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古都遠望。ブルージュ。30号
古都遠望と題して、いままでに3枚の絵を描いた。その三枚目。
先回の鐘楼のてっぺんから360度、それ自身が絵画の様な街を眺める。そのイメージを深く刻み込んで、一部を自分の絵として切り取った。赤いレンガ作りのかわいい町並み、その昔の栄華を想像しながら。
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初夏から夏にかけては雑草との戦いである。以前は姑が自分の仕事として毎日草取りをしていてくれた。その頃は花も野菜も私にとっては切って飾るもの、とって食べるものだった。ところが姑が他界してからは、誰がやるの?私がやるより仕方がない。とってもとっても生える草。すごい勢いで茂る草。始めの年は、どうしても追いつかなくて、除草剤を使ったりもした。しかし、2年、3年と草を取り庭の手入れをしていると、庭の状態の変化もさることながら、私自身がずいぶん変わったことに気がつく。
もう、雑草に追いまくられることもない。草もかわいい花をつける。庭ぜきしょうのかわいさ、小判草の面白さ、どくだみだってよく見ると、いい花を咲かせている。邪魔なところは抜かせてもらうけれど、かわいい草は毎年生えたほうがいい。
柿の葉の新芽の緑がなんともすてがたく、そのみどりを食べるため、てんぷらにしたり、柿茶を作ったり。また、どくだみの勢いをもらいたくって、乾燥させて、お茶にしたり、お風呂に入れたりもしている。
草がおとなしくなれば、庭の木や花は元気に伸びて、私を楽しませてくれる。花を見ると、いつも、その花だけの美しさ、姿、形、色、におい、を何とかしたいなあと、思ってしまう。けれども、私はまだ花の絵がかけない。なぜか、満足できない。美しいと思えば思うほど、その花にならない。
そんな今、庭に咲き乱れる花々をいとおしんで、やっていることがある。フリージア、マーガレット、やぐるまそう、むらさきつゆくさ、さつきなど、花びらを取って、その色を出来るだけ保存するように乾燥(電子レンジをつかって)させ、ポプリ風に作っている。黄、むらさき、ブルー、白、ピンクと、あざやかではないけれど、十分に色が保存できた喜びと、なんともいえぬ自然の温かいほのかな香りが、気持ちがいい。透明なグラスに入れて並べ、家に来る友達や来客の楽しい話題にもなり、癒しにもなっている。
こんな勝手な楽しみ方をするようになった今は、雑草も、少し遠慮して生えてくるように思える。
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鐘楼 |
06月10日 (金) |
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ベルギー・ブルージュの鐘楼。4号
ヨーロッパの街の中心地にはマルクト広場があり、今も人が集る。ブルージュもやはりここが中心。ここから始まる。日に何回もこの広場に来て、鐘楼のカリヨンの音を聞き、広場の周りをとりまく、14世紀のブルージュの繁栄を思わせる見事な建物を眺めた。
鐘楼の上からの眺めは、特別。つぎにはそこから眺めたブルージュの遠景を。
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今日は成功!
ここまで教えていただいて、やっと画像がはいるようになりました。好きな絵を、本格的に描くようになって20年近く。
少しずつ紹介して、心休まる時間にしたいと思います。
最新の絵。ノールウェイのベルゲン。油絵。30号。こんな景色をホテルの窓から眺めて,至福の時間。
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Stop Taro からJulius Caesar まで、一つの活動組織の中にもっているということは、本当に宝物だと思う。異年齢の活動だからこそ、小さいときに、なんとなくシェイクスピアの作品に触れたということも出来る。そんな中で育って、本当にシェイクスピアを読む年齢、研究する年齢になったとき、・・・と想像すると、多くの子がそれぞれにいろんな思いをもって、読み深めていったであろうと私は思う。
