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歯の治療を受けたあと中学校へすっとんで行って,
「ふれあい読書会」。
拙者も男のはしくれなら弱みは見せぬぞ,と頑張ったが,
じつはここ数日,風邪の症状に悩まされてきた。
わたしの風邪には特徴があり,すぐ咽喉にくる。
咽喉に熱が生じてくると,ちょっとたいへんである。
だいぶ恢復してきたとはいえ,こんなときの歯の治療は苦痛である。
それに,予約を取り消せば,あとで困ることにもなる。
それにも増して,読書会をリードしていくとなると,至難である。
中学生とその父兄,そして地域の有志が参加してやっている会だが,
読書会とはじつは名前だけ,
ラボっ子やテューターの皆さんのような鋭い感度をもつ人は少なく,
だいたいはわたしのへたな文学講座のようなものになってしまう。
ところが,この日ばかりは,いいことをしゃぺろうにも,声が出ない。
無理して出そうとすれば,ヒ~~ッと気息がもれ,
なんとも情けない音になって気管を通るだけ。
ときによっては,はげしい咳込みも。
この日はモーパッサンの短編から「家庭」を読み合うことになっていた。
前回のなかで,この作者について,時代について,
文学史上の位置づけなどについては話してあることもあり,
少しハショリながらテクストを順番に読んでいくことにした。
…これがおもしろいのである。
登場してくる人物はそれぞれ途方もない特徴をもったものたち。
まともなのは一人もいない。子どもたちもちっとも可愛くない。
しかしどこにでもいる,きわめてリアリティのあるキャラクターなのである。
足のあいだにだらりと腹が垂れ下がっている小官吏の男,
人前でも平気で身体をところかまわず掻くその妻の奇癖,
上階で寝ている老人に食事の知らせをするのに,
箒の長柄で天井をつっつくというやり方,
インチキ医者が,商人が自分の商品をほめそやすように
死体(じつは死んではいない)をいじりまわすその手つき,
そして,死亡通知のハガキの印刷もあがり,お葬式の準備も整い,
他愛のないモノをめぐる遺品問題でツノつき合わせているところへ,
「ごはんはもうじきかえ」と
老婆がろうそくの明かりの消えた部屋がらぬっと出て来る,
…などといった表現に出会うと,
もう爆笑がとまらない。わたしの苦しさなんてそっちのけで広がる爆笑の渦。
そのうち,これを演劇にしたてて秋の地域の文化祭で発表しようじゃないか,の声も。
脚本は任せるから,といわれてもねぇ。
勉強させてほしいと先生も入っていたし,
これまでずいぶん真面目一徹にやってきたけれど,
あ~,これでいいのかも知れないな,といまごろになって理解したような次第。
テューターの活動もこれに近い感覚なのだろうか,と思ったようなわけ。
教えこもう,みたいな意識がこちらにあったら,
周囲はどんどん硬直していき,苦しくなっていく。
ゆたかな素養に裏づけられた余裕で
ほっくりと包むようにして子どもに対するという活動のあり方。
風邪もときにはいいことを思い出させてくれるものだ。2004.1.30
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新聞を見ますと,予定どおり今晩の10時よりキーロフ・オペラ「戦争と平和」が放送になるようですね。さて,ラボっ子OGの小林恭子さん,第一線プロデューサーとしてどんなものを見せてくれますか…。
長大な作品ですのでとてもずうっと見るわけにはいかないでしょうが,一部分でもご覧になりましたら,ご感想をここに寄せていただけませんでしょうか。ご感想をまとめ,今度NHKへ行く機会にプリントしたものをお届けしようかと思います。大きな励ましになるものと信じております。このネットをお借りしてお願い申し上げます。どうぞよろしく。
※もし,なんのことかよくおわかりにならないようでしたら,恐れ入りますが,当日記の1月16の案内をご覧くださいますようお願いいたします。
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このホームページの作成にはまだまだわからないことがいっぱい。わたし自身,始めて間もないので仕方ない点もありますが(言い訳),そのまま無知に甘んじていては前進もなかろう,老化のスピードも加速しようと,このたびもらった補助機能完成のお知らせを機に,少しばかり挑戦してみました。「ページ」のほうのみですが,これまでは,同じサイズ,同じ書体で平板に書きこんできたところを,文字(フォント)を大きくしたり,太くしたり,色をつけたり,斜体をかけたり,アンダーラインをつけたりと,挑戦というほどのことはない,たかがその程度ながら,表現の幅が広がり,「らしく」なったように思いますが,皆さん,いかがですか。挿入する写真を中央においたり右に寄せたりもできるンですね,皆さんはご存知だったのでしょうが。
