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カムイ・ユカラの世界は私は好きだった。絵本としては以前から、手島圭三郎のカムイ・ユーカラの世界、「ケマコッネカムイ」「カムイチカプ」「イソポカムイ」「チピヤクカムイ」「エタッペカムイ」など、読み聞かせに使っていた。ついでに、「おおはくちょうのそら」とか、「くまげらのもり」「ひぐまのあき」「きたきつねのゆめ」「しまふくろうのみずうみ」など手島さんの迫力ある版画絵本が福武書店から出ていて、私の好きな絵本群となっている。
私の育てられた頃はまだ、私の祖母の話には、山にも河にも岩にも木にも、あらゆるものに神様がいるように話して育てられた。現代のように文明が進んでも、私は、なんとなくそのような、自然の中に神を感じる気持ちが好きだ。というよりも、現にそんな気持ちを私の中に持っていると思う。松居友さんの書かれている「火の神の懐にて」のようなアイヌのコスモロジーがするすると心にしみこんでくる。
このCDが出る頃、何回か北海道に行った。たまたま千歳にいらっしゃる松居さんのお世話になって、ユーカラを語る会に出たり、二風谷の萱野さんを訪ねたり、旭川のテューターのお世話で、ユーカラを聞いたりした。
本もたくさん出ているから、いろいろ買って読んだけれど、私が今も手放さず、心の中に残っている本は、記者の眼から見た、本多勝一の「アイヌ民族」。ユーカラや昔話にたくさん触れるには、「カムイユカラと昔話」萱野茂(小学館)。ほんわかとアイヌのコスモロジーにふれる「火の神の懐にて」松居友。など。
そして、ラボの、チピヤクカムイをとりあげるとき、アイヌの物語を最も分かりやすくするには、一番早道かな、と思ったのが、この本、「銀のしずく降る降る」知里幸恵「アイヌ神謡集」より(星の環会)。アイヌとして生まれ、文才に恵まれながら、19歳で世を去った知里幸恵さんが、先祖が語り興じた小さな話を後世に残そうと、アイヌ語をローマ字で記し、日本語訳をつけた。その「アイヌ神謡集」(岩波文庫)の中から、姪の知里むつみさんがさらに分かりやすく修訳して出した絵本。
絵はいいとはいえないが、アイヌの人々の生活、信仰、日々の戒め、などわかりやすい。子供が驚くのはアイヌ語が全然分からない日本語とは別の言語であること。北海道といえば日本じゃないか。どうしてこんな言葉を使っていたの?となる。そうして、あらためて、神の国から人間の世界を見るというスケールの大きさ、チピヤク、チピヤク・・・と繰り返し、天上と下界を行き来する物語を楽しむことになる。
只、ラボの物語は、ユカラの雰囲気がなくなっていて、少しこの物語からユカラを理解するのはむつかしいと思う。神が、オオジシギの服を着て、降りてくる、神がくまの服を着て人間のところへやってくる、という考え方がアイヌの心である。・・・「六つの空をとおりぬけ」とあるが、どんな六つかは、分からない。「六」はアイヌの聖数であるから、やはり丁寧に六つの空を表現したい。
―――オオジシギは、あまり人間の世界がきれいだったので、楽しくて帰ることを忘れてしまいました。もう、かなしまないで、人間の世界でたのしくとびまわっていたら、いいと思います。でも私たちには、やくそくをまもらなければいけないと、教えています。―――A子(小3)
―――ユカラの物語は、「わたしは」といって語っているように書いてある。オオジシギや、ふくろうが、神と考えられていたのだ。アイヌの人々は、自分たちの住んでいるところを、美しい自然のすばらしいところだと思っている。だからこんな物語が出来たのだと思う。そしてそこをみんな神様が見ているのだと思っている。自然ばかりをテーマ活動で表現するのは難しいけど、動かない自然の中を、オオジシギがダイナミックに飛ぶ表現が出来たらいい。T君(高1)
