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0705
旅の落し物〔国内編〕



《/芭蕉「おくのほそみち」義経主従を追って/佐渡に横たふ天の河》


〔2〕義経主従を追って俳句の旅

 NHKの大河ドラマ「義経」への関心の高さでしょうか、「義経の悲劇と芭蕉の旅のかかわりをもうちょっと詳しく、との声を三、四の方から寄せていただきました。この日曜日は私用が重なり、終日からから外を出歩いていたので見損ないましたが、ドラマはいよいよ「義経記」のクライマックス、追われる義経が描かれることになりますね。「安寿と厨子王」のおはなしから逸れてしまいますが、芭蕉の句にとらえられた義経主従の表情を…。
 浅香山(安積山)、安達原黒塚、福島の文字摺石、医王寺についてはすでにふれました。白河の関に至る前に那須野ケ原、殺生石を訪ねていますが、ここはご存知、那須与一ゆかりの地。こんなふうに挙げていくときりがありませんが、特にだれにも馴染み深い句をとどめている二、三のところを拾ってみましょう。
 平泉・高館(たかだち)で詠んだのが、

   夏草や つはもの(兵)どもが 夢のあと

ですね。高館は別名「衣川館」ともいわれ、義経主従が最期をとげたところ、“弁慶の立ち往生”の伝説が語られているところです。「つはものども」とは、義経とともに戦って散っていった家臣のことにほかなりません。また同時に、藤原三代の栄耀が崩れ去った地でもあります。
 鳴子をすぎ、尾花沢へ向かう途中にあるのが尿前(しとまえ)の関。陸奥(みちのく)と出羽の国境になっていて、芭蕉と曾良はここで関守に怪しまれて足止めを食います。やっと関所を通されたときには日は傾いて宿るところに難儀する事態に。やっと見つけた泊めてもらえる家は、この地に独特の民家で、土間のむこうは厩屋になっています。ゆっくり寝て休もうとしても寝られるものではありません。

   蚤虱(のみ、しらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと

という、風雅には遠い悲惨な状態。さて、ここですが、鳴子の湯といえば、義経の若君が生まれ、産湯をつかったところといわれていますし、尿前は、その若君がはじめてオシッコをしたところだといいます。ほんとかな~。義経たちが並んで立ちションをしたところ、という人もいるそうですが…。紅花の香りにつつまれて彼らはさぞや気持ちよく放尿したことだろうか。まあ、そんなことさえ伝説になるほど、日本人の判官贔屓には強いものがあるということなのでしょうね。
 もうひとつだけ挙げておきましょうか。もっとも胸うたれるエピソードをきざむ句は、

   むざんやな かぶとの下の きりぎりす

でしょうか。小松で詠んだ句で、倶利伽羅峠で木曾義仲の軍に討たれた老将、斎藤別当実盛を詠んだものですね。この人は、もともとは、頼朝や義経の父親である源義朝に従って大活躍したすぐれた武将。義朝亡きあと、平家につかえ、宗盛のもとにいました。木曾義仲にとっては2歳のころから親しみ、少なからざる恩義のある人でした。戦いでは、味方の軍勢がそろって逃げ落ちていきますが、そんななか、どうしたのか、くるりと後ろに取って返す一騎があった。多勢に無勢、たちまち討ち取られてしまいますが、見れば、大将が着けるような錦の直垂(したたれ)を着ている実盛ではないか。すでに70歳を過ぎているが、白髪を黒く染めて若武者を装っている。老いたりといえども憐れみ無用と、潔く戦った一武将の壮絶な最期。骨肉相食む戦国の世の悲劇ということになりますが、芭蕉は一匹のきりぎりすに実盛の霊を見たのかも知れません。このことは「平家物語」巻七や、謡曲「実盛」にくわしく語られていますね。(2005.10.26)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〔1〕安寿姫は、死んだのちどうした…?

   荒海や 佐渡に横たふ 天の河

 知らないもののない松尾芭蕉の名句である。ちょっと時期をはずしたかも知れないが、この句がじつは「安寿と厨子王」の物語に深いつながりがある……、と云ったら、びっくりしませんか。久しくここでのおはなし日誌は、ゆえあってお休みしておりましたが、今回はそのことをご紹介してみたいと思います。
 俳聖・芭蕉は46歳の春、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…」と風雲の思いに衝き動かされて「おくのほそ道」の旅に発ちます。「風雲の思い」と書いてしまいましたが、当時は、ふっと思いついて、行きあたりばったりにできるような旅ではありませんで、さまざまな思惑と綿密な計画があったことはいうまでもありません。とりわけこの年、元禄2(1689)年は、芭蕉が生涯の師とあおぐ西行法師の歿後500年にあたります。師が歩いた陸奥(みちのく)の道を自分も自分の足でたどってみたいとする西行供養の巡礼行脚の旅であったことがうかがわれます。またそれは同時に、源氏一族の悲劇、頼朝に追われて陸奥に逃がれ、そこで果てていった義経主従を供養する旅でもありました。(このことについては、その一部、佐藤継信・忠信をめぐるエピソードを掲示板10/16のほうですでにご紹介しました。また別に同じものを「物語寸景2-2」の「義経記と平知盛」の末尾に整理しましたのでご参照ください)

