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帰ってまいりました。2か月ぶりに、やっと、やっと。
…といっても、ここから車で7〜8分の息子たちのマンションなのですが。
それでも、孫がここにいる、という感覚には、言うに言われぬ
心なごやかで幸せにしてくれるものがあります。
たしかに、顔を見たければすぐに会いに行ける空間距離のはずですが、
このごろのマンションは不審者対策が厳重でして、こちら
そんなにひどいかっこうをしているわけではないのに
おいそれとは中に入れてもらえません。
届けものがあってほんのちょっと(7分とはかかっていなかったと思う)だけ
路上駐車。もどって見たら、あっ、やられた!
ペタリと「駐車違反」のシールが貼られ、警察署へ出頭して罰金を。
どんな弁解も通用しない、空虚だけが支配する世界。
ひとの迷惑になるような停め方じゃないのになあ〜、ぜ〜んぜん。
ま、孫むすめの顔をみれば、たちまちそんな不愉快さも忘れてしまう、
めでたいばかジィジ、というわけで。
写真は、1月31日、生後2か月をすぎたばかりの瑞希。
この近くの類縁だけが集まって小さな祝宴をした際のもの。
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新生児3日目。わたしの初孫です。名は瑞希(みずき)。
前日まではまったくその気配がなかったのに、
11月27日、予定日ぴったりの出産で、
また生命のふしぎに驚嘆させられました。
体重3,430グラム、身長50.0センチ。たくましいおおオンナです。
このページにこの種の私的なことを書きこむつつしみのなさは
十分承知しているのですが、これが「ジージばか」というものか、つい…。
いまはアタマの中はこの子のことでいっぱいの、しょうのないジージ。
期間限定でご披露させていただきますので、ご容赦ください。
こんないたいけないのちを見ると、ふと唇にうかぶことばがあります。
中原中也のあまり知られていない (「未刊詩篇」から)のですが、
「吾子よ吾子」という詩編。「吾子」は「あこ」と読んでください。
ゆめに、うつつに、まぼろしに…
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏ひて離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、
思い出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ
雨に、風に、嵐にあてず
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、ああいかにせん
……略……
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地域で足かけ10年にわたって主宰している読書会がある。
この8月、9月、そこで採りあげたのがショーロホフの短篇。
コサック社会が歴史的に抱える苦悩とその固有な土着性にふれつつ、
なんとなく頭のすみをかすめたのが、水野忠夫先生のこと。
かつて贈ってもらって読んだ「静かなドン」(中央公論社)の、
その雄大な叙事詩を思わせる文体を映した名訳のこと。それと、
今年の年賀状が、めずらしく遅く旧正月ぎりぎりに届いたのも、
きっとお忙しくしておいでなのだろう、としか思わなかったわたしの迂闊さ。
じつは気管支のほうで深刻に病んでおいでだったことなど知らずにいた。
72歳、まだまだこれからいいお仕事をしてもらわねばならないのに、
この20日、身罷われた。ご冥福を! こころより。
(ラボを離れて久しいわたしがここに追悼文を寄せるなどは
ふさわしことではないが、死後1週間たってなおだれも書いてくれないので、
仕方なく書くことをお許しください)
わたしが大学に入ったのは、安保闘争の渦中。そのはげしい学生運動のなかで
水野さんに出会った。彼は大学院にあって、見上げるほどの高いレベルで
文学研究をしておられた。ともに腕を組んで闘ったその運動が挫折に帰したあと、
わたしなどは、どこを基軸に精神的な恢復をはかればいいのか昏迷し、
暗い模索の日々にあった。そして、創作グループの創設と創作文芸へ。
グループは違うが、水野さんたちの現代ロシア文学(当時はソヴィエト文学)
研究グループと文芸創作グループの導線が自然に近づきあった。
ロシア詩の新時代の旗手とされたマヤコフスキーをわたしが知ったのは
水野さんの研究論文と報告を通じてで、その後すぐそれは
「マヤコフスキー・ノート」として画期的に世に出た。
その後わたしは実社会の巷に、水野さんは大学に残って、助手、助教授、
教授、そして学部長に、名誉教授に…。現代ロシア文学を研究し講ずる傍ら、
ショーロホフ、ドストエフスキー、トルストイといった文豪たちの作品の
翻訳作業をすすめておられた。あの、気の遠くなるような大作を丹念に精力的に。
発刊の都度、寄贈を受け、楽しみに読ませてもらっていた。その間、
直接お目にかかったのは、共通の知人の葬儀のときの二度と
やはり共通の知人の出版記念会で一度だけ。
ラボ・テープ(“ラボ・ライブラリー”とは呼ばなかった)制作の
第三期を実質わたしがあずかるようになった1987年、
今から22年余りになるが、その本格始動の第一作にあてたのが
「ロシアの昔ばなしとトルストイ」、SKシリーズ20である。
組織分裂の混乱をおさめるカギとなるのが、新しいスタイルのテープ制作の確立。
事務局・テューター合同会議体制の実質をここで象徴的に形成する役割もあった。
まだそのころは広報室にあって各種広報誌紙の編集にあたっていた一方、
「ロシア…」に入る以前の、制作の下地としての土壌づくりで、
山室静先生(故人)の川崎・柿生のお宅に休日ごとに通う日々でもあった。
北欧の昔ばなしを契機にヨーロッパ文化の源流を研究、
あわせて先生の周辺にある、立原えりかほか、日本女子大系の
児童文学者から“子どものための文学”の創作を学んだ。
彼らから寄せられる有形無形の協力も大きかった。
世界でもっとも尊敬できる思想家であるトルストイ、その思想の一端でも
ラボの子どもたちに伝えたい、というわたし自身のかねてよりの悲願はともかく、
ラボ・テープとして世に出すには個人的な嗜好に走ることなど
許されるはずがありません。客観的な評価と深い学術的見識の裏付けがほしく、
ロシアの作品づくりに際して、はじめからわたしの頭のなかにあったのは、
水野忠夫先生であって、それ以外には考えていなかった。
早稲田大学露文研究室通いが始まった。研究室でのさまざまな情報と
われわれの側の企画とを突き合わせて、手づくりの味でつくられたのがあの「SKシリーズ20」。
「エメリヤンと太鼓」を水野さんの新訳で、との構想もここで固められた。
この制作活動を通じて、どれほどのすぐれた個性、
新鮮な知見にふれ、そして無私なご協力を得ることができたか!
