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〔がの〕さんの閑粒子日記
〔がの〕さんの閑粒子日記 [全205件] 141件~150件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
★ナンセンスの極み『ごろごろ にゃーん』(長新太) 10 07月03日 ()
小夜/「ごろごろ にゃーん、ごろごろ にゃーんと、ひこうきは とんでいきます」。文句はこればっかりですよ。
がの/そう、このことばだけ14回くり返されます。
小夜/かわっていますね。呪文みたい。
がの/もう、あきれてしまいます、びっくりです。これほどひとを食ったはなしって、ほかにあるでしょうか。
小夜/ばかばかしくてあきれてしまいます。でも、おッもしろい!
がの/これは、『ちへいせんのみえるところ』と並んで、長新太のナンセンスとユーモアの極致と言っていいのではないでしょうか。日本の絵本作家をずずずーっ見渡しても、こんな奇想な世界をつくるひとは、まずいませんよ。

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小夜/「ごろごろ にゃーん」というからネコちゃんのかわいいおはなしかと思えば、飛行機のおはなしでした。
がの/そうですけれど、ほら、へんてこな飛行機を操縦しているのは、どうやらネコちゃんみたいじゃないですか。
小夜/その飛行機ったら、カッコわる~い!
がの/そんなことをいったら、この6月25日に亡くなったばかりの絵描きさん、怒って小夜ちゃんのところに化けて出てくるかもしれませんよ。まだそのへんに魂はただよっているんですから。
小夜/だって、…飛行機といっても、お魚のオバケみたいですよ。エンジンもなければプロペラもない飛行機なんて、へんですよ。
がの/トビウオのひれみたいな翼をつけた、ぶかっこうな飛行物体。どちらかというと飛行船でしょうか。それが、「ごろごろ にゃーん」「ごろごろ にゃーん」と、ずんずん飛んでいきます。
小夜/ありえないわ、空中から海に糸を垂らしてお魚釣りをするなんて。なにを釣るのかしら。
がの/絵の下のほうを見てごらん、巨きなクジラが、ほら、いっぱい、いっぱい並んで、大きく口をあけ、歯をむき出して、ぎょろりとした目でにらみつけながら、その飛行物体がすぎていくのを見送っていますよ。飛行機が墜落するのを待っているのかな。
小夜/地平線にそって長々と横たわっている大蛇のうえを、のんびりと「ごろごろ にゃーん…」
がの/人のすがたの見えない大都会のうえを、静かに、静かに「ごろごろ にゃーん…」
小夜/あら、おとうさんの大の苦手なイヌも出てきましたよ。あららら…、しっぽの先をイヌに噛みつかれたまま飛行機は「ごろごろ にゃーん…」と飛んでいく。
がの/おっ、だいじょうぶかな、大峡谷にかかる鉄橋の下をくぐっていきますよ。
小夜/満月の光をいっぱい浴びながら、ジャングルのうえをゆうゆうと「ごろごろ にゃーん…」
がの/はっハっはっハはハはハ・・・。おなかがよじれてしまいそう。もう、おかしくって、あきれて、笑うしかありませんね。これぞ新太ワールドというわけ。

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小夜/これほど笑えたご本、小夜はほかに知りません。おとうさんは、どちらかというと、むずかしいご本を読むことが多いじゃないですか。急にこういうおはなしを読んだら、笑ったひょうしにアゴが外れてしまわないですか。
がの/おっ、たいへんだ。アゴはなんとか無事ですけれど、頭のネジがマジでズレてしまいそう。発想の奇抜さ、奔放さ、ハチャメチャなナンセンスには、めまいがして世界がクルクルまわって見えます。ひとによってはこれを「暴力的なまでのくだらなさ」と、おもしろがって評するひともいますが。
小夜/暴力的なまでのくだらなさ…。ぴったりだわ。そうよ、ゴロツキのおかしさよ。だからゴロゴロ…なんだわ。でも、よくわからないのは、最後の場面。なぜですか、いきなり人間の手がニューッと出てきたりして…。
がの/だって、小夜ちゃんも、この絵本の世界で常識のワクから思いっきり遠く離れて楽しみ、大笑いしたじゃないですか。いってみれば、空想の世界、いや、狂気の世界で遊ばせてもらいました。ピーター・パンや妖精ではないですから、人間はいつまでもそこにとどまってはいられません。おとなだって子どもだって、行ったら、こんどは帰らなければなりません。山に登って、そのまま帰らず、仙人になる人は別ですけれど。正気の世界、現実の世界に帰らなければならないのです。さあさあ、長新太という名うての魔術師がかけた催眠術から解かれて、そろそろ現実の世界に帰らねばならない時間ですよ、そう知らせてくれている標識と考えたらどうでしょうか。
小夜/わかりました。たっぷり遊んだあと、日没になり、「さよなら、さんかく、またあした」といってお別れする時間になったのですね。
がの/でもね、このおはなしは、げらげら大笑いして、それでおしまいというおはなしではないと思いますよ。ナンセンスの向こう側までよ~く目をすえて見てごらん。わたしたちに向けるやさしいいたわりの目が光っているとともに、人間というもの、その生き方、社会というものをじっと凝視して批判する目がぎらぎら光っていますよ。すぐれた絵本にはかならずそういう一面が秘められています。
小夜/もうひとつだけ、いいですか。長新太さんの自作絵本は、この『ごろごろ にゃーん』だけでなく、ほかの絵本を見ても、同じことばが何度もくり返されます。ことばが少ないですよね。『ちへいせんのみえるところ』なんて、唯一のことば「でました」が何度も何度もくり返されます。
がの/ことばをぎりぎりのところまで削り落として絵で語ろうとする絵描きさんの挑戦でしょうね。小夜ちゃんはまだ見ていませんが、同じこの作家の『しっぽ』や『ぼうし』でも、それぞれの見開き画面にあるのはたったの1行か2行の文だけ。 『もじゃもじゃしたもの なーに?』になると、もう、ことばはまったくありません。そうした試みは長新太さんがはじめてではなく、たとえば、覚えているでしょ、太田大八さんの名作絵本『かさ』。墨一色のペン画であらわされている世界に、幼い子のさす赤いカサの動き。すごく印象的でしたね。急な雨で立ち往生しているおとうさんを駅までお出迎えに行くのですが、そこにことばはひとつもありません。それでも、女の子のこころに動いている感情をじつに的確にとらえていました。ほら、おりこうさんのおつかいのごほうびに、おとうさんはケーキ屋さんに立ち寄ってくれたじゃないですか。
小夜/おとうさん、図書館に行きましょう。見たいご本がまたいっぱいになりました。
がの/ですけど、ケーキ屋さんには寄りませんよ。
★歴史の真実を知る勇気…『屋根裏部屋の秘密』松谷みよ子 9 06月10日 (金)
小夜/イーダちゃんのゆう子ちゃんは、もう「さよなら、あんころもち、またきなこ」なんて云いませんね。
がの/『ふたりのイーダ』ですね。2歳11か月のゆう子ちゃんは、おしゃまで、元気いっぱいで、勝ち気でしたが、ここでは中学生ですからね、気にいらないからといって「イーっだ!」なんて云いませんよ。
小夜/小学4年生だった直樹くんは大学生。ゆう子ちゃんにはとってもやさしいお兄ちゃまでしたけれど、今回の『屋根裏部屋の秘密』では、以前にも増して思慮深い、たよりになるお兄ちゃまになっています。夜中、黒姫までおんぼろ車を走らせてすぐにとんできてくれましたね。
がの/そうそう、おはなしのおもな舞台は、「花姫山」の山荘となっていますけれど、これは明らかに黒姫山のことです。「山桑」という地名が出てきたり、滝(ないの滝)や湖(野尻湖)のことも書かれています。黒姫山の南面といいますから、きっとラボランドくろひめに近いところかも知れませんよ。
小夜/わー、黒姫ですね。去年の夏の終わりころ、おかあさんといっしょにファミリーキャンプに参加しました。高原の風を受けてのハイキング、野尻湖では遊覧船に乗りましたし、木の下でみんなでつくって食べたバーベキュー、どれもみんな楽しかったです。