確かにジュリアス・シーザーは、むつかしい。日常的に、小さい子も交えて出来るテーマ活動ではない。でも高大生がいたら、中学生も含めて扱ってみたいテーマだと思う。シェイクスピアの言葉に酔いしれるであろう。そんな私の感想を述べるより、ぜひ紹介しておきたい感想文がある。私のラボ人生のなかで、忘れられないものであり、ラボ・テューター、ラボ・テーマ活動の醍醐味かもしれない。
―――「ジュリアス・シーザー」をとおして、「ロミオとジュリエット」のときよりも、いっそうシェイクスピアの世界に入り込んだような気がする。僕はこの物語、ジュリアス・シーザーは、まさに僕の大学生生活と共にあり、ラボのさまざまな活動の経験を生かした僕にとってのテーマ活動の終着駅のようなものだったと思う。
ストップ・タローからはじまり、ありときりぎりす、みるなのはなざしき、白雪姫、ピーター・パン、トム・ソーヤ、国生み、など数え切れないほどのテーマ活動をやってきた。まるで自分の成長に合わせて、そのときのテーマ活動があったように思う。小学校のわんぱく盛りにはトム・ソーヤ、中学生の頃にはロミオとジュリエット、それから高校生になってパーティや地域のリーダーとして少し広い世界を経験し、だんだん大人の世界に頭を突っ込んで、物事について、自分なりの意見を持ち、複雑な問題についても考え悩むようになった。そんな時、出会ったのがジュリアス・シーザーだった。
ブルータスの精かんな演説、アントニーの知恵のさえた演説、そしてシーザーの勇ましい姿を想像しながらテープを聴く。次から次へとおおいかぶさるように続く言葉の連打、軽快な言葉のリズム、それにもまして、もうカッコイイとしかいいようのない英語のせりふ、僕はそれらに酔いしれて、長い演説を覚えた。そして、鏡や壁を民衆に見立てて、腕を振り上げ、何度もその演説をぶった。たくさんのテーマ活動を経験して、自分の成長と共に言葉も成長していったように思う。
ジュリアス・シーザーの内容とは関係なく、そして決して自慢できることではないが、これについて、どうしても話したいエピソードがある。大学2年から3年にあがるときのことである。英語講義で単位をもらうのに出席日数が足りない。そこでどうしたらいいか考えた。「よし、自分の英語の力を理解してもらおう。」と思い、その先生の部屋へ行き、自分のパフォーマンスを見てくれと頼み、もし、気に入ってもらえたら、単位をくださいと頼んだ。すると先生は、「よし、まずそのパフォーマンスを見せてもらおう」といった。そこで僕は、ほかの教授たちもいる前で、机を演台代わりにして、こぶしを振り上げ、演説をぶった。
Friends, Romans, countrymen, lend me your ears; I come to bury Caesar,………先生は、そんな僕の突然のパフォーマンスと、僕のパーソナリティ(臨機応変でガッツのある性格)を気に入ってくれて、そのパフォーマンスにレポート10枚を条件に3年にあげてくれた。今でも先生は授業のとき、そんなバカな生徒の例を出し、「もし、単位があぶないやつは、私の部屋をノックしてください。面白いパフォーマンスをまっています。」といっているそうだ。―――(1990年・大4・青井克樹)
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昨年の三月、この「ひろば」の仲間になりました。心に浮かぶ物語について、そのとき、心に残っていることを軽い気持ちで言葉にし、当時のパーティ便りや、文集などに残るラボっ子の感想文の一部を載せてきました。あるときは、どんどん思いが高まって書きたいことがいっぱいになり、思い出は、エッセイにとどめよう、レポートになってはいけないと思ったこともありました。すべてラボ・ライブラリーの物語題名にしました。このジュリアス・シーザーで、ちょうど100の物語を取り上げたと思います。すごいですね。ラボの宝物は!