早稲田大学では、先に逝かれた金本源之助先生、
ロシア口承文芸に深い造詣をもたれる伊東一郎先生、
タチヤーナさん、ナジェージダさん、その他、いまはお名前の出てこない
幾多の方がた、そして上智大学の先生方。
ですから、最近のラボ・ライブラリー制作にはまったく不案内だが、
事務局・テューターが協働してつくる今のラボ・ライブラリー制作の
原型と道筋がくっきりと描かれたのは、このときであり、
もうそのことを知るものは少ないかも知れないが、そこには
山室静先生と水野忠夫先生が大きな里程標となっていたことを
あらためてここでお伝えしておきたい。
もうひとつ「SKシリーズ20」のエピソードを加えるなら、
この日記の前に「新制作展」と小野かおるさんのことにちょっとふれたが、
小野さんの「かぶ」の絵について。
ロシア文学を本格的にやる人なら垂涎の的とされる翻訳作品がある。
中山省三郎訳のプーシキン「オネーギン」である。
幻の名訳とされ、古本でそれが欲しい、お金ならいくらだしてもいいから、
多少いたんでいてもいいから、と血眼になって捜している人がたくさんいる。
その訳者は、ロシア文学者であり、早稲田大学の教授であり、翻訳家でもあり、
また、日夏耿之介や北原白秋とも親交のあった詩人でもあった。
そういえば、この人が訳した、ツルゲーネフの詩集もすごい評判だった。
わたしが生まれて間もないころ、43歳の若さで才能を惜しまれつつ他界。
その中山先生とは、誰あろう、小野かおるさんのお父さんだったんですね。
絵本の打合せでさいしょにうかがったのが、阿佐ヶ谷の旧中山邸。
三方の壁面いっぱいにぎっしり積まれた分厚い図書文献の壁に圧倒された
記憶がいまもなまなましい。たばこの嗜好があったのか、その背表紙は
すすけて黒々としていたが。
「かぶ」の絵本は、幼少時、ご両親とともにロシアにあって、
そこでの生活経験をもつ小野さんにどうしても、となった次第。
いまも新刊が出るごとに刊行されていると思われる「制作資料集」。
この第一号は「SKシリーズ20」発刊を機につくられたのはご存知か。
いまなぜこの作品なのか、その企画意図をみんなで共有したいこと、
ラボ・テープがどれほど多くの人たちのご好意とご尽力を集めて、
ていねいにつくられているか、それをラボにかかわるすべての人たちに
知っていただくことのほか、何よりも、パーティ活動のテーマづくりの
有用な資料となり話題になるものを全的に公開し提起しようというもの。
どうしても大都市を中心におこなわれる記念講演を、ていねいに記録しておき、
機会の得られにくい地域の人たちにも等しくシェアしてもらいたいとの願いもあって。
さて、水野忠夫先生に話を戻せば、ちょうどその当時、水野さんは
NHKテレビのロシア語講座をやっておられた。ハンサムにしてニコやか、
おだやかなその語り口はたいへん人気で、われわれ制作関係者とその周辺の
ものでこの講座を欠かさず聞いたものも少なくない。
わたし自身はもともとロシア文学を専門とするものではない。それに、その世界は
歩み入れば歩み入るほど、深い森である。闇である。どっちへ向いて歩めばいいのか、
立ちすくんでいるとき、ひとつのあざやかな道を見せてくれたものがあった。
集英社版「世界文学全集」の26、「ドストエフスキー 貧しき人びと/
白夜ほか」。ここに収められた「地下室の手記」を水野さんが訳しておられ、
出版直後に水野さんからいただいたもの。この巻末の解説文が「ドストエフスキー
“地下室”への道」。ゴーゴリーにつづくロシア文学の流れをみごとに俯瞰して
見せてくれるすぐれた一文で、これを書いているのが水野さんだった。
新書版(中公新書)の「囚われのロシア文学」もこの森へのわかりやすい入口であり、
そうか、そうだったのか! というものを与えてくれた記憶もなつかしい。
大学時代から親しくしてきた友人・知人が、一人、また一人とあちらへ。
西鶴、近松あたりの日本近代文学の権威とされた同窓の雲英(きら)末雄教授も
水野先生の先鞭をきるようにして。
ああ…。
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芸術の秋。真夏のほてりがおさまる時期になると、絵や彫刻をやっている知人からの個展、グループ展の案内がとどく。互いの加齢もあってか、さすがに年々その数は減ってきている寂しさはあるが、今年も十数通の案内をもらった。にもかかわらず、なかなか足を運べないでいるわけで、その非礼に心苦しい思いをするのも、この季節。
そんななか、“シルバーウイーク”とされる9月22日、友人を誘って、六本木の国立新美術館の第73回「新制作展’09」を観てきた。ラボのみなさんには親しい絵本作家・小野かおるさんのご招待によるもの。ここ数年、欠かさず観てきて、小野さんのたいへんな力作、ゲーテの「ライネケ狐」の連作銅板作品については、この「ひろば@」で三度にわたってご紹介させてもらった〔「ページ一覧」の「アート回廊=1」参照〕。前回でその連作は完結しており、今年はどんな作品を出展なさっているのかと楽しみにしていたが、いつも飾られているはずの「スペースデザイン」部門に、その新作は見られなかった。どうしてか、についてはまだ小野さんに訊いていない。
広々とした新しい美術館。その1階から3階までを使って展示された数百の作品群。スペースデザイン部門、絵画部門、彫刻部門からなり、それは、数えることなど最初からあきらめさせるほどの数である。有名な人の作、無名な人の作。かくも多くの芸術家が真摯に、自分の命を削るようにしてそれぞれの美を追求しているということの驚き。かくも高くひとの精神は飛翔できるものかとの感動。しかも、それは、それぞれ四尺玉花火のような、このときぞ! とばかりに奔放な個性を弾け飛ばすエネルギーに満ちている。すごい! のひとこと。ダイナミックです。

「始まり」(坂巻郁代)と題する作品。何の始まり? 命?