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ねずみは、今では生活に密着しているとはいえないが、昔から親しみ深い生き物だ。生活の中では、ねずみが押入れでものをかじったとか、そのために猫を飼うとか、十二支では「子」。一番初めに位置する。先日私の絵の先生が、個展をされ、テーマに十二支の動物を取り入れられたが、ねずみが一番多く、それだけ描きやすく、テーマとして取り入れやすかったらしい。因みに一番少ないのは、いのししだった。
昔話の典型で、親切な優しい気持ちの持ち主は、ねずみの誘導で、異界にいくことができ、褒美に小判をもらった。そしてとなりの悪いじいさんもまねをして、そちらは罰を受ける。「ねずみ浄土」を読んで聞かせると、面白い中に、昔話独特の地味さを感じるが、「おむすびころころ」となって、The riceball rolled,plumpity-plump, というと、うんと明るくしゃれた物語として聞こえる。
公民館の大ホールで、ラボっ子たちが、大声で、Roll and roll, thumpity-thumpとおにぎりになって部屋を斜めに転がったり、大勢のラボっ子ねずみが、楽しそうにもちつきをしたり、ラボならではの物語表現だった。
―――おむすびをなげたら、うたがきこえました。とってもいいうたでかわいいです。おじいさんはたのしくなってぜんぶなげまた。そのおれいに、ねずみのあなにつれてってくれて、もちつきをしてごちそうしました。たのしいひとときがおわって、つづらをもらった。私は、ここは、したきりすずめににていると思いました。それをとなりのわるいおじいさんが聞いて、まねをした。バカだな。そのあともぐらになってしまいました。わたしの知っている話とは、すこしちがっていました。―――E子(小2)
―――アメリカのホームステイで素語りするため、一生懸命聞いて覚えているけれど、とっても口調がいいので、楽しい。ねずみの歌が、おもしろいから早く覚えたいけど、むつかしい。ねずみの声もかわいいけれど、ぼくはとなりの欲の深いおじいさんがおもしろくてやりたい。すごい人間くさいし、本当はこんな爺さんのほうが普通かもしれないな。―――K君(中1)
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私は中学生か高校生の頃、森鴎外などを読み、「山椒大夫」を読んだと思う。ラボ・ライブラリーで、「安寿と厨子王」が出たとき、「山椒大夫」を読んでいたものは、うちの中高大生では、ひとりもいなかった。でもこの話の筋書きとしてはなんとなく知っていて、今の子供たちには、余り好かれない筋書きであるように思われた。
ラボの「安寿と厨子王」は非常に物語の展開が速く、キャラクターの性格や立場もはっきりしているので、テーマ活動はさらさらと進みがちだ。その点、どこに山を持っていくかが、問題となる。
日本はどこに行っても、神社仏閣がある。そこで手を合わせ拝む行為はわれわれの中に残されているが、私たちの祖先がそのあたりに、どのような信仰、価値観、を持っていたか、また持たざるを得なかったか。今の子供たちには想像もつかない中世の封建社会の不条理さ、運命の過酷さを考えたのだった。
説教節の特徴は主人公が社会の下層階級に身をおき、苦しいぎりぎりの生活を強いられる。語り手も生涯放浪生活を余儀なくされるというような中で、自分自身の生活とも合わせて、すさまじいまでの迫力を持って語られる。説教節からは、なんとなく中世という時代の人々の現実を想像することができる。
二代目若松若太夫の演じる山椒大夫の最後の鳥追いの歌を歌う場面。
「鳴子の綱を探りとり 涙にくもる声をあげ 鳥も生ある島なれば 追わずと立てよ粟の鳥 鳴子に生はあるまいが ばばはめかいが見えぬぞよ 引かずと鳴れや鳴子竹
安寿恋しやほうやれほう づし王恋しやほうやれほう どこにどうしていることか 会いたいわいな会いたいと 聞くより若君たまりかね 床机をはずしてそば近く 母上様 づし王丸にござります おなつかしうござりまする すがるその手を取ってつきのけて・・・・・」
