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★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質 10月22日 (月)
 先日、狂言三曲を楽しんだ。狂言を観るのもこのところすっかり減ってしまって、年に2~3回程度か。いつものことながら、観てよくわかった、感動した、とはいいにくいけれど、無条件におもしろく、なぜかある時期になるとむしょうに観たくなるのが狂言。今回、狂言という日本中世文学に日本固有の特質の一面を見出したように思ったので、そのことを少し書いて見たい。

sankei001

 狂言を演じるのはシテとアド。クマさんでも八っつぁんでもなく、固有名詞を持つことのない無名の人物たちで、「シテ」(仕手、為手)と呼ばれる主役者と、「アド」と呼ばれる太郎冠者や次郎冠者。こちらは、最古参の使用人であったり奉公人であったりする下賎のもの、あるいは若者。多少ながら軽蔑の意味も含まれているように思う。
 さて、「アド」とは何かがよくわからないままだった。で、最近、偶然にも「アドをうつ」ということばに出会った。古い辞書にあたってみたところ、相手の言うことに応じて調子を合わせて適当な返事をすること、とあった。適当に返事をする、というと、その場かぎりのいい加減な返事をする、と思いがちだが、必ずしもそうではなく、TPOで、その場その場にふさわしい受け答えをする、と解釈するほうが近いかもしれない。
 この解釈に添って狂言における「アド」を考えると、笑劇を演じる人にうまく調子を合わせて、ほめそやしたりして返事をし、はなしのスジを展開する役割の人、とでもいいましょうか。きっと専門家のあいだでは諸説があるのでしょうが、「相人」(あひうど)から来た、などという人もいて、わたしにはこれも安直なこじつけにしか思えない。
 (「がのさんと小夜ちゃんの関係がそうじゃないか」と言う人もいるが、さて、その場合、どちらがシテでどちらがアド?)

 で、ここで採り上げてご紹介しようというのが、太郎冠者・次郎冠者のアドとはいささか趣きのちがう「すっぱ」という存在。ときどき登場して痛烈な笑いのウズをつくりだす。「水破」「素破」などの漢字をあてることもあるようだ。どうでしょうか、「すっぱ」ということばのひびきからピーンと前頭部をかすめるのは「はすっぱ女」ということばではないでしょうか。薄っぺらで、やることなすこと気品がなく、むきだしの「女の色気」を売りものにするいやらしい女。ある向きにはおもしろい魅力的な存在かもしれませんが、わたしのような純情無垢で謹厳実直、清廉潔白(!)なものには、いちばん苦手な存在。あるいは「すっぱ抜く」という語も日常的に聞かれ、明けても暮れても女優やタレントのだれそれの不倫や政治家の不正をすっぱ抜くのが三流週刊誌の得意わざ。
 しかし、狂言でいう「すっぱ」は、どうもこれらの語ともあまり関係はないようで、もともとは悪党、それも小悪党一般をいうようだ。戦国時代に活躍した間者(スパイ)、忍びのものから来ていて、かたり、盗賊、こそどろ、ぬすっと、スリ、詐欺師たちのことらしい。