制作者にははなはだ失礼なのでしょうが、その圧倒的な個性は、わたしのケチでちっぽけな個的空間に受容するには抵抗のありすぎる強烈さである。スペースをはみ出し、時空を打ち破る豪放さ。多くは、とてもわたしの貧しい部屋を飾るには余りあるように思える作品たち。
だれに媚びるでもなく、何に流されるでもなく、奇を衒うでもなく、それぞれの芸術的感性を凝集してつくられた造形空間。おそらく、創るひとも、これがいい値で売れるだろう、観るものにウケるだろう、などと思ってつくっていないことは確か。無限にも思えるそのスケール。その純良な精神と潔さのようなものに、わたしなどはぐでんぐでんに酔わされてしまう。2時間あまりをかけて全部をひととおり観おわるころには、もう、まっすぐ立ってはいられないような疲れが。休憩用のソファにはすでに同じ疲れを抱えたたくさんの人たちがいて坐われない。意識の疲れに呆然と立ちつくすなかに、しかし、何にも替えがたい爽快感があり、自分の底に光るエネルギーが蘇ってくるひととき。
「移ろい」(長澤みや子)“とき”の移ろい、“内面”の移ろい。こころを移さずにいられるのは、幸せか。
秋は芸術の季節。なかなか事情は許されないが、六塵の世に生きるわれら人間、ときにはこんな解放と高揚の機会を大事にしないといけないな。そんな思いをまた今回も。作品は「理解」しようとしても、いつだってこちらの浅はかな理解を超えた芸術的想念と執念でつくられている。いい作品かどうかはわたしにはわかりません。可能性ある作品かどうかもわかりません。でも、こちらの胸にズシ〜ンと届くものをもった作品は多く、それをたくさんお見せしたいところですが、ここではこちらの浅はかな感性が捉えた印象的な作品のいくつかを紹介するにとどめます。

「記憶の容」(多養麻子)
〔開催〕東京・国立新美術館/9月16日〜28日 京都・京都美術館/10月20日〜11月1日 名古屋・愛知県芸術文化センター/11月10日〜11月15日 広島・広島県立美術館県民ギャラリー/12月1日〜12月6日
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夏の終わりにはレンゲショウマを見に行くのが習わしになって数年。
今年は8月25日、急にしのびよる秋の気配に背中をおされて
友人と奥多摩・御岳山へ、森の下の小さな妖精たちに会いに行ってきた。
レンゲショウマについては、この「ひろば@」で
何度か紹介したように思うが、そのつつましやかな気品と清潔さ、
自身の美しさも知らぬげに、うつむいて恥じらう乙女のような
その愛らしさが好きで、わたしのパソコンの背景画面は一年じゅう、
数種類のこの花の画像で飾られているほどだ。

さて、今年はこの山で、とんでもない生きものと出会ってしまった。
数年ここに通っているのに、これまではまったく気づかずにいた。
みなさんは、小さなこんな生物のこと、ご存知でしたか。
よほど注意していないと見られないが、それと気づけば、
いるいる、あっちにも、こっちにも。
あざやかなオレンジ色をした、頭と足しかない生命体。
クモのようでクモじゃない、「脚長おじさん」Daddy Long Legs
と呼ばれることもあるらしい「ザトウムシ」、または「メクラグモ」。
どうでしょうか、SF的といえないでしょうか。
レンゲショウマの群生する傾斜地から武蔵御嶽神社へつうじる小径には
うっそうたる杉木立が、ひんやりとした湿気をふくむ夏の濃い影をつくっている。
手つかずの自然が深呼吸して気持ちよい風を生む空間。
その十数メートルの小径と崖をかぎる垣のうえの、
あちこちに豆つぶが動く。いやいや、豆つぶどころか、米つぶ、
いや、その半分ほどしかないオレンジ色の生きもの。
クモの仲間なら、頭胸部と胴体がはっきりと分かれ、
カッコよくくびれているが、そうはなっていない。
どうやら、クモの類というよりはダニの仲間に近いようだ。
(じつは、ホンモノのダニも見たことはないが)
何よりの特徴は、頭も胸も胴体もいっしょになったような粒から
にょっきり出ている、途方もなく長い四対の脚。とにかく不自然なほど長い。
測ったら、おそらく10センチくらいはあるのでは。
しかもそれらの脚は髪の毛よりももっと細い。
中でもそのうちの2対はおそろしく長く、これを触覚のように使っている。
そんな細さで、その先端まで神経が通っているなんて考えられるだろうか。
そうなんです、写真に収めてやろうとレンズを向けると、
アレレッ、いない! その長い長い脚を使って、信じられない素早さで
かげに隠れる。その動きはまさに宇宙生物の歩行だ。
横浜開港150周年記念博で登場して評判になったフランス製のクモのお化け、
ナント市からやってきたENEOSラ・マシン、人智を尽くしてこしらえた
あんなものは鼻先でフン! と笑いのめすほどの、自然でスムーズな動き。
クモの気持ち悪さはなく、どこか、ヒョウキンでおもしろい。
寡聞にしてその生態については知らない。どんな分布になっているのだろうか。
口がどうなっているのか、目はどこについているのか、
ルーペをあてて見るという状況にはなく、ただの通りすがりの風狂人には
それ以上のことはわからない。なにしろ初めて見る生命体なのだから。
「おまえなあ、なんのために生きてるんよ」「何がおもしろくって
こんなところに生きてるんよ」と問いかけても、むろん応えはない。
