|
|
私がラボ・テューターでいたあいだに、2,3度大雪といえるときがあったと覚えている。庭でラボっ子と雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりした。でも毎年10センチぐらいは何度か積もるので、適当に雪を楽しむことが出来る。
ゆきむすめの物語は、ライブラリーの数が増えてからは、余りテーマ活動の中に選ばれなくなったが、女の子が好きな物語であった。テーマ活動の思い出も何度かある。この本の絵に出てくる女の子のようにスカーフをして(なぜか男の子まで・・・そんな気分になったのだろう)やったこともあった。中に出てくる歌がよくて、この歌だけを取り上げ、春のパーティ交流会で、花輪作りをして、歌を歌ったこともあった。
―――ゆきむすめは、おじいさんとおばあさんが作った雪の女の子だった。おじいさんとおばあさんは、ゆきむすめが来てくれて、ものすごくうれしかったよ。ゆきむすめもしあわせだったろうにね。
ゆきむすめは、まけずぎらいなのかしら・・・やさしいのかしら・・・「とべないの?」って、わらわれたけれど、べつにとばなくてもよかったのに。・・・とばなければ、おじいさんやおばあさんを悲しませずにすんだのに。
ゆきむすめは、自分の運命をしっていた!うんめい! そう!「こわくなんかないわ」といってとんだ。とぶこと、それは自分の体がなくなることなのに。それも、こわくない、といってとんだのだ。―――M子(小5)
―――本を見ても、テープ聞いても分かるんだけれど、おじいさんとおばあさんの表情が、むすめがいるときと、いないときとでは、すごくちがうと思います。音楽もとても明るい音楽がながれます。むすめが雪で出来ていることを忘れて、おじいさんとおばあさんは、むすめを外に出してしまいます。火の上を飛ぶとき、わたしは、「だめ!」とさけびました。
でも、本当は、ゆきむすめは、まだそこらにいるかもしれません。毎年ふる雪のなかに。―――N子(小6)
―――さみしいような感じがする。雪で作った女の子が本当の子供になるなんて。こどもがほしいと思っていたおじいさんやおばあさんが、いろんなふしぎな力で、こどもをさずかる話は、たくさんある。このおじいさんとおばあさんも、いっしょうけんめい、心をこめて雪の女の子をつくった。だから、冬の精が女の子の中に入ったのだと思う。何でも、一生懸命、思いをこめてやることが大切だと思った。―――A子(小6)
|
|
|
|
|
本来、口で語られ耳で聞いて楽しむ昔話の世界。今は、多くを文字から読む。岩波の木下順二の「わらしべ長者」の中の「瓜コ姫コとアマンジャク」は、文字の印刷に、語り口調、間のとりかた、その声色まで、工夫が入っているように思う。行間に十分の間をとったり、字を大きく印刷したり、コロコロゆがめて書いたり、文章にリズムが造ってある。私は、この話には、なぜか全体としては、さわやかな黄みどりいろのイメージがあり、うりこひめこには、かわいい赤い着物を着せている。そして読み聞かせをするときは、自分の中に音を意識して、楽しんで読んだ。
ラボ・ライブラリーになって、みんなが語るようになった。意外と長い物語なので、たいくつになる。みんなが参加できるように、みんなが、それぞれ自分の語れるところをつくり、みんなで言葉を絵にするように、音を表現にするように、あるところは、コーラスで、楽しんだりした。
―――キコバタトン カランコカランコ・・・私は、うりこひめこの機織の歌がとても美しくて好きです。
きちんこたんの きんぎりや
くだこァなくて からんころん
きちんこたんの きんぎりや
くだこァねっちゃ ばんばなや
わけのわかるようなわからないようなのが、たまらな~い!
