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★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2 11月14日 (火)
神話的な無時間のなかにこだまする元始の詩のやさしさ

 小栗康平が監督した映画『埋もれ木』を11月3日に見た。文化の日、この日、彼が紫綬褒章を受けたことを新聞で知ったのは、映画を見て帰ってからだった。『埋もれ木』は2005年に製作された彼のもっとも新しい作品。第53回カンヌ映画祭で特別上映されている、世界的には(国内ではいざ知らず)たいへん評価の高い作品である。
 物語の舞台は、山に包まれた小さな町。コンビニが道路わきに一軒だけ開いている、どこにでもありそうな過疎のさびしげな町。とりわけて美しいということもない。さて、この映画は何がテーマなのだろうか。たとえば、中断されたまま野ざらしになっている高速道路。緑の山肌を無惨に引き裂いて造られ、いまは廃墟のようになっているコンクリートの巨大な建造物。その上で正体のよくわからない若い男女が他愛もない遊びをあそぶシーン。田んぼのなかから突如あらわれた直径1メートル余の太い埋もれ木。3500年前のものと鑑定され、いきなり小さな町に考古学ブームが起こり、人の波が押し寄せ右往左往するシーン。数人の子どもが路上で群れているかと思うと、通る車、通る車ごとにその前に両手両足をふんばりたちはだかって“通行税”を求める「子ども地蔵」という習俗をあらわすシーン。おとな4、5人で、クジラだかフグだかの形につくった張り子のようなものをヘリウムガスの風船で空に吊り上げるシーン〔写真・下〕、などなど。映像は同質のリズムで展開するが、漸層的表現になっているわけでもない。そこには、人を引き入れるためのストーリィ展開のイロハとされる対立も争いもない。お決まりの恋愛ごっこもない。
 それでも、なぜか、こちらの感性に染み入ってくるものがある。

umoregi03

 観るものはそうしたシーンを繋いでいるものは何かと見ているわけだが、どこまで行ってもそれがわからない。現実と幻想を織り交ぜた、イメージの秩序も跳躍もないかに思える、統一感を拒否した淡々とした積み重ねによって、小栗は何を表現しようとしたのだろうか。テーマも見えなければ、物語のスジを運んでいく基軸も見えない。強いて云うなら、三人の女子学生の、つぶれかかった雑貨店の片隅での雑談。べつだん遊びたいこともないから、思いつくままにでたらめな物語をつくって三人でリレーしてみないか、ということになる。書きとめられることもないその場かぎりの物語。彼女たちは文学少女らしくもない、退屈してどう時間をつかったらいいかわからずにいる、ふつうの女の子たち。その物語はこんなふうに始まる。
 町に唯一あるペットショップに、ある日、ラクダがやってくる。誰が注文したということもない。このラクダのために、町のあらゆる舗装道路は掘り返され、砂塵の巻き上がるデコボコ道に変わる。それだけで、あとはそれにつづけて別の女の子が物語をつむぎだしていく。でも、三人でやろうと決めはしたものの、それほど気があるわけではなく、荷やっかいになってだんだんトーンが落ちていく。物語は繋がっているようでもあるが、ぜんぜん関係ないようでもある。ユニークな、ゆたかな発想もなく、狭くつまらない内容へはまりこんでいく。ラクダのためのごろごろした土の道と、廃墟のようにうち捨てられた高速道路と、そのあいだの距離のなかに、ひょっとすると制作主体の思いが潜んでいるのかもしれないけれど、そこはわからない。