sankei002

 今回観た曲のうち、「末広」(すえひろがり)に登場するアド〔売り手〕が「すっぱ」である。主人のシテ〔果報者〕からめでたい末ひろがりを買ってこいといいつけられた太郎冠者。どうやらふだんからだいぶ信任の篤い使用人と思われる。いいつけられてすぐ「心得ました」とは言ってしまったものの、さて、末ひろがりとはどんなものか、ほんとうはわかっていない。かといって、もののわかった男と主人に思われていると信じているものには、「それはどんなものですか」とはいまさら訊けない。どうでしょうか、みなさんはご存知ですか、末ひろがり。これは、中啓というものを指し、扇の一種ですね。まあ、都に行けば無いものはない、金さえあれば何とかなるだろう、と、男ははるばる都へ。だが、都に来てみてその考えの浅かったことに気づく。こうなったら仕方ない、大通りの人波を分け分け歩きながら「末ひろがりを買おう、のうのう、そこもとに末ひろがりはおりないか」(もっておいでではありませんか)と声をかぎりに呼ばわる。さては田舎者、と見た詐欺師の登場。このすっぱ、どこの家にでもある「から傘」を末ひろがりと称して、もったいをつけつけ売りつける。巧妙なだましで、冷静に考えれば途方もないインチキであり、滑稽せんばんなのだが、太郎冠者はすっかりこれが末ひろがりと信じこんて、得意になって帰ってくる。
 当然ながら主人から無知と知ったかぶりをなじられ、こっぴどく叱られ、すっかり信頼を失墜、家からはげしくたたき出される。たたき出されてうずくまったところで、太郎冠者は、あのから傘を売りつけたすっぱが最後に教えてくれた囃しことばを思い出す。これを囃したてればどんなに怒っている人でも機嫌をなおすというもの。腰をさすりさすり太郎冠者がそれを繰り返し囃しているうち、主人の体もぴくりぴくりと揺れだし、やがてはいっしょに囃しつつにぎやかな歌舞になっていく。最悪の関係にあった主人と使用人の関係はいつの間にか何事もなかったように修復され、主人はご機嫌をなおす、というわけ。

 この日に観た別の曲「茶壷」にも、へんなすっぱ(詐欺師)が登場する。たいそう貴重なものとされる京都・栂尾産のお茶を仕入れて帰るシテ(中国の男)。茶壷を背負って帰ろうとするが、したたかに酒を飲んでいて、正体もなく道のまん中に寝込んでしまう。片方の肩に茶壷の紐をかけて。さて、酔いから覚めて起きて見ると、見知らぬ男が反対側から肩に茶壷の紐をかけて寝ている。これがすっぱ。茶壷はおれのもの、いやいや、わしのもの、と押し合いへし合いの争いになり、おさまりがつかないまま、代官の目代が仲裁に入る。狡知にたけたすっぱのみごとなかたりもあって、どうにも裁きはつかず、結局は、どちらにも品物は渡さず、目代がそっくり持ち帰るというはなし。それはなかろうじゃないか、とストンと終わる。それに、登場してきてすぐに言う口上に「このあたりに住まいするすっぱでござる」と自ら名乗るのもおかしい。健康な「悪」というところか。

sankei003

 このように、狂言に登場する悪党にはほんとうの悪党はいない。いまわたしたちが新聞やテレビで見聞きする、気に入らなければ誰でも殺傷する、自分の欲望を満たすためなら誰でも殺す、親でも子でも殺す、といった冷酷で情け容赦のない残忍さはない。暴力シーンは完璧に抑えられている。怒った主人が愚かな使用人を足蹴にして突き転がし追い出す、ということになっていても、そこは狂言のたしなみとでもいうのか、扇子の動きひとつでそれを見せるだけで、着ているものの乱れひとつない。つまり、暴力的な醜さは微塵もない。どんな悪事も犯罪にしてしまわないという節度。
 ミートホープ、白い恋人、赤福、比内地鶏…。年金のこと、薬害肝炎のこともある。建築偽装もあった。ひどいごまかし、うそつき、隠蔽ごとに晒されてわたしたちの生活はある。海上自衛隊の給油量の隠蔽、防衛省の元高官の私欲のままのやりたい放題。こうした自分の利得にしか関心のない彼らの醜い欲望とは、だいぶちがい、「末広」の場合でいえば、すっぱは、だました相手がその主人の機嫌をそこね、叱られることまで見抜いていて、割れた関係を取り戻す術もいっしょにおこたりなく伝授している。それがおかしくもあり、やさしくもある。すなわち、この世界での「悪」とは、人間だれのこころにもあるちょっとした「悪」、ちょっとしたイタズラ心であり、それと裏腹には「つぐないの思い」が満ち溢れている。狂言に登場する人たちの滑稽さ、愚かさ、間抜けぶりは、だれにもある滑稽さ、思い違い、わたしにもあなたにもある愚かさ、間抜けぶりであり、それを象徴的、演劇的に昇華したものにほかならない。この中世芸能の真髄はそれを表現することにある、という今回の発見。発見といえばはなはだ大げさですが、ようやくそんな理解ができた、というわけです。