アマンジャクの機織の歌も好きです。
ドジバタドジバタ ドダバタンドダバタン ドッチャライバッチャライ
むちゃくちゃなのも好きです。
とんびやカラスの鳴き声は、言葉のように聞こえる。みんなともだちなのです。―――A子(小6)
―――うりこひめこは何も悪いことをしたわけでもなく、ただ、たいくつで、つまらなかったから、ちょっとアマンジャクをからかっていただけなのに、アマンジャクが来てしまった。うりこひめこは、おじいさんやおばあさんの言うことをきいていたら、つれさられずにすんだのに。戸をあけてしまったのでしっぱいだ。
とんびやカラス、ニワトリが大事な役をはたしている。のんびりした話。―――Y子(小6)
|
|
|
|
|
この「かにむかし」や、「瓜コ姫コとアマンジャク」は、木下順二さんの「わらしべ長者」(岩波)に載っているものなので、’86年にこの物語がラボに入ったときには、私の語りで聞いている子が少なくなかった。昔話は文字で読むより、語りを楽しむのであるから、余り明るくないところで、おばあさんが語ってくれる「語り口」が想像できるといい。木下順二の「わらしべ長者」は独特の木下流方言で、でも、何とか昔の語り口を現代の語り手が作れるように文字化してあると思われる。
ラボでは、宇野重吉さんの語りであるから、またその独特さが深みを作っていていい。
さらにテーマ活動では、今までの常識で考えるなら、とんでもない面白いことがおきるから、その発想の面白さで、いっそう楽しいものになる。
物語の出だしというのは、その物語を最後まで読んだ上で、あらためて始めにもどって考えるべきだ。柿の種にこだわった子が、考えに考えた。波打ち際を表現して、静かに打ち寄せる波の中から、ころりと種が転げ出て、砂の上に残った。それをかにが・・・・という形でテーマ活動が進んだ。
いくら英語が入っているといっても、これは日本語の語りもおろそかにはしたくない。「かにの子どもが、ズグズグ、ズグズグ」「ガシャガシャ、ガシャガシャ、パンパンぐりはコロコロ、はちはブンブン、牛のふんはペタリペタリ、はぜ棒はトントンなどと、情景にあった擬音も子供たちは楽しむ。昔話本来の素朴な語りからは、外れた感じがするけれど、テーマ活動としては楽しく出来る。
―――「はようめをだせ」「はよう木になれ」「はようみをならかせ」とかには、話しかけてかわいがった。それなのにさるはいじわるで、ひどいです。 わたしはかにのみかたです。終わりのほうは、桃太郎ににています。―――M子(小4)
―――さるが、かにに、かきをなげつけたとき、かわいそうだなあ と思いました。そのとき、ぼくは、ほんの中にはいって、さるをたたいてやりたいきもちになりました。ぼくの一ばんすきなところは、「さるのばんばへ あだうちに」というところです。みんなでコロコロ、ぺたりぺたりとわいわいやっていくところがたのしいです。しかえしができてよかったです。―――K君(小1)
―――小さい頃、「さるかに合戦」として、本を読んだり、話を聞いたりしている。こういう昔話も卒業したと思って何年もたってから、ラボで再会するとは、すこしとまどった。
初めて聞いたとき、もうすでに知っている話なのに、妙に新鮮な感じがした。ラボでは、日本語、英語のほかに、音楽という大事な要素がある。それが加わることによって、すでに知っている話も、新鮮で、芸術的魅力も持つ。それにこの話は、ナレーションから蟹まで、すべて一人の人で話を進めている。つまり、語りの要素が強くなっている。この、日本語の語り、宇野重吉の語りがとても上手で、思わず聞き込んでしまう。素語りをして、外国人に聞かせたい。きっと大うけすると思う。―――T君(大1)
|
|
|
|
|
ラボ・ライブラリー「平知盛」が発刊されたのは、’86年、ラボ・パーティ20周年、私のパーティの15周年だった。幼児からパーティ全員が手にしたこの物語をいかに楽しもうかと考えた。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と始まる平家物語の全文を、現代文付、解説付きでそろえてみても、なんとも仕方がない。テューターとしては、京都の六波羅を訪ねたり、下関の赤間神宮を訪ねたりして、物語周辺の話をできるだけしても、子どもたち自身の活力は出てこない。もっと身近に感じられることをと、地元の高校の先生で、平家物語を研究している先生を高大生を連れて訪ねた。そうして、岐阜にも源平ゆかりの墓や史跡があることを知り、そこをたずねることにする。墨俣の円興寺に源平墨俣川の合戦の舞台、横蔵寺に熊谷直実の墓、護国之寺にその供養塔など。こんな行動が彼らにひとりでに歴史を読む興味をもたせた。