CDもでているそうだが、文字で読んでもその語り口が想像できる。
―――あんじゅとずし王はすごくかわいそうで、わたしはないてしまいそうです。お母さんとはなれて、しらないところへつれていかれて、めちゃめちゃはたらかされるのです。ほんとうにひどいです。そうしてあんじゅはしんでしまいます。ほんとうにいまでもうらんでいると思います。でも、おまもりをあたまにあてたら、きずがきえてしまったことはふしぎです。少しはすくわれたと思います。―――C子(小2)
―――こんなにひどい状況におかれたら、今の私はどうするだろう、想像もつかない。安寿は自分の命と引き変えに、厨子王だけは助けようと思った。お守りの不思議な力、お寺の和尚さんの親切で、その後の厨子王は運命を取り戻していった。仏様を大切にすれば救われると、昔の人は教えているようだ。いい人、悪い人が物語の中にはっきりと出てきて、テーマ活動はやりやすいけれど、しお汲みも、しば刈りも体験したことないことばかりで、ふりをするだけでつまらない。―――M子(中2)
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「このはなし、しってる」とか「ようちえんで、かみしばいみたよ」という程度の意識から、どのようにテーマ活動の活力を得ていこうかとCDを聞いたのだった。ラボの「一寸法師」は、物語を聞くと、いろいろ考えさせられるが、小野かほるさんの絵は、この物語の場合は、どうも生きてこない。昔話の絵本の域を脱しきれない。どうも、ずれを感じる。
高学年にはお伽草子を紹介した。講談社の少年少女古典文学館のなかの「おとぎ草子」(清水義範)は、小学生も十分に読んだ。
小沢俊夫さんの「日本の昔話」のなかにも、「一寸法師」があるが、面白くなくよくない。地方に伝わるものをもとに書かれたのであろうが、越後の国にとあって、都の三条が出てきたり、石清水八幡宮が出てくるのもおかしい。むしろ昔話の中で見れば、稲田浩二さんの昔話に「指太郎」というのがある。この方が興味がある。
とにかく同じ物語でも接する本、絵本によってイメージが変わってくる。
「さりながら、生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがてその名を、一寸法師とぞ名づけられたり。年月をふる程に、はや十二三になるまで育てぬれどもせいも人ならず。つくづくと思ひけるは、ただ者にてはあらざれ、ただ化け物風情にてこそ候へ。われらいかなる罪の報にて、かやうの者をば、住吉より給はりたるぞや、あさましさよと、みるめもふびんなり。夫婦思ひけるやうは、あの一寸法師めを、何方へもやらばやと思ひけると申せば、やがて一寸法師此よしうけ給はり、親にもかやうに思はるるも、口惜しき次第かな、何方へも行かばやと思ひ、・・・・」と読み聞かせれば、なんとなく甘さがきえ、考える発端が出来て深みを増してくるように思った。
[鬼]といえば、節分の鬼、桃太郎の鬼、などがすぐに考えられる。そんな折、絵本「鬼のうで」赤羽末吉(偕成社)が力を与えてくれた。これは、赤羽さんが、古典のドラマ性に画魂をこめて描かれたものという。
また逆に、甘い昔話風に歌の世界、「むかしばなしうた」武井武雄絵(リブロポート)で、いろんな昔話の歌があったんだと、楽しむ時間も持った。
――― 一寸法師のCDを聞いていたら、おばあちゃんが、「それ、一寸法師の話やね。むかし、うたがあったわ」といったので、うたって!といったけど、すこしうたって、わすれた、といいました。
一寸法師は、おひめさまをだまして、つれて行ってしまってかわいそうだなあと思いました。でもさいごは、しあわせになれたから、よかったです。おにのもっていたうちでのこづちは、だれでもほしいと思います。あったらいいなあと思うものをお話にしたのだと思います。―――S子(小3)