どうやら雑食性で、アリなどの小型の虫の死骸や
キノコのようなものを食べるらしい。食べるといったって、
あんなに小さな個体。宇宙のガスを吸って生きる仙人のような。
それでもこの地球に生きる仲間なんだね、おまえさんも。
おたがい、生きてても、そんなに世間さまの役には立ちそうもないが、
せいぜい仲良くしようぜ。
雨にも風にも負けず、長生きするんだな。
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一万人規模でおこなわれた連合自治会主催の「夏まつり盆踊り大会」。豪雨の合い間、奇跡的な好天に恵まれての2日間の一大祝祭日。今回の新しいよびものの一つは、小学校4校が競演する「よさこいソーラン」。その旺盛な活力で祭りの場を圧倒した〔写真〕。
そしてその一週間後のきのう(8月1日)、この地域で隣接しあう老人保健施設と特別養護老人ホームが合同して開催する大納涼まつり。わたしの関わりも深い両施設である。祭りの規模としては前者の半分にも満たないが、ボランティアと施設側とが一体になって企画運営し、さまざまな趣向で地域の人びとを楽しませてくれる夏の恒例行事。
目が覚めるほどのはげしさでびっくりさせるヒップホップ。インドネシアからの介護スタッフとその仲間たちを中心とするインドネシアの伝統的なダンス。大爆笑を生む趣向でおこなう花火打ち上げ。その他、楽しみは尽きないなか、アッと、熱した祭りの場をひと飲みしたのは、幼児。いたいけな幼児の、可愛いいしぐさ。〔写真〕
そう、鉦太鼓のにぎやかな音響に合わせての阿波踊りのエネルギー大爆発。ふと、踊り手の足もとを見ると、イキなハッピと白足袋すがたの2、3歳の子が、お〜、オ〜、お〜、踊ってる、踊ってる! (いや、正確には、踊り連のあいだをチョロチョロ、踊りの動きをまねるようにしているだけ)。 こころもとない足つきで、機嫌よく小田原提灯をふりふりしながら。何のたくらみもない、可愛いらしい動き。
衆目は一瞬、ぴたりその一点に集中、ほ〜ォ…という声と、なんともなごやかな雰囲気が祭りひろばを領する。日ごろ表情を喪い、ことばを喪い、笑いを喪いがちな高齢入所者たちのどの顔にもやさしい笑顔が浮かぶ。奇跡を招いた一瞬である。
これは何なのだろうか。幼児が見せる一つひとつのしぐさの可愛いらしさが、眠りかけた老人の感性を呼び覚ましたこともあろう。日ごとに自分のなかのもの何かが毀れていく、何かが喪われていく、そんな老いの身を生きる人たちにとって、その小さな命の可能性、これから限りなく加えられ、積み重ねられていくその生のゆたかさに、「希望」を見たに違いない。自身が日々遠ざかりつつある「希望」のすべてを持って、いま小さな命が躍る、音に弾ける! さわやかでないはずがないだろう。
そこに在るだけでひとを幸せにしてくれる幼児のあり方。自分はどうだったのかなあ、との思いと、この子たちの健やかな成長を願って、たこやきの屋台の売り子として2時間あまり立ち尽くしていた疲れをひきずって、それでもずいぶんと心地よく帰宅した。
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横浜に住んでいる。そろそろ半世紀近くにもなろうか。
よく知らない人は、横浜に住んでいるというだけで、日ごろ海を目の前にして暮らしていると
思いこんでいるようだが、それはない。
港にはそんなに近くはないが、それでも、海への憧れには強いものがある。
その渺々たる開放的な広がり、限るもののない自由への憧れであり、
そこはいつも、いちばん新しいものをまっ先に見せてくれるところのような気がするから。
宇宙にいる若田光一氏の感覚にもこれに近いものがありはしないだろうか(レベルがぜんぜん違うか!)。
ずいぶん、いい気なもんだ、って!? そうかも知れない。
だが、若田氏以上に恵まれていると思うのは、海の青さを目路いっぱいにしているとき、
あらゆる「ねばならない」の桎梏から放下(ほか)された自由があること、
波にも似て、こころをゆする詩があること。
観音崎灯台のてっぺんから東京湾を一望する むこうは房総・富津岬
地域で9年余にわたりやってきた読書会のメンバーを案内しての文学歴史散歩。
じつのところ、この地を案内できるほどの知見はないが、とにかく、初夏の海、
目にしみるような青い海が見たい、と、三浦半島東端、観音崎方面へ5月20日に。
今回の文学歴史散歩の趣旨や内容の概略については、わたしの別のブログ
(よかったら、トップページの「名作読書《どんぐり》PLAZA」、または
http://kyonagus.i-ra.jp/
から入ってみてください)で紹介、わが国の黎明期、鎖国から開国への流れのなかの
横浜のすがたをしるした拙文を、さっそくたくさんの方に読んでもらっているが、
ここでは、おもむきを変えて、この地に伝わる古代ロマンをちょっとばかり。
(日本最初の洋式灯台たる美しい観音崎灯台、その他のことは、ここでは書かない)
走水神社といえば弟橘媛の「走水の難」の神話伝説でよく知られるところ。
その悲話というか美しいロマンについてはあとでふれるとして、
万葉集の東歌にあるという防人の妻のうた、わたしの記憶にはなかったが、
旅だつ夫へのやさしいいたわりをこめてうたわれた歌碑が見られた。
草枕旅の丸寝の紐絶えば 吾が手とつけろこれの針持し
いい歌じゃないですか。へたな注釈は必要ないでしょうが、一応、わたしなりに。