 さて、芭蕉とその弟子の曾良の旅は、日光を経、白河の関をすぎていよいよ陸奥に。仙台、松島、平泉などをめぐったあとは日本海側へ向かいます。出羽三山を過ぎ、能因法師や西行のゆかり深い象潟(きさがた)へ出て、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んで、日本海側の愁いをたたえた、悩んでうつむいているかの風情、うらむような風光をとらえています。ここがこの旅の最北端であり、ここから最終コースへ向かい、日本海に沿って南へ西へ…。
 旧暦の七月六日、新潟を舟で出て荒川を渡り、今町に到着します。現在の直江津・上越市ですね。このあたりまでは、怖いような濃い青さをたたえて咆え立てる日本海の海原を隔てて、佐渡島が見えていた……はず。「荒海や…」の句は、この地に着いた翌日に催された俳席でつくられたもの。ところが、芭蕉にずうっと随行していた曾良があらわしている「曾良旅日記」によると、その日は一日じゅうはげしい雨が降りつづいたとあり、天の河など見える状態にはなかったことが知れます。おまけに、たいへんな暑さと湿気のため、かなり重い病気に陥り、不快に悩まされていたようです。持病の疝気と痔核が出たようですね。そんなときに書いたのがこの句。
 今わたしの手元にあるテキスト、久富哲雄博士の『おくのほそ道』(講談社)によると、「眼前の荒海は、佐渡と本土とを隔てて、佐渡の流人たちは故郷の妻子を恋いこがれても逢うすべもない。今宵、牽牛・織女の二星が相会うという天の河を仰ぎながら、彼らはさぞ望郷の念にかられていることだろう、と述べて、親しい人びとと離れて佐渡をながめる越後路までやってきたわが身の旅愁を詠じたもの」と解説している。佐渡の流人たちの望郷の思いと結びつけたそういう鑑賞の仕方もあるでしょうが、いまひとつしっくり来ない。どうしても、これが実景を詠んだものではないことがひっかかる。

 疲れはピークにあり、体調不良のこのとき、芭蕉のこころにはっきりとイメージを結んでいたのは、佐渡の流人のことではなかったろう。そうではなく、この地で広く語られていた「安寿と厨子王」の秘話であったろうと想像するほうが自然だ。
 このおはなしについては、ラボのみなさんには改めて説明するまでもないことながら、念のため「説経節」からその概略をたどっておくと、奥州54郡の太守をつとめていた岩城判官正氏は、帝の勘気にふれて筑紫の国に流されます。その子どもの安寿姫と厨子王丸は、悲運の父を慕って、母と乳母(姥竹)とともに奥州から京へ向かいます。しかし、途中の直江津で人買いの山岡太夫にだまされ、母と子は別々の舟に乗せられます。だまされたとわかり、姥竹は悲しみのあまり荒れ狂う海に身を投げます。母は佐渡島へつれていかれ、両の目を泣きつぶしてしまい、鳥追いをしながら悲嘆の日々に耐えている。一方、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに売りとばされ、奴隷のよう、畜生のようにこき使われる日々。厨子王はのちには仏の導きを得て立身出世を果たし、丹後の国守に任ぜられますが、それに先だち、安寿は、弟を山椒太夫の桎梏の地獄から逃がれさすため沼に身を投げて死に、追っ手の足を一時止めさせます。
 安寿姫のその貴い心根と勇気、健気さ、清い自己犠牲の精神をしのんで、直江津のまわりでは多くの伝説が生まれました。人買いの地というマイナスイメージを払拭したいとの土地の人びとの思いもあったでしょうか。なかでも、安寿姫は入水していのち果てたのち、銀色の竜に化身して空高く舞いのぼり、星になったと語られるものがよく知られています。
 ほんとうは雨にたたられて銀河などは見えなかったけれど、芭蕉は安寿姫の化身たる竜の銀色のうろこで飾られた星空をこころいっぱいに描いてあの名句をつくったのだ、といっても、あながち間違いではないように思うのですがどうでしょうか。
 荒波を隔ててはるかな佐渡島へ渡る天の河の雄大な夜の川の流れと、安寿のどこまでも澄みわたるこころの風景と…。また、銀河の描き出す円弧なす流れは、佐渡にいる盲目の母のもとへ厨子王をいざなうために安寿が架けた橋である、というロマンあふれる説話もあり、芭蕉はこうした土地の人が語る安寿と厨子王の物語に思いを寄せてこの句をつくった。わたしはそう信じているのですが。

 上越市には今も銀河をまつる習俗が残ってさかんにおこなわれており、荒川(関川)の川べりに短冊をつけた笹を数百本立てて七夕を祝ったり、それにつづき、七日後におこなわれる盂蘭盆会は、身についた穢れを洗い落とす禊(みそぎ)の行事として、ふたつの古くからの習わしをむすんで人びとは町をあげて大事に受け継いでいる。
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