―――一寸法師はかわいくて、かしこくて、勇気があって、強くて、おひめさまをまもって、おにとたたかたと思っていた。でもこの一寸法師はなんだか、かわいそう。親にきらわれて、家を出て、悪だくみをして、お姫様をだまして連れ出した。ちょっと好きになれません。―――C子(小3)
―――小さいときから知っていた一寸法師の話が、おとぎ草子という古典がもとだと知って、興味がわいてきた。神仏にいのることも、現実ののぞみをかなえるには、必要なことと思われていただろう。小さいもの、貧しいものが、超大きいもの、強いものに打ち勝って、打ち出の小槌のような魔力を持つものの力を借りてでも、幸せになりたいというのが、人間の願いであったのだろう。それを強調した物語だと思う。―――T君(中3)
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ラボ・ライブラリー「ドン・キホーテ」は、非常に元気をもらった物語だった。一方、それまでスペイン語のテーマ活動をやったり、スペイン語の歌を歌ったりしていても、スペインという国については、ほとんど語ったことがなかったな、と反省したのだった。ドン・キホーテも岩波少年文庫が本棚にあったり、岩波文庫の完訳が並んでいたりするのだが、借りていく子はいなかった。少年文庫にしても、この大小説を思いっきり短縮してあるのに、長いと感じて敬遠されるのである。
ドン・キホーテといえば、ほとんどの子が、おっちょこちょいとかずっこけのイメージをもっていた。3話にまとめられたラボのドン・キホーテは、本当にドン・ホーテのエキスみたいなものだが、それまでのドン・キホーテのイメージを変えた。この3話から十分にドン・キホーテやサンチョ・パンサの人間性をつかみなおしたみたいだった。そして以前よりは、スペインを身近に感じ、スペイン文学、スペイン芸術に興味を持たせてくれた。
清水憲男氏や村田栄一氏の講演を聞いたりすると、スペインについての興味がとめどなくひろがっていく。
機会があって村田氏とのスペイン旅行に2度行くことが出来た。マドリッドのスペイン広場。セルバンテスの像とロシナンテにのったドン・キホーテ、サンチョ・パンサの像。または、エル・トボーソの町の一隅にあるドン・キホーテとドルシネーアの像など、スペインの国でのこの作品への国民的支持と人気を感じた。ラマンチャ地方に残る風車やその村のたたずまい、観光用に残されたものとはいえ、物語との間に想像の風を起こすことは出来た。
スペインの旅・・・街角、風車、古都の遠景、いろんなアングルで捉えて油絵に描いた。まだまだ描きたいところがたくさんある。
―――ふうしゃをきょじんだとおもって、ぶつかっていったり、ひつじのむれにつっこんでいったり、むちゃくちゃやるみたいなところがおもしろかった。サンチョ・パンサがとめても、ドン・キホーテはしんけんだった。どうしてあんなに、ゆうきがあるのだろう。サンチョ・パンサは、ほんとうはやさしくてあたまもいいとおもう。いつもドン・キホーテはたすけられていた。―――S君(小1)
―――ドン・キホーテは知っていたけれど、今まで読んだことはなかった。CDを聞いたら、すごく面白い。訳本を読んでみたくなった。風車を巨人だと思ったり、小さな宿屋を城だといい、洗濯物を風にひるがえる旗とみるなど、夢のせいで世界がとてつもなく広がっていく。夢を大きく持って、とにかく行動に移していくことはいいことだと思った。
サンチョ・パンサは、気がよくて、どこまでもドン・キホーテについていく、少し抜けたところがあるように思われるが、本当は、素朴で、賢い男だと思う。ドン・キホーテとの会話がいつも愉快で気持ちがいい。サンチョ・パンサもドン・キホーテほどではないけれど、やはり夢を持ってついていったのだと思う。夢は破れたけれど、周りの人の愛を感じる。二人にとっては、これで十分だったと思う。―――T君(大1)
