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★賢治祭、そしてトム・ソーヤとハックルベリー・フィン 09月22日 (金)
 きょう、9月21日がどういう日がご存知でしたか。
 宮澤賢治の命日であり、賢治祭。何回目になるんでしょうか、これ。おそらく今年もたくさんの人たちが集まって、花巻のあの詩碑ひろばで松風を感じながら彼と彼の作品を偲んだことでしょう。鹿踊りも見られたでしょうか。丘の上の記念館で、幾重にも書き込まれたあのナマ原稿にふれ、童話作家のこころの、哀しいほどに繊細な動きに胸を熱くしたことでしょう。詩人の永眠する身照寺の、あの球形の墓石の前は、とりどりの献花でうずまっていることでしょうか。黄金色の波をなす花巻郊外の田園の風景、北上川のイギリス海岸の岸辺で風におよぐコスモス、「なめとこ山の熊」の舞台、鉛温泉の首まであるあの深い湯…。久しぶりに行ってみたいなあ、花巻。

chohoo9

 (BBSで「トム・ソーヤ」についてちょっと書きましたところ、そのテーマ活動に取り組もうとしているところだ、もっとちゃんと書いてくれ、という声があがりましたので、力不足で“ちゃんと”は書けませんが、再録しながら、こちらオモテのほうで、かいつまんで…)

 賢治にもこころを寄せるその日、わたし自身は、地域の文化講座で、マーク・トウェインについて2時間ほど口演してきました。その処女作となった「キャラヴェラス郡の跳び蛙」から、代表作「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」。そして悪魔に魅入られたように次つぎと不幸(※注)にみまわれた後半生に、とつぜん、ペシミズムの色が極度に濃くなって、やたら人間の醜悪さ、卑劣さを書くようになりますが、その象徴的な作品「ハドリバーグを堕落させた男」「不思議な少年」といった作品へとたどりながら、その文学的軌跡と、米文学史における意味、といったあたりをしゃべりました。
 時間がなく、深くは触れることができませんでしたが、わたしがほんとうにしゃべりたかったのは、「トム・ソーヤの冒険」と「ハックルベリー・フィンの冒険」のあいだの比較。わたしが比較するまでもなく、文学としての社会的な評価は圧倒的に「ハックルベリー・フィン」なのですが、日本における人気という点では、これまた圧倒的に「トム・ソーヤ」のほうなんですね。ラボのものも含めて、子どもらしい自然さ、無邪気ないたずら、悪知恵、大人が押しつける規範への抵抗、冒険…、といったところで日本の読者に受けていますが、この作家が生涯を通じて本当に書こうとしたのは、そういうことではなく、「トム・ソーヤ」のほうではこの作家に特有の諧謔の精神はぐっと薄められているように思います。

 「トム・ソーヤ」を書いたのが41歳のとき、「ハックルベリー・フィン」を書いたのが49歳のとき。作家としての成長、人間としても成熟、ということもあるでしょうが、「トム・ソーヤ」には、初期の傾向、フロンティアのトール・テール(ほらばなし)の雰囲気が多分に入っています。処女作「…跳び蛙」に近い、軽いユーモラスな筆致の、自由奔放さがあり、それが魅力でもあります。中西部にあってさんざん失敗を繰り返し、一攫千金を夢みてゴールドラッシュに沸く西部へ兄とともに行きます。鉱山のまわりをうろうろ徘徊する日々のあと、やっと新聞社に職を得て文章を書くようになりますが、新聞といっても、教養のない鉱山労働者たちが読む新聞ですから、内容は、社会的なニュース、政治状況、社会思想なんぞとはぜんぜん違います。場末の酒場で語られるような、おもしろおかしいバカばなしであり、うわさばなし、悪口陰口、それに他愛もない娯楽、そんなものばかりです(「ミシシッピーの人びと」参照)。もう、虚栄も知らない、ナマの人間そのままを生き生きと描くことをやって、とつじょ「太平洋岸の野性的ユーモア作家」として東部のほうでも評判になります。その流れの勢いのなかで書いたのが「トム・ソーヤ」と云えるように思います。俗語や方言をめちゃくちゃ使いこなした、簡潔で率直な文章と云えるでしょうね。もちろんこの作家には文学修行の経験なんてありません。