この豊かな物語世界でテューターとして過ごせたことは本当に幸せでした。そしてまた、この一年、当時の活動を生き生きとこころによみがえらせるひと時をもてたことは、いまだにラボの仲間でいるようで、さらに幸せでした。
ここで、物語を取り上げるこの形態の日記は、一休みいたします。お読みくださってありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
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[大きな森の小さな家]「大草原の小さな家」(インガルス一家の物語)「プラム・クリークの土手で」「シルバー・レイクの岸辺で」「農場の少年」そしてこれらの原書など。みんなで読めるようにと、文庫本や、楽しい参考文献もこの物語と、ローラ・インガルスについては、たくさん揃えた。このテーマ活動は、その頃のラボっ子の忘れられないもののひとつだ。ラボ25周年の記念行事で、日比谷公会堂で発表したので、みんなの感想文もたくさん残っている。私の感想よりも子供たちのものを拾ったほうがよさそうだ。
―――「大草原の小さな家」のCDがとどいてから、私はこのお話に夢中になりました。「スミレのなかに」の発表がきまってからは、少し集中して聞きました。CDと一緒にせりふを言っているうちに自然にいえるようになりました。そうして、お風呂に入っていても、宿題をやっていても、ローラになったり、チャールズになったり、キャロラインになったり、はなうたを歌うように口に出てきてしまいました。発表の日はキャリーの役をやりました。―――A子(小4)
―――このインガルス・ファミリーはとても固い絆で結ばれていると思いました。父さんも母さんもとても頭のいい人で、自然の中に生きる知恵がいっぱいだと思いました。大草原での火事も父さんのむかえ火で助かったのです。すごい知恵だと思いました。テーマ活動では、火の海をあらわすのが難しいと思いました。インガルス一家の温かさを表現していきたいと思います。―――S子(中2)
―――私はグレイスがいなくなったとき、本当にどうしたのかと心配でした。だからローラがグレイスを見つけたときは、本当にホッとしました。自分の妹を見つけたような気持ちでした。ローラが一生懸命グレイスを探す姿は感動的でした。私は4話が大好きです。最後の「草の間では、空気が動き、なにかがささやく」という表現はとてもすてきだと思いました。―――N子(小6)
―――カンザス、ミネソタ、そしてサウスダコダと移り住んだことは少し驚きでした。この頃移るといったら、幌馬車で何日もゆられていたということです。でも次々とその土地に希望をかけているんだなと思いました。この物語は全体を通して希望に満ちています。
4話のメアリーは目が見えないはずなのに、全然そんなことを感じさせません。メアリーもまわりの家族もえらいと思います。
キャリーのいったことから、みんなの願いをかなえてやろうと、長い時間かけて、ポプラの苗木を持ってきた父さんに感動しました。そしてこの家族がものすごく広いこの大草原に住んでいられるわけがわかったような気がしました。この家族は、自分より家族のことを考え、その日その日をたのしくするようにしていたから、大草原で暮らせたんだと思います。―――K君(中1)
―――この物語は、百年余り前、アメリカの開拓時代、そこに住んでいた人々の本当の話だ。ローラの家族みたいに一家族一家族が遠く離れて住んでいるので、日常顔を見るのは自分の家族ぐらいのものだ。それだけに家族のつながりは現在よりもはるかに強いと思う。そして、父さん、母さんは、ローラやメアリーにとって一番頼れて、尊敬する人であろうし、一番自分たちにやさしく接してくれる人だ。牛の乳しぼりに行く母さんを手伝うローラにも、そんなことをはっきり感じることが出来る。くまに出会ったときの母さんの態度や、とうさんが、まる一日かけて町へいってきたときの様子にも、本当に信頼し尊敬していることが分かる。
現代では考えられないようなことが、この時代には日常茶飯事として起きる。今ならパニックになってしまいそうなことにも、さすがこの時代の人は、落ち着いて対処する知恵をもっているなと感心するばかりだ。―――T君(大2)
―――広大な自然、その自然の微妙な変化を場面の変化として表すことは、むずかしいことだった。しかしそれこそが身体表現であると思った。人が集団というかたまりで何かを伝えようと演じることは、一言せりふを言うことよりも、その力を持つ場合がある。ラボのテーマ活動は演劇ではないので、見せることに重点を置いているわけではないけれど、それでも見てくださる人がいるんだから、感動を与えるくらい一生懸命語ろうと思った。