草を枕に野宿を重ねて遠くへ旅だつあなた。寝るからとていって着替えるでもなく、着たまま寝るしかない旅。汚れても破れても、着るものといってこれしかない。この着物のひももいつまでもつことか。切れてしまったときには、めんどうでしょうが、自分の手でつけてくださいね、わたしはやってあげられませんので。この針をわたしだと思ってお持ちくださいね。
まだ新婚の夫婦でしょうか。なんというやさしさ。こんな深い思いやりをみせてくれる嫁さんて、このごろいるでしょうかね。
さて、ずっとずうっとのぼって行ったところにある碑が、古事記や日本書紀によって倭建命(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の“走水の難”の神話を伝えているもの。
さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひしきみはも
わが国はまず西から平定され、倭建命はつづいて東征を進める。遠い大和時代のことである。ここ相模の国からつぎに上総(千葉県)に渡って、そのまま東北地方の夷の鎮圧に向かおうとする一行。ところが、はげしい台風に遭い、何日たっても海は荒れ、出す船はことごとく沈没する。さまざまな試みも無駄に帰し、いよいよ思案が尽きたとき、妃の弟橘媛は、「妾、御子に易(かわ)りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政を遂げい覆奏したまふべし」とのことばを残して、わが身を海の底深く沈め、海神の怒りをしずめる。この犠牲により海は鏡のように凪ぎ、倭建命は無事に上総の国に渡ることができた。
そもそも「走水」の名は、この海域の潮の流れが異常に速いことからつけられたとされる。
弟橘媛が入水する間際に夫の倭建命に向かって詠んだのが上記のうた。挽歌というか、いやこれは、こよなく美しい恋歌と言えようか。東征はまことにきびしいもので、受難がつづく。この走水の地に来る前、相武(日本書紀では駿河となっている)では、土豪のだましうちで火攻めにあう。「相武の小野に燃ゆる火」とは、そのことを指している。まさに焼き殺されそうなときにあってなお、わたしが無事かどうかを心配してくださったあなた。「火中に立ちて問ひしきみはも」。そんなあなたのためなら、この命など何ほどのものですか! 愛の絆の深さ、強さ。愛の絶唱、ここにきわまる、というもの。
この高い志を不朽ならしめようと、1910(明治43)年、神社の奥、斜面をのぼりつめたところに記念碑がたてられた。竹田宮昌子内親王のみごとな筆を得て。この碑の除幕式に参列したとされる錚々たる人の名が並ぶ。東郷平八郎、伊藤祐亨、井上良馨、乃木希典…などなど、明治の元勲や日露戦争の英雄たちの名。そしてこの記念碑の裏面には、東郷平八郎の草案によるとされる碑文が刻まれている。いわく、「その負烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず、亦男子の模範たるべし」(部分)。
これぞ女子たるもののカガミ。男もこれを模範とせよ、と。さあ、新しい時代の前線に立って生きる女性たるテューターのみなさんは、これをどう読むでしょうか。この弟橘媛や、防人の妻・椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)に日本女性の美しい租形をみる、なんて言ったら、あっちからも、こっちからも、「がのさん、ふるいね~」と集中砲火のブーイングが聞こえてきそうな…。そんな心情もわからないじゃないですが、ここに良質な日本人のこころ、歴史に磨かれた日本人の原像の一端をみることが、できませんでしょうか。
なお、走水神社のはじまりは、倭建命がここに至ってなお上総に渡れず何日も難儀していたとき、村人がみことから「冠」をたまわった。それを石櫃(いしびつ)に納め、そのうえに社殿を建てて倭建命を祀ったことによる、とされる。
上の写真は、この記念碑のわきから房総方面をのぞむもの。右に小さな岬が見えるが、東征の一行はここから上総にわたったとされる。「御所ケ埼」とも「旗山岬」とも呼ばれてそのいわれをとどめる。またここに、入水して果てた弟橘媛の櫛が7日後に流れ着き、村人はここに御陵をつくって櫛を納めた、という伝えもある。
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そう、パブロ・カザルスの「鳥のうた」を聞くころには、もう、中から押し上げてくる声を抑えられず、ほとんど嗚咽していた。序奏のA-Eのトレモロで、もう滂沱(ぼうだ)の涙をぬぐういとまもなかった。
近くにある音楽事務所のはからいで、この22日(日)の午後、福祉施設のホールでチェロ・コンサートが開かれました。商業目的の演奏会なら、わたしはここでご紹介することはないのですが、交通費さえ払わないまったくのボランティア出演です。施設が日ごろお世話になっているボランティアの方がたや地域の人たちを招いての「感謝会」。年一度ずつ催してきました。これに出演を申し出てくれたのが、元ウインフィルハーモニー管弦楽団の奏者のアダルベルト・スコチッチさん。オーストリアのマンハイム生まれ、チェロ奏者の第一人者。たまたまの来日でした。むこうから転がりこんでくる僥倖って、あるもんですね。