力強い語りをいかに自分の声にするか。説明的な動作はかえって物語を軽くしてしまう、と、動きを最小限にして、言葉と言葉の流れを大切に語る。ちょうどその頃パーティで作ったはっぴを着て、テーマ活動発表を楽しんだ。
―――華々しい生活から、地獄に落ちたかのような苦しい生活を送らざるを得なくなった知盛、戦いを通して武将として歴史に名を残した人は、みな、冷たく残酷だと思っていたけど、知盛は、人情味があって、自分に厳しく、他人に優しい。
多くの味方が裏切り、相手に加勢しているのに、それを責めることなく、「見るべき程の事は見つ。今は自害せん。」といって死んでいった。今死ぬというとき、こんな力強く、気品ある言葉を残したなんて、本当にすごい人なんだと思った。―――T君(高1)
―――たくさんのテーマ活動のうち、最も印象に残っているものの一つは、この「平知盛」である。これは今までのテーマ活動とは、一味もふた味も違うものだった。
まず、「平家物語」について知ること、源氏と平家について知ること、そして少しでも親しみがますようにと、郷土の源平ゆかりの地などを訪ねた。大垣の青墓町に源朝長の墓、墨俣町に源義円の墓などあることを知り、昔、雪の深い関が原のあたりを行き来したんだと、思いをめぐらし、歴史を身近に感じるのだった。
物語はせりふが少なく、語りが中心なので、群読というのをやった。胸を張って大声で堂々と語る、このことが、一番大切なことだと、そのとき思い知らされた。
”Tomomori of the Heike”という最初の一声だけで、会場の小さい子までが、いっせいに注目したのを覚えている。
全盛を誇っていた平家にも、やがて衰える日がやってくる。物語の中には、清盛とか、木曽義仲とか、よく知っている名前も出てくるし、義経との一の谷の合戦、壇ノ浦の合戦など歴史で習ったような史実が、興味深く語られ、その言葉を、おなかの底から声を出して大声で語ることは、自分が自分でないような快感を覚えた。
自害するという昔の武士の道はあまりよくは理解できないし、感覚的には離れたものを感じる。難しい言葉もずいぶん覚えた。平家物語が親しみやすくなった。―――T君(大2)
平家物語にしても、シェイクスピアにしても、小さい子には難しい。しかし、ラボのような活動だからこそ、小さいときにそれらに触れることが出来る。そのことが、いかにすばらしいことかといつも私は思う。彼らが大きくなって、本当にそれらに取り組むとき、初めてでなく、何かが蓄積されているのだから。
この後、ほるぷ出版から、「絵巻平家物語」(木下順二・文=瀬川康男・絵)で出された。忠盛、祇王、俊寛、文覚、清盛、義仲、義経、忠度、知盛、と興味ある人物を中心にした平家物語として出された。最後の知盛が出版されるのを心待ちに待って楽しんで読んだ。今も眺めて、読んで、楽しむ本である。
|
|
|
|
|
オスカー・ワイルドの原作を、ラボのテーマ活動用に作られた物語。SK3であるから、1,2と来て、いろんな事例が報告される中、どんどん成長していく子供たち、そして三つ目として少し年齢の高い子にもと、考えられたことがよくわかる。オスカー・ワイルドの人生観や芸術観を、中学生とともに考えてみたい。
王子とつばめの会話が多い。しかも、王子は、動かない銅像である。何度かテーマ活動で取り組むたびに、言葉にこめる情景や心の難しさを思った。物静かな話し方の王子と、若い男の子のつばめ、ツバメの心がだんだん王子への感情の中に変化していく。そのあたりも、テーマ活動で考えられるようになってきているのだ。
小野かおるさんの絵はやわらかくて、まろやか。この絵本は素描に近いけれど、じっとお話を聞くと、なんと色彩豊かなことぞと思う。まず言葉通り、宝石がちりばめられているし、ナイルを上ったり下ったりと、エジプトの情景と夜の王子の足元との対照。月が昇ってから、もうすぐ雪が降るだろうと想像する夜、エジプトの緑のやしの木を照らす太陽の話をする、このあたりの豊かな色彩を私は、・・・どうしよう!・・・と聞きほれる。王子の言葉に対するツバメの話すエジプトの情景、それを繰り返しながら、王子はすべてを与えきる。ツバメは王子とともにいることを心から望むようになる。王子はこうして自分を与えきることが、・・・そうすればツバメは死ぬことを王子は知りながら・・・そうすることが二人に課せられた使命と思うから。