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がの/『ふたりのイーダ』では、ヒロシマに落とされた原爆のことが背景になっていました。今回読んだ『屋根裏部屋の秘密』では、おとうさんの生まれる少し前にあった戦争のことを背景に作者は語っています。とっても、とってもおそろしいおはなしでしたね。
小夜/こわかったですよ。こんなにこわい思いをしたのは初めてです。夜、床について目をつむるでしょ、すると悪魔のような顔が次つぎに浮かんできて小夜を脅かすので、ずうっとうなされているほどでした。
がの/でも、「歴史」についてちゃんと知りたい、と云ったのは小夜ちゃん自身でしたからね。
小夜/だって、歴史認識がちがう、と云って、中国のひと、韓国・北朝鮮のひと、ほかのアジアの国のひとたちが口をそろえて日本のことを怒っているじゃないですか。
がの/中国のいろいろなところで反日デモと日本製品の不買運動がおき、ひどい破壊行為がなされました。
小夜/日本のひととは歴史認識がちがうので仲よくできない、というのですけれど、小夜にはその「歴史」というのが何のことなのか、ぜんぜんわかりませんでしたので。
がの/そうなのよね、日本の人びとにとっての戦争の歴史とは、ヒロシマとナガサキの原子爆弾のことか、沖縄戦のこと、東京大空襲のこと、あるいは特攻隊のことなど、ある程度限られていて、もっともっとあったはずの、戦争が刻んだむごい事実、個々の不幸な事実については封印されてきたというに近いですから。
小夜/小夜たちは、いまこうして、ゆたかなモノに囲まれた、平和な時代に生きていますが、まだそんなに昔でないとき、そう、まだ60年、70年しかたっていないとき、世界に何があったのか、わたしたちの先祖たちが戦争のなかでどんなことをしてきたのか、このご本でその一端を見ることになりました。
がの/そうです、ナチズムによってユダヤの民を大量殺戮したアウシェビッツのことはよく世界に知られていますけれど、この日本にも同じような殺人工場があったのです、日本のアウシェビッツが厳然としてあったのです。この作品は、平和の時代をのうのうと享受しているわたしたちに、その傷口を見せてくれているのです。
小夜/赤沼英一という老人が病気で亡くなります。エリコさんのじじちゃまです。エリコさんにとっては、とってもやさしい、すてきな、理想的な方でした。このエリコさんが、ゆう子ちゃんと直樹くんのはとこにあたる子で、ゆう子ちゃんと同じ中学生でした。仲のよい同士でした。
がの/エリコさんは、おとうさんもおかあさんもなく、生まれたときから体質が弱く、いつもゼンソクに悩まされていました。
小夜/病気がちの孫むすめのために、お金持ちのじじちゃまは黒姫山のふもとに瀟洒な別荘を建ててやり、エリコさんは夏に冬にその山荘にやって来て健康を養っていました。
がの/で、そのすてきなじじちゃまですが、ある大きな製薬会社の重役をずうっとつとめてきた人でした。血液製剤を開発した功績によって名をあげ、会社に莫大な富をもたらし、自身も途方もない財をなした人でした。
小夜/そのじじちゃまが亡くなるとき、孫のエリコさんにナゾのようなことばを残します。山荘の屋根裏部屋においてあるダンボール箱ひとつの書類について、その処分をまかす、というのです。鍵がかかったまま、だれも開けたことのない屋根裏部屋。エリコさんはゆう子ちゃんに手つだってもらいながらやっとその屋根裏部屋を開け、ダンボール箱をみつけますが、それがとつぜん、魔法のように消えてしまいます。
がの/その不可解な喪失事件を解明すべく、ゆう子ちゃんが活躍、お兄ちゃまの直樹くんを呼びつけていっしょにナゾを追求していくのでしたね。
小夜/こわい、こわい秘密のベールがこの兄妹によって一枚ずつ剥ぎとられていきます。小夜はほんとうにドキドキしました。
がの/わたしたちのおじいちゃん、ひいおじいちゃんたちの世代の人たちが、先ごろの戦争のなかで何をしてきたか、その醜い断面が赤裸々にあばかれていくおはなしの流れは、まるで推理小説のようでしたね。
小夜/それは、信じていいことなのかどうか、小夜は混乱して、ほとんど宙空に浮いたような気分でした。
がの/旧満州のハルピン、そのピンファンというところに七三一部隊がおかれていました。これが細菌戦のための秘密研究所だったのですね。中国人や白系ロシア人の捕虜たちがここでむごたらしい人体実験に供されたというのです。
小夜/ひどいですよ、捕虜になったその人たちは、名もない「丸太」と呼ばれ、何人、何名と数えられることもなく、「何本」といって数えられたというのですから、もう…。戦争とはもともとそういう非人間的なものなのでしょうが。
がの/その「丸太」を生きたまま解剖する、細菌感染の被験体として使う、高圧電流にかけてその反応を観察する、洗濯機の脱水槽のような機械、大きな遠心分離機に生きながらかけて、ガラガラと高速回転させ血を集めて、その血を抜いて採取し調べる、というようなことも。ね、悪魔も鬼も思いつかないような残虐なことを日本の兵隊さんがやっていたことを記録した書類だったのね、それは。
小夜/どれほどの高熱に人間は耐えられるものかの熱湯実験、どこまでの空腹と飢渇に人間はたえられるものかの飢餓実験、どれほどの低温まで人間は耐えられるのかの凍傷実験なども、くり返し、くり返しおこなわれていたようですね。
がの/その部隊の軍医として中心になって生体実験をおこなってきた人物こそ、赤沼のじじちゃまだったことがわかります。復員してきて、戦場でやってきた非道なことにはきれいに口をぬぐい、その実験で得たさまざまなデータをもとにして、人間の生命保持に欠かすことのできない血液製剤をつくり、人類を救う貴重な発明者として名をなし出世をとげ、豪邸に住んで何不自由のないゆたかな生涯をおくり、その暗部だけを後世のものに押し付けて、さっさとあの世へ逝ってしまった老人。

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キジムナーが出てきそうなガジュマル。群馬フラワーパークにて


