっしゃる市民図書に行ってみました。先生がお読みになった赤羽末吉さんの「水仙月の四日」がひょっとしてないものかと期待して行ったのですが、それはありませんで、代わりに伊勢英子さんの「水仙月…」と木内達朗さんという人の「氷河ねずみの毛皮」、伊藤亘という人の「虔十公園林」を借りてきて読みました。伊勢さんの絵も、とっても、とってもきれい。雪あらしのはげしい表情と、あらしの去ったあとの耳の底が痛くなるようなシーンとした静けさがみごとに描かれているように思いました。雪のおふとんの下で眠る小さい女の子の、ほんのりとした赤み。悲しいまでの美しさです。
女の子は雪の下で死んだようになりながら、手に「やどりぎ」をしっかり持っています。大きなクリの木についたヤドリギには赤い実がついているとありました。おとうさんの大きな辞書をお借りしてしらべてみましたら、ヤドリギは、春浅いころ、うす黄色の小さな花をつけて、珠の形の液汁の多い実を結ぶとありました。風がふけばゆらゆら揺れる不安定な樹のうえに寄生するような植物ですから、抵抗力はさかんで、西洋のほうではまさに生命力の象徴とされるようですね。
おはなしのタイトルが「水仙月…」で、スイセンのお花が何かおおきな役目をもつのかと思っていましたが、「カシオピイア、もう水仙が咲き出すぞ、おまえのガラスの水車、きっきとまわせ」、…本文ではここに出てくるだけでした。でも、おとうさんの白いスイセンのお写真、なんだか、おはなしにぴったりだとはお思いになりませんか。 (2005年5月21日)


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(4)あざみ野……安房直子(童話集「銀のくじゃく」より)


小夜のおうちは、
あざみ野という町に接する、静かな住宅街にあります。
どこかにお出かけしようと最寄りの駅にでるときは、かならず
その町を通ることになりますし、小夜の通っている幼稚園も
あざみ野のほぼまん中にあります。
でも、この町であざみの花を見たことはありません。どうしてでしょう?
ですから、「あざみ野」というおはなしがとても気になっていて、
1週間ほど前、おとうさんに読んでいただきました。そして、きのう…。