「スミレのなかに」は全体にしっとりとした感じの中に、家族のあたたかさと、愛をにじみ出させたいと思った。難しかったけれど、うまく表現できたと思う。動きを最小限度に少なくして、みんなで物語を語る気持ちをもつようにした。舞台では、みんなの息がぴったり合って、みんなが同じ息をしているように感じた。―――A子(大2)
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このテープが出たとき、ひとりのお母さんが、「きれいな音楽。映画見ているような気分で聞いたわ。」といわれた。そしてその子供は、「おかあさんにおはなしをしてもらった。そしてテープをきいた。ロミオもジュリエットもふたりともしんでしまうところがかわいそうだった。」M子(小1)とノートに書いてきた。同じページにお墓に十字架、バラの花いっぱい、剣とハート、二つの手のひら、などが描いてある。お母さんといっしょに聞くテープの中にしんみりと入って、彼女なりに理解しながら、彼女にとっては幸せな豊かな時間をすごしていたのだと思った。こういう小さい子達も交え、または小さい子に見せるため、中高生は、よくロミオとジュリエットのテーマ活動を選んだ。一度はやりたいテーマとして、春の進学、進級、合格お祝いパーティには、必ずやっていた。
シェイクスピアを深めようとか、研究するといったら、それこそ何年かけても足りない。そのとき許される時間の中で、シェイクスピアの物語としての品格を保って、彼らなりに楽しむ「ロミオとジュリエット」の物語として扱ってきた。そのようにしてでも、一人でも多くの子に味わってもらいたい作品だと思ってきた。
―――ロミオはジュリエットが死んでしまったと思って、金40枚で買った薬を飲んで後を追った。ジュリエットは本当は生きていて、眠っていただけなのに。これは悪魔のいたずらなのか。・・・そして目をさましたジュリエットはまた剣であとを追った。二人がうまくいくようにと思った方法が、逆に二人を死なせる結果になってしまった。とても哀れな感じがする。―――K子(小6)
―――ひとりで時々楽しむ物語である。シェイクスピアの作品の中で、もっともポピュラーで誰でも知っているが、僕たちは、友達とこのロミオやジュリエットに扮して楽しめるとは、最高だと思う。高校1年のとき高校生広場で「愛」について考え討論したことを思い出す。これはロミオとジュリエットの愛の物語だが、彼らが考える愛と自分が考える愛とはかなり違う。特に最後のジュリエットが死んでロミオが後を追って自殺してしまうところなど。それによって彼らは本当に永遠の愛を得ることが出来たのだろうか。―――T君(大1)
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「トム・ソーヤやろか!」と、今でも、OBが2,3人集るというくらい、よくやったテーマ活動である。アメリカ南部独特の空気が伝わるこの物語は、トム・ソーヤという生き生きとした、子供の心を象徴するような人物が次々と大事件を引き起こしていく。そのストーリーのテンポの速さと、トムやハックの心の動き、そこに関わって登場する、ポリーおばさんやベッキーなどそれぞれの魅力にどんどん引き込まれていく。
誰でも楽しむ物語ではあるが、テーマ活動をしていて、ふと、気がつくときがある。「わたし、ちょっとはいれないわ」というように、もそもそしている子があるのだ。会話のテンポの速さと、いたずらっ子の元気さにすぐには反応できない子もいた。ラボの「わんぱく大将トム・ソーヤ」は、テーマ活動として完結し、4話で満足できる楽しさを持っている。一方、原作にあたるマーク・トウェインの「トム・ソーヤの冒険」は、読み物としてうんと面白い。岩波少年文庫などをそろえて、読みふけった子もいた。
こんな楽天的で希望にあふれた、元気な物語を書いたマーク・トウェインという人はどんな人なの?というのも、ちょっと話をすると、また別の子が興味を持ったりする。子供は、何をきっかけに、興味を深めるか分からない。大人の用意する引き出しが多いほうがいいかもしれない。
因みに、子供に話して喜んだ話とは、「マーク・トウェインは、本名をサミュエル・ラングホーン・クレメンスといい、ミズーリー州で生まれた。ミシシッピー河岸のハンニヴァルで、トム・ソーヤのような少年時代を送った。彼の憧れの的だった人物は、町の浮浪児トム・ブラッケンシップ。時には学校をずる休みして、森や山をかけ歩き楽しいときをすごした。けれど、12歳で父親がなくなり、生活のため印刷屋で働いたりして苦労をする。そしてその頃の憧れのミシシッピー川のパイロットになる。しかしそれも南北戦争のためだめになり、戦争後は、その頃のアメリカの黄金熱にとりつかれ、失敗して、お金もなくし、新聞記者になる。その頃から、Mark Twain という名前を使い出した。Mark Twainというのは、パイロットが、水の深さを「二尋あり」と知らせるときの言葉だ。・・・へいぬり遊びにも、汽船「大ミズーリー号」と船長を演じるベンが出てくる。・・・そしてトム・ソーヤの生まれるまでの話など、みんな興味津々になるのだった。