小夜/秘密を守ろうとして、会社はその書類がほかのだれかの目にふれないうちに処分してしまおうとします。ずるいわ。それはできませんでしたけれど、さて、次の世代は、押し付けられたその重い責任をどう負っていけばよいのでしょうか。
がの/そこですね、アジアの人びととほんとうに仲よくやっていけるかどうかのカギは。日本人があまり触れたくない歴史的事実ですが、それはそれで終わったわけではなく、七三一部隊が残した細菌をめぐる生体実験のデータは、たとえばヴェトナム戦争のときにアメリカ軍が利用して、枯れ葉剤というおそろしい毒薬をつくりました。それによってヴェトナムに多くの奇形児が生まれたのは、世界が知る事実です。小夜ちゃんには、こうしたことはいまはむずかしくてよくわからないかも知れません。でも、これから小夜ちゃんたちがしっかり考えてくれなければならない問題です。
小夜/うーん、それはたいへんな宿題ですよ。
がの/そうですよ。そしていま『屋根裏部屋の秘密』を通じて小夜ちゃんが知ったのは、戦争のなかの、あるひとつの事実でしかありません。わたしたちはきちんと知らなければならないことをもっともっと抱えています。そして、逆に、捕虜になった多くの日本人も同様な死をとげているという歴史も忘れることはできません。
小夜/はい、香月泰男さんの絵で、寒さと強制労働のなかシベリアで亡くなった人たちの亡霊を見ました。シラカバの木を焼いた燃えさしで描いたという暗い絵は、ショックでした。
がの/加害者であると同時に被害者でもあり、そこでは「何人」ではなく「何本」と数えられる存在として戦場に立った兵士たち。戦争には勝ちと負けがあるだけで、破壊に破壊を重ねて勝ち負けを争うもの。そこには人道的なルールなんてありません。日本は先の戦争を戦って負けました。負けて数えきれない悲劇を生みました。そのことからわたしたちはたくさんのことを学び、ぜったいにそんなつまらないことをくり返さない知恵を持たなければなりませんね。
小夜/ほかの人から受けたこころの傷や侮辱は50年や60年で消えるものではないと聞きます。
がの/そうそう。ですから、日本軍が外国で犯してきた非道なおこないについても、まずは、残さず知り反省する必要があります。いちばん人間が賢くなれるのは、そうした間違いを正確に認識することからですし、おとなりの国と本当に仲よしになるためにも、その認識を共有できるかどうかがポイントです。隠されていることをそのまま眠らせ、知らないままにしておいてはいけないと思います。自分の国の恥ずかしいマイナス面を知ろうとする人は、事実、そんなにはいないでしょう。残念ながら、それはだれにも、あまり愉快なことではありませんのでね。
小夜/愉快でないからといって目をふさぎ、うわべだけの空っぽの交流をいくらくり返しても、ほんとうに近づいたことにはならないのですね。さあ、どこから踏み出しましょうか…。
★テキサスの青い花 4 06月02日 (木)
テキサス州の州花をご存知ですか。
アメリカ・テキサスの春の丘は、目のさめるような青い花でおおわれるそうです。
ルピナス、あるいは現地ではふつう、ブルーボンネットと呼ばれているとか。
わたし自身はテキサスに滞在した経験はなく、
この花をそこで見たわけではありませんが、
この5月の最後の週末、長野・安曇野と上高地、穂高などを旅行しながら、
たまたま各所でその花が群生しているのを目にする機会がありました。

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6月が目前とはいえ、安曇野はまだ春が訪れたばかり、アルプス連山の雪形が
くっきりと浮かび、野は目にしみるような新緑にうずもれていました。
3台のレンタカーを連ねてのグループの旅でしたので、
写真撮影のためにと、わたしだけ勝手に停車するわけにはいかず、
運転しながら路傍の花を横目で見るだけにとどまりました。このルピナス、
このごろは改良種がつぎつぎにあらわれ、わたしの住む町でも、青だけでなく、
じつにさまざまな色のものが見られます。
しかし、これほど群生している景観を奥信州で目にするとは、意外でした。
高原の澄んだ風のながれのなか、それはあざやかな色を見せていました。
原産地はギリシアなどの地中海沿岸地方。マメ科の多年草。
この花がテキサス州花で、テキサスの先住民コマンチ族と深いゆかりをもっている
と知ったのは、トミー・デパオラの『青い花のじゅうたん』という絵本
(評論社刊、いけださとる・訳)によります。
トミー・デパオラの作品が新しくラボ・ライブラリーの仲間に加わると耳にしましたが、
その絵本作家が、コマンチ族の昔ばなしから再話し、絵を描いて刊行した、
ちょっとシックな絵本。一人の少女の犠牲とけなげな勇気を描いています。

その年、テキサスにいのちを恵む雨がなく、日照りが長くつづきました。
たくさんの子どもや老人たちが飢餓のなか、死んでいきました。
わずかに残った子どものなかに一人のかわいい少女がいました。
この子はおかあさんがつくってくれた鹿の皮の兵士の人形を持っています。
なによりの宝物として、とても、とても大事にして持っています。
飢饉に困りはてた人びとがティピ(動物の皮でつくったテントの住まい)の前に集まり、
まじない師のことばを聞きます。
――これは、人間がじぶんのことしか考えないようになってしまったからだ。
大いなる精霊はいけにえを求めている。この日照りつづきと飢饉を終わらせ、
この地にいのちをよみがえらせるためには、われわれがもっているもののうちで、
もっともたいせつにしているものを燃やして供えなければならない、と。
少女も、離れたところからそのことばを聞いていました。
自分がいま何をしなければならないかを知った少女は、
夜になり、みんなが眠りについてシーンと静まりかえると、そっと外へ出て、
丘のうえにのぼり、枯れ枝を集めて火をつけ、ぼうぼうと燃える火のなかに、
宝物にしてきたお人形を投げ込みます。
そして翌日、朝日に目ざめて丘を見ると、丘が一面きれいな花におおわれていました。
これがルピナス。
やがてテキサスの大地に雨が降り、すべての生きものがよみがえります。
以来、テキサスの丘や谷は、春になると、ルピナスの青い花でうめつくされるようになった、
という、そういうおはなし。北米先住民族の素朴な生活と信仰がうかがえますね。

この夏も多くのラボっ子がアメリカ・テキサス州で交流を結ぶことでしょうか。
なんとまあ、この花ことばは「多くの仲間」だという。
こんなおはなしをこころのすみに抱いて海のむこうへ発ってくれるといいなぁ、
と思うものですから。

※…写真はいずれも、安曇野のものではなく、わたしの家の近所で撮ったものです。
※…画像2点削除
★賢治の風光――幸せの文様は光の網のゆらめきに似て…「やまなし」 13 05月27日 (金)
がの/ヤマボウシの並木はここで終わりです。よく歩きましたね、疲れませんでしたか。5月の光線は強いし、お帽子をもってきてよかったね。その道を越えると、むこうは鶴見川ですよ。
小夜/気持ちのいい風がきます。水のある風景はこころがなごみます。
がの/あらぁ、きょうは水がにごっていて、川の底までは見えませんよ。ゆうべ、はげしい雷雨がありましたからね。
小夜/賢治さんの「やまなし」で、小夜にとっていちばん印象に深いのは、水の底で光のアミがゆれるシーンです。おかあさんに読んでいただいたあと、いまもそのイメージが頭のなかいっぱいに広がっています。