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「さいゆうき」というと分からなくても、「そんごくう」というとほとんど知らない子はないくらい、孫悟空の名は知られている。それくらいこの物語は愛されているというか、たくさんの本が出されている。ダイジェスト版や、漫画本も入れたら、数え切れないだろう。図書館でこの関係の本を借りようとしたら、軽く30冊くらいになってしまった。それだけに、内容もいろいろで、こどもたちも、どんな形で西遊記に触れるかが問題である。
ラボの西遊記は、ひとつの芸術作品。李庚さんの絵は、勢いのある筆づかい、繊細な筆づかい、それに複雑な色が筆から落ちるように描かれる。私は、テープで2冊、CDで2冊くらいの本があり、その一冊には、李庚さんのサインがあるから日常使う本とは別にして、大切にしている。
ラボもこの大冒険小説を、うまくまとめたひとつのダイジェスト版だが、言葉のリズムがよく、このスケールの大きい世界、奇想天外な話の展開、それぞれのキャラクターのダイナミックな活躍が、こどもたちには、たまらなく楽しい。本当にこの物語は中国語も含めて、何度取り組んだことか。
元気に表現できて、言葉のとおりに暴れられるとくれば、テーマ活動もたのしいにきまっているが、その後に残る深みとそれぞれの心に刻まれる西遊記の真髄を考えて、やはり一生懸命になる。福音館の「西遊記・上・下」(呉承恩作・君島久子訳)を紹介した。3人ほどは読破したが、なかなか読めず、パーティでも出来るだけ拾い読みをしたりした。とにかく語彙も難しく、仏教やら道教やら、伝説上の英雄、菩薩とか釈迦如来まで出てくるのであるから、めんくらってしまう。でも読んだ子は、面白くてやめられなかったという。漢字は多いが、幸いこれは全部ルビがふってあるので、かえって興味がわいたという。
「もくじ」はたとえば、第一回「霊根育まれて源流出で心性修持まりて大道生ず」とか第七回「八卦炉中より大聖逃れ五行山下に心猿を定む」とか難しい。でも、本文は
―――その東勝神州の海のかなたに、名を傲来国という国があった。近くに大海をひかえ、その海中に花果山と呼ばれる名山があった。その山の頂に、一つの仙石があった。高さ三丈六尺五寸、周囲二丈四尺。あたりには陰さす樹木さえなく、左右はびっしり苔むしていた。この岩は、天地が開けてこのかた、つに天、地、日、月の精を受けていたが、長い年月のうちに、ついに霊気を宿した。ある日のこと、岩はぱっと裂けて、まりほどの石の卵が生まれた。卵は風にさらされると、孵って石猿となった。――――
というように確かに面白いと思う。
―――さいゆうきは、元気のあるテープなのですきです。むりやりとりあげたにょいぼうは、すごくおもいのに、ごくうは、かるがるもちあげました。雲にのって、空もとべる。ひこうきよりかんたんに、じてんしゃみたいで、空を飛べるものがあったらいいなあ、と思います。ごくうは、ゆうきもあるし、力もあるけど、ちえもある。金かくや、ぎんかくとのたたかいも、ちえをつかったからかてたと思います。―――Y君(小2)
―――小さいときから、なんとなく孫悟空という存在にあこがれていた。僕は今年中国交流に参加したとき、この物語を中国語で発表した。そのとき、やはり、これは中国語の語りがいいと思った。聴きなれていないはずの言葉なのに、なぜかなつかしく、あたたかく、ひかれてしまった。―――S君(中3)
―――中国語の発表は、すべてテープをたよりに覚えなければならないゼロからのスタートだった。西遊記をやると、どうしても孫悟空に目がいきやすいが、僕は八戒をやって、八戒を知ると、なんとも愉快な脇役だった。八戒はもとは天界の天蓬元帥といい、孫悟空なんかよりずっと身分が高かった。しかも八戒は人間以上に人間らしい素直な天人?(妖怪)だった。人間いじょうに人間らしいというのは、まず色欲旺盛なことである。天人などというと、まるで理性のかたまりのようにお堅いイメージがあるし、下界の人間だって、最近は妙に固い人間が多いし、理性で自分の感情を抑えてしまっているやつがわんさかいる。そう考えてみると、八戒は、ストレートに自分の気持ちを言葉にする。かわいい、よき天人、よき妖怪。この八戒をどこまで僕が演じることが出来たかは疑問で、八戒に悪い気もする。しかし僕は僕なりに一生懸命八戒になったつもりだ。―――T君(中3)