―――子供たちがいっぱいいて、ぼくたちくらいの子だから、きいていると、ぼくもトム・ソーヤたちのなかまになって、遊んでいるように思う。いまのぼくたちより、トムたちは、いたずらしたり、けんかしたり、たのしそうに思った。わんぱくたいしょうたちは、くつをはかないで遊んでいたんだ。こどもにも、水くみなど、ちゃんとしごとがあるし、船長になるなど、ゆめがいっぱいあっていいな、と思った。―――S君(小3)
―――トムは、同じ手は使わない。わるがしこい頭は、すぐによくひらめく。どんどんペンキをぬりたい人が来て、トムは何かをもらって、ペンキをぬらせてあげるので、一石二ちょう。でも、わたしがトムだったら、ぜったいこれだけはもらいたくないものが二つあります。一つは、死んだねずみ、もう一つは、かた目のこねこです。―――M子(小5)
―――ぼくは、このトムたちがうらやましくてたまらない。トムたちはとても自由だからだ。「帰ってきた海賊」などは最高だ。トム、ハック、ジョウ、ベンなど登場してくる人物がいい。一人ひとりの考えがとても面白い。とくにハックはぼくが一番気に入っている人物だ。みんなはハックをばかにしているけれど、ハックにはハックのいいところがあると思う。タイムマシンでトムの世界へいってみたいが、実際には出来ないので、テーマ活動でいくことにしよう。―――K君(中1)
―――「おさげの天使」で、いぼをとるじゅもんがおもしろくて、学校でそのじゅもんをとなりの子に教えたら、みんながおもしろがってやりだした。よく、活発で、わんぱくなやつは、自分勝手で、いばりすぎてて、自分の意見がとおらなければいや、ということになるが、トムは、わんぱくだけれども、ユーモアがあるし、リーダー的存在だ。みんなから信頼されていていいなあ、と思う。
最後の、It’s the Mississippi!! は感動的で大好きだ。―――H君(小6)
―――トムたちは、ぼくが、そうあってほしいと思っていることが、すべてそなわっている。そのトムになることは感無量の喜びだった。くりかえしテープをきいて、せりふを覚えるのだが、ばくは、それを一歩越して、たいてい、立ってテープをきいている。というより、そこら中を動き回ってといったほうがいいかもしれない。やれ、草むらを走るだの、よろこんでとびはねるだの、家族の迷惑?も考えず、動くのだ。おかげで、せりふは、苦なく、覚えられる。一回、一回のテーマ活動は、一進一退の繰り返し。なかなか進まなかったが、たくさんの意見がでて、まとまった。当日ぼくは、どこでどうしたかよくわからない。それは、トムに体をのっとられてしまったからだ。あのとき、僕は、トムのように喜び、トムのようにしゃべっていたと思う。とてつもなく楽しかったの一言だ。―――T君(中3)
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「ピーラーパン! ピーラーパン! ピーラーパン!」・・・おとうさんに「それはピーターパンだろう?」といわれても、「テープはピーラーパンといってるのっ」といって飛び回っていた幼児の顔が浮かぶ。ピーター・パンのテーマ活動の思い出は、まとまらないほどありそうだ。
「ピーター・パンとウェンディ」(福音館書店)を読んでも、私にはわけの分からぬところがあるというか、余り物語の中に溶け込む感じはしなかった。ところが、ラボ・ライブラリーを聞いて明るい音楽と元気な登場人物、物語が一丸となってぶつかって来るような勢いを感じた。そして子供たちとそれを聞くとき、またまた生き生きとした子供たちが大きく見えた。私は小さくなって子供たちの後ろからついて行った。そうなんだ!直感的に物語を楽しむことの出来る子供たち。まさにこれなんだ!と思った。なんか理屈で分かろうとして、考えながら読んでいた自分が哀れだった。
バリーはすばらしい。じつによくすみからすみまで、こまやかに子供心をつかんで描いている。[陽気で無邪気で気ままなものだけ]が空を飛べて、Neverland
へいけるのだ。登場人物のひとりひとりが、みんな誰の心の中にもすんでいるように思う。私は子供たちと何回もテーマ活動をやり、子供たちの案内でピーター・パンの世界を見てきた。何度でも、飽きずに聴くことの出来る物語だ。
その後「ピーター・パンとウェンディ」も楽しく読んだ。実に奥深く、不思議な魅力のあるファンタジーだ。