私事ながら、わたしは、あのおごそかな、もの静かにして流麗な、心の底までしみいるチェロの音が、どうしてなのか、好きでたまらないのです。いいですよね~、あれ。かつて、ラボの「セロ弾きのゴーシュ」と耳にしただけで、居ても立ってもいられず、当時来日していたミッシャ・マイスキーの演奏会場を2~3、追っかけハシゴをしたことがあります。その透明な美感の誘惑には逆らえ切れないものがありまして。この人こそ、ロストローヴィチの再来と言われるチェロ奏者の最高峰ですよね。いまもたくさんのCDを手放すことなく持っています。
チェロをめぐっては、この「ひろば@」で、翻訳家・谷口由美子さん、絵本作家・伊勢英子さんのチェロのことをどこかでご紹介した記憶もあります。
主催者側スタッフと演奏会の会場づくりをするなかで、前面に高さ30センチほどの演奏ステージをつくりました。木質がむき出しになってしまうため、ここにきれいな毛氈でも敷こうということになりました。まわりにはあふれんばかりの花を、と。ところが、演奏者側は、そんなことはまったく無用だといいます。音楽事務所が持ち込んだのは、約1.5メートル、厚さ1センチほどの、何の変哲もない木板。わたしの耳では聞き取れなかったのですが、日本にはない、ヨーロッパの木だとか。その敷き方にも、木目をどちらに向けるなど、それ相応の流儀があることを知りました。また、ステージの背後は、円形の大きな透明ガラス。演奏のときにはそこのカーテンは閉め、ホール全体を暗くして演奏者のところにスポットライトを当てよう、と下準備。しかし、これもNo! とのこと。カーテンの布地に音が微妙に吸収され、伴奏のピアノの音との調和も狂ってしまうから、と。もともとこのホール、丹下健三事務者が設計した、音響効果の点ではなかなか細かなところまで行き届いた会場なのです。
そんなこんなの準備をしましたが、怪しい天候。予報では、この日は大雨、大風と報じられていました。まわりの木々の枝は折れそうなほど風にたわみ、うるさくもみ合っています。咲きかけたサクラも、どうしようかと迷っている様子。ウッヒッヒ…、これで来場者は減るだろう、とニンマリ。というのは、申込者は会場に収容できる数をはるかにオーバーしていて、もう、なるようにしかならないよ、と言っていた状態でしたから。結局は、そんなに足止めする人もなく、次から次へ、ありったけの椅子を追加しいしい、立ちんぼうの人も含めて、どうにか。中央通路をかき分けて出演者がステージまでたどりつくのにひと苦労を強いることにはなってしまいましたが。
演奏中の画像がほしいところですが、ご承知のとおり、
残念、演奏中の撮影は厳禁ですので。
逆光で写真も撮りにくいし…。
さて、チェロの演奏。ハイドンの「メヌエット」、ショパンの「華麗なるポロネーズ」につづき、フォーレの「シシリアン」と「パピヨン」。昔むかしのことですが、ある時期、わたしもちょっとばかしフルートをやっていたことがあります。そのころのオハコの一つが「シシリアン」で、苦労して練習した記憶もあり、このあたりになると、わたしの胸の奥に湧いてくる思いには熱いものがありました。「パピヨン」(ちょうちょ)の技巧的なパッセージもいい。さらに、ポッパーの「セレナード」「ハンガリアン・ラプソディー」、ドボルザークの「ロンド」ときて、すでに約1時間、予定の曲目は終わります。大きな拍手と歓声に呼び戻されて弾いたアンコール曲は、サンサーンスの「白鳥」、カザルスの「鳥」、そしてもう一曲。
目を閉じてカザルスの「鳥のうた」を聞くうち、知らず識らずのうちに頬を流れおちる滂沱の涙をどうすることもできませんでした。(ええ、花粉症の鼻汁ではありませんよ。)最後の曲が何だったか、覚えがないほどの感激のなかに。
すべての演奏が終わったあとは立食パーティで、ふだんは食べられないようなすばらしいごちそうが並びました。ですが、さすがの食いしん坊のわたしも、この日ばかりは口のなかの味がわからず、促されて何か食べようにも、カニも寿司も、エビちりもローストビーフも、そばもフランス料理の各種名品も、ノドに通っていきませんでした。ひとと演奏のことを話せば、また涙。とりわけ「鳥」への思いには深いものがありまして、どうしようもありません。
すばらしい春の午後をウイーンの香りにまみれて楽しみました。
〔注記〕ご存知のことと思いますが、パブロ・カザルスについて。20世紀最大のチェリストであり、平和活動家。スペインのフランコ将軍率いるファッシズム政権に対して音楽創造活動を通じて抵抗。追われて命からがら亡命したのちも、その精神をいささかも曲げることなく、音楽を抱えて世界平和のために行動、その美しい詩ごころと深い精神性を世界の人びとにとどけつづけた。81歳のときに20歳の美しいお嬢さんと結婚したことや、95歳のとき、1971年の「国連デー」の記念コンサートに「鳥のうた」を弾き、peace, peace と鳴く鳥の美しい声を世界に発信したり、故ケネディ大統領の招きを受けてホワイトハウスでこの「鳥のうた」を演奏したことなどが伝説のようにして語られている。日本にも来て、日比谷公会堂で演奏している。97歳で召されるまで、人を愛し、音楽を愛し、芸術を愛し、なかんづく平和を愛した人。
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子どもを叱らない、いや、叱れない親が多くなっていると聞きます。どうしていますか、あなたは?