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誰かさんの誕生日に何をあげようかなぁ・・と考えることは楽しい。そんなものを選んでいるときとか、作っているときが、その人についていろいろ考えたり、思いを寄せる時間として楽しい。その対象が恋人であったり、親であったり、子供であったり。今は私は、もっぱら孫かな。
ダニーはお母さんの誕生日に何をあげようかと考える。子供の日常はお母さんを中心にした世界の中でまわっている。そのお母さんのためにいいものを見つけたい。お母さんが喜んでくれることはすごくうれしいことだ。
このお話は小さい子に、とっても分かりやすくていい。そしてライブラリーとしては、大きい子にも英語も簡単だし、音楽も楽しく、いつでもすぐに出来るテーマ活動として扱えた。繰り返しがあっても、退屈に感じない。余分な言葉がなくリズムがあり楽しく感じる。そして何よりも最後がいい。めうしに会うと急に話の流れが変わる。そこからがいい。余分な説明が何もなくすとんと終わっているところが、後にいい余韻を残している。
―――きょうはおかあさんのたんじょうびだから、ダニーはそとへプレゼントをさがしにいきました。めんどり、がちょう、やぎ、ひつじ、めうしにあいましたが、みんなうちにあるものばかりでこまっていると、めうしがくまさんにききなさいといいました。それでくまさんのところへ行こうとしたら、みんなはいやだといいました。たぶんみんなはくまさんがこわかったのだと思います。わたしは、はじめ、くまさんのいういみがわからなかったです。おかあさんは、そのプレゼントは、一ばんうれしかったと思います。―――M子(小2)
―――私は今年、アメリカでホームステイするので、素語りで「Ask Mr. Bear」をやろうと思って聞いています。この話の最後の場面が好きです。ダニーがお母さんに頬ずりをしてやわらかい感じで終わっています。実は、私のホームステイ中に、ホストのお母さんの誕生日があります。誕生日のプレゼントに素語りをして、最後にBig Birthday Bear Hugができたらいいなあと思っています。―――H子(中1)
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Where are we going, Dad? Just wait and see.・・・などと聞いていると、とても犬の家族の話とは思えない。当然ニコルさんのセンスで作られた家族の日常生活なのだが、ワフ家は実に誇り高きお犬様家族だ。お父さん、お母さんもしっかりしていて、明るい。初期のテープには、四匹の犬が、お父さんは茶色、お母さんが黄色、ヘンリーは青、アンはピンクの耳をしてついていた。だから、私などは、色のないワフ家の本を見ても、その色の印象でみてしまう。(こういう始めの印象はこわいものだと思うが)それがワフ家の一つの雰囲気を作ってもいた。後に、そんなことも忘れられた頃、小さいラボっ子が、自分の好きな色で本を塗ってきた。それも楽しいことだとは思ったが、私の中では、そのリアルな犬の色が、ワフ家の雰囲気とどうしても合わなくて困ったことを覚えている。
いぬになったり、こいぬになったり、犬を忘れて、おとうさんになったり、こどもになったり、いつも明るく楽しく出来るテーマ活動だった。ナレーションがないから、さっと、コマをつなげるように場面が変わる。少ない人数でも、または百人という大人数でもやった懐かしいテーマ活動だ。特に中学生をリーダーに百余人の小さい子のエネルギーでスペイン語ワフ家を発表した感動は忘れられない。
―――月よう日、おうちをたてた。私は、かべをみどりいろにぬりたいです。葉っぱや草はみどりいろだし、大好きなメロンもみどりいろです。ワフ家の家は、地下しつのあるりっぱないえだから、わたしもすみたくなった。―――Y子(小2)