 長くなりましたので、もうやめますが、もうひとつの発見は、ことばへのこだわりで、あるときには演劇的なものを犠牲にしてでも、狂言はことばをはっきりとあらわす、ということも知った。表現の祖形って、そこにあるのかもしれませんね。

★…写真は本文とは関係ありません。横浜・三渓園でひろった、ゆたかな自然と共生しつつ生きる生き物たち。
★★…転記スミ ⇒ページ一覧のうち「古典芸能(2)」―狂言「末広」「茶壷」にみる“すっぱ”
Re:★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質(10月22日)
サンサンさん (2007年10月23日 21時28分)

お元気ですか?

いつも書き込みたいと思うのですが
あまりにも素晴らしくて簡単な感想などは
書けない状態です。

写真もどれもすてきなので見入ってしまいます。
Re:Re:★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質(10月22日)
がのさん (2007年10月24日 10時52分)

サンサンさん

【その1】
>お元気ですか?
写真もどれもすてきなので見入ってしまいます。

      ----------------------------
 まあ、なんとかバタバタやっております。ここ1、2週間をみても、
狂言の会に行ったり文学散歩で二十数人を連れていったり、自治会のほ
うでは、定例会、お芋掘り、となりの自治会の記念運動会に参加した
り、来年に計画しているバスツアーのプランを業者と詰めたり、水利確
保消防訓練、老人福祉施設の消防避難訓練、配食ボランティアをした
り、近くを流れる川の整備プラン協議会というのがあってそれに出席し
たり、福祉関係の大学を受験する男女ふたりの子の推薦状づくりをした
り、……そうした合い間をぬってほぼ毎日、妻のこともあって病院がよ
い。肺炎直前といわれるなど、わたし自身の金属疲労もはっきりしてき
ていて体調ふるわず、明後日26日は胃がん検診があるし、その翌日27日
には地区社会福祉協議会で主催するふれあいコンサート。地域の芸能大
会のようなものですが、幼児からPTAの人たち、高齢者まで約500人前後
が参加しておこなう秋恒例のイヴェントがあり、そのあとは連合11自治
会の役員会。数日をおいて「介護予防について」の講演会の開催や、青
葉区のスポレク祭り、区民まつりも。

 ひとさまのために駆けまわるのもいいですが、そろそろわたしのほう
にガタがきていることを自覚させられる日々です。山歩きの時間はない
し、視力の衰えもあってあまり読書が進まないのが悩み。自分のこころ
を洗い元気にすることをやっていかないと、黴が出てすぐ錆びていきま
す。錆びていく自分を自覚するこの寂しさは、充実して東奔西走するサ
ンサンさんには覚えのない感覚でしょうけれど。
【つづく】
Re:Re:★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質(10月22日)
がのさん (2007年10月24日 10時53分)

サンサンさん

【その2】

 文学散歩の下見とその当日に撮った横浜・本牧三渓園の画像のいくつ
かをHPで紹介しました。画像をこんなに縮小してしまうと、なんの面白
味もないのですが、こんなゆたかなところで親しい仲間とすごす数時間
はほんとうにこころがほどけ、すばらしですね。お抹茶の味も格別。と
きには、ラボも英語もこどものことも家族のことも忘れて、ふらりお出
かけになりませんか。紅葉の季節はまた格別な趣きでしょう。