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ヤマナシです。ようやく図鑑で見つけました。


がの/「波から来る光の網が、底の白い磐(いわ)のうえで美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました」……水がレンズのようになって水の表面にできたヒダを川の底に映しているんですね。
小夜/おとうさん、小夜はそれを見たことがあります。去年の夏の終わりでした。
がの/家族みんなで山の奥の温泉へ行きましたね。お散歩で旅館の近くの渓谷に出、下まで降りたところに湧き水がありました。透き通った水がキラキラ輝いていました。
小夜/そこで光の踊り子が楽しそうに踊っていましたね。お魚も見えました。
がの/小夜ちゃんはそこに坐り込んでしまい、いつまでも動こうとしませんでした。
小夜/もっと見ていたかったのに、おかあさんに叱られてしまいました。「置いていくわよ、クマさんが来ても知りませんよ」と。そんなにいわないでもいいのに。
がの/ずいぶん長く待たされていたからね。
小夜/そよとすずしい風がきて、水のうえに小さなヒダができます。そのヒダが糸のような線をつくって砂のうえに影を落とすのですね。その線が伸びたり縮んだり、一瞬ごとにちがう形をつくって水底に映っていました。きれいでした。小夜は、もう、夢中でした。ですから、おはなしのカニさん兄弟はいいなあ、いつもあの光のダンスを楽しめるから、幸せだろうな、と。
がの/さて、幸せでしょうか。カニもお魚も、いつもいのちの危険にさらされながら生きているすがたが、おはなしの前半で書かれていたじゃないですか。
小夜/そうそう。恐かったですねぇ。カニさんのすぐ目の前で、それまでゆうゆうと泳いでいたお魚が、アッという間に青い光のなか、消えてしまうのですから。
がの/カワセミでしたね。渓流の宝石と呼ばれる美しい鳥ですけれど、そんなこわい性質もあるんですね。それに、消えたあの黒いお魚は、小さいカニさん兄弟を食べてやろうとねらっていたのかも知れませんよ。そうだとすると、カニさんはカワセミに助けてもらったことになる。
小夜/それに、よくわからないのは、クラムボン。なんでしょうか、クラムボン、て。
がの/笑ったり、跳ねたり、また、死んだり、殺されたり…。さあ、小夜ちゃんはなんだと思いますか、クラムボン、て。
小夜/ずうーっと考えても、それがわかりません。おかあさんはアメンボのことかしら、とおっしゃいました。そういえば、ひょっとして、ミズスマシのことかな、と小夜は思ったのですけれど。
がの/わかりませんねぇ。カニのことを英語でクラブCrab というのね。ですから、もしかするとカニの赤ちゃんのようなものかな、とも思ったのですけれど。
小夜/「クラムボン」の「ボン」は、小さい子を呼ぶときの、○○坊、○○ちゃん、○○くんに相当する接尾語かも知れません。
がの/ところがね、研究者のなかには、クラムボンは賢治の妹のトシさんのことだと解釈するひともいます。
小夜/フーン、妹の死の悲しみを形にしたものですか。「クラムボンは死んだよ」「クラムボンは死んでしまったよ」という、歌みたいな、おまじないみたいな文章が見られます。
がの/悲しみの青い水の底にすんでいるカニ。青は悲しみの色で、これが愛する妹を喪った賢治の悲しみをあわわす、と。
小夜/あらら。そうしますと、おはなしの後半に出てくる“やまなし”って、なんでしょうか。
がの/悲嘆と絶望の底にいる賢治に投げ与えられた“希望”だといいます。
小夜/よく熟したやまなしが天井からトボンと落ちてきて、月あかりの水のなかには、いい匂いがいっぱいに広がった、とありました。
がの/2日ほど待てば、おいしいお酒になるんですって。
小夜/あっ、やはり“希望”のおとずれですよ。おはなしの前のほう、「五月」のときは、いきもの同士がとったりとられたり、食べたり食べられたりの、こわい生存競争の世界を書いていて救いがなく、あとのほう、「十一月」のときは、さあ、つぎの第一歩を踏みだそうという、明るい希望を書いているのでしょうか。
がの/そうかな。そうかも知れないね。「五月」の水のなかの様子は、小夜ちゃんのいう生存競争、弱肉強食の食物連鎖をするどくえがいています。賢治は、自分だけの幸せはほんとうの幸せではない、みんながいっしょに幸せでなければ自分の幸せはないし、永遠の幸せではない、と考える人でした。ほら、「銀河鉄道の夜」のジョバンニに、そう語らせていたじゃないですか。ですから、自分と同じように生きている動物たちも幸せでなければならない、同じ仲間同士で食べたり食べられたりするなんて、それはいけないことだと考えていました。「よだかの星」でも、そのことが書かれていましたね。
小夜/「よだかの星」ですか。とっても悲しいおはなしでした。どう生きればいいのか、賢治さんの苦しい迷いの見られたおはなし。
がの/賢治が菜食主義者だったことは知っていましたか。肉もお魚も食べないんですよ。「貝の火」では、キツネのホモイが自分のみにくい欲望に気づくことが書かれています。食べたいから食べる、本能のままに食べる、それでいいのだろうか、とみんなに問いかけていますよ。
小夜/あら~、小夜はお肉もお魚も大好きですよ。いけないことでしょうか。
がの/生きものを殺しながら自分を生かしていることを、悲しみとし、みにくい欲望と考える賢治のような人もいます。賢治の場合、そういう無理をするからいつも病気がちだったといわれることがあります。わが家は、おかあさんもおとうさんも、そんなふうには考えません。もともと貧乏ですから、そんなにおいしいものは食べられませんが、でも、つつましいながら、おいしいものをありがたくいただいています。おかげで家族みんなが健康です。小さな幸せと云えませんか。
小夜/生きているものをひとの手で殺して、それを食べている…。小夜はなんだかこわくなってきました。いけないことをしているような…。
がの/でもね、こうも考えられませんか。たとえば世界じゅうの人がお魚を獲ることをいっぺんにやめてしまう。そうしたら、海も川もお魚でいっぱいになってしまいます。それに、お魚を獲ることでおかねを得て生活している人が世界には何億といます。木だってそうですよ。木を伐ることをやめてしまう。そうしたら地球がぜんぶ木に占領されてしまう。いいことか、それとも悪いことなのか、それは別として、獲ったり獲られたりしながら、この地球のうえでバランスよくみんなが生きているんじゃないでしょうか。適当にね。小夜ちゃんの大好きなご本。これをつくる人がいて、どんなに一所懸命いいご本をつくっても、それを読んでくれる人がいなかったら、それはただの地球の資源のむだづかいでしかないでしょう。たくさんの木を伐って、それを紙にし、本にするのですから。木を伐りすぎることがいま問題になっていますけれどね。
小夜/どう考えればいいのか、むずかしいわ。賢治さんはそういうむずかしいことをずうーっと考えていたんですね。
がの/でもね、悲嘆の闇があって、また救いと希望の光がある。賢治はそのこともしっかり書いてくれました。
小夜/やまなし、ですね。カニの兄弟がアブクを吐いて、その大きさを競って遊んでいるとき、トブンとやまなしが落ちてきました。あのこわいカワセミかと思ってカニたちはドキッとします。“やまなし”って、どんな梨ですか。
がの/梨といえば、横浜のハマナシ、秋ごとにくださる方がいて、よく食べますね。わが家の秋のたのしみです。二十世紀、長十郎、菊水といったおいしい梨がありますけれど、ヤマナシについては、知りませんね。おうちに帰ったら調べてみましょうね。いつも目にする梨のようではなく、もっと小さい、ズミの実のようなもののように思いますが。

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(成美堂出版「日本の樹木」)山地に生え、高さ15メートルほどの落葉樹
花は白色で2.5~3センチ。果実は直径3~4センチ、黄色または淡褐色の球形


    (バラ科の落葉大高木。山地に自生。枝は黒紫色。葉は互生し、長楕円形。
    五月、径2センチの白色五弁花を散形につける。果実はナシに似るが、小形で、
    茶色または紅色に熟す。オオズミ、山林檎――「大辞林」による)