そんなに簡単ではなく,けっこう厄介で失敗の繰り返しでしたが,これも,少しなれればなんともなくなるだろうことを期待しています。ふつうの文書をパソコンのワープロ機能で打ってさまざまに修飾する程度にまで簡便化すると助かるのですが…。
どうぞ皆さんも挑戦してみませんか。
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テレビのドラマをよくご覧になりますか? わたしは,よく見るというほうではなく,NHKのものくらいなのですが,アレッ,わたしの理解が間違っていたのかな,と疑うことがよくある。つい最近の例では,新しい大河ドラマ「新撰組」(「新選組」となっていたとすれば,間違いだと思います)のペリーの黒船来航のシーン。同じ疑問を持ち,あれは間違いだと指摘する新聞の投書を見て,ああ,やっぱり…,と思った次第。
ここは,日本が開国へ向けていちばん生みの苦しみを経験するところで,関心は高く,歴史的にはかなり明らかにされている部分。佐久間象山が近藤勇や坂本竜馬をともなって黒船を見に行くなんて,信用できる歴史書ではどこにも書いてない。象山が取るものも取りあえず久里浜に駈けつけたとき,そこにいっしょにいたのは門下の一人,小林虎三郎だけだったはず。(「米百俵」で知られる小林虎三郎については,「ページ一覧」のうちの「タカの眼」で紹介させていただきます)同じ門下の吉田松陰は,長州の藩邸のほうに詰めていてそこに居合わせず,1日遅れてしまったことを地面を敲いて口惜しがったというのが定説。
大衆向けの歴史ドラマとなると,そんな史実などどうでもいいのだろうか。残された肖像を見ても近藤勇は香取慎吾ほどにはハンサムじゃないし,石坂浩二の佐久間象山のイメージもだいぶ違う。おみつさんて,あんな美人だった? あれほどサバケたおきゃんだった?(沢口靖子,いいねぇ) まあ,そのへんは若い世代に受ける必要もあるし,視聴率競争もある。そうした事情もわからないではない。だけど,間違いをそのまま鵜呑みにしておいていいのかなぁ,そんなことどうでもいいのかなぁ,とのこだわりがちょっぴり残る。とくに,NHKの三文字に対する人びとの信用は大きいですからねぇ。新撰組といえば,江戸時代の末期,日本が近代化へ大きく動いていくとき,江戸幕府の用心棒・殺し屋として尊皇攘夷派・倒幕派を弾圧した物騒な武力組織。すぐれた先進的な頭脳を抹殺して日本の開明の足を引っ張った存在。それがドラマとなると,美化され骨抜きにされる。このあとどう展開されていくのかは知らないが…。
この問題とはちょっと角度が違うのだが,ことばを物語(フィクション)のほうから追求しているラボ・パーティの活動にあっては,どうするのだろうか。事実とフィクションの関係。相手は吸収力旺盛な子どもである。疑うことなんて知りませんよ。テューターという人たち,そんなにヨイショするつもりはありませんが,稀有な知性集団である。じつによく勉強をするし,知識も広い。とりわけすぐれているのは,それぞれが個的にもっている事例を互いに学び合うという回路を大事にしていること。それでも,そんななかにあってさえ,オヤッ,と思うことがある。だいぶ以前のことになるが,ある集まりのなかで意外なことを耳にしてしまった。「ロミオとジュリエット」の原作をきちんと読んでいる人って,案外少ないということ。みなさんはどうですか。たしかにラボの「ロミオとジュリエット」の出来はすばらしい。音楽もいいですよねぇ。しかし,ご存知のとおり,これも制作に際しては物理的制限のなかで大きく削除された部分があります。パリス伯爵とのからみなどはまったくないというに等しい。あの限りでりっぱに完結しているし,子どもたちにそのことをこまごまと伝える必要があるか,というと,そう思っているわけではないが,子どもたちの成長に寄り添うおとなとしては,やはりそこまできちんと知っておいて欲しいなぁ,と思うのがわたしの願い。一人娘に対する父親の思いや家柄を守らねばならない家長としての立場,パリスにおける貴族としてのプラシドなどがもう一歩深くわかってくると,物語はもっともっとゆたかなふくらみを持ってくるはず。ま,そんなこと,わかってるわよ,…とのお叱りを受けるほうが望みであるが。