―――王子は自分の体のすべてをあげてしまってまで、人を助けようとしたのに。さいごは、だれも、それがどういうことなのか、考えようともしないで、こわしてしまいました。みんなおろか者だと思いました。でもわたしは、さいごの、何もついていない王子のほうがずっとすきです。―――K子(小3)
―――ぼくは、この王子はとても立派だと思う。ふつう、物語に出てくる身分の高い人、とくに王様は、わがままで、自分の得になることしか考えない。この王子は、自分の町の貧しい人たちや、恵まれない人たちのことを悲しんでいる。つばめを犠牲にしてまでも、人々を助けた。つばめも、冬の寒さで自分が死ぬのを分かっていながら、最後まで王子に仕え、貧しい人たちを助けた。美談過ぎる物語から、僕は何か考えなければいけないと思った。最後に出てくる会話で、人のことを考えない勝手な人間か多いことをこの王子と比べて考えるのだろう。―――Y君(小6)
|
|
|
|
|
今年2005年は、アンデルセン生誕200年という。アンデルセン童話集というといかにも子供のための物語のように思われるが、なかなか、その中に深い意味を持つ。ラボの中のアンデルセン、「みにくいあひるのこ」「ナイチンゲール」それに「はだかの王様」もそれぞれに秘められたものがある。これらの物語でテーマ活動に取り組むのもいいが、いや、そのためにも、アンデルセンのほかの作品を多く読みたいものである。
「わが生涯の物語」も、興味深く読めるけれど、やはり、数多くの作品を読むほうが、作者が、無意識のうちに表現している自分の心の奥にあるものが、少しずつ分かってくるような気がする。とくに、完訳で、アンデルセンが作品を書いた順に載っているのを読むと、その歩みがよくわかる。文庫本に「アンデルセン童話集」として出されていることを考えても子供のためだけの物語でないことが分かる。大人の読み物として今年はまた読みたいものである。
―――はだかの王さまは、いつもふくのことを考えていて、ふくのことだと、しんけんになります。ある日、シッケルとグルーバーがきて、王さまのしろで、まほうのぬのをおるといいました。すごいさぎしです。はたおりきしかない部屋に、何週間もいました。そのぬのが見えないものは、バカだというので、みんななやみます。自分には、見えないのに、本当のことを言う勇気がありません。みんなうそをいうので、王さまも、うそでおしとおして、ついにはだかでパレードをすることになってしまいました。
本当のことが言えたのは、子供だけでした。―――T君(小3)
―――この物語は、人間の弱さ、見栄っ張りなところを、とてもうまく、愉快に表現していると思いました。
将軍や閣下、そして王様までもが、自分の見栄のために、にせ織物師にいっぱい食わされてしまいます。この織物師たちは、悪知恵と勇気があって、とんでもない詐欺をしたのですが、言い換えると、表面ばかりにとらわれている、国の偉い方を批判しているのだと思います。なんとなくこの物語の心が分かった気がします。―――S君(中3)
みなさま あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
|
|
|
|
|
私が物語の題名を借りて、少しずつ綴っているのは、ラボ・ルームの隅に無造作に押し込まれている、ラボっ子の作品などを整理するのがひとつの目的である。そのまま処分してしまっては、いかにも心寂しい。だいぶ整理できたが・・・・。
こんな感想文が出てきた。
―――おじいさんとヴァーノン・ロウさんとは、若いときの親しい友人同士。この話の中には、長い長い時の流れがある。過去の流れの中には、おじいさんたちの心の通い合った友情。現在は、ここで、若い青年、健児とウイリアムがおじいさんたちについて話している。未来には・・・きっと、僕たちもおじいさんたちのように、離れていても、お互いを忘れることはないだろう。
私もこうした友情の輪を大切に広げたい。―――Y子(高2)
―――この話は、余り聞かれていないかもしれないが、聞いてみるといい話だ。舞台は日本で、イギリスの青年と、日本の老人のお話。ウイリアムと健児が、バーで話し合っていて、その回想シーンで、おじいさんが出てくる。今までやったテーマ活動と違って盛り上がるところがない。全部単調だけれど、ほのぼのとした感じがする。「西遊記」などは、音楽でその場面が分かるが、これはそうはいかない。