 映像は、きれいとはいえず、ごく当たり前なものを映し出していく。ただ、何やら不思議に染み入ってくる感覚がこちらに残る。だいたい画面ぜんたいが夕暮れどきのようにうす暗く、はっきりとは見えない。登場し動く人物は、いつも遠景で捉えられ、珍しくもない周囲の自然とともにあって、表情をアップで写すことはない。背中を向けているシーンも多い。出演者は、ブラウン管のむこうなどでときどき見かけるのには、田中裕子がいる、岸部一徳がいる、平田満、坂田明、中島朋子といったところも。しかし、彼らの誰にも個性的な、ことさらなキャラクターは与えられていない。そもそも主人公がいない。だれも重要な役を演じてはいない。たまたまひとつの映像空間に通り合わせただけといった様子。おおよそ観るものに何一つサーヴィスしてくれない。だから、よほど意識的にこちらが目を凝らしていないと、いまのが誰だったか、それとわからない状態。わからなくていい、というのがどうやら小栗康平の手法のようだ。主語を取り除いた映画ということになるだろうか。そもそも、映画における主語って、何だろう。いよいよむずかしくなってくる。
 ここの人たちは表情でものごとを語ろうとしない。人をごまかし欺くのに使われることの多い表情というものに消しゴムをごしごしと当て、執拗なまでに殺す。よくしゃべるのは、ウソつきか虚飾屋。「小人の過つや必ず文(かざ)る」で、器量の劣った、うすっぺらな知識しかないものほどよくしゃべり、とりつくろうことばかりやらかす。ところが、この映画ではあまりセリフもない。さらには、“ただしい”とされることばでものごとを語ろうとしない。そうですよね、身に覚えはありませんか、わたしたちはこれまで、表情とことばでどれほどたくさんの人を欺いてきたことか! ごまかしを重ね、言い訳をし、ウソばっかりついてきた自分のこの生涯に思い至る。笑顔が美しいなんてのも、あれはウソっぱちの、たぶらかし、ごまかしかもしれない。怖い、怖い。
 しかしまあ、刺激もなければ興奮もない、こんなことで映画がつくれるものなのだろうか。神話のなかにいるように時間の感覚が、まるでない。ないないづくめでつくりだす映画。そう、いまわたしたちがすぐ隣の町で簡便に見て楽しんでいるような映画はこんな手法ではつくれない。まさにここに、小栗康平の今日的な映像文化の危機へ立ち向かうギリギリの挑戦がある、批判と皮肉がある、とわたしは見る。簡単便利はそんなにいいことなのか、というわたしたちへの根源的な問いかけがある、というふうに。

 先回、身のほど知らずの「蟷螂(とうろう)の斧」でこのページに書いたように、わたしたちの目の前にある映像は、一見、多様であるように見えて、じつはハリウッドのアメリカ的な感性にくるみとられて一元化・単一化したもので、本当の意味での多様性は失われ、知らぬ間にわたしたちの感性も知性もやせぎすに衰えてきています。すぐ目の前の、すぐわかるものしか見ていない人たち。自分の利得しか考えちゃいない、金持ちだが精神においてはスッカンピンな人たちの群れがひしめく街に生きているわたしたち。金持ちでないところだけその群れから免れている可哀そうな自分。
 映像文化も、劇場の大スクリーンから、町のすぐそこにあるシネマコンプレックスへ、ビデオ・DVDを映すテレビ画面やパソコンやカーナビへ、そしてついには携帯電話のあの小さな液晶画面へ。掌のなかで観る映画が求めるのはどんな映像か。人間のこころの動きの機微なんてどうでもよい、こころを開放するとされる景観の雄大さ壮大さなんて意味がない、色だってどうでもいい、とにかくアップだ、どアップだ、スキャンダラスな刺激だ、ぶっとばすような強烈な刺激の連続だ、ニュアンスゆたかな美しいことばや音楽なんてしゃらくさい、叫べ、ただ声のかぎり喚きちらせ、かまうことはない、ヴォリュームいっぱいにかき鳴らせ、……そういう傾向を強めていくことは見えている。
 そうして映像づくりは意味を失い、その役割を終えて消えていく。気韻あふれることばや表現が喪われ、あのへんてこな顔文字だけで人と人がつながっていく。そういう時代は、人間という生物にとって、いい時代といえるだろうか。このごろの流行語でいうなら、「美しい国」のイメージはそこでつかめるのだろうか。小栗康平の挑戦の意味はそのへんにあるような気がする。

 この人は、浦山桐郎、篠田正浩について助監督として映画をつくってきたあと、1981年に『泥の河』で監督デビューした。その後、『埋もれ木』の以前には、李恢成の『伽倻子のために』、島尾敏雄の『死の棘』、オリジナル脚本による『眠る男』と、問題作ばかりをつくってきた。難解というのとも違うようだが、見てすぐわかる、簡単に伝わる、というものは一つもない。そのわりには外国の賞をよくとる。大衆受けをねらった、興奮と刺激で人を酔わす楽しみにはぴしゃりと背を向けて、これまでの映画作りの常識をひっくり返してきた。「新しいファンタジー」と、もの知り顔にいうタレント気取りのいい加減な映画評論家の評もあるにはあるが、それともぜんぜん違う。むしろ、神話のような感じといえるかもしれない。『古事記』などに見る叙事詩的冗漫というに近い。
 文化の原点へ誠実に回帰していく芸術家の強い意思をわたしはそこに見たように思う。

