★芥川「利己心のない愛」とは… |
06月06日 (日) |
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神奈川近代文学館で開催されている(きょうまで)「芥川龍之介展」に行ってきました。横浜・港の見える丘公園のローズガーデンを埋めるとりどりの色のバラたち。そのあいだを縫う小径のむこう,霧笛橋(大佛次郎の名作「霧笛」に因んでつけられた名)をわたったところにある瀟洒な建物がその文学館。ベイブリッジもこの日の青空のなかにくっきりと浮かんで見えました。
理知的な名文家として敬愛するこの作家。初めて目にするさまざまな資料や遺品にふれ,予期した以上に満たされてすごすことのできた文学体験のひとときでした。
この展覧会を見たあと,ふと思いついたことがあります。ずうっと以前から気になっていたことばで,みなさんもお読みのことと思いますが,「侏儒の言葉」という作品に出てくる一文です。
「子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が,利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少なくとも影響の大半は,暴君にするか,弱者にするかである」
さあ,みなさんはこれをどうお読みになりますでしょうか。
今回の企画「芥川龍之介展」には,その前に「21世紀の預言者」というフレーズがつけられています。芥川はわたしたちに何を預言しているのでしょうか。上のことばこそ,その預言のひとつではなかったか,…そんなふうに思いつつ帰ってきたものです。
わが子へ傾ける利己心のない愛。無私な愛。この子のためなら自分の命を擲ってもかまわない,…幼い子を見て多くの母親はそう思うに違いありません。少子化傾向にあるこの時期,わが子への偏愛はいよいよ強まってきていると見ていいかも知れません。しかし,その愛は時には,子どもを暴君にしたり弱者にしたりする…。芥川はそういう。事実,ほかのひとのことばを聞けない幼い暴君や,心の弱さから考えられないような凶行に走る子どものすがたを,このごろよく見聞きする。
テューターという在り方は,その点,そのきわどさから幾分か免れているように思えるのですが,どうでしょうか。わが子だけに目を向けているわけにいかないのがラボのパーティ活動。で,いきおい,一定の距離を置きながらたくさんの友だちのあいだにいるわが子を見守ることになります。自由を100パーセント保証するその空間でつくられるその微妙な距離感がすぐれた個性の養育を,わが子に,そのまわりにいるラボっ子に施しているように思えます。テューターという人たちは,そういう健康な活動にあずかっていることを思う。
同じ「侏儒の言葉」にこんな一文もあります。
「われわれはいったいなんのために幼い子供を愛するのか? その理由の一半は,少なくとも幼い子供にだけは欺かれる心配のないためである」
こんな感覚,あります。幼児期をすぎると今度はすぐ生意気なことを言い出し,親を批判したり無視したり,もう憎らしくてたまらない,自分のやりたいこともやれなく,足まといだ,目障りだと思うこともありますけれど。
さまざまな苦悩を抱えて悲しい自裁をして果てたひとですが,この芥川という作家,無類の子煩悩であったことでも知られます。芥川比呂志(俳優・演出家),芥川也寸志(音楽家・作曲家)。それぞれのすばらしい個性がその膝元から育っていますね。
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Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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Hiromi~さん (2004年06月06日 16時00分)
「利己心のない愛」まさに現代の世相というか、最近の子供の様々な、事件
や、虐待。本当にそんな感じがします。がのさんのように深く本を読んでいま
せんので、よくわかりませんが、21世紀を、予言していた言葉だという事に
うなずける感じがします。
テューターという第三者が親とこどもの間に入りうまく機能していること
は、私自身も思います。自我自賛のようになりますが、ラボに来ている子供達
は幸せだといつも思うのです。
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Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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さとみさん (2004年06月07日 22時59分)
がのさま
母としてテューターとして考えさせられました。
私が自分の子どにもラボッ子にも向き合う時に、忘れない様にしていること
は、
「厳しさをともなわない愛は、どんな愛も単なる利己愛にすぎない」
子どもが一人の人間として社会に巣立っていく時に、必要な力。
その力を供えて欲しいと思うとき、時には厳しさをもって伝えていかなけれ
ば、どんなに無償の愛として、子どもをいとおしいと思っても、それは自己満
足な利己愛の域を越えられない。
なんだか、観念的なことしか書けませんが、今日の父母会でそんなテーマでひ
としきりお母さん方と真剣に話し合いがされました。
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Re:Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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がのさん (2004年06月08日 01時09分)
さとみさん,Hiromi~さん
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父母会のなかで「利己愛」「利己心のない愛」が語られたというのはたいへん
興味のあることですね。芥川の一文を借りて「利己心のない愛」というものを
みなさんの前に投げ出してみました。むずかしいことですね。加えて,わたし
は母親だったこともテューターだったことも(恥かしながら,父親らしかった
ことも)ない身,はっきり申してわかりません。
じつはついさきごろ,スミティさんの掲示板に書き込ませていただいたことな
のですが,コミュニケーションにおいては,ことば以前に人と人との関係性,
その距離の取り方が問題なのではないかということを書き,芥川が言っている
のもそのことなのではないかと思うのですが,どうでしょうか。平たく言え
ば,べったりな関係からはほんとうの価値ある個性的なものは生まれないとい
うこと。このごろのお母さんは美しいだけでなくやさしいですからね,叱りつ
けたり撥ねつけたりはなかなかしないようですし,自分の子どものこととなる
と何から何まで知らないと気がすまないらしい。突き放すなんてとんでもない