―――わたしはうえんでぃが、ぴいたあとそらをとんでいるところがすきです。いんであんのうたがたのしいです。おかあさんは、たいがありりーのうたがすきだとおしえてくれました。ぴーたーは、ひろくん、うえんでぃはさえちゃん、じょーんはわたし、まいけるはたっくん、4にんでそらをとんでないないないのくににいきたいです。―――Y子(6才)
―――小さい頃からよく聞いていた。ピーター・パン自身に僕の憧れみたいなものがあって、聞いていたのだと思う。ピーターは大人にならない。子供の心、純真な心を持ち続ける。わがままでやんちゃでわんぱくなのだが、へんにさめてて、色づく僕たちにとって、彼のような存在が大切ではないかと思う。
I am youth and joy. I'm a little bird fresh from the egg.「若さと喜びのかたまりだ。かえったばかりのヒヨっ子なのさ」というけれど、僕には逆に大人っぽいところもあると思う。だから憧れであり、僕は大好きなのだ。―――T君(高1)
―――ピーター・パンは大人が失った夢を持っていると思う。ピーター・パンとは、いったい何者だろう。それは、子供の心に持っている「何か」だと思う。僕たちは成長していくにつれて、少しずつ変わっていくけれど、何が変わっていくのかあまり気がつかない。
ピーターとウェンディ、それにティンカー・ベルの関係が面白い。ティンクは妖精だけれども、女の子みたいだ。ウェンディにやきもちをやいたりする。ウェンディは母親的で、フックは大人だ。そのほかに出てくる、子供たちも、会話から性格が分かって面白い。どのキャラクターの中にもすこしずつぼくがいるような気がする。少しでもピーター心を持ち続けていきたい。―――A君(高2)
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犬でも猫でも小鳥でも、愛情を持って接していると、彼らの気持ちが分かるようになる。それこそ、ポリネシアの言っているように、「鳥や動物の、ごくこまかいところにも注意を払うことが大切です。これがつまり観察力というものです。歩き方、頭の動かし方、羽ばたき、臭いをかぐときの鼻の動かし方、ひげの動きぐあい、尾のふりかたなどです。もし動物の言葉を習いたいのでしたら、はじめはまず、こんな小さなことにも気をつけねばなりません。動物たちは、たいてい舌では話をしないようです。舌の代わりに、呼吸や、尾や足を使います。・・・」というように注意深い観察力で、相手を理解してあげたいものだ。
ドゥリトル先生の世界は、動物への深い理解と愛情からはじまって、動物、人間、自然をひっくるめた調和のとれた人類愛の物語だ。とぼけた面白さの中に、鋭く真実を見つめる目があり、幅広い体験と豊かな空想力で、ユーモアたっぷりの深い物語になっている。ラボのCDはドリトル先生の世界の一部分。ほかの部分を読み出したら絶対とまらない。そして広さの上に立ったテーマ活動をしたいものだ。
「ドリトル先生アフリカゆき」(井伏鱒二訳・岩波書店)の巻末に、作者ヒュー・ロフティングについてと、12巻の紹介がのっている。そして、井伏さんのあとがきや、石井桃子さんの「ドリトル先生物語」として語っていることが興味深い。今楽しく読んでいる物語も、熱い思いで、努力をする人の働きがあったのだと。
―――ドゥリトル先生はミランダが知らせを持ってきたから、クモザル島に行くことになった。ついでにぼくもつれてってもらいたい。でも乗組員に選ばれないから、やっぱりだめかなあ。ぼくもおとなになって、船が買えたら、いちど航海をしてみたいと思う。
ドゥリトル先生はみんなにそんけいされている。どんな昆虫の名前でも知っている。ぼくも昆虫の研究をして、ドゥリトル先生のようになって、わからない昆虫のことをなんでもわかるようになりたい。―――T君(小4)
―――人間が人間同士だけでなく、動物とも会話が出来たら、どんなにいいだろう! そんな夢をかなえてくれるのが、この物語だ。動物と話が出来ることで、ドゥリトル先生の世界は、何倍もふくらんでいる。クモザル島へ行く途中で、牛とグルになって闘牛をやめさせたり、いるかに頼んで舟を押してもらったり、あげくのはては南へ南へと流されていくクモザル島を、鯨に押し返してもらったり、スケールの大きいことと、想像力のすばらしさにおどろかされる。
Do-little先生、ほとんど何にもしない先生は、やぶ医者といわれそうだけれど、ドゥリトル先生はそうではない。お金をもうける仕事以外は、いろいろすごいことをやっている。だからみんなが先生をとてもしたって、信頼している。
僕は中学生のとき、このシリーズを全部読んだ。その後、ラボ・テープに対する接し方も少し変わったような気がする。―――T君(高3)
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