 わたし個人の好みとしては、どうも、そういう文章は苦手でした。ひと世代前の作家、たとえばメルヴィルホーソンの格調高い文体に馴染んでいたこともあるでしょうが、いくら斬新だといわれても、臭くって、軽くって、どうも好きになれませんでした。
 しかし、ヘミングウェイ「アメリカ現代文学は『ハックルベリー・フィンの冒険』の一冊にはじまる」と云ったように、読んで一発、たしかにこちらは傑作だと思いました。日本では「トム・ソーヤ」の姉妹編と呼ばれることが多いですが、やめてくれ~、といいたいほど、こちらにはピーンと来るものを感じました。方言を駆使した闊達な表現で子どもの世界をそのまま描き出し、素朴というか粗野というか、空想力に満ちあふれた子どもならではの自然さ、その自由さをテコにして、虚偽と虚栄に満ちた大人社会を皮肉る、その諧謔精神、ユーモラスな味は、「トム・ソーヤ」とも共通するのでしょうが、それでも、どこかで決定的に違うんですね。
 何気ない表現ですが、ハックが逃亡中の黒人奴隷のジムと筏でミシシッピー川をくだる旅のなかで、こんなことを云います、

 「なんたって筏のうえほど気のきいたところはありはしないぜ。他の場所へ行ってみろ、狭苦しくって息がつまるようだ。ここはそうじゃなくって、とっても自由で呑気で、いい気持ちなんだ」

 アメリカの背骨のようにしてまん中を南北に貫く大河、アメリカの人びとが誇りとして尊ぶミシシッピーの大自然をバックに描かれた一大叙事詩というだけでなく、アメリカのノドに古くから突き刺さっているトゲ、人種差別の問題を、ふたりの少年のごく自然なふれあいでヒューマンに越えていっていますね。この作家の本領はここではないでしょうか、マーク・トウェインが「アメリカ文学の父」と呼ばれ、アメリカの国民的作家とされるのは、ここ。そして、この作家の作品を読み解くポイントもこのへんにあるのではないでしょうか。
 それにしても、ハック。仕事もしない呑んだくれで、何かといえばすぐぶんなぐる、どうしようもない粗野な父親と決別して、自らつくりだす筏のうえの自由さ!(トム・ソーヤの家庭環境とはまったく違います)。そこでははっきり云わないでも、アメリカ社会の腐敗、愚劣さ、物質万能主義、センチメンタリズム、偽善といったものが、雄渾な大河の流れのうえにハダカにされ、ふわふわアブクのように浮き上がって見えてきます。
 “気のきいた筏のうえの自由な日々”…。いまの日本の子どもたちの閉塞感と孤独を想うと、なんという晴ればれとした風光ではないか! 自由といいながらちっとも自由でないこのごろの子どもの実像とは、なんと好対照的なことか! 「トム・ソーヤ」のテーマ活動に取り組むに際しては、皆さんよくご承知のこととは思いますが、ぜひ「ハックルベリー・フィンの冒険」まで広げてテーマを探ってほしい、と、わたしは思うわけです。

※注…絶頂期を経て、50歳代の半ば、相次ぐ不幸にみまわれます。まず、母の死、自分のつくった出版社の破産と巨額の負債、長女の急死(脳膜炎)、妻の喘息発作の発病と死、すぐつづいて次女の交通事故死、三女は風呂場で不慮の死…、といった不幸。晩年のマーク・トウェインは、ペシミスティックな作風を示すようになり、悪夢や予言に深い関心を寄せ、白い衣服しか身につけないというような奇行が目立ったといいます。

★…「トム・ソーヤ」と「ハックルベリー・フィン」転記スミ⇒「物語寸景(5)」
★…関連:ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」と「ハックルベリー・フィン」⇒「物語寸景(2-4)
Re:★賢治祭、そしてトム・ソーヤとハックルベリー・フィン(09月22日)
dorothyさん (2006年09月22日 14時42分)

この夏、偶然にも「ハックルベリー・フィンの冒険」を
買い、読みふけっていました。トム・ソーヤの育った
環境とは違い、本当にまともな教育を受けていない
ハックが、逃亡奴隷とともに行動する。