★…転記スミ ⇒ ページ一覧「つれづれ塾 その《6》」
★★…写真3点削除 12.09
Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
candyさん (2006年11月15日 00時48分)

がのさんの解説を読ませていただいて、「埋もれ木」は是非見たいと思い
ました。きっとご紹介が無ければ知らずに済んでしまっていたでしょ
う。

子ども達にきちんと説明をして何がいいか、悪いかを伝えること。
自分の子ども達に出来ていたか不安です。
「そんなことは分かっているでしょう。」と言う気持ちで言葉が足りない
ことがほとんどだったように思います。

自分が発した言葉は忘れてしまうけれど、人から掛けられた言葉は鮮明
に覚えていることが多いですね。

いじめに関しても、そのことは大きな一因だと思います。

自分の言葉にしっかり責任を持たなければと思うのに、「あ~、余計なこ
とを言ってしまった」と反省することばかりです。


昭和30年代、私も沢山の映画を見ましたが、娯楽としての映画のみでし
た。それは私の方がず~っと幼かったから??でしょうか?いえいえ、
無知だったのでしょう。

この年になって出会える物、出会える事に感謝します。

「チップス先生さようなら」もつい最近やっと読みました。

チップス先生の教え子達への思い、愛情、テューターなら皆さん少なか
らず持っていらっしゃるでしょう。

まだまだ、経験の浅いテューターですが、先日のパネルディスカッショ
ンでも、ラボ修了生たちの言葉に、テューターをしていて本当に良かっ
たと思える嬉しい一日でした。
Re:Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
がのさん (2006年11月15日 18時13分)

candyさん

【その1】
>いじめに関しても、そのことは大きな一因だと思います。
「チップス先生さようなら」もつい最近やっと読みました。
チップス先生の教え子達への思い、愛情、テューターなら皆さん少なか
らず持っていらっしゃるでしょう。

⇒ いやなニュースですね、いじめ、自殺、幼児虐待、必修科目未履修
をめぐる校長の自殺、などなど。ごまかしと逃げばっかり。人間て、そ
んなに弱い存在なのかと、がっくりさせられます。
テューターのみなさんはまた横浜で「社会力」の話を聞くことになるよ
うですね。
チップス先生のあり方についてはもう改めては書きませんけれど、今は
「社会力」より以前に、こういう事態のなかで必要なのは「人間力」を
つけること、自分を愛すること、布いては他人を愛することが語られね
ばならないでしょう。他がわかり世界がわかるゆたかな想像力をもてる
存在に子どもが育っていくこと。
ところが、テューターが「テーマ活動」を通じてやっていることは、い
や、やらねばならないことは、まさにそのことなんだと思います。
自信をもち、誇りにしていいことですね。記念の式典には社会へのアピ
ールのネライがあると聞きましたが、語るべきはそのことであって、壇
上に立つ人たちよりはテューターが前面に立ってそのことを表現すべき
ではないか、と、そんなことを思ったことがありました。

> 自分の言葉にしっかり責任を持たなければと思うのに、「あ~、余計な
ことを言ってしまった」と反省することばかりです。

⇒ ほんとですね。必要なことはいわずに余計なことばかりを手前よが
りにいう。わたし自身がよく失敗する例で、この掲示板でもわが身の軽
率さをお詫びしたばかりです。もうちょっと慎重さがあれば…、と。
【つづく】
Re:Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
がのさん (2006年11月15日 18時15分)

candyさん

【その2】
> 昭和30年代、私も沢山の映画を見ましたが、娯楽としての映画のみで
した。それは私の方がず~っと幼かったから? でしょうか? いえい
え、無知だったのでしょう。この年になって出会える物、出会える事に
感謝します。

⇒ ビデオやDVDでむかしのいい映画が見られる時代ではあります
が、そうやってことさらにおカネを出して求めないでも、いいものは自
然にむこうから目の前にやってくる、という感じですよ。地域の文化活
動のなかで、大学の文化祭のなか、などいろいろな機会に。
 そういうところにアンテナがないと、機会を失うことになるのでしょ
うが。
Re:Re:Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
candyさん (2006年11月15日 23時02分)

がのさん
>candyさん

【その1】

今は「社会力」より以前に、こういう事態のなかで必要なのは「人間
力」をつけること、自分を愛すること、布いては他人を愛することが語
られねばならないでしょう。他がわかり世界がわかるゆたかな想像力を
もてる存在に子どもが育っていくこと。
ところが、テューターが「テーマ活動」を通じてやっていることは、い
や、やらねばならないことは、まさにそのことなんだと思います。
自信をもち、誇りにしていいことですね。