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父/アッ、だめでしょ、手にトゲがささりますよ!
小夜/こぼれろ、こぼれろ、花の種。こぼれろ、こぼれろ、花の種。こぼれろ、こぼれろ、花の種。
父/ぶつぶつ云って、なんのおまじないですか、また何かあやしいことを考えていますね。
小夜/あざみの花を摘むでしょ、そしてそれをお口のところにもってきて3回「こぼれろ、こぼれろ、花の種」と唱えるの。
父/わかりました。「あざみ野」のおはなしですね。毛皮商人の若もの、清作が出会ったふしぎなできごと。
小夜/おまじないを唱えると、サーッと風がきて、あざみの花が散ります。そして、散った花びらの一つひとつから新しいあざみの花がつぎつぎにパッと咲いていくはずです。
父/う~ん、ざんねん、咲きませんね。
小夜/あざみ野という名前をもつ町にあざみの花が1本もないなんて、へんだと思いませんか、おとうさんは。
父/いっぱい家が建ち、すっかり町になってしまったからね。でも、小夜ちゃんは見ていないかもしれませんが、きっとどこかには春の風をあびてあざみは咲いているはずですよ。それに、ここがほんとうにあざみのお花畑になったら、それこそたいへん。
小夜/どうしてですか? このあたりが見渡すかぎりきれいな紅紫のお花畑になったら、すてきじゃないですか。
父/え!? 困りますよ。足にトゲがささってイタタタタッ…と、歩けないですよ。
小夜/そんなときは、清作さんのつくった鹿の皮の長靴をゆずってもらえばいいわ。
父/だめです。もう10足とも売れきれですし、清作は、あの日以来、皮細工の仕事はしませんから。
小夜/幼稚園のバスもトゲを踏んでパンクしてしまうかしら。マリリン先生にお会いできなくなるの、いやだなあ。カナダのケベックというところから来ていらっしゃるんですって。フランス語を教えてくださる、とってもすてきな先生。
父/小夜ちゃんは幼稚園がだいすきでしたね。フランス語、たくさん覚えましたか。
小夜/ウイ、ムッシュー。コメンタレブー…。
父/ハッハッハッハ…、おじょうず、おじょうず。
小夜/それにしても、清作さんがニレの木の下で出会った女の子、ふしぎですね。「井戸の精」なんて自分で云っていましたけれど、おとうさん、あの子はなんですか。
父/大きな黒い目をした、やせっぽちの女の子。木綿の服のすそからのぞいた足は棒切れのようだったと書いてありましたね。
小夜/毛皮商人の仕事なんかやめて、皮細工の職人さんになりなさい、そしてお金持ちになったらあたしをお嫁にしなさい、なんて清作さんにいいますよ。
父/そうそう、りっぱな馬であたしを迎えにきなさい、なんてね。ちょっと調子に乗りすぎですよね、この女の子。
小夜/でも、ただの女の子ではないですよ。ふしぎなパワーをもっています。
父/ニレの木のところからおはなしはクルッと幻想の世界に入ります。宮澤賢治の『注文の多い料理店』とよく似た構造です。
小夜/女の子がヒューッと口笛を吹くと、清作さんが馬の背中に積んでおいた毛皮の荷物がもくもくと動きだし、いきなりピョーンと銀ギツネがとび出してきます。
父/なめしてあるはずの毛皮が命を吹き返すのですから、これはふつうにはありえない奇跡ですね。清作は山の奥まで行って猟師からウサギ、タヌキ、クマ、キツネ、シカといった動物たちの毛皮を仕入れ、それを町の毛皮屋さんに持って行って売る仕事をしていました。その日も、よぼよぼのやせ馬の背中に仕入れた毛皮を積んでいました。とりわけその日は、毛皮のうちでも最高級の銀ギツネの毛皮が手に入って、これは高く売れるゾと、喜んでいました。
小夜/途中、「井戸の精」に出会い、毛皮を1枚くれれば水を1杯飲ませてあげる、と云われます。清作さんにはあまり割りのあう取引きではありませんでしたけれど、ノドがからからでしたからね。
父/女の子が求めたのは、選りによって銀ギツネの毛皮でした。荷物のいちばん下に置いて隠し、だれにもわからないはずだったのに。
小夜/そして、女の子はあざみの花のおまじないを清作さんに教えるんでしたね。
父/清作はその子から糸や長い針やハサミをもらって、皮細工をじょうずにつくります。
小夜/シカの皮で長靴をつくります。女の子のかけたおまじないで、村じゅう、町じゅうがあざみの花で埋もれてしまいましたから、外を歩こうとすれば足にあざみのトゲがささって血だらけになります。
父/月の光の下で清作は10足のりっぱな長靴をつくり、翌日それを馬の背中に載せて町へ向かいます。自分もその長靴をはいて。
小夜/みんなみんな長靴をほしがり、たちまち完売。
父/こわいですよ、このおはなし。だって、売っておくれとつぎつぎにやってきたのは、キツネやタヌキやウサギたち。その胸や背中にはそれぞれ鉄砲の弾の穴が空いていたというのですから。
小夜/清作さんがそれまでに町の毛皮屋さんに持って行って売った動物たちでした。
父/そして、馬を見ると、アレッ、馬の背中に乗せておいた毛皮が一枚残らず消えていました。
小夜/殺された動物たちのタタリでしょうか。さすがに清作さんもこわくなりました。命からがら逃げ出します。小夜は『なめとこ山の熊』のおはなしを思い出します。
父/おはなしの最後のところは宮澤賢治の『注文の多い料理店』とそっくりでしたね。ほら、都会の紳士の顔はくしゃくしゃの紙のようだった、それがなかなか直らなかったと。清作の場合も、どうやって自分のおうちに帰りついたのか、ぜんぜん記憶がないといいます。そして家では、まっ青な血の気のない顔をして、3日くらいは腰が立たなかったとありました。
小夜/毛皮のお仕事はもう辞めてしまいますが、清作さんは、そのあとどうしたのでしょうね。お父さんは早く亡くなってしまったし、お母さんは病気、弟妹を養わなければなりませんですから。
父/どうしたのでしょうねぇ。でも、自分ではいた長靴だけは残り、細かな縫い取りをした色糸はいつまでもつやつやして、色あせることがなかったといいます。
小夜/わかりました! あの「井戸の精」をお嫁さんにして、その超能力を借りて何かすてきなことを始め、お金をもうけて、きっとみんな幸せになったんですね。
父/そうかなあ。
小夜/そうよ、きっと。おかあさんがお帰りになったら、おかあさんにもきいてみよ、っと。