たぶん、友人の大事さや、心の日時計は誰にもあるもの、ということを分からせる話だと思う。日時計は、老人と、その友人との思い出の品。現実的な日時計と、幻想的な日時計があると思った。本当の時間と、久しぶりに会ったときのおじいさんの心の時間とは、まったく別のものだと思う。その心の時間を日時計が表していると思う。
僕にとって本当の友達とは・・・・?ただ、一緒に楽しくふざけている友達、クラスメイト、ラボっ子、いろんな友達がいるけど。・・・自分に対する本当の友達を見つけたい気がする。――いや、もう、すぐそばにいるかも。―――T君(高2)
物語を媒介に、私はすぐ過去の時間にひたり、当時の子供たちと気を交わすことが出来る。
* * * * * * * * * * * *
よく読んでくださって、ありがとうございます。今年もあとわずか。何かと忙しく、気ぜわしくなりました。しばらくは、お休みして、また来年よろしくお願いします。どうぞ、よいお年をお迎えください。
|
|
|
|
|
先日、小学校のボランティア「英語であそぼ」をやっていたとき、たくさん動物がいる絵本から、子供たちは勝手に動物の名前を英語で言い出した。今はもうどの子も普通の動物の英語は知っている。monkey, elephant,giraffe・・・と、どんどん拾っていたが・・・そのうち、これはなに?・・あざらし?いるかだよ。いるか?いるかって、なんだった?・・・という感じになって・・・「先生、いるかはなんていうの?」「う~ん・・」と私はすぐに出てこなくて、この「うみのがくたい」に確か「ふざけ好きのいるか」と出ていたな、と考えて、思い出して、「porpoise!」といった。「ふ~ん」と、みんな。そうしたら、隅っこのひとりが、「どるふぃんは?」という。私は「あ、そうだった」と思って、「あ、それも、いるか」と答えた。「どうちがうの?」ときた。「種類によって違うの」・・・・うちに帰って確かめた。鼻先の丸いものと、とがったもののやはり種類の違いでよかった。時々、ドキッとすることがおきる。
福音館のこどものともの中では、大きい子の気分で聞ける物語である。といっても、魚がたくさん出てきて、小さい子も楽しく表現できた。
テューター仲間で研修ともなれば、「これは鎮魂歌だよね」ということがまず頭にくる物語であるが、こどもは、まずは、三頭の鯨、それに次々出てくるたくさんの魚、それに楽器の演奏を楽しむ。魚の会話、楽器の演奏を心をこめてやるように出来れば、その子たちは、ひとりでにこの物語をよく理解しているんだと思った。
―――くじらや、さめや、いるかのがくたいがだしたおとが、だんだんきれいになって、いいおんがくになっていくところがすばらしかった。ふねののりくみいんも、さかなもみんななかよくなって、いいおとがでる。そして、うみもしずかになる。ぼくもひろいうみにいってみたい。―――H君(小1)
―――船の乗組員たちが、お礼に魚たちに楽器をあげるなんて、考えてもみなかった。夕日の美しい海、美しい音楽の聞こえる海、考えるだけで楽しい。何時までもいい音楽が流れて、魚たちを楽しませているだろうし、船で通る人たちも、長い苦しい事もある航海のなぐさめになるだろう。―――A君(小6)
―――船の楽隊の人たちは、くじらたちにいい音楽を聞かせてあげたから、あらしのとき、助けてくれたんだと思います。魚たちに大切な楽器をあげたけど、これは物語だからだと思います。船が沈没したりしたとき、人は花束を投げておまいりします。それと同じではないかと思います。魚たちの合奏も、本当はそんなに上手ではなかったと思います。心をこめた合奏は、きれいに聞こえたんだと思います。海は、何時あらしが起こるかわかりません。海が荒れないように、魚にも、海の神様にもお祈りする気持ちで、楽隊たちは演奏するのだと思います。―――T子(小6)
|
|
|
|
|
ひまわり、さかな、チューリップ、車や家のかたち、手の込んだものになると、ぐるんぱや男の子や女の子の顔などを刺繍したフェルトにラボっ子の名前を刺しこんだワッペンが、何枚か残っている。これは5周年くらいの発表会で、大きな白い布に(古シーツ)空色の家を描き、好きなところに自分のワッペンをつけてつくったタペストリーの名残である。小さい子から大きい子まで何回も楽しんだ物語だ。