→先日のOB・OGのパネルディスカッションで、まさにそのとうりの
 経験だったと、彼らは熱く語ってくれました。
 ラボでは、自分が必用とされていると感じられた、尊重された、そし
 て人の意見を聞く耳が持てた、今もどんな所に行っても外国人であろ
 うが、日本人であろうが、自然と溶け込んでいける自分がいる・・。

 肩肘張らずに自分の素を出せる場所がラボだった~いじめとは無縁の
 場所だった~という話もありました。

 そういう場所を提供し続けて行きたいものです。
Re:Re:Re:Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
がのさん (2006年11月17日 13時38分)

candyさん

【その1】
>先日のOB・OGのパネルディスカッションで、まさにそのとおりの
経験だったと、彼らは熱く語ってくれました。ラボでは、自分が必要と
されていると感じられた、尊重された、そして人の意見を聞く耳が持て
た、今もどんな所に行っても外国人であろうが、日本人であろうが、自
然と溶け込んでいける自分がいる…。
肩肘張らずに自分の素を出せる場所がラボだった、いじめとは無縁の場
所だった、という話もありました。

⇒ いまの子どもをとりまく周辺状況は、簡単には語れないほど深刻な
事態にあります。マスコミや教育評論家とされる人物はほんとうの現場
を知らないので、手前勝手なことばだけを弄して肝心なところを伝える
ことはしませんが、わたしたちの身辺にあっては、いじめ問題の起こっ
た学校の校長がいくらアタマをさげても一歩も解決へは動かないことは
はっきりしています。むしろこの巷では、常識では考えられない破廉恥
な親たちが問題だ、家庭教育が問題だ、とする声のほうが圧倒的です。
過保護の親と放任主義の親と、その両極にある親たち。
過保護の親は、わが子を囲いこみ、子どもに何かを考えさせる前に自分
でぜんぶやってしまうし、放任主義の親は、仕事だ、オシャレだ、遊び
だ恋だと、自分の都合と喜びと体面しか考えていない、と歎く声。
この横浜の一部の小学校では「キッズ・クラブ」という、放課後の子ど
もたちを地域のヴォランティアさんがあずかるという、なかなかいい活
動があります。帰宅しても誰も家にいない子たちがあずけられます。多
いんですね、そういう子。そのスタッフに聞きますと、びっくりするよ
うな非常識な親のことを次つぎに耳にします。こんなことでは子ども
が、命が大事だ、何のための命か、それがなぜ大事なのか、なんて考え
理解するいとまなぞありませんよね。
ラボ・パーティは例外だ、と言うほどには自信はありませんが、せめて
ここでは、――久々にひまわりさんが「待つことの大事さ」をドイツか
ら書いてくれていますが―——わかりやすさ、簡単さばかりに走らず、じ
っくりと待ち、ごまかしなく、はしょることなく、いっしょに考えつつ
こころを育んでほしいと願いますね。無駄なことはいらない、ホンモノ
の“テーマ”活動を子どもたちといっしょにつくりあげるという経験で
す。【つづく】
Re:Re:Re:Re:★簡単便利はそんなにいいことか…。小栗康平の『埋もれ木』その2(11月14日)
がのさん (2006年11月17日 13時41分)

candyさん

【その2】
 情報の洪水に流され、いいかげんな情報に踊らされ汚染され、そのア
レルギーが重篤な形で発症している時代といえるかもしれません。その
情報たるや、多くはなんのことはない、デマとたばかりに満ち、おカネ
もうけのためのあの手この手の小賢しい仕掛けがかかっているもの。こ
れに蹴っつまずく親と子どもの多いこと!
 その愚かしさにも気づかないのか、なんべんでも懲りることなくくり
返す。まあ、そのカラクリで日本経済はまわっているようなわけで、メ
デタイのかもしれませんが。
 ひところ、よくいわれましたよね、「情報を集める」ことが勝敗を分
ける、などと。ビジネスの社会で、受験競争で、出世競争で、利殖で。
しかし、この程度の知識が何になるか! 知ることも大事ですが、たく
ましい「人間力」をつけるためには、いまは考えることの大事さ、落ち
着いて立ちどまり、自分の立っているところをしっかり見つめること、
…知ることより考えることを、若い世代にはぜひやってもらいたいので
すが。
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