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「お転婆」――あなたも少女期に一度や二度はそう呼ばれた経験をお持ちではありませんか。あるいは「おきゃん」とか「やんちゃ」とか。いや,ない……。そうですか,それはたいへん失礼いたしました。
広島のMさんが「おままごと」をしない最近の子どもたちのことを書いておられましたね。その点,ラボのごっこ遊びは子どもに大事な感性を育てる,と。このご意見に少々思いあたることがあって,先日,「お転婆」のことばが消えつつあること,お転婆をしない行儀のよい子どもたちのこと,などをそのホームページにちょっと書き込ませていただきました。わたしたちの生活が自然なもの,自然な時間から遠くなればなるほど,こうしたことばも色あせ,消えていくのかなあ,とあらためて考えさせられます。それにしても,これ,おもしろいことばだとは思いませんか,年老いたご婦人を転ばすことをもって「お転婆」というとは!(お年寄りを転ばす,つまり老人を騙すといっても,このごろはやりのオレオレ詐欺ではありませんゾ) 考えれば考えるほど,ナンデカナ~,と疑問がふくらんでくるので,これについてもう一歩踏みこんで考察しておきたい。(長くなりそうなので,以下は左の「ページ一覧」の「ウの眼」のほうに移します。お急ぎでない方はそちらにお立ち寄りのうえ,ご一読いただけますれば,これ,さいわい,さいわい)
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パンパカパーン! うれしいお知らせをいたします。1月25日,どうか皆さん,カレンダーにしるしをつけておいてくださいね。
1月25日(日)午後10時より(~0時30分)NHK教育テレビ,キーロフ・オペラ「戦争と平和」の抜粋版が放送されるということです。今回が日本初演で,次回となると30年後といわれている貴重なもの。じつは,この番組をプロデュースしているのが小林恭子(やすこ)さん,元ラボっ子(福山市の河野パーティ所属)です。東京芸術大学大学院(楽理)を修了後,NHKに入って日本の古典音楽を手始めに音楽部門に広く携わり,現在はクラシック音楽部門で中心的な役割を担い,その敏腕をふるっています。最近の例では,1月3,4日に放送された恒例のニューイヤー・オペラコンサート。佐藤しのぶさんの蝶々夫人に魅了された方も多いことでしょうね。
このキーロフ・オペラは,昨年11月,小林さんがまさに全身全霊を注いで収録に挑んだ超大作オペラ。今回の初演の初日を収めたものだそうで,完全版は2月以降にBSとハイビジョンで放送になる予定とか。彼女の個性的な才腕と,ラボのテーマ活動のなかで培われた感性がどんなものをつくりだすのか,ぜひ見守りたいじゃないですか。
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元ラボっ子の目覚しい活躍にふれる!……もう,それもそんなに珍しいことでなくなってきましたが,なんか,すごく誇らしく,幸せな気分にさせてもらえますね。ひとつ思い出したことがあります。ラボ・ライブラリーSK25の制作にあたっているときのこと,「一寸法師」の吹き込みで久々にお会いした久米明さん,お会いするなり「××さん,今度うちの劇団(昴)にすンばらしい演出家が誕生しました! きょうも顔を合わせ,いまからラボの吹き込みで出かける,といいますと,わたし,そのラボをやっていたんですよ,という。び~っくりしましたね」と興奮の態。それが三輪えり花さん(旧姓・柴田)。その後のきわだった活躍については,もう,みなさんのよくご存知のところ。
あるいは,NHKの朝の連続ドラマ「こころ」でヒロインを演じていた中越典子さんが九州・佐賀市の元ラボっ子だったと耳にすれば,あまり上等なドラマじゃないな,なんて思いながらも,ついつい見てしまうし,同じNHKの「ためしてガッテン」の司会をしている小野文恵アナウンサーが広島の元ラボっ子だったと聞けば,ついつい応援しながら見てしまう。若田光一さんが新聞やテレビに登場すれば,目を逸らすわけにはいかず,自分のことのようにうれしくなる。そうじゃありませんか,皆さんも。そのほかにも,目立たないけれど,それぞれの持ち場で堅実にいい仕事をしている仲間がたくさん挙げられますよね。
各分野で生きいきとその個性と才能を見せてくれる元ラボ族。世界の新しい力です。その輝かしさ,健康な息吹きがわたしたちをホンワリ幸せにしてくれる。…いいじゃないですか!