小夜/山梨県はブドウやモモの産地として有名ですけれど、ヤマナシもたくさんとれるのでしょうか。
がの/そういえば、山梨でヤマナシのことを聞きませんねぇ。そんなうわさはナシです。
小夜/おはナシにも聞きません。それなのにどうして山梨県というのかしら。山梨にお住まいの方で、もしそのことをご存知でしたら、お教えくださいませんか。
がの/クラムボンもヤマナシも、ほんとうのところはよくわかりません。これも賢治のイーハトヴの世界だけに見られる固有なものなのかも知れませんよ。
小夜/天井の波はダイヤモンドの粉のようにゆらゆらと燃え、川底では光の網が、カニたちのまわりで、伸びたり縮んだり、楽しそうに踊っています。最後はとってもきれいな印象ですね。でも、おかあさんは、このおはなしにおかあさんガニが出てこないのが不満なんですって! いカニもおかあさんらしいわ、笑ってしまいますね。

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★賢治の風光――それは幻視か幻聴か。「水仙月の四日」は色彩とひびきに満ち…。 9 05月20日 (金)
小夜/「アンドロメダ、あぜみの花がもうさくぞ、おまえのラムプのアルコオル、しゅうしゅと噴かせ」…スイセンのお花だけでなく、あぜみの花もおはなしに出てきましたよ。あざみのことを賢治さんのおうちのほうでは「あぜみ」というんですね。
がの/ちがいます。あぜみは小夜ちゃんがいつも気にしている「あざみ」のことではなく、「アセビ」のこと。「馬酔木(あしび)」と呼ぶこともあります。やはりスイセンと同じように春のはじめのころに見られる花。釣鐘のような小さな花がかたまりになって咲きます。
小夜/あっ、そうなのですか。アセビなら小夜の行っている幼稚園の花壇で見ましたよ。

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アセビ(馬酔木)


がの/それにしても、カシオピイアとかガラスの水車とか、アンドロメダ、アルコオルのランプとか、こうした文章をみると、宮澤賢治という人は日本人離れをした発想をする人だとは思いませんか。日本の基層にある古い文化や伝統をこうしたきれいなイメージにくるんで表現できるめずらしい人。
小夜/そして、ほんとうに美しいリズムをもったことばです。こんなことを云ってはいけないのかも知れませんけれど、おはなしのスジなんてどうでもいい、そのゆたかなイメージ、心地よいことばのリズムにふれるだけで、もう、十分で、小夜は「ありがとうございます」といいたいくらいだわ。
がの/ほお~ッ、小夜ちゃん、うまいこといいますね。
小夜/「雪童子(ゆきわらす)はわらって革むちを一つひゅうと鳴らしました。すると、雲もなく研きあげられたような群青の空から、まっ白な雪が、さぎの毛のように、いちめんに落ちてきました。それは下の平原の雪や、ビール色の日光、茶いろのひのきでできあがった、しずかな綺麗な日曜日を、いっそう美しくしたのです」。ね、おとうさん、うっとりしてしまいますね。涙が出てきそうなくらいきれいです。
がの/色彩に満ちた世界、その空間をヒュッとかすめる鋭い音。その世界に見られる微妙な動きをこまやかに捉えています。「もう、よほど冷たくなってきたのです。東の遠くの海のほうでは、空の仕掛けを外したような、ちいさなカタッという音が聞こえ、いつかまっ白な鏡に変わってしまったお日さまの面を、なにかちいさなものがどんどんよこ切っていくようです」。すべてが死に絶えたような静謐の世界での、ちょっとした動き、ちょっとした音、ほんのかすかな変化に、賢治の神経はピリピリ敏感に反応していることに感動してしまいます。

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小夜/「丘の稜(かど)は、もうあっちもこっちも、みんな一度に、軋るように切るように鳴りだしました。地平線も町も、みんな暗い烟(けむり)の向こうになってしまい、雪童子の白い影ばかり、ぼんやりまっすぐに立っています。その裂くような吼えるような風の音の中から……」
がの/ふ~ん、小夜ちゃんは、いつの間にそんなにおじょうずにご本が読めるようになったのですか。幼稚園のおともだちはまだ字が読めないのとちがいますか。
小夜/そんなことはありませんよ。詩織ちゃんも沙奈ちゃんも明音ちゃんも読めます。でも、裕美ちゃん、智世ちゃんはまだみたいですけれど。
がの/おとうさんもおかあさんも、これまで小夜ちゃんに字を教えたことはありません。いつから読めるようになったのですか。
小夜/いつから、なんていわれても…。おとうさんやおかあさんにこれまでに何百というご本を読んでもらってきましたし、ひとりでいるときや小百合ちゃんとふたりのときは、おとうさんやおかあさんを待ちながらいつもご本を見ていましたから、小夜にも知らないうちに読めるようになったのではないでしょうか。小百合ちゃんはときどき「おねえちゃま、ご本を読んで」といいますし。
がの/読めるというだけでなく、とってもおじょうずに語れるんすね。
小夜/そんなこといわれたら、恥ずかしいわ。おとうさんやおかあさん、それに、幼稚園の真由美先生のお話の仕方をちょっと真似しているだけです。
がの/すばらしいのは、読めるというだけでなく、お話をしっかり理解できること。大事なところをきちんと捉えられること。この「水仙月の四日」は、息もつけないようなはげしい雪あらしのなかで、雪わらしと赤いケットの小さな女の子の、次元を異にした交歓、ふしぎな愛情ですよね。女の子は一言もしゃべっていませんけれど。すべてを死でおおい尽くしたような雪だけの世界にさまざまなニュアンスと表情を与え、読むものの胸をポッとあたたかくしてくれるやさしさを見せてくれました。
小夜/「雪渡り」でも、次元を超えたつかの間の交わりが四郎ちゃん・かん子ちゃんとキツネのあいだにありました。だれのこころにもある憧れを書いてくれているんですね。ひとをいじめたり憎みあうのはよくない、どんな争いのなかにあっても、ほんとうはみんながだれとでもおともだちでいたい、という…。
がの/情け容赦もない雪ばんごも、ばさばさの髪を渦まかせながら東のほうへかけて行き、きびしい水仙月の四日は終わりました。いよいよ春です。そこの部分の文章も、おとうさんは大好きです。「野原も丘もほっとしたようになって、雪は青じろく光りました。空もいつかすっかり霽(は)れて、桔梗いろの天球には、いちめんの星座がまたたきました」。黒井健さんの描いている、星あかりの下、雪をかずいてひっそりと眠る山の絵もすてきですねぇ。
小夜/このご本に出会えて、ほんとうによかったわ。
がの/Play with me 先生のおかげですね。
小夜/「スーホの白い馬」を描いた赤羽末吉さんや、ラボの「大草原の小さな家」を描いている伊勢英子さんも、このおはなしの絵本を描いておられるようですので、そちらもぜひ読みたいです。それと、伊勢さんの新しい絵本「1000の風、1000のチェロ」も、すてきでしたねぇ。
がの/小夜ちゃんは、今回「水仙月の四日」のほか、「チュウリップの幻術」も読みましたね。こちらのことは、また機会があったら、ということにしましょうね。
小夜/はい、わかりました。でも、チューリップのことをうっこんこう(鬱金香)と呼ぶこともあるなんて、はじめて知りました。どんなことを思って昔の人はそんな名前をつけたのでしょうねぇ。
がの/白いチューリップの花から湧きあがる、すきとおったエーテル。じつはそれが光のお酒。青いすももの垣根に囲まれた農園で、洋傘直しと園丁のおじさんとが、その光のお酒を飲んですっかり気持ちよく酔います。おとうさんも一杯ごちそうになりたいな~。
小夜/あら、おとうさん。おとうさんはゲコゲコ蛙ちゃんで、アルコールはぜんぜんだめじゃなかったですか!
★賢治の風景――水仙月って…? 5 05月17日 (火)
〔掲示板の、Play with me さんへの返信「あざみ野」1、2とあわせてお読みいただけたら幸いです〕

