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「おどりトラ」が、ラボ・ライブラリーにはいると、「えっ、この本が?」という感じで、ラボルームの本棚にぎっしり詰まった福音館の「こどものとも」の中から、一冊を取り出すのだった。「おどりトラ」・・・読んだことがある本だ。こどものともは薄い本だから、場所をとらないが、その冊数の多さ、その内容の豊富さ、毎週来るラボっ子は、知らないうちにそれらをよく読んでいるのだった。
このひとつの物語が取り上げられることによって、「おばけのトッケビ、これも同じ人の本だ、とか、これも韓国のむかしばなしと書いてある、」 と韓国そしてアジアに興味を持ってくれるのがうれしい。
とらは黄色に黒のしまという観念にとらわれたものでなく、おどりトラに出てくるとらは、模様もいろいろ、白いトラは、いかにも、神聖、神から使わされたものという感じがする。これに刺激されて、みんなは、自分の好きないろんなトラの絵を描いたりした。
民族的な信仰のことなどは、十分に理解は出来ないが、テーマ活動では、おどりトラのおどりは、ふざけたものではない。神の使い、自分の力を超えたもの、恍惚の世界が動かすもの、という理解をしたと思う。
そのほか、日本にも掛け軸などに、トラの絵が多くあること、昔から日本でもそれらは魔よけの力を持つものとされていることなどにも興味を持った。また広辞苑の「虎」という項目にはなんと興味を引く言葉がたくさん載っていることか。
それほど「虎」は、昔から身近に感じられているものなのだ。
―――なぜ、おどりとらがおどると、いいことがおきるんだろう。おどりとらは、じんじゃにある、石でつくってある「あれ」とおなじじゃないかなあ。あれが、おどりとらだとおもうんだけど。
とらは、にんげんをたべるとらと、人げんの心がわかるとらといるんだとおもう。おどりとらは、こまっている人をたすけて、きこりも、おどりとらにたすけられた。―――A子(小1)
―――ぼくは、「長靴をはいた猫」を思い出した、。ながぐつをはいて、超能力をもった。おどりとらは、着物を着て、超人的、(とらだけど)力をもらって、それをおどりでみんなに分け与えた。山には山の神が住んでいるから、山に住むトラはいろんな力を持っていても不思議ではないと思う。山の神の象徴だと思う。―――T君(中2)
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権力者は、どこでも、いつの世でも横暴でわがまま、庶民は苦しめられ、容易に抵抗できず堪えねばならない。何とかしたい、こうありたいという願いが、このような物語を生むのだろう。9人もの奇想天外な兄弟が、次々と出される陰謀に立ち向かい、ずばずばと権力者をへこましていく。こんな話を面白がらない子供はいない。このように楽天的で、たくましくありたいものだ。
「九」は、中国では「吉」の数字。九龍、九本の柱など、紫禁城には今も残る。9人もは育てられない、これは神の力、不思議な力によって授けられたものだからひとり育つ。育った9人の兄弟、オモクナイ、ハラヘッタ、クイタクナイ、イタクナイ、ヒトマタギ、アツクナイ、サムクナイ、キラレナイ、オボレナイの名前がつけられたのは、テーマ活動にとってやりやすい。9人の兄弟にはそれぞれ人気があり、みんながやりたがる役。王様には余り人気がなく、脇役のように扱われるが、この王様が難しい。王様が話をリードするのだ。だんだん興