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近隣の中学校に招かれ,特別授業に何かしゃべってくれという依頼を受けたことがある。学校への地域参加の一環である。そんなとき,二校とも同じテーマで話したのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』のこと。ファンタジー文学の読み方ということで,よく知られたこの作品を軸にして話した。
この世代の子どもがいちばん共感する部分がどこかはわかっている。まずは導入として彼らに媚びて,6つの星めぐりのあたりから。へんてこりんなおとなたちの硬直的な理性を次つぎに告発していく王子の質朴さは,自分たちに理解を示さない周囲のおとなたちへの痛快な復讐としてすっぽり彼らには受け容れられている。しかし,それ以外のところはただキレイっぽい,純粋っぽい…といった印象のみで,あまり理解されていないことが多い。
ところが,これがただの,子どもの純良な感性に媚びたキレイごとのファンタジーではなく,背後には作者の悲壮なまでの非戦の思いや,自分の小さな星に残してきた一本のわがままなバラ,すなわちコンスエロ=スンシンさんという,ちょっとブッ飛んだ奥さんへの屈折した愛情を映している,などと読み解いていくうち,中学生たちの目はパッと輝きを見せる。たとえば,ま~るいもののまわりから3本のバオバブの木が生えているあの絵を思い出しませんか。あれがどういう絵かというと,一本はドイツのナチズムの木,一本はイタリアのファッシズム,そしてもう一本が日本の帝国主義をあらわし,それが地球をガシッとまわりから掴み,押し潰そうとしてはびこっている,…そのことをあのフランスの実存主義作家はいいたかったんじゃないか,という勝手な読み方を示す。びっくりはするものの,残念ながらそれに対する反応は薄く,こんなときたくさんの物語のなかで育っているラボっ子たちだったらどんな反応を返してくるのだろうな,と思ってしまう。
そういえば,これまで,ラボのなかでこの『星の王子さま』が話題になることがなかったな,とふしぎに思う(ライブラリーに,という意味ではない)。かつて,ギリシアの神話と英雄伝説のラボ・ライブラーをつくったとき,「ヘラクレス」の吹き込みをやってもらった岸田今日子さんと話した折り,彼女の好きなはなしとしてまっ先に挙げたのがこの作品だったことを,いまふと思い出す。もっとくわしく聞いておけばよかったな,といまになって後悔しているが。
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まずい! 星ということになるとまた書かずにいられないことがある。またまた長たらしくなりますが,メデタイやつとお笑いください。この季節には冬の星座がびっしり勢ぞろいしているンですね。もったいないような美しさです。夜の9時,途中のテレビも読書も放り出し,ありったけのものを着こんで外に飛び出し,迷いイヌのように30分ほど町をほっつき歩くのがこの時期の楽しみのひとつになっている。東の空から,しし座,かに座,ふたご座など。南へ目をめぐらせば,まず目に飛び込んでくるのがシリウス。その左右におおいぬ座,こいぬ座,三つ星のオリオン座が。いちばん目だっているシリウスと,ちょっと黄色味がかったこいぬ座のプロキオン,それにこちらは赤味を帯びたオリオン座のペテルギウス,この三辺を結ぶのが有名な冬の大三角形。寒さに洟をすすりながら一つひとつをたしかめるわけだが,いくら見ても見飽きない。北の空もにぎやかだ。高く高くにカシオペア座,さらにその上,天頂近くにペルセウス座。頸に弱点のあるわたしにはこの天頂を見るのが苦痛なのだが,もっとずっと下,北西の低いところで,はくちょう座のデネブが清い輝きを見せている。北斗七星はこの時期,タテ向きになって北東の空によく見える。…私的な趣味に走ったことを読ませてしまいました。ごめんなさい。
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みそかの26日,ひょんな出会いからこの「ひろば」に迷い込むことになり,数えてみればきょうが20日目。このごろのラボの様子など何も知らないわたしごときが,せっかく声をかけてもらったはいいが,そういう場で何を書けばいいのよ,時代おくれで役だつほどの情報はもっていないよ,とのためらいを感じたままの参加でした。「何だっていい,趣味のことでも何でも…」「ライブラリー制作に関わるあたりのことを書いてくれたら,テューターの皆さん,喜んでくれるんじないかな」そんなふうに云われ,生来の軽率もの,まあ,枯れ木も山のにぎわいだろうじゃないかと,手さぐりで始まった。