がの/宮沢賢治は北国の冬についてたくさんおはなしを書いています。「水仙月の四日」のほか、小夜ちゃんはどんなおはなしを知っていますか。
小夜/「雪渡り」。四郎ちゃんとかん子ちゃんの“かた雪かんこ、しみ雪しんこ”のお歌がたのしいし、白いキツネさんの幻燈会、小夜にもご招待券をいただきたいわ。
がの/「雪渡り」のあんな雪、小夜ちゃんは見たことないよね。雪が大理石よりもっと硬く凍りつき、天も地もまるごと結晶したみたいという、冬の寒さのきびしさ。
小夜/この冬、横浜にも2回か3回、雪がありました。でも、さっき突然降ってきた雹と同じで、すぐ溶けてしまいました。
がの/賢治はそのほかにも、「ひかりの素足」とか「氷河鼠の毛皮」とか「氷の後光」といったおはなしで北の地方の冬の風景を描いていますよ。これらは、小夜ちゃんはまだ読んでいませんでしたね。そして、この「水仙月の四日」ですけれど…。

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小夜/おとうさん、水仙月って、いつのことですか。
がの/いつのことだと思いますか、小夜ちゃんは。
小夜/雪がいっぱい、いっぱい降りますから、1月か2月。
がの/ふんふん。
小夜/そのころのことだとして、どうして水仙月というのでしょうか。
がの/そこは宮澤賢治だけの世界で、わたしたちの世界とは違うのよ。イーハトヴという、岩手県のなかのどこか特別なところ、賢治のユートピアです。その世界ではこの季節のことを水仙月と呼んだのではないでしょうか。
小夜/1月とか2月とかでなく、水仙月ですか。すてきですね。きっとバラ月、ヒナゲシ月、ナデシコ月などもあったかも知れませんね。
がの/はっはっはっ、バラ月、ヒナゲシ月、ねぇ。でも、考えてみれば、昔の日本の人も1月、2月とは云わず、睦月、如月、弥生…というふうに呼んでいましたからね。
小夜/あっ、イギリスやアメリカでもそうですよ。1月はJanuary、2月はFebruary ですから。こういう呼び方のほうが、なんだか、きれい。
がの/でも、水仙月が実際にはいつか、といったら、いちばんきびしい冬の季節が過ぎ、積もった雪を割るようにしてスイセンの花が顔をのぞかせる時期のことでしょうから、小夜ちゃんがいうのがだいたいあたっているのではないですか。
小夜/冬の最後に雪ばんごが大暴れをしたおはなしでしたね。
がの/灰色の長い髪をふり乱して荒れ狂う雪ばんご。ネコのような耳をもっているという。こわいですねぇ。「雪女」のおはなしは、小夜ちゃん、よく知っていましたよね。
小夜/はい。これもこわい、こわいおはなしです。
がの/あのね、旧暦の1月15日のことを地方によっては小正月と云っています。柳田国男という民俗学の先生が「遠野物語」という本の103番目のおはなしで「雪女」のことを書いています。それによると、「小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は雪女が出て遊ぶとも云ふ。童子をあまた引き連れて来ると云へり」とあります。あの地方ではそんなふうに信じられ、語り継がれていて、それを材料にして賢治は童話を書いてくれたんだと思います。
小夜/そうすると、新暦で2月上旬のころ。パチパチパチ…。小夜のあたり~!
がの/雪ばんごにお仕えする雪童子(ゆきわらす)という存在を賢治は創造しています。
小夜/その雪わらすにお仕えするのが雪狼(ゆきおいの)でした。これは人の目には見えないけれど、雪あらしのときは、これがそこらじゅうを駆けまわり、咆えまくります。
がの/このおはなしで、雪はどこでつくられると云っていましたか。
小夜/雪は、寒いとき、お空の高いところでつくられて、ひらひらと降ってくるわ。
がの/賢治はそうは書いていませんよ。空のカシオピイアがガラスの水車をキッキとまわすと、それが雪になる…。あるいは、アンドロメダがランプのアルコールをシュッシュッと噴かすと、それが雪になる、と。
小夜/わあ、賢治さんのすばらしい想像力ですねぇ。ちょっぴりむずかしいですけれど、小夜はそんな賢治さんの空想力が、だんぜん好きですね。
がの/雪だけのまっ白な世界。でも、賢治はそのなかであざやかな色を捉えていますよ。
小夜/スイセンの色。それに、小さな女の子の赤い毛布(ケット)、雪おいののまっ赤な舌。
がの/群青の空から落ちてくるサギの毛のようなまっ白な雪とか、桔梗色の天空とか。ビール色の日の光、やどり木の青と黄色。それに「まもなく東のそらは黄バラのように光り、琥珀いろにかがやき、黄金に燃えだしました」なんて、うっとりさせられる表現です。
小夜/ほんと、恐いほど、悲しいほどにきれいなイメージで、胸の底がシーンとしてきます。

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がの/さてさて、このおはなしの眼目は、冷たい雪のなかで展開する雪わらすと赤ケットの小さい女の子とのあいだの、ふしぎな愛と友情であり、やどり木に象徴されている死と再生のドラマですが、もう、おしゃべりが長くなりすぎましたので、つづきはまたあとにしましょうね。
小夜/はい。でも、もうひとことだけ云わせてください。雪わらすは、雪ばんごの命令に逆らい、自分の役目もなげうって小さな女の子を救いますね。賢治さんがこのおはなしでいちばんおっしゃりたかったのは何か、と思うとき、小夜は「烏の北斗七星」で云われていることが思い出されます。「どうか、憎むことのできない敵を殺さないでいいように、早くこの世界がなりますように」という主人公のお祈りのことば。これは、それと通じる考えではないでしょうか。
がの/お~、すごい、すごい。小夜ちゃんはこのおはなしのいちばん大事なところをしっかり捉えてくれましたね。同じ人間どうしが争ったり殺しあったりする、それはぜったいにあってはいけないことですから。
★タケノコ掘り 9 05月12日 (木)
タケ、とになると「なよたけのかぐやひめ」ということになりますか。
   (写真は、東海道新幹線新富士駅構内で見た壁画)

kaguyahime

でも、きょうはやめておきましょう。腰が、ああ、腰が、イテテテテ…。腕も。
生まれてはじめてタケノコ掘りというものをした。
ヴォランティアでかかわっているある福祉施設の敷地に広大な竹やぶがある。
だいぶ時期をおくれたが、タケノコ掘りをやるというので狩りだされたという次第。

別事ながら、4月中旬には地方の友人からタケノコをどっさり送ってもらった。
とても食べきれる量ではなく、近所の7~8軒におすそ分けした。
わが家もここずうーっとタケノコづくめ。よくタケノコごはんを食べたものです。
もう、当分見るのもいやという心境にあり、ようやく食べおわってホッとしていた。