やさしいばかりではすまされない場合があります。どこでも目にする、目に余る子どもの行儀の悪さ、悪質なイタズラにも、叱らないどころか、まわりの人が見かねて注意しようものなら、逆ギレして怨んだりする親さえも。そうかと思えば、牛馬に対するように子どもを怒鳴りつける親がいたり。嘆かわしいことには、そのどちらでもなく、われ関せずで、見て見ぬふりをする人が大多数。たしかに、怒るにせよ叱るにせよ、互いの関係性が大事で、ワルを見てすぐ「コノヤロウ!」とはならないのはもちろんです。
さて、「怒る」と「叱る」は、どこがどう違うのでしょうか。
3月8日、横浜市青少年指導員大会に参加してきました。その第二部が記念講演で、落語家の桂才賀師匠による1時間半にわたる話。落語が演じられたわけではありません。ただ、付言させてもらうなら、古典落語というのは、本来、一種の説法であり、どこかにかならず「教える」「諭す」というものがあって、教訓を笑いのコロモにくるんで語ってきた、そういうものだそうで、わたしは初めてそのことを知りました。
この日は、落語ではなく、「子どもを叱れない親たち」と題し、師匠が少年院篤志面接委員として出会ってきた青少年のこころの内側を、これはさすがに59歳の噺家、円熟した名調子で語ってくれました。
ところで、みなさんは桂才賀という落語家をご存知でしたか? 恥ずかしながら、わたしにとっては初めて見る人、初めて知る人でした。1980年代の8年間、日本テレビの人気番組「笑点」のレギュラー・メンバーだったそうですね。1985年に真打ちに昇進しています。
この人、東京・羽田の生まれ、飛行=非行と縁が切れない宿命にあるとかで、法務省の「少年院篤志面接委員」という、あまり聞きなれない肩書きをもっています。奥さんが沖縄の人で、あるとき、子どもさんをつれて里帰り。ムコどのとしてはヒマをもてあまして、なんとなく近くにある少年院を訪問しました。この沖縄は、中学生の逮捕補導率で全国トップのところとか。その後、北海道に行ったら、そこの少年院に沖縄で会った所長が転任してきていて、やあやあ、となり、これを契機に日本じゅうの少年院をめぐることになったそうです。日本全国にはいま53の少年院があり、その全部をまわって、現在は3巡目。いっさい無償のボランティアで、交通費さえ出してもらえない活動。わたしたちの知らない、高い塀の中で、自分の犯した罪と向かい合いながら毎日をすごす数万の若ものたちと、四半世紀近くにわたって対話してきたことになります。
保護司という人が各地に52,500人おり、この人たちは刑を終えた青少年の自立と健全育成にあたっています。一方、面接委員というのは、全国に800人弱いて、保護処分を受けて少年院に入っている若ものたちの自立と心身の健全育成を任意にあずかっています。めったにその生活が外部の人に知らされることはありません。
正確なところは知りませんが、罪を犯した未成年者は、ふつう、2週間程度の鑑別所生活ののち裁判にかけられ、家庭裁判所から保護処分を受けたとき少年院に送致されます。そこでの判断基準は、多くの場合、ダメ親、ダメ生活環境で、そこに置いておいても子どもに改善が期待できないとされるとき。親の無関心・無理解と愛情不足、あるいはその逆の、イビツな愛情過多。若ものを犯罪に走らせる要因には、それが大きいようです。
家庭から、学校から、さまざまな理由ではみ出された子どもたち。その少年院の子どもたちに川柳や詩をつくらせることがあるそうです。
「たまにはよ 叱ってみろよ おとなたち」
「この人は 向いてないのに 教育者」
叱れないおとなの弱みに乗じて悪に走った子どものすがたが見えてきます。叱るべきときにしっかり叱れるおとなでありたい。叱る人=し(っ)かりもの、というわけ。
「笑顔にまさる化粧なし」
さて、「怒る」とはどういうことか。「叱る」とはどういうことか。
ずっとずっと以前、どこで触れたか思い出せませんが、関西のPlay with me さんの叱り方のじょうずさをこの「ひろば@」のページで書いた記憶があります。「怒る」とは、こちら側の利得と都合とメンツに立って、感情にまかせて一方的に相手を責めること、と言えるでしょうか。「怒髪冠を衝く」という故事にも見るように、そこには荒々しさ、衝動的な激しさがありますね。弱者を「怒罵」するすがた、だれであれ、怒りののしるすがたは、美しいものではありません。一方、「叱る」はどうか。相手の立場や事情もわきまえたうえで、あやまちを強い態度で戒める、しっかり注意して正してやること。「叱責」してアタマからなじるのではなく、「叱咤激励」ということばがあるように、相手の立場に立っていっしょに考え、あるべき方向へ率直に導いてやる、励ましてやる、冷静に、余裕を持って。
また、才賀師匠が女子の受刑者の前でよく話したり色紙に書いたりすることばは――「笑顔にまさる化粧なし」。こころを飾り人間を飾るのは、化粧品ではなく、自然に生まれる笑顔。これは、女子の心得としてもらいことばであるとともに、だれもがいつも胸に持っていたいことばですね。
地域にあって、若ものたちの心身にわたる健全育成をあずかる青少年指導員。これは、子どもたちの成長と教育を全的にあずかるテューターの立場とかなり近い距離にありはしないでしょうか。犯罪に走らない、犯罪に巻き込まれない青少年づくりと、その活動を通じて、安心できる町、安定した地域づくりの一端をになう両者。ただ、ラボがもしその社会的使命を忘れて語学教育、狭隘な夜郎自大の英語至上主義に走り、利潤追求を金科玉条とするなら、話はぜんぜん別ですけれど。
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び~っくり! わたしは「7」の満点でした。喜ぶべきことならいいのですが、これ、「だまされ度チェック」。
「人のよすぎるあなたは、悪質業者のかっこうの的。このままでは破産の憂き目にあいかねません。時には心を鬼にすることも必要です」
これが満点のわたしに対するコメント。破産の憂き目と言われても、すでに破産しているようなもの。鬼といわれても、このニヤけた面相では…。鬼のお面なら、今度、夏祭りのときにでも買っておこうか。
あなたもこの自己診断、やってごらんになりませんか。以下の七つの質問に「はい」「いいえ」で答えていただくだけ。そんなに考えないで、パッと直感で。よろしいですか。
◎勧誘の電話をなかなか切ることができない
◎外見で人を判断しがちである
◎人から頼まれるとイヤと言えない
◎貸したお金を請求できない
◎どんな失敗も成功のもとである
◎知らない人ともすぐ友だちになれる
◎やはりドラマは人情ものに限る