―――ぼくは発表会でスペイン語でワフ家をやりました。ぼくは、すいどうやさんです。いえのかべや、やねもやりました。いえができあがったら、ワフ家のおかあさんからでんわがかかってきます。ぼくはでんわではなしをします。だいたいいえたからよかったです。じょうずに出来たと思います。―――M君(小3)
―――小さいときこの話を聞いて楽しいなと思って、本を見たら犬の話でびっくりしたことを覚えている。そして月曜日から木曜日までしかないので、金、土、日の話も作ろうと思った。人間のうちをまもって、泥棒を捕まえたり、賞金までもらって、インタビューされると、Wuff, woff-woff-woff と答えたり、結構人間を手玉に取っている。英語やスペイン語に、四苦八苦している僕らを笑っているかもしれない。
スペイン語の発表をして思ったことは、わからないと思っていた英語もスペイン語とならぶと、よく分かる言葉になる。―――K君(中1)
―――私がラボに入ったとき(幼稚園のとき)から好きな話です。ごく普通のどこにでもありそうな話ですが、何かほのぼのとした感じがします。話が日常生活なので、すぐ使える言葉がじゃんじゃん出てきます。アメリカへホームステイに行ったとき、一生懸命聞きました。今はさらにこの言葉がよくわかります。―――N子(中3)
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日常の生活では、久しく手袋を必要とする寒さを感じなかった。車を使うことが多く、荷物を持ったりして歩くことも少ないからでもあろう。けれども、このところの寒波は、本当に「寒い!冷たい!」と思った。岐阜でも20センチほどの積雪。手袋をはめて雪かき。日常やらないことで、なさけないことに腕がいたくなってしまう。
なつかしい キルト布で作ったちょっと大き目のミトンを思い出して取り出した。そこにラチョフの絵をイメージして作ったぬいぐるみの動物たちが入る。ライブラリーが出たとき私が作ったものだ。小さいラボっ子たちがよく遊んでくれた。
Who is living in this mitten? Me, the greedy mouse. And who are you? いや、そんなに上手にはいえない。「フージュ・・イービン・・ミチュン?
ねじゅみでちゅ。あなたはだれ? かえるでちゅ。ぼくもいれて。どうじょ」などと、3才ラボっ子が遊んでいた。動物がみんなてぶくろに入ってしまうと、ワン、ワン、ワン、ワン、となく。そしててぶくろをさかさにして、動物たちを放り出す。楽しいひとり遊びだ。
繰り返される問答の面白さ。だんだん大きくなっていく動物、それをどんどん受け入れるおおらかさ。実に楽しい。これは、絵本を見ているより、テーマ活動のほうがイメージの広がりが自由に大きく出来て楽しい。
春が待たれる寒い日の交流会。手をつないで作ったラボっ子のてぶくろは、動物たちのラボっ子を入れてどんどん大きくふくれていく。てぶくろの中でおしくらまんじゅうのように喜んでいる動物たちは、大きないぬのほえ声に、いっせいに公民館のすみやカーテンの後ろに逃げ込む。あとにのこった、てぶくろとおじいさんの小さく見えたこと。
―――動物たちがみんなロシアの民族いしょうのように考えた服を着ています。そしてみんな、くいしんぼうねずみとか、ぴょんぴょんがえる、はやあしうさぎ、おしゃれぎつね、などと、とくちょうをいかした名前がつけてあります。絵を見ていても楽しいし、動物が出てきて、みんな同じように聞くので、楽しいです。私はこの動物たちがみんなすきです。どの動物になってもいいです。―――Y子(小5)
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有名すぎるファンタジーで、絵本も読み物も、関係書も多い。知らない子がないほどの物語であるけれど、またいろいろに安っぽく商品化されたものも多い物語である。小さいときに、安易にアニメなどで楽しんでしまって、こんなものだと固定観念で考えてしまわないように、したいものである。