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(3)ふたりのイーダ……松谷みよ子


小夜「さよなら、あんころもち、またきなこ」
父 「それはもっと歌うように云うのよ。あんころもちのところは早口ことばのように。さよなら、あんころもち、またきなこッ!」
小夜「イーダちゃんは、へんてこなことばをいっぱい知っているんですね」
父 「おとうさんたちは、さよなら、さんかく、またきてしかく、なんて云っていたね。暗くなるころまで外で遊んでいて、お友だちとお別れするときにね。小さいころに見た、きれいに夕焼けしたあかね色の空がよみがえってきます」
小夜「おとうさん、あのイーダちゃん、だれかさんにそっくりだと思いませんでしたか」
父 「ハハッ、小夜ちゃんもそう思ったんですか。ほんと、ゆう子ちゃんという子、小百合ちゃんにそっくり。3歳にもうすぐなる子でしたね」
小夜「おしゃまさんで、活発で、勝気で、甘えん坊で、でも、とってもいい子。気に入らないことがあると、イーッだ! といって顔をしかめる、ね、小百合ちゃんにそっくり」
父 「かわいいのよね、ゆう子ちゃん。髪は長く、おふろで髪を洗うのが大嫌い。あしたはあした、ずうーっとあしたはあしたのままというゆう子ちゃんのわからんちんぶりなど、あまりにもよく似ていて、笑っちゃいますね」
小夜「それと、ゆう子ちゃんと直樹くんのおかあさん。九州への取材に飛び回る途中、ふたりをおじいちゃん・おばあちゃんのおうちにあずけて行ってしまいます。広島に近いある城下町にすむおじいちゃんとおばあちゃん。いつもいつも忙しそうにあちこちへ飛びまわっているおかあさんも、よく知っているひとにそっくりですよ」
父 「そういえば、ほんと、そっくりね、小夜ちゃんのおかあさんと。小さなことにはこだわらないで、前へ前へと走ります。イノシシ年生まれだそうですから。おからだをこわさないといいのだけど」
小夜「ふしぎなのは、おとうさんがぜんぜんお話に出てきませんね」
父 「そうなんですね。どうしたんでしょうか、おとうさんは。もしかすると、離婚している母子家庭なのかしら。でも、小学生の直樹くんが、とってもよく幼いイーダちゃんのお世話をしてるじゃない」
小夜「そうかしら、やっぱりおとうさんのようではないわ」
父 「そうね、直樹くんはむしろ、小夜ちゃんにそっくりですよ。妹にやさしく、よく面倒をみて、そしてものごとをしっかり見る、しっかり考える…」
小夜「あら、そんな~。でも、すごいですね、勇気がありますね、直樹くん。誰も住まないクモの巣だらけの廃屋を探検し、そこで、跳びはねたりしゃべったりする子ども用の古イスとナゾのような会話をします。イスが動いたりおしゃべりするなんて、ゾッとしますよね、恐いわ」
父「秘密を一つひとつ解いていく直樹くんの沈着ぶり、その賢さは、やっぱり小夜ちゃんとよく似ているように思うな~」
小夜「小夜はね、あとで考えたら、あの古ぼけた小さなイスがかわいそうでたまりませんでした」
父 「ずうーっと、ずうーっとイーダちゃんが帰ってくるのを待ちつづけているイス。イーダちゃんとそのおとうさんがお出かけしていった“きのう”で時間はストップしているんですね、あのイスにとっては」
小夜「ゆう子ちゃんをお迎えして、イスはイーダちゃんがとうとう帰ってきたと大喜びをします。イスさんの悲しみが、小夜にはよくわかります」
父 「直樹くんはついに突き止めますね、日めくりカレンダーの2605年8月6日の秘密を。皇紀2605年は西暦1945年8月6日、広島に原爆が落とされた日でした」
小夜「たいへんすぐれた家具職人だったおとうさんは原爆で亡くなりましたが、いっしょにいたイーダちゃんは奇跡的に助かって、よそのおとうさん・おかあさんにもらわれて育ちました。りつ子さんという娘さん、ほんとうの名前はいつ子で、この人がほんとうのイーダちゃんだったなんて、よかったぁ、小夜はホッとしましたよ」
父 「でも、イーダちゃんのりつ子さん、かわいそうに、原爆症なんですよね。もんぺに縫い付けてあった名前が“○つ子”。原爆の熱で○は焼けてしまって見えなかったので、あとで“りつ子”というようになったのでしたね。ほんとうは“いつ子”。イーダちゃんのいつ子さん。とってもいいお話でした。このお話をつくった人は『龍の子太郎』をつくった人と同じだということ、小夜ちゃんは気づきましたか」
小夜「あら、そうですか。ずいぶんふたつは違うお話ですけどね。いいお話を書く人なんですね」
父 「昔話をたくさん再話した人。それに赤ちゃん絵本もたくさんつくっていますよ。木曜日の読書会でね、たまたま図書室に松谷さんの『いいおかお』という絵本があったの。それをみんなに読み聞かせしたら、とってもとっても喜んでね、その本、外国にいる孫に送ってあげる、わたしもほしい、なんてみんなにとても評判でした。“イーッだ”といって、あかちゃんがいいお顔するじゃないですか。かわいいですよね、あれ。同じ松谷さんが書いた『いない、いない、ばあ』、これは小夜ちゅんが赤ちゃんのとき、おかあさんが読んであげていましたけど、覚えていますか。人間の記憶は2歳ころからだといいますから、覚えていないよね。でも、とっても小夜ちゃん喜んでいましたよ」
小夜「はずかしいわ! それにしても、ゆう子ちゃんのかわいらしさと原爆の恐さと…」
父 「幸福な子どもたちと被爆の悲惨さが対照的ですね。作者は原爆はいけないなんて一言も云っていないけれど、でも、しっかりそのことを伝えてくれています。原爆のことをこの作者は『まちんと』という絵本でも書いています。これにも可愛い女の子が出てきます。『ふたりのイーダ』のさし絵を描いた司修さんがやはり描いています。おとうさんと同じ前橋の出身の絵書きさんなのですよ」
小夜「おとうさんのよくご存知の絵描きさんでしたね。ラボの絵本もたくさん描いてくれました。このお話の絵も、幻想的で、ちょっと恐いですね」