そらいろのたね。このたねはやはり、「そらいろ」でなければならない。緑やピンク、白や黒、どんな色を想像してもだめだ。そらいろ、ほかの言い方をすれば、あお、みずいろ、空を映した海の色、さわやかな風の色、もりのいずみ、いのちのしみず、水の色。そらいろだから、めをだして、みんなのお城を作ってくれた。
夢を見れないいじわるっ子、きつね君、ゆうじと同じくらいの背のいじめっ子は、人の物をとりあげて、楽しんでいたけれど、やっぱりさびしい。みんなと仲良くすることを知らないから、またその楽しそうな家を取り上げる。あ~あ。
こどもたちは、ひよこにねこ、ぶたと繰り返しを楽しみながら、立派なお城で、楽しく歌を歌う。
―――きつねはばかだな。よくばったりして。ゆうじくんは、うんがいいよ。いえがばくはつするまえに、いえからでたからな。ぼくもそらいろのたねがほしい。うちのにわにまいて、りっぱにそだててみせるから。―――M君(小2)
―――ゆうじは、一番のたから物だといったくせに、とりかえっこしてしまって。でもきっと、そのたねからどんなものがはえてくるか、見たかったのだと思う。ゆうじは、つぎの朝、そらいろのまめつぶくらいの家がはえているのを見て、うれしかっただろう。ぼくもうれしかった。チューリップより小さい家がチューリップのほうが小さくなるんだ。え本を見ているとおもしろい。いえは、どんどん大きくなって、森中の動物や小鳥がすむようになった。そうしたら、きつねときたら、みんなをおいだしてしまって、一歩も近づけないようにしてしまった。ところがいえは、お日さまにぶつかって、かげもかたちもなくなってしまった。それは、神さまがくださった、ひとりじめの天ばつだと思う。これからはきつねも、おとなしくなるだろう。―――H君(小3)
―――私はこのお話が大好きです。小さな種から芽が出て、ぐんぐん大きくなっていくところを想像します。そらいろ、空からの贈り物、みんながよろこぶ家が出来るなんて、すてきです。みんなの夢はどんどんふくらみます。ところが、ひとりだけ、欲張りの気持ちを持っていたため、そらいろのうちは、なくなってしまいました。やっぱり夢だったのか。こわれない夢のうち、育てていきましょう。―――A子(大2)
|
|
|
|
|
たぶん、ぐりとぐらを知らない子はいないくらいよく読まれている本だと思う。幼稚園などでは、「ぐりとぐら」―――ぼくらのなまえは ぐりとぐら このよでいちばんすきなのは おりょうりすること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら・・・・が一番よく読まれるかもしれない。とにかくこのシリーズは、無邪気で明るく楽しい。小さいこどもたちは、動物、ぐりとぐらと同じ仲間になって遊ぶ。
私は12月の幼稚園ラボでは必ずこのぐりとぐらの物語をやった。おきゃくさまがサンタクロースだからでもある。新聞紙とかそこらにある紙で、くるくるっと足の形を切り抜いてたくさんバッグに入れていった。そして、right, left, right, left と楽しんだ。
大きくなると、この物語はテンポが遅く、物足りなさを感じるかもしれない。足あとを、「落とし穴だ」という実感も、むつかしかった。のねずみの目になってすべてを見ることだ。小さい子ほど、自然に自分をのねずみ(ぐりとぐら)に置き換えている。
こんな思いのある「ぐりとぐら」を先日、小学校のボランティア「えいごであそぼ」に持っていった。思わぬ面白いことが起こった。読み聞かせをしてから、CDをながした。そして例の「あしあと」を並べた。すると子供たちは、「なんやこれ」「おとしあなか」「わかった、あしあとだ」「なにのあしあと?」「きつねか?」「ちがう」「くまかなあ」「ちがう、もっと大きい」・・・とがやがややりだして、CDを無視。ところが大体物語りは、分かっていて、そのがやがやのまま、ほとんど最後まで、お話を進めてしまった。(ラボをやっている子は、一人もいない)われわれの言うテーマ活動とは、基本的に誰がやっても楽しいものなんだと思った。
―――とってもゆかいなおはなしです。二人は仲良しで、いつもおなじところにいるね。サンタさんがうちにきて、ケーキをやいてくれるなんて、いいな。ゆめみたい。すごく大きいケーキだったね。おともだちをみんなよんでたのしいクリスマスイブでした。―――C子(小1)
|
|
|