しかし、たいへんなことですねぇ、タケノコを採るというのは。
いきなりアオダイショウを踏みつけそうになるし、
斜面につもったタケの枯葉はつるつるすべって、タターッともんどりうって
下までころげ落ちるし、借りた鍬はこわしてしまうし、
要領がわからないので力ばかり入って腰に来るし、
せっかくまわりをうまく掘ったと思ったら、ちょっとネライを違えて、
あ~あ、上のほうに刃をいれてしまったり…。
すこしコツがわかったかな、というころには、もうタケノコはない!
そう、今年はタケノコの出がきわめてわるいのだそうだ。どうしてか、と訊いたら
冬場に雨や雪が少なく、乾燥がひどかったからだそうだ。
汗まみれになって2時間ほど奮闘。手には血まめが。もうやけくそである。
こんな思いをして地方の友人はタケノコを掘り、わざわざ
わたしのようなバチあたりに送ってくれたのかと思うと、涙ポロポロポロ…。
茹でる(煮る?)にも、アクをぬきながらで、たいへんなんだとか。

タケといって「かぐやひめ」でないなら、なにか。きまっているじゃないですか、
わたしの郷里の詩人萩原朔太郎の、その斬新な感覚とリズムで
現代詩の夜明けをつげた有名な詩、「竹」ですね。

  光る地面に竹が生え、
  青竹が生え、
   ・・・・・・
  まっしぐらに竹が生え、
  凍れる節節りんりんと、
  青空のもとに竹が生え、
  竹、竹、竹が生え。

オットットット…、そうです、この5月11日は朔太郎の命日じゃないですか。
つぎには、良寛さんのタケノコ。便所の天井を突き抜けるタケノコの
ユーモラスで心あたたかいなエピソードが思い浮かびます。
大正ロマンの画家・竹久夢二、「ビルマの竪琴」の竹山道雄、また、
はなはだヤブから棒ながら、清原選手の応援歌「竹トンボ」…。
すっぱりタケを割ったような女、タケに油を塗ったようによくくっちゃべるタケん(多言)男。
樋口一葉の「たけくらべ」、あっと、これはバンブーじゃなかったですね。
そして最近、ちょっと気にいった詩に出会いました。
工藤直子さんの「版画 のはらうたⅡ」から、
“たけやぶまもる”さんの「ふところ」という詩。
(ごめんなさい、工藤さん、保手浜さん、ちょっと拝借しますね)

  ぼくの ふところに
  ひかりの かけらが
  しゃら しゃら しゃら
  いっぱい
  ぼくの ふところに
  かぜの きれはしが
  ひゅる ひゅる ひゅる
  いっぱい
  うえむき したむき
  みぎむき ひだりむき
  ふわり ふわり していると
  ぼくの ふところの なかに
  やさしいものが いっぱい

noharauta
★賢治の風景――幻の野草オキナグサ 16 04月28日 (木)
宮沢賢治の童話のうち、こんな作品が自分にも書けたらなぁ、と、いつも憧れ、心にとどまっている作品があります。そのひとつが『おきなぐさ』。ご存知でしたか。賢治の作品は全部読んだ、おおかた読んだ、という人でも、意外に読んでいなかったり、覚えていなかったりする場合の多い短篇童話。童話というよりは詩と呼びたいような、きれいな好篇です。この画像をご覧になったら、あなたももうもうぜったい忘れることはないでしょう。

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――うずのしゅげを知っていますか。/うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名は何だかあのやさしい若い花をあらわさないように思います。

書き出しです。この童話が絵本になっているなんて、ぜんぜん知りませんでしたが、このたび偶然、図書館の児童書コーナーで目にすることになりました。そして、これまた偶然に近所の知人のところでこの幻の野草を見つけました。茎も葉も絹のような光沢ある毛、やわらかいうぶ毛におおわれている花。いま絶滅危惧Ⅱ類に指定されている、キンポウゲ科の多年草植物で、めったに自生しているところは見られないそうです。どうでしょうか、いつまで見ていても飽きることのない愛らしい花。
賢治にもう少しこの花について語ってもらいましょう。

――うずのしゅげというときは、あの毛茛(きんぽうげ)科のおきなぐさの黒嬬子(くろじゅす)の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る冠毛が、みなはっきりと眼にうかびます。/まっ赤なアネモネの花の従兄、きみかげそうやかたくりの花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。

――そして、あの葉や茎だって立派でしょう。私たちの仲間では、誰もが病気にかかったときは、あの糸をほんのすこうしもらって来て、しずかにからだをさすってやります。

「私たち」というのは蟻たちのことで、蟻たちもオキナグサが大好きです。山男だって、ヒバリだって、…もちろん、このわたしだって。山脈のまっ白の雪を見ながら、野原が黄色や茶の縞模様を見せるころ、「おきなぐさは、その変幻の光の奇術の中で、夢よりも静かに」目を覚まします。そして、夏のころ、あの可憐な花は、花びらを落とし、ふさふさした銀毛の房に変わります。風が渡ってくるたび、ぷるぷるとふるえ、今にも飛び立ちそうです。これは、毛足の長い羽毛に包まれてタネができたのです。その羽毛は3~5センチにもなります。まるで老人の白髪のようで、ここから「翁草」の名がついたと考えられます。童話で、おきなぐさがヒバリと対話している場面です。

――綺麗なすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦(オート)に波を立て、それから丘にのぼってきました。うずのしゅげは光って、まるで踊り子のようにふらふらして叫びました。「さようなら、ひばりさん、さようなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」。そして、丁度、星が砕けて散るときのようにからだがばらばらになって、一本ずつの銀毛はまっすぐ光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。

飛んで行ったオキナグサの銀毛は空の星になるんですね。すてきです。最後に賢治はこう書いています。

――私は、それは二つの小さな変光星になったと思います。なぜなら変光星は、あるときは黒くて天文台からも見えず、あるときは蟻が言ったように赤く光って見えるからです。

どうですか、美しいお話とは思いませんか。賢治はこの花を七ツ森の西のはずれの草のなかで2本見つけたと書いています。このオキナグサは、万葉の時代にはネッコグサと呼ばれて詠われていますし、岡山のほうでは「バンバ」と呼ばれ、賢治は「うずのしゅげ」という方言で呼び、またほかの地方でも、オバガシラ、ウバガシラ、オジイノヒゲ、カワラノオバサン、ユーレイバナ、などと呼ばれています。賢治がいうように、どれもあまりきれいな名前ではありませんね。それに、もうひとつおまけですが、旧満州では、長い長い冬が終わり、雪解けの野にほんのり、つつましげに顔をのぞかせるこの花を迎春花(インチェンホワ)と呼んで、厳冬からの解放の喜びと結びつけて尊び、旧世代の人にはなつかしい歌、「満州娘」など、数多くの唄になって親しまれていますね。(わたしゃ十六 満州娘/春の三月雪解けに/迎春花(インチュンホワ)が咲いたなら/お嫁に行きます となり村/王(わん)さん待ってて ちょうだいね)