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(2)きつねの窓……安房直子


父 「小夜ちゃん、なにをやっているのですか、指と指の先をつけて…」
小夜「ひし形の窓って、どうすればつくれるのですか」
父 「ははあ、“きつねの窓”をつくろうというのね。はい、いいですか、手を出してごらん。親指と人さし指の先をつけ、そのまま少し力をいれてください」
小夜「こうですか、はい、できました、きれいなひし形の窓」
父 「かわいい指ですね、小夜ちゃんのは。それではね、上の照明を消してください。こちらの照明だけにして、これを壁に映しますよ。さあ、影絵です、何に見えますか」
小夜「わあ、きつねさんだ!」
父 「そうです、コンコン、きつねさんです」
小夜「それでわかりました、これが子ぎつねのお話だったわけが」
父 「そうそう。このお話をつくった安房直子さんという作家さんにおとうさんは2度ほどお会いしています」
小夜「あら、ほんとうですか。ひょっとしてきつねさんに似ていたりして…」
父 「まさか、それはないですよ。おとうさんが、むかし、いろいろお勉強させてもらった人に山室静先生という人がいました。安房直子さんはその先生のお弟子さんのひとりだったんです」
小夜「ふーん。じゃ、先生のおうちでお会いしたのですか」
父 「先生のおうちと、それから、記念パーティで」
小夜「すてきな人でしたか」
父 「そりゃあ、もう。でも、この人は先生より先に亡くなってしまいました。12年前になりますけれど」
小夜「わー、小夜はその人にお聞きしたいことがあったのに」
父 「あら、どんなことですか、聞きたかったことって」
小夜「ききょうのお花畑って、どこにあるのか、っていうことです。おとうさんはご存知ですか」
父 「そうか、“ぼく”が山で道にまよい、ひとつ曲がったところにパーッと広がっていた青い野原、一面のききょうのお花畑でしたね。きれいだったでしょうねぇ」
小夜「いちめんに広がるききょう色の世界。そこをサッと白いものがかすめて走りすぎます。子ぎつねでしたね」
父 「そのききょう畑がどこにあるのか、…おとうさんは知りません。勘でいうと、富士山の南麓のどこかにあるような…」
小夜「それから、もうひとつお聞きしたかったことがあります」
父 「なんですか、もうひとつのことって」
小夜「ききょうの花は星形ですよね。角が五つです。ひし形といえば角は四つ」
父 「星形でしたっけ。秋の花ですから、いまはたしかめられないですけれど、小夜ちゃんはききょうの花のつぼみは見たことありませんか」
小夜「あっ、そうですね、四角ではないかも知れませんが、ひし形に近いかたちでしたね」
父 「で、小夜ちゃんはそのひし形の窓から何を見たいのですか」
小夜「それはおとうさんにも内緒ですよ。だって、お話ししちゃったら見たいものが見えなくなっちゃうじゃないですか」
父 「でも、染め物屋“ききょう堂”に行って、ききょうの汁で指を染めてもらわなければなりませんよ。それに、あの子ぎつねが化けた店員さんがちょうどいるかどうか…」
小夜「そう、ですから小夜はそのききょう畑に行ってみたいのです。どうすればいいですか、おとうさん」
父 「そんなときは、おかあさん。おかあさんが教えてくださるはずですよ。おかあさんは何でもよくご存知ですから」
小夜「ご存知だといいですけれど」
父 「でも、一面のうす青いききょうの原っぱ、なんだか寂しそうだなあ。ちょっとこわいなあ」
小夜「だめですねぇ、おとうさんは。ききょう畑を怖がったり、イヌを怖がったり…。どうしてイヌがこわいのか、小夜にはわかりません」