「はい」がゼロという人はラボの周辺にはいないでしょうね。もしいたら、逆に、ハッハ、それ、あまり可愛いくない。そんな頑なな猜疑心はご勘弁願いたいところ。たぶん5~6個の「はい」の人が多いのではないでしょうか。その人には、「優柔不断な面のあるあなた。すでに悪質商法にひっかかったことがあるのでは? “後悔先に立たず”です。くれぐれも注意しましょう」。
3~4個の人。あなたは「自分だけは大丈夫、といつも思っていませんか? 悪質業者はそんなあなたのこころのすきをねらっているのです」自信過剰型。
1~2個の人。なかなか意思堅固でけっこうです…、が、「最後のツメがまだまだ甘いですね。相手の強引な押しに負けないよう、断固とした姿勢で、きっぱり“必要ありません”といいましょう」
内閣府国民生活局から派遣されたベテラン消費生活アドバイザーを招いて「悪質商法の被害を妨ごう」をテーマに、2月25日、地域で福祉討論会。以下はそのときの講演の受け売りです。昨今、高齢者の孤独につけ込まれた被害が目立っていますが、そればかりではありません。これをやられたら、老若を問わずたいがいの人は騙されちゃう、という巧妙な手口。
「いいです」「けっこうです」と言って断ったはずなのに品物と請求書が来た、という人がいます。「いいです」「けっこうです」は、汚い魂胆をもったヤツは「OK」の意味とこじつけますので、トラブルの元です。断るときは「必要ありません」ときっぱり言わないといけませんね。電話の長い応対は無用。セールスの場合なら、その気がなかったら玄関の中に入れないこと。
それにしても、あの手この手の悪の手口。許しがたい犯罪です。こんな不正、こんな卑劣なことがこの社会にあっていいものか、と腹を立てても、わたしたちのふつうの常識は彼らには通用しません。良心も恥のこころもありません。礼節や相手を思いやるこころなんてもちろんのこと、親兄弟、親類縁者、それまで世話になった人たちに顔向けできないというまともな感覚なんて持ち合わせません。正義も不正義もなく、自分の欲望を満たすことだけがヤツらの行動の根拠であり、うまくひとをひっかけたときが最高の快感なんです。
・火災報知器、消火器、新聞、掃除機、学習教材などの家庭訪販
・大豆、金、原油、外国為替証拠金、先物オプションなどの利殖商法
・白蟻、調湿剤、床下換気扇、配水管工事、布団類などの点検訪販
・無料サービス、無料招待、無料体験などといって売りつける無料商法 “タダほど高いものはない”
・ブレスレット、健康寝具、電気治療器、健康食品などのSF(催眠)商法
・和服、アクセサリー、布団、資格講座などの次々販売
・ほんとうは根拠のないでたらめな化学反応を見せて信用させる実験商法
・印鑑、祈祷、数珠、アクセサリーなどの開運商法
・海外宝クジ、会員券、車などの当選商法
・注文もしていないのに一方的に品物を送ってくる送りつけ商法
・健康食品、下着、化粧品、美容器具などの紹介販売
……いやいや、例を挙げていったらキリがありません。町へ一歩出ればすぐキャッチセールスにしつこくつきまとわれます。うるさいですね、あれ。まったく覚えはないのに、携帯電話の出会い系サイトとカード会社から高額の請求書が届いた、という例。近々株式が公開される、ぜったいこれは儲かるから、と未公開株をつかまされたが出資法違反で摘発され、元本保証もなかったのですべてパーになった、という例。まったく、油断もスキもあったものじゃない。実際、あなたも、いつどんなワナにハメられるか、わかったものではありません。悪質商法をシャットアウトするポイントを集約すると、
一、うまい話、甘いことばには、かならず落とし穴がある。
二、契約のサイン、印鑑は、慎重につかうこと。
三、自分ひとりで判断しないこと。
四、断る勇気を持とう、はじめが肝心。
十分それはわかっていたつもりでも、フイに来たセールス、つい信用して口車に乗って契約してしまった(買ってしまった)、あとで考えて不要なものだと気づいた…。
そんなとき、ぜったい役にたつのがクーリング・オフという制度。これは強力な消費者保護の法律で、理由には関係なく、8日以内なら簡単に解約ができるんですね。水曜日に買ったのなら次の水曜日までに通知する。電話はだめで、書面であることが要件。契約した年月日、商品名、金額、販売会社名(担当者名)…などがわかればハガキ1枚の「契約解除通知書」でOK。いつ契約したか(買ったか)が大事です。電話販売の場合なら、書面が届いた日から数えて8日以内であることが肝心。品物の引き取り手数料も、いっさい業者持ちです。引き取りのためもう一度来てもらって顔を合わすのがイヤだという場合は、着払いの宅配便でもいい。
まずは契約解除通知書をハガキまたは手紙で出すこと。契約解除をより確実にするためには、それをポストに入れてしまわないで、郵便局で配達記録郵便か簡易書留にして出すこと。そして両面をコピーしておくこと。クレジットを組んで契約した場合なら、もうひとつ確実なのは、販売会社のほかにクレジット(信販)会社にも同じものを出しておくこと。この場合もいつ出したかだけが問題で、印鑑の必要もありません。
無条件で契約解除できるのは8日間といいましたが、いくつかの例外もあります。たとえばマルチ商法(連鎖販売)。友人や知り合いに商品やサービスを買わせてその販売組織に入会させ、マージンをとるという仕組み。健康食品や化粧品だったり、浄水器だったり。この場合は20日間が有効期限。勧誘されたときの儲け話と違って、いざとなると思うように商品が売れず、そのうち「怪しい商売をしている」との周囲のうわさが立ち、信用を失墜、揚句には、売れない商品の在庫の山を抱え、借金の返済に追われて死ぬ思いだったという例も。あと、海外商品先物取引の契約解除は14日間。
梱包を解いてしまった、布団を買ったが一晩それで寝てしまった…。そんな場合でも、形のあるものなら有効だそうです。一方、飲んでしまった、食べてしまった、と形が消え、消耗してしまった相当分は返してはもらえないのは仕方ありません。それと、自分で足を運んで買ったり申し込んだりしたものはクーリング・オフできません。通信販売の場合もこの制度はありません。注文し購入する以前によく返品対応の規定をよく確認する必要があります。
さまざまな消費生活上での困りごとやトラブルは、お近くの消費者センターか全国消費生活相談員協会や国民生活センターに相談したり情報をもらったりするといいでしょう。親切に教えてくれますが、それ以前に、自分の暮らしは自分で守るのが原則であることも忘れずに。
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