 ここでは紹介いたしませんでしたが、歩けばいろいろなものに出会う
もの。馬車道の奥にある青銅のドームが印象深い横浜歴史博物館、ご存
知ですよね。今回は歴史ものの展示企画の見学ではなく、あのユニーク
な洋風建築の歴史をじっくり聞く機会になりました。もと横浜正金銀行
本店で、横浜の開港と生糸貿易による世界進出、日本の資本主義的発展
の端緒を語るときに欠かせないところで、大隈重信が大蔵大臣をやって
いたとき、その肝いりで作られた半官半民の銀行。銀行の元祖、日本資
本主義の原点みたいなところですね。その後、東京銀行になったり、い
ろいろな変遷を経て、市に買い上げられいまの博物館になっています
が。今回、わたしのちょっとした知人でもあるそこの学芸員の好意で、
みんなを屋上に案内してもらい、あの格調あるドームのすぐ脇で話を聞
き、あのドームの中にも入れてもらいました。下からは見えませんが、
四隅で支えるドルフィンの彫りものなど、びっくりするほどすばらし
い。あのあたりをよく知る人でも、ドームに入れてもらってそれを見た
人はほとんどいないはずの貴重なひとときでした。
 で、その生糸貿易で巨万の富を築いたのが、原三渓(富三郎)。三渓
園の元持ち主で、日本画もやる文人でもあったのですね。岡倉天心以
下、横山大観、下村観月ら、そうそうたる日本画の巨匠たちを経済的に
支え育てた大人物。
 昨年の文学散歩では、井伊直弼大老らによる日本開国の足跡を横浜の
掃部山や野毛山に見ましたが、今回は、開港後、日本の海外進出の拠
点、横浜繁栄の拠点としての横浜シルクロードをたどる文学散歩でし
た。地元にいても知らないことばかりなんですね。好天にもめぐまれ、
たいへん喜んでもらいました。
 狂言の話からはすっかり離れてしまいましたね。
Re:Re:Re:★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質(10月22日)
サンサンさん (2007年10月24日 11時31分)

がのさんは目の回るような日々を過ごしていらっしゃるのですねぇ。

でも、楽しそう。

錆だなんて、ちっとも感じないのではないかしら。

生き生きしていて、、、
潤滑油が行き届いているのでしょうねぇ。

まぁ、たまにはダウンするのでしょうけど、
たまにはお休みにならないと、、、


がのさんの写真の世界を訪れてみたい、、、
Re:Re:Re:Re:★狂言を個性的に賑わす“すっぱ”と、表現の祖形、日本中世文学の原質(10月22日)
がのさん (2007年10月24日 21時32分)

サンサンさん

>生き生きしていて…、潤滑油が行き届いているのでしょうねぇ。ま
ぁ、たまにはダウンするのでしょうけど、たまにはお休みにならない
と…、
     ----------------------------

 いや~、悲しいかな、油ぎれですねぇ。
 ついた脂肪のほうはなかなか代謝によって落ちるまでにはいきません
けれど。それでもこのごろちょっと痩せたかな。海上自衛隊のオイル
は、米軍艦にではなく、わたしのエネルギー補給のために少し分けても
らいたいくらい。
 何かをやればすぐに疲れてしまうし、あっちもこっちもガタガタ。
味の感覚も落ちたのか、おいしいものを食べたいともあまり思わない。
こんなふうにして人間は終わりに向かっていくのかなあ、
との実感のなかにあります。
このサイトにはふさわしくない、だらしのない話題でしたね。
ごめんなさい。

 それに、ふだんは、老人福祉施設や特別養護老人ホームでのボランテ
ィアで、からだの機能の衰えた人たちを介助したり遊ばせたりしていま
すので、彼らの前ではカラ元気を装わねばなりません。ほんと、ヘンな
感じです。
 子どもたちからエネルギーをもらう、なんてことがよく言われます
が、(テューターさんたちの若々しさはこれによるものらしい)
このごろは子どもたちの前には背広を着て立つことが多く、
挨拶したり、つまらぬ教訓話をするくらいで、
いっしょに汗して駆けまわる機会はなくなってしまいましたし。
やっておかねばならないことはわかっていても、それがなかなかできま
せん。
振り返れば、周囲が見えぬまま手前よがりにつっ走り、愚かにも、
恩義ある相手を裏切っていることに今ごろ気がつくようなことばかり。
ここに来て、孤独に自分の世界を楽しむ時間が、
ますます貴重なものになってきました。
周囲の迷惑になるくらい元気で健康である時間をエンジョイできる幸せ
を快復して持てたら、どんなにいいか。
才薄い存在ながら、これからの自分の果たす役割とは何かを考えねばな
りません。
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