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(1)幸福の王子……オスカー・ワイルド


父 「ゆうべ、小夜ちゃん、何時間泣いていたと思いますか。3時間以上ずうっと、かわいそう、かわいそう、といって泣いていましたよ」
小夜「だって、王子さまもツバメさんも、あれではあまりにもかわいそうじゃありませんか、いくら天使がふたりを天国へつれていってくれるといっても」
父 「あのお話はお母さんの大好きなお話のひとつです。きっと今度また、お母さんがお話ししてくださるはずですよ」
小夜「王子さまもツバメさんもかわいそうですけれど、小夜がいちばんかなしかったのは、ちがうのよ」
父 「あらっ、なにがいちばんかなしかったのかな」
小夜「ほら、寒いのに火がなくて、手がかじかんで、おなかもすいて、お芝居の本が書けなかった学生さんがいたじゃないですか。あの学生さん、ちょっとお父さんみたいだな、って」
父 「えーーッ! おとうさんのこと、そんなにかわいそうですか。たしかにお父さんは貧乏なもの書きで、小夜ちゃんにあまり楽しいことをしてあげられない。ごめんね。そうそう、あの学生さんによく似ているかもしれないね。小夜ちゃんのそんなやさしさにお父さんはまいっちゃうな」
小夜「お父さん、小夜に〝ごめんね〟なんていわないでください。それより、幸福な王子さまとツバメさんのお話、またしてくださいますか」
父 「いいけど。それにしても、ツバメは最初、葦が好きだったのに、今度は王子さまを好きになってしまった。ちょっとズルくないかな」
小夜「それは、お父さん、ちがうと思いますよ。ツバメさんは葦のことをほんとうに愛していました。だからお別れがつらいので、いつまでもぐずぐずしているうちに、エジプトへ帰るタイミングをなくしてしまいました。とても葦を愛していたからですね。葦を通じて愛するということを知っていたから、王子さまを愛するというほんとうの愛、もう一段と尊い無私の愛、自己犠牲の愛というものの大事さがわかったんではないでしょうか」
父 「愛を知っていたから、本当の愛とはどういうものかがわかった――、愛することを知っているこころにこそ、本当の愛が見えた――。そうなのか。そうだね、きっと。でも、天国へいっても、王子とツバメさんが結ばれることはないと思いますよ」
小夜「どうしてお父さんはそう考えるのですか。結婚できなければ人は幸福ではないということですか」
父 「わかりましたよ、小夜ちゃんのいいたいことは。ほんとうの愛はそういうところを超越しているといいたいのね。自分のことよりもほかのひとの幸福のために自分を投げ出す…、その尊さを愛によって知ったツバメさん。幸福な死だったのかも知れない。それにしても小夜ちゃんはずいぶんツバメさんびいきなんですね」

〔付記〕
 オスカー・ワイルドの童話は9編ある。いずれも自分のふたりの子どものために書いたとされるが、『幸福な王子』のほかの『ザクロの家』にしても、『ナイチンゲールとバラ』や『星の子』『若い王子』などにしても、他者への愛のために死んでいく美しい魂をえがいている点で一貫している。『幸福の王子』の最後の場面で、ふたつの魂――王子の割れた心臓とツバメの小さな死骸は、天使が大事に天国へ運んでいった。ほんとうの「幸福」とは、ひとのためにおこなう愛の行為のなかにある、そういたキリスト教的な主題をあらわした作品。
天性の語り手といわれるこの作者は、寓話的な味わいと唯美的な味わいを融合して、こうした新しい物語のかたちを生み出した。
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