ここまで,チラリ,チラリと皆さんの活動をのぞき,とくに云うべきほどのこともなく,ラチもないタワケたことを勝手に書き散らしてきた。…いやいや,驚きました! なつかしい出会い,思いがけない出会い,新しい珍しい出会いという陸続たる連鎖。じつはわたし,ほかのところでもうひとつ,これと同じようなホームページをもっているのですが,書いても書いても,おおよそ反応はありません。わたしなりに大事な提案をしているつもりなのですが,通りすがりにチラと横目で見ていくだけで反応はなく,いつもがっかりさせられることが多い。ところが,さすがはラボの人たち,すばらしい感度をもち,ゆたかな知性を備えておられる。第一,表現する力をもち,表現することの喜びを知っておられる。正直,たいしたモンだと思う。
読んだよ,といいながら書き込みをしない知人の一人にどうしてかと訊いてみると,自分の書く1行のことばさえ世界に通じると思えば,やっぱり緊張があって文章にならないという。そんなふうに思ったこともない自身の迂闊さに気づいたものだ。ところがこちらのネット世界に流れている空気はだいぶそれとはちがう。だれもがこころやすく何でも云いあえるのはなんでだろうか。
ひとつには,やはりラボ活動という方向を共有しあっている同士の上昇指向を結び合わせたものだということ。一時期,教務的課題として記録活動をすすめ互いの事例を交換しようという運動があった。いまはどうなっているのか知らないが,その考え方をもっと広く敷衍し,かつ卑近なものにして具体的な展開の流れをつくっているのがこれかも知れない。
それに,ちょっとおもしろいことを発見することになったのだが,ハンドルネームで互いを呼び合うという覆面性,半匿名性(…とはいえ,そこはそんなに広くない世界,すぐにだいたいの察しはつきますが),これが無用な緊張から解放してくれているということがあるように思う。一人ひとりが怪傑黒頭巾(古いね~!)として,あらゆる隔てをとり払って(ときには無礼さも無責任さもちょっとわきに置いて)意思を交換し合える,そのこころの負担の軽さが大きいような気がしている。こころが解放されていないと,人と人とのあいだのほんとうの結びつきはできていかないことは,皆さんがふだんの活動のなかでいつも実感されていることじゃないでしょうか。ふつうに考えても,相手の顔が見えない状態でその人に向かってものを書くにはかなりの抵抗があるもの。それが,なんとまあ,会ったこともなければ氏素性も知らないまま,このネットで出会い,ふしぎな信頼に結ばれて親しくコミュニケートする…。なんか遠いファンタジー世界に来てしまったような気さえしている。
この6月が来ると,ラボを離れて満8年。思えば遠くへきたもんだ~。プロフィールのところで記した「最近読んだ本」を見ていただいたらすぐおわかりのように,皆さんとはだいぶ違う意識世界でかすかす生きております。したがって皆さんとの接点を探すとなると古い話ばかりという次第。そういう位置関係のなかでのわたしの役割とはなにか。皆さんがラボの活動に一途なら一途なほど,ともすれば陥りかねない夜郎自大の危険を避けるため,熱さましの外からの風を少しばかり届けることではないだろうか。まあ,どこまでやっていけるものか自信はありませんが,しばらくはおつきあいさせていただこうかと思っています。どうぞ四六四九!
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歯の悩みには,まことつらいものがある。きょうの治療で麻酔をかけられ,すでに3時間以上経っているのにその麻酔から覚めないで,なにやら気分はふらふら…。ひとつ外で用をたしていると,もう陽は落ち,一点の雲もない凍てきった空に満月(じゃない,十六夜か立待月か)が上がっている。夕星も冴え冴えと見える。寒いので急いで帰りたいところだが,こんなときは辛抱してゆっくり歩くに限る。ふだんならバスを使うところだが,決意して歩きだす。しかし,歯の悩みを引き摺ってか,歩きながら思うことは,チト暗い。
冬蜂の死にどころなく歩きけり
えーと,村上鬼城だったかな。そのイメージがずうーっとアタマを領する。風の冷たさだけでなく,その思いから,不覚にも涙がぽろぽろ落ちる。そして,もう一句が思い浮かぶ。
死にべたとそしらば謗れ夕炬燵
ラボの関係者には親しい小林一茶のもの。俳句っていいもんだなあ,と思う。このホームページの「ことばの旅路へ」で良寛さんの戒語を紹介し,長たらしいことばはダメだよ,としるしながら,わたしの書くのはいつもだらだらと長い。自身へ向けての戒めにほかならないことを告白します。辛抱して読んでくださる方にはいつも申し訳ないと思っています,ホント。その点,俳句をやる人ってすごいなぁ,と思う。わずか17音のなかにピシャッと世界をつくりだすのだから。なんとか短くスパッと書くことを勉強しよう。この年齢になっても勉強することにはあまり文句はないだろう(いや,もっと稼いでこい,という声も)。で,ついでに思い出したのは,NHK俳壇で紹介されたものだったような気がするが(だれの投稿句か覚えはない),こんなのも。