それらを排除しようとしても無理な社会ならば、せめていい本物をそろえて、自分で判断できる目を養いたいもので、ラボがその活動の一つであると思う。
ラボ・ライブラリーの「ふしぎの国のアリス」は、芸術的感性の高さ、特にPreludeの歌で始まる楽しさ、ダイジェスト版であっても劣ることなく、テーマ活動でも十分楽しめて、これで十分だと思うけれど、ラボ・ルームには、みんなの手に取れる本をいろいろそろえておいた。
岩波少年文庫の「ふしぎの国のアリス」(田中俊夫訳)。福音館書店の「ふしぎの国のアリス」(生野幸吉訳)。「The Nursery “ALICE”」(オズボンコレクションの中の一冊)とこれの日本語版「おとぎのアリス」(高山宏訳・ほるぷ出版)。「不思議の国のアリス」(求龍堂グラフィックス)などが、よく活躍した本だった。
このファンタジーは誰でもすぐにその世界に入って、ウサギの後をついていきたくなるような魔力を持っている。だからテーマ活動も楽しめた。そしてこのファンタジーが重んじたように、自由な表現、イマジネーションの自由を求めて、発想を豊かに、幅広く活動を広めた。
ハートやスペードの色紙をはった52枚の画用紙、大きな手製のトランプが残っている。野外で、みんながトランプになってゲームをやったのだ。パーティ便りには、たくさんのアクロスティックも残っている。
(自分の名前で)
いっぴきの うさぎがはしっていった
わたしもいっしょに ついていこ
たちまち穴にとびこんだ
よるか昼かわからない
しーんとしている穴の中
みるみるうちに広い部屋
えのぐで 白ばらぬりかえる
ぐちゃぐちゃぬって 赤にする
ちょうど そこにやってきた
ゆめみる アリス
うさぎもいるぞ 女王のとなり
ごまかしさいばんの はじまりだ
はあ、はあ、走って
やっとかわいたコーカスレース
しょうひんは!ポケットのボンボン
たくさんないよ アリスの分がない
かわいいゆびぬき あげましょう
こころがあれば だいじょうぶ
ひんと(ヒント)をおくれ
おまえさん ぼうしやさん
きいているの? ぼうしやさん
ゆかいなすがた
かんがえてもだめ せいかいのないクイズ
―――わたしは、はりねずみのこえがすきです。ドードーもすきです。みんなすきです。アリスはすごいね。ゆうきがあって。へんてこりんなあなにはいっていって、ついたところはうすぐらいへや。きぶんはどうだった?さみしかった?さむかった?小さいびんに「わたしをおのみ」とかいてあって、それをのんだら、せいがだんだん小さくなって、わたしは「うっそ~」と思いました。だって、「わたしをおのみ」とかいてあったらだれだってのむよね。ほんとにふしぎのくにだね。―――N子(小2)
このほかに、時間のある限り楽しんだ本がある。「ふしぎの国のアリスの算数パズル」(山崎直美著・訳+さらえ書房)という本で、アリスの物語を進めながら、そこに関連するパズルが考えられている。頭のたいそうだ。
たとえば
*アリスは持っていたキャンディを鳥たちに1こずつくばりました。
すると16こあまりました。もう一度配り直しです。今度は2こ
ずつくばりました。すると2こたりません。鳥たちは、いったい
何羽いるのでしょう。また、キャンディは全部で何個あったので
しょう。
*大きくなるきのこのかけらは、わずか1グラム食べると、1セン
チ背が伸びます。小さくなるきのこのかけらは、1グラム食べる
と1センチ背がちぢみます。あるとき、両方あわせて100グラム
食べたら、8センチ大きくなりました。それぞれ何グラムずつ食
べたでしょう。
*1日に1分ずつ遅れる時計と、とまって動かない時計とは、どち
らがより正確だろう?
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