逃亡奴隷を助けるということは、当時では大罪。
これをどう収拾していくのか、偶然やってきた
トムが奴隷逃亡を助ける、という行為に、ハック
自身が戸惑い始める。

そう、あまりきれいな言葉遣いを使われず、出てくる
大人たちに幾人かは、決してほめられないような
ことを行っている。そこに、確かに当時の息吹を
感じていました。

賢治記念館に足を運んだことがあります。
りんごが生後半年の頃、あの
「下の畑に居ります」の黒板の
前で、私に抱っこされて写真を撮ったことも
あります。今では、150cmのりんごです。
Re:Re:★賢治祭、そしてトム・ソーヤとハックルベリー・フィン(09月22日)
がのさん (2006年09月25日 19時01分)

dorothyさん

【その1】
>この夏、偶然にも「ハックルベリー・フィンの冒険」を買い、読みふ
けっていました。トム・ソーヤの育った環境とは違い、本当にまともな
教育を受けていないハックが、逃亡奴隷とともに行動する。逃亡奴隷を
助けるということは、当時では大罪。
----------------------------
⇒ 逃亡奴隷のジムをその所有者に渡さないと決意した瞬間から、さま
ざまな問題が起こってきましたね。旧家のいさかいに巻き込まれたり、
ふたりの詐欺師にまんまと利用され、ジムを売りとばされたり…。その
あとのさまざまな救出作戦がおもしろいわけですが。
アメリカの児童文学に黒人奴隷の問題が登場するのは、これが初めてで
はありません。「ハックルベリー・フィンの冒険」が世に出たのが1884
年、それより先、1852年にはストウ夫人の“Uncle Tom’s Cabin”が出
ていますね。これはかならずしも子どもの文学とは呼べないという面も
ありますが、ご存知のように、黒人奴隷トムの感動的なすがた――、ど
んな迫害にも屈せず、愛と信仰と忍耐を見失うことのない、寛容な忍従
のすがたを感動的に描いた作品。奴隷制度の廃止を主張し、その解放の
ための南北戦争の気運をもたらしたとされる作品で、リンカーン大統領
の奴隷解放宣言以上に影響力は大きかったといわれます。
にもかかわらず、なぜマーク・トウェインがまた改めて同じ問題を書い
たのか。ストウ夫人(ハリエット・ストウ、1811~96)は、神学者の娘と
して生まれ、聖書の文学を教える牧師と結婚した人。いわゆる“ハイ
ソ”な人で、その主張も、どこか、市民のもの、働く人たちのものでは
なかったということではないでしょうか。トムの不自然なほどに寛容な
すがたは、白人にとって都合のよい黒人像を示すものだったのかもしれ
ません。アメリカがその誕生以来抱えている重たい社会問題、根深い社
会悪を感傷に流しているとの批判は、ある意味では当たっているかも知
れません。遠い東海の小島に生きるわれわれには考えおよばない深い問
題、いまもって解決しない問題がそこにはあるようです。
【つづく】
Re:Re:★賢治祭、そしてトム・ソーヤとハックルベリー・フィン(09月22日)
がのさん (2006年09月25日 19時07分)

dorothyさん

【その2】
>賢治記念館に足を運んだことがあります。りんごが生後半年の頃、あ
の「下の畑に居ります」の黒板の前で、私に抱っこされて写真を撮った
こともあります。今では、150cmのりんごです。
----------------------------
⇒ そうですか、もうすぐおかあさんを追い越してしまいそうですね。
赤ちゃんのりんごちゃん、かわいいだろうな~、写真で見てみたいな
~。おかあさんにだっこされながら賢治の透き通った魂をこころに注い
でもらったから、落ち着いた、こころの澄んだ、考え深い女の子になっ
たんだね、きっと。
 賢治が亡くなったのが、たしか1933年。もう73年の星霜を経たことに
なるんですねぇ。人間はそのとき以来、本質的なもの(虚飾に満ちたどう
でもいいものはともかく)をどれほど獲得したのでしょうか。
Re:Re:Re:★賢治祭、そしてトム・ソーヤとハックルベリー・フィン(09月22日)
dorothyさん (2006年09月28日 04時20分)

がのさん

「アンクル・トムの小屋」は中学校のときに読みました。
丁度、奴隷船について学び調べていたところで、その
あまりの仕打ちと反対に、あまりにも清らかなトムに
純粋に感動したものでした。白人っぽく見える女奴隷が
生まれたばかりの子供を抱いて白人のふりをして逃げる
シーンは今でもありありと覚えています。

奴隷船。大きな船底に身動きできないほどびっしり
黒人さんを詰め込んでアメリカ本土まで移送していた、
という事実。丸太並みの扱い。一度病気が蔓延したら
そのほとんどが病死しても何の手当もされない。また
嵐で舟が沈みそうになっても、鎖でつながれた黒人さん
たちは逃げ場もない。

ヨーロッパではアメリカほど黒人さんに対して
ひどい差別はない、と聞いたことがありました。
「奴隷制度」という制度自体がなかった、という
歴史的事実に鑑みての意見だったのかも知れません。

オランダに住む友人にこのことを尋ねたところ、
奴隷制度自体はないものの、明らかに、さまざまな
点で差別はある、という話でした。むしろ、貴族・
庶民という階級格差が厳然と残る北ヨーロッパでは
むしろ、ハナから階級に属さない人たちはその格差
に抗う術すらない、ということでした。確かに奴隷
制度はなかったので、肌の色だけで奴隷階級に属させ
られたこともなかったようだ、とは言っていましたが。
Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年09月28日 20時59分)

dorothyさん

【その1】
>「アンクル・トムの小屋」は中学校のときに読みました。そのあまり
の仕打ちと反対に、あまりにも清らかなトムに純粋に感動したものでし
た。白人っぽく見える女奴隷が生まれたばかりの子供を抱いて白人のふ
りをして逃げるシーンは今でもありありと覚えています。
奴隷船。大きな船底に身動きできないほどびっしり黒人さんを詰め込ん
でアメリカ本土まで移送していた、という事実。丸太並みの扱い。一度
病気が蔓延したらそのほとんどが病死しても何の手当もされない。また
嵐で舟が沈みそうになっても、鎖でつながれた黒人さんたちは逃げ場も
ない。
     ----------------------------
 わたしが「アンクル・トムの小屋」を読んだのも、中学生のころだっ
たか、高校生のころだったか…。忘れてしまったことばかりですが、え
え、おかげさまでだんだん思いだしましたよ。ケンタッキーの農園。そ
この寛大な農園主。しかし農園経営は行き詰まり、使っていた奴隷たち
を売らねばならない事態に。
 召使いの女奴隷エルザの、生まれたばかりの赤ん坊まで売り渡さねば
ならない。そのことをエルザが偶然に立ち聞きし、生まれて間もない赤
ん坊を胸に抱きしめて夜陰にまぎれて逃亡、氷のかたまりが浮いて流れ
るオハイオ川をまろぶようにして渡って奴隷商人の追っ手から逃がれ、
カナダを目ざす場面…。
敬虔なこころの持ち主の中年奴隷アンクル・トムも妻子と引き裂かれて
売られていく。妻子との別れを悲しんでいるとき、主人の一人息子が、
「必ずトム爺を買い戻しに行くからね」という。それをこころに深く刻
んでどんなことにも耐えるニグロ奴隷に、これでもか、これでもかとつ
ぎつぎに降りかかる苦難…。
 そんなすがたに、涙をポロポロこぼしながら読んだ記憶が。
【つづく】
Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年09月28日 21時00分)

dorothyさん

【その2】
 奥地の棉の栽培地に買われていったトムには、恐ろしい重労働と迫害
が待っていましたね。老いがきて自由に動かせないボロボロの肉体。し
かし、もとの主人の一人息子が言ってくれたあのことば、「かならず買
い戻すから」ということばをひたすら信じ、キリスト教的信仰をつらぬ
いてあらゆる悲惨に耐えます。いや、ついに耐え切れず、死の床につく
わけですが…。
 文学的な評価は別にしても、からだが熱くなるような感動なしには読
めない一冊でしたね。dorothyさんが「ハックルベリー・フィン」に加
え、ここまで読んでおられますと、「トム・ソーヤ」のテーマ活動の取
り組みは、ことば=英語にばかり走る、表面ばかりのうすっぺらなものと
は違う、テーマのしっかりしたものになることでしょう。そんなテーマ
活動をいつかぜひ見てみたいと思いますね。
Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
dorothyさん (2006年10月04日 12時50分)

がのさん
>dorothyさんが「ハックルベリー・フィン」に加え、ここまで読んでお
られますと、「トム・ソーヤ」のテーマ活動の取り組みは、ことば=英語
にばかり走る、表面ばかりのうすっぺらなものとは違う、テーマのしっ
かりしたものになることでしょう。そんなテーマ活動をいつかぜひ見て
みたいと思いますね。

お恥ずかしい限りです。でも、台詞の一つ一つにも
文化的歴史的背景があるので、それを子供たちに
紐解いていくのも面白いです。
今、十五少年漂流記を12月の発表に向けて取り上げています。
第2代大統領を選ぶシーンとスケートのシーンです。
なぜ、モコには選挙権がなかったのか?
誰が棄権したのか?ゴードンは本当にスケートに興味が
ないのか?鉄砲の音と大砲の音ではどれほど違うのか?
ドニファンは上流社会の子なのかわがままのきかん坊なのか?
など、子供たちの興味を一つ一つ救い上げては、
みんなで話し合って想像したり、私が調べて説明したり、
といくらあっても時間が足りません。でも、英日の台詞
覚えよりもそういったことによる想像や調べることが
大切な時間の共有になっているように思います。

発表はハチャメチャですが・・・。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年10月04日 18時21分)

dorothyさん

【その1】
>台詞の一つ一つにも文化的歴史的背景があるので、それを子どもたち
に紐解いていくのも面白いです。今、「十五少年漂流記」を12月の発表
に向けて取り上げています。第2代大統領を選ぶシーンとスケートのシ
ーン。なぜ、モコには選挙権がなかったのか? 誰が棄権したのか?ゴ
ードンは本当にスケートに興味がないのか? など、子どもたちの興味
を一つひとつ救い上げては、みんなで話し合って想像したり、私が調べ
て説明したり。でも、英日の台詞を覚えよりもそういったことによる想
像や調べることが大切な時間の共有になっているように思います。
     ----------------------------
⇒ ラボの「十五少年漂流記」がどんなふうにつくられているのか、わ
たしは知りませんが、あの作品をラボ・ライブラリーにするとして、わ
たしがまずひっかかるのは黒人の調理人モコ(いま手もとにある波多野完
治訳では「モーコー」)をどう描くか、でしょうね。ここで「ハックルベ
リー・フィン」「アンクル・トムの小屋」で見た黒人差別の問題。しか
も、モコは十五人の少年のなかでも、欠くことのできない重要な存在。
そこを逃げず、ごまかしなくどう書くか、作品のよしあしの最大のポイ
ントはそこかも知れません。このライブラリーを通じて、DOROTHYさんは
そこをどう子どもたちと話題にしていくんでしょうか。
ことばをほんとうの自分のことばにするためにこそ“テーマ”が必要な
のだと思います。それをがっちり踏まえていないことばは、空っぽで、
無意味です。ついこのごろのことで、新総理の所信表明演説がありまし
た。それを読むと、多くの人が指摘しているように、そのことばは曖昧
です。加えて、わたしがいちばん嫌いなのは、早口だということです。
早口で、しかもやたら英語の単語を使います。早口で、得意げに英語を
いう、それは自分のことば、自分の信念にほんとうの自信がないことの
あらわれです。どこかから借りてきたことばをいじくっているだけで、
ぜんぜん真実性がなく、こちらに伝わってくるものがありません。ま
あ、就任したばかりですので、具体的に語るものはなく、むしろこれか
ら、ということなのかも知れませんが。
【つづく】
Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年10月04日 18時24分)

dorothyさん

【その2】
 その点、目をもうちょっと大きく開いたら、わたしたちのまわりに
は、すばらしいことばがいっぱいあるじゃないですか。ピタッとわれわ
れの生理にはまることば。以前にもお伝えしましたが、じつはきょう、
狂言三番を観てきました。「柿山伏」「水掛聟」「東西迷(どちはぐ
れ)」。
 そこでは、ほんとうにことばが生きていますよね。プロが演じるか
ら、というだけでなく、生き生きとして美しい。狂言をみるたび、わた
しの口のまわりでは、「これはいかなこと」「むさとしたこと」「ない
かしらむ」「やるまいぞ、やるまいぞ」といった狂言に定番のことばが
無意識裡に湧いてきてしまいますね。いまもまだアタマのなかをそんな
ことばがぐるぐるまわっている感じ。
 暗記して無理に覚えたことば、便宜的な借り物のことば、うすっぺら
なマニュアルことばにはぜったいにない、自分の細胞粒子にじっくり浸
ったことば。それは自然です、ラクチンで楽しいです。そういうことば
をつかむためにこそ、「テーマ活動」をするのではないでしょうか。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
dorothyさん (2006年10月05日 16時46分)

がのさん

以前、永六輔さんがテレビでこんなことを
話されていました。うろ覚えですが・・・。

あるとき、永氏が素敵な装いをされていたとき、
知り合いの方がそれを誉めるのに、
「スタイリッシュでダンディでシックで・・・」
とカタカナ言葉を6つも7つも並べ立てたのだそうです。

その誉め言葉に、永氏は一言、

「そんなときには、日本語でひとこと、
『あなた、粋ね。』と表現すればいいのです。」

と返事をされた、ということでした。
日本語の美しい響き。

余談ではありますが、民族障壁、という意味では
モコやアンクル・トムにまでいかずとも、ごく
最近まで西洋ポップミュージックでは、ブラック・
コンテンポラリーという位置づけが厳然と
残されていました。崩れたのは20年ほど前の
マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」
の時からです。がのさんにはあまりなじみのない
ジャンルかも知れませんが、がのさんとこうして
話していて、思いついたので、私の日記に少しだけ
書いてみました。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年10月05日 23時52分)

dorothyさん 【その1】

>以前、永六輔さんがテレビでこんなことを話されていました。あると
き、永氏が素敵な装いをされていたとき、知り合いの方がそれを誉める
のに、「スタイリッシュで、ダンディで、シックで…」とカタカナ言葉
を6つも7つも並べ立てたのだそうです。永氏は「そんなときには、日
本語でひとこと、『あなた、粋ね』と表現すればいいのです」と返事を
された、ということでした。日本語の美しい響き。
    ----------------------------
 「スタイリッシュで、ダンディで…」と云ったひとの顔がだいたい想
い浮かびますが、「粋」のひとこと、そういうことなんでしょうね。で
も、こういう感覚が身に備わっていないと、その場、その場で口に浮か
ぶものではないことも事実。
 カタカナことばのことではありませんが、新聞で知るところでは、こ
れまで三つに分類されてきた敬語を五つにするという指針案が文化審議
会の国語分科会から出されました。従来の丁寧語を丁寧語と美化語に分
ける、という案など。煩雑だ、何をいまさら、との意見が多いようです
が、わたしはおおむね、この案には賛成です。
 ところで、敬語をじょうずに使えるからといって、それが「美しいこ
とば」というわけではありません。それは、その人の育ち方・生き方、
素養のなかで自然に備わったもので、どうでしょうか、その人その人の
体臭のようなものといえないでしょうか。それと、相手を思いやるここ
ろがどれほどあるか、そのたたずまいに。
 だって、ファミリィ・レストランやコンビニ、いまはやりの中古書店
などでおびただしく聞かれるマニュアル敬語。いくらあの敬語で呼びか
けられても、こちらはちっともうれしくないじゃないですか。それと、
メールの交信で頻繁に使われる顔絵というもの。自分のことばでなく、
あんなもので自分の固有の気持ちを表現する時代って、ろくなものじゃ
ないでしょう。【つづく】
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
がのさん (2006年10月05日 23時55分)

dorothyさん

【その2】
 Dorothy さんには的確にご理解いただいているようでホッとさせられ
ますが、わたしがときどきわけのわからない漢語を使うことがありま
す、半ば意識的に。「夜郎自大」とか「牽強付会」といったことば。自
分の都合のいいように無理にこじつけていうことば、あるいは、自分の
力量もわきまえずに、仲間うちだけの狭い世界で得意になり威張ってい
るすがた。そこで語られることばも、けっして美しくありませんね。か
くいうわたし自身がまっ先に気をつけねばならないことですが。
 耳にひびきいいことば、――狂言の話題をめぐってcandy さんの掲示
板に書いたばかりですが、たとえば、一休禅師のことばとされる「へつ
らひて楽しきよりも へつらはで貧しき身こそ こころ安けれ」とか、
一遍上人の「のこりゐて むかしをいまと かたるべき こころのはて
を 知る人ぞなき」といった、つねにこころのすみで鈴の音のように鳴
っていることば。わたしにとっては、こういうのが美しいことばなので
しょう。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
dorothyさん (2006年10月06日 03時24分)

がのさん 【その1】
>カタカナことばのことではありませんが、新聞で知るところでは、こ
れまで三つに分類されてきた敬語を五つにするという指針案が文化審議
会の国語分科会から出されました。従来の丁寧語を丁寧語と美化語に分
ける、という案など。煩雑だ、何をいまさら、との意見が多いようです
が、わたしはおおむね、この案には賛成です。

私も同感です。大学時代の指導教官(女性)は、
「私(わたくし)は、敬語だけは完璧に使いこなせる
自信がございます。」
とおっしゃっていました。そして、事実、普段の会話や
私が電話をかけたときなども、常に美しく話されます。
先生のそんな姿に憧れて、今でも絶対に汚い言葉や発音は
しないようにしております。ただ、社会に出て研究室
秘書をしておりましたときに、学んだとおりの敬語を
使って会話をしたり電話連絡などをしておりますと、
かなり煩雑になり、場合によっては慇懃無礼ともとられ
かねない状況も出てまいりまして、会話の敬語表現は
かなり簡略することになりました。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トム・ソーヤとハックルベリー・フィン、アンクル・トムの小屋(09月22日)
dorothyさん (2006年10月06日 03時26分)

がのさん 【その2】
>ところで、敬語をじょうずに使えるからといって、それが「美しいこ
とば」というわけではありません。それは、その人の育ち方・生き方、
素養のなかで自然に備わったもので、どうでしょうか、その人その人の
体臭のようなものといえないでしょうか。それと、相手を思いやるここ
ろがどれほどあるか、そのたたずまいに。
 だって、ファミリィ・レストランやコンビニ、いまはやりの中古書店
などでおびただしく聞かれるマニュアル敬語。いくらあの敬語で呼びか
けられても、こちらはちっともうれしくないじゃないですか。

そうですね。ですが、最近の若い母親たちが小さな我が子
向かって、粗暴・粗雑きわまる言葉を投げかけているのを
耳にするたび、そういった環境で育った子供にとっては、
マニュアル敬語すらも、学び習得していかなければならない
ジャンルとなりつつあるように思います。

>それと、メールの交信で頻繁に使われる顔絵というもの。自分のこと
ばでなく、あんなもので自分の固有の気持ちを表現する時代って、ろく
なものじゃないでしょう。

これに関しては、私は許容範囲です。今では普通の言葉ですが、
「あたらしい」はもともとは「あらたしい」
「だらしない」はもともとは「しだらない」
でした。こういった言葉の変化は中世いやもっと以前から
若者言葉や粋がった人たちの間での言葉遊びが定着した
ものです。卑近な例で言いますと(がのさんにはなじまい
かもしれませんが)、驚いて唖然とするさまを表すのに
「目が点になる」という表現の仕方があります。
これは、「ドカベン」という漫画で、唖然とするときに
人の目を点々で描いたのが語源で、言い出したのは
歌手のさだまさしの知り合いだそうです。
Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:★トムとハック、きれいな敬語
がのさん (2006年10月06日 23時54分)

dorothyさん

>最近の若い母親たちが小さな我が子向かって、粗暴・粗雑きわまる言
葉を投げかけているのを耳にするたび、そういった環境で育った子供に
とっては、マニュアル敬語すらも、学び習得していかなければならない
ジャンルとなりつつあるように思います。
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 それもへんなもの、哀しいものですね。きれいなことばは、子どもを
囲むおとなたちの素養の問題ということになりますか。ひとの個性と個
性をつないでつくられている社会で、そのひととともに円満に生きてい
くうえで、意思をつなげることば、とりわけ敬語の問題は避けて通るこ
とのできない、難しくやっかいな問題ですね。
 茶化してはいけないのでしょうが、わたしの「川柳で遊ぼ!」から引
きます。(すでにお読みでしたら、ごめんなさい)


◎ ことば美人? 過剰な敬語に 辟易し
 (乱暴で汚いことばよりはマシか。でも、過ぎず、不足することのない
敬語とは、ちょっとした謙譲の心と相手を本当に思いやる心があるかど
うかで…。それが先人から譲られた文化というものじゃないかな)
◎ 過ぎたれば 嫌われるのが ことのはぞ
◎ 言い過ぎた! 忘れてくれりゃ いいけどな
◎ 相手見ず 過ぎてむなしき ことばかな
◎ 足りなけりゃ 誤解曲解 世のならい
◎ ぶしつけな ブレーキきかぬ へたなしゃれ
◎ 黙すだけ しっぺ返しが こわいから
◎ 人はみな 誤解曲解の 海をもち
◎ 人ごとに 胸には深い 海をもち
◎ 誤解でも 言い訳するのは 虚しいし
 (他者のことばづかいは気になっても、自分の話しかたには案外無神経
なもの。他を思いやるゆとりのこころが、バランスのよい、自然な気持
ちよいことばを生むようだ。がさつにならぬ、優雅なことばは、こころ
のゆとりから)
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