こと。そうやって親が子を偏愛するあまり,子が自分で考え判断する前にぜん
ぶ親が取り上げてやってしまう。自分の頭脳で判断する経験がないから,何を
やっても実感が薄く,ひとを傷つけてもその痛みはわからない。芥川のいう
「暴君」は必ずしも家庭内暴力のことを意味してはいないと思いますが,自分
の欲のことのほかには考えない人格,本当の実力はないのに「おれが,おれ
が」を振りまわす暴君に陥りやすい,またはひとに互して戦う力のない,免疫
力のない弱い人間を生んでしまう――21世紀人に向けるそういう警告だった
のではないかと推測しますが,どうでしょうか。
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Re:Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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がのさん (2004年06月08日 20時57分)
さとみさん
>「厳しさをともなわない愛は、どんな愛も単なる利己愛にすぎない」
子どもが一人の人間として社会に巣立っていく時に、必要な力。
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ふと思いついたことがあります。時代を動かし新しい社会づくりに貢献した歴
史的な大人物のことを読んでいて,意外に多いのが,父母の慈しみを受けて幼
少期を過ごしたというよりは,祖父母に可愛がられ,いろいろな体験をし,そ
の都度,教えられるということもなしに教えられつつ育ったというタイプの人
物。
ここに大事な「距離感」の秘密があるのではないか,…という思いつきです。
父母は現実的なやりくりに日々きりきり舞いをしています。昔の人は子どもの
ことをかまっているゆとりはなかったのでしょう。お父さんに限らずもお母さ
んもいつも背中を向けて何か黙々と仕事をしていました。それにひきかえ,お
じいさん・おばあさんにはゆとりがありますね。それに,たくさんの経験智を
もっています。そして,父母より一世代多く生きてきた人です。時間の感覚,
歴史の感覚が違います。ですから,いつもおじいさん・おばあさんのそばで育
った人は,目の前のものを性急に追うのではなく,長いスパン,広い視野から
冷静に客観的にものを見る力を知らず識らずのうちに体得していた,それがゆ
くゆくは時代を動かすエネルギーとなっていった――。そう考えるのはこじつ
けでしょうかね。
親の利己的な愛がどう働くかというと,自分の仕事をどんなことをしてでも継
がせるというようなリアルな例も含まれるかも知れません。それはなかなかう
まくいかないことが多いですよね。
利己心を離れた祖父母と孫のあいだの距離がちょうどよい,そんな感じがしま
す。核家族化の時代にそれは非現実的かも知れませんね。でも,どうでしょう
か,ラボの理想のひとつである異文化とのふれあいと併せ,タテ長をほんとう
のタテ長にして日常的に多世代とふれあうことのできる環境づくりも考えてみ
るというのは…。
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Re:Re:Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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スミティさん (2004年06月08日 21時38分)
話題に割り込ませていただきます。
今のお母さん方はまさにそこで悩んでいらっしゃる。
私は 距離感というより、自己と他者のエリア感というか、領域感とい
うか、範囲をどこまでに取るかという気がするのですが。
母と娘なんてお互いの気持ちが分かりすぎるほど分かって、どこまでが
自分の気持ちで、どこからが相手の気持ちなんだか分からなくなって、
そこから、これは私なのよーと、もがき始めるのが小5くらいの気がしま
す。私自身を振り返っても。昨日も、小5の女の子のお母さんとそういう
話をしました。
小5、小6の女の子の友人関係もそれに似たところがあって、仲のいい子
とは、、気持ちが分かりすぎて、相手の期待も、みんな分かる。その中
で、自分自身はどうしたいのか、本当の自分お気持ちは何なのかわから
なくなるというか、自分自身に向き合えなくなるというか。
今、パーティの子どもたちやお母さん方に言っているのは、『私はどう
感じるのか。人ではなく、あなた自身はどう思うのか、どうしたいの
か。それを伝えよう』と。これってテーマ活動の中でいつも言っている
ことなのですけどね。
ついでに、『利己心のない愛』とは、究極『自己愛』かもと私は思うの
ですが。こんなことぽんと書くと誤解されかねませんが。
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Re:★芥川「利己心のない愛」とは…(06月06日)
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さとみさん (2004年06月08日 23時20分)
がのさん、スミティさんへ
>今、パーティの子どもたちやお母さん方に言っているのは、『私はどう
感じるのか。人ではなく、あなた自身はどう思うのか、どうしたいの
か。それを伝えよう』と。これってテーマ活動の中でいつも言っている
ことなのですけどね。
ついでに、『利己心のない愛』とは、究極『自己愛』かもと私は思うの
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そうですね。今の日本の社会では、敢えてそんなことをつきつけられる場面
は、あまりないまま社会に出てしまい、なんなら結婚して子どもをもって、、
子育てしてはじめて自分は一体何をどうしたいのか。自分の子どもにはどう育
って欲しいのか、、つきつけられる。
自分が何者かがわからないままでは、他人との違いも結局受け入れられず、そ
れは親子関係にも通じることなのかもしれませんね。究極のところ、自分しか
愛せない人間が増えてしまっている?!
そんな人間が親になってしまている?!
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>ラボの理想のひとつである異文化とのふれあいと併せ,タテ長をほんとう
のタテ長にして日常的に多世代とふれあうことのできる環境づくりも考えてみ
るというのは…。
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今こそ、ラボの活動をおじいちゃん、おばあちゃんも巻き込んだラボの輪を広
げていけたら、素敵ですね。
建設的な展望が見えてきたところで、
セーノ、チャチャチャ、グッグッ、チャチャチャ、グッ、ピー、シュワッチ
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