※…オキナグサについて、ここでご紹介しきれない分は、他の画像とともに「今月の花神」のほうで書かせてもらっています。そちらへもどうぞ。
※…画像4点削除
★わが島國の自然が生み出した至純な造形 3 04月20日 (水)
つづきです。Play with me さんの書き込みに刺激され、先ほど、
和辻哲郎著『古寺巡禮』の中宮寺の部分を読み直してみました。
この本は昭和22年3月に岩波書店から出ている本で、
1972年4月に読了したとわたしの鉛筆の字で手書きされています。
33年前、う~っ。わたしがラボに入るより以前のことで、
どんなつもりでこれを読んだのか、いまはぜんぜん思い出せません。
特別に古美術に興味があったわけでもなかった。たぶん、
気まぐれに、いい加減に読んだに違いありません。
内容ももちろん完璧に忘れています。
生活に追われ、仕事に追われている時代だったはずですから。
いい本だったという記憶だけ。そういえば『イタリア古寺巡禮』も、
外国の宗教絵画のいろいろなことについて教えてくれる本だった。
高校受験のころに読んだものもあるはずですが、いまは思い出せません。
比較的最近(4~5年前)読んだこの人のものでは、『風土』『日本精神史研究』があります。
ラボのみなさんはあまり和辻哲郎のものを読むことはないのかもしれませんが、
風土と人間の精神的風景を文化論として追究した哲人。
ほんとうの知識人、教養人とはこういう人のことをいうんでしょうね。
どれも深く、教えられます。高められます。

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で、読みなおしてみると、わたしが目にした印象と和辻氏の書いていることに、
ふしぎなほど符合するところがあって、うれしくなりました。
「あれっ、涙か! と迂闊にも錯覚してしまった」と書きましたが、和辻氏は
「あのうつとりと閉じた眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際に光つてゐるやうに見え」
たと書いています。「わが聖女」といいながら、
「この聖女は、およそ人間の、或は神の、『母』ではない。そのうひうひしさはあくまでも『處女』のものである。
がまた、その複雑な表情は、人間をしらない『處女』のものとも思へない。
と云って『女』ではなほさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない」
と、男でもなれけば女でもない、中性的でさえもない、もっと超越したような…という
わたしの混乱した印象に近いものをこの人も感じていたような気がします。
そういえば、中宮寺が尼寺であったことをわたしは失念していたかも知れない。
「あの悲しく貴い半跏の觀音像は、かく見れば、われわれの文化の出發点である。
古事記の歌もこの像よりさほど古くはない」
「これらの最初の文化現象を生み出すに至った母胎は、我國のやさしい自然であらう。
愛らしい、親しみ易い、優雅な、そのくせいづこに自然とも同じく底知れぬ神秘を持つたわが島國の自然は、
人體の姿に現はせばあの觀音となるほかない。
自然に酔ふ甘美なこころもちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴である」

和辻氏がはるかな巡礼の最後に訪れて見たのがこの中宮寺であり、あの菩薩像であった。
姫路出身というすぐれた古美術研究者の、「文化」の本質を見つめる、確かな
鋭くすばらしいまなざしを感じますね。
いろいろな書籍を処分してきていますが、まだ和辻さんのもので『桂離宮』(昭和22年版)、
『鎖國』(昭和30年版)、『日本古代文化』(昭和17年版)、『イタリア古寺巡禮』(昭和28年版)が残っていることを
確かめたので、少し余裕のできたところで読みなおしてみたいと思っています。
いずれも、たばこのけむりをたっぷりあびた、こげ茶色、醤油色した本。
たばこをやめて20年になるが。
中でも『日本古代文化』はぜったいに名著だと思う。なかなか手にはいらないと思いますが。
『風土』『日本精神史研究』は岩波文庫でいまも出ているはず。
★神秘のほほえみ、白鳳文化の精華にふれる 11 04月16日 ()
和辻哲郎はその名著『古寺巡礼』のなかで、これを「聖女」と呼んだ。
なるほど優美だ。気韻ただよう美しさだ。男でもない、女でもない、
中性的ですらない、性をはるかに超越したやさしさと慈悲をたたえる菩薩。
奈良・中宮寺の本尊、菩薩半跏思惟像(国宝)である。
うす暗い展示室で一見したとき、全面黒漆の沈んだ表情のなか、光の加減で
頬とまぶた、それに胸の一部のふくらみの部分がぴかりとぬれたように光り、
あれっ、涙か! と迂闊にも錯覚してしまった。

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神秘をたたえるアルカイック・スマイルと、右手の指を軽く頬に当てる
やわらかい表情が、なんといってもこの菩薩像の魅力のポイント。
じつに繊細な表情である。朝鮮の彫刻にもない、中国の彫刻にもない、
日本の古代彫刻が独自に獲得した、美しい洗練された作風である。
飛鳥時代の仏像彫刻といえば、ほとんどは一木彫だが、この菩薩さまは
木片をプロック状に積み上げ、鉄クギで固定するという木寄せ法で造られている
(後世の寄木づくりとは違う)という。その技法のみが生み出したデリケートさか。
材はクスノキ。表面は、いまは黒い漆で塗られた地が露出しているが、
もともとは、この上に白土が敷かれ、そこに彩色が施されていたらしい。
クギのあとや彩色のなごりから、頭部を飾る宝冠のようなものがあったろうし、
手首や腹部にもきらびやかな飾りがあったろうと想定されている。
そういうものがなくても、十分にこの世を越えた威厳がある。
むしろないことになって、清らかな印象を増したかも知れない。
いっさいのムダをそぎ落とした黒一色の単彩の世界が、潔い。
優美なシルウェットをつくりながら、顔のつくりが意外に小さいように思えた。
案内解説によると、聖徳太子と同じ寸法で造られているという。
つまりこれは、太子の分身である。太子の聖なる魂をそこに刻みこむことを
きびしく求められた仏師がどんな思いでこれを彫ったか、
それを思うと、胸がミシミシときしむ。
正面だけでなく、右から見る、背後にまわって見る、左から見る。
立って見る。しゃがんで見る。近づいて見る。少し離れて見る。飽きることがない。
なんという美しい曲線か! しなやかな手と指がつくりだす表情は
気品に満ちあふれ、笑みの表情には慈愛がこもっている。
その深い瞑想は、見ているものの現世欲と愛憎に泡立って狂う精神を
鏡のように静かな湖面のようにしずめてくれる。
展示されているのは、この菩薩像一体のみである。はい、ほかにはありません。
それだけで入館料600円。はいそうです。
いいじゃないですか、それで十分じゃないですか、
こちらの心の地平線を高貴な色の光で染めてくれ、何かしらひとつ高めてくれる
美しいほほえみに出会えたのですから。

この時期にかぎり、本館裏の庭園が一般に公開されていた。
初めて見る庭園だったが、これがなかなかいい。
池やあずまや、茶室を囲んで遊歩道が刻まれていて、さまざまな樹木、
さまざまな自然の花々や野鳥たちがわれわれを迎えてくれる。
上野公園のサクラはすっかり落ちてしまったが、ここには別種のサクラ、
御衣黄ザクラ(写真・上)、キクモモ(写真・中)、一葉ザクラ(写真・下)など、
さまざまなサクラが見られた。

ほぼ1年がかりで取り組んできた仕事にひとくぎりがつき、
だれも「ごくろうさん」と言ってくれるものはないし、せめてもの
自分へのごほうびとして、きょうは上野・谷中のまわりで遊んだ。
旧友にも会った。いまは遠い、20歳の若さにもどって。
それほど語るほどのこともないが、互いの老いに微苦笑するひととき。

gyoikozakura
kikumomozakura
ichiyozakura
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