竹の春 晩学の窓 ひろくあけ
ある程度の経験と年齢を経ないとわからないことも多いし。ご存知と思いますが,西洋のほうの皮肉なことばで「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」というのもありますね。梟とは知恵のシンボル。ミネルヴァとはローマ神話に登場する女神で,ギリシア神話のアテネ女神のこと。学問や知恵は日が落ちてから姿をあらわす,というほどの意味か。真昼の明るさの中では見えないことも,晩節になって日が落ち,人生の黄昏どきになってやっと見えてくるという。そう,だから,せいぜいがんばらなくっちゃ。
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ひとつの大きなヤマを越した。このごろは2日の徹夜もきつくなってきた。フリーランスの仕事というのは因果なもので,恵まれた優雅なサラリーマン諸氏が,クリスマスだ,年末だ,正月だ,夏休みだ,バカンスだ…,といって自分の仕事を放り出して休暇に入る,しかし遅らせることのできない定期刊行物のようなものもあり,その部分をわたしのようなものに押しつけておいて,自身は海外だ,温泉だ,家族サーヴィスだと,のうのうと生をenjoyするというシステムになっている。いい気なモンだ,プチブルどもめ,と思うが,そのおかげでわたしのようなものでも,日々かすかす食べていける。
無用な忙しさで自分のこの繊弱な(!)神経を消耗させるのは御免こうむろうと(メルヴィルの「書記バートルビ」の〝御免こうむります!〟精神の感化か),貧乏は覚悟で仕事は極力セーブしている。臆病さと妙ちくりんな自意識から出版の話があってもぐじゅぐじゅ云って次つぎに断わってしまう。要は怠惰なだけなのだが,「ばっかだなぁ,おまえは」といわれつづけても,どうにもならない。それでも,世の習いによって,最低限餓死しない程度には仕事をしなければならない。わたしが空虚の中をさまよう自由の権利を行使しようとすると,けっこう,迷惑をするものもいるにはいるのだ。仕方ない,そんなときには,意志薄弱なことに,あまり好きになれない「秩序」に少しだけ同意することになる。でも,「エッチなもの書いてみろよ,おまえのものならすぐ売れるゾ」という誘いには乗るわけにはいかないだろうじゃないか。第一,その方面はからきし経験不足だし,そんなに真面目とはいえないまでも,けっこう純情だもんね。
P.H.シモンが「告発された人間」のなかで「職業の偉大さは,何よりも第一に,人間たちを結びつけることである」といっている。それは,職業を通じて社会に参加し,それによって個人は世界に,他の人びとに結びつける関係を作っていくということ。かつてはその感覚はよくわかった。たとえばわたしのラボでの23年間に限っても,どれほど多くのユニークな個性,優れた才能と出会ってきたことか! その限りではラボの制作局というのは特別に恵まれた環境だったかも知れない。P.H.シモンのことば,それはそうかも知れない,しかし,それもちょっとわたしの肌に合わなくなってきていることを,このごろ感じるのである。年齢のせいかなぁ,たとえば,彼の「最も不幸な運命とは,一日一日の意識のない一週間,祭りのない一年のうちに埋もれてしまった人間の運命である」という,まことスッキリした勢いはげしいことば。だけど,もうそんなにがんばらないでもいいんじゃないか,とうんざり思うわけです。
一方,みなさんがこのコーナーで日記をしたため,それをインターネットを通じて交換しあうという行為は,自分のしていることの一つひとつを意識づけ,互いに高めあっていくという点で,すばらしい場を享受しているとも云えるでしょう。そこには,上へ限りなくめざす情熱が動力源になっています。人間はその情熱を胸にどれほど燃やしていられるか,といことなのかなあ。
…疲れかな,自分ながら何をいいたいのかわからなくなってきた。ただ,うまくはいえないが,彼の「秩序なくして平和はない/愛なくして人生はない/情熱なくして喜びはない」なんて,ぜんぜんウソだ,カッコいいことばを並べただけだという気が,錆びかけたこのごろのこころの空洞で,鳴っているような,いないような…。ごめん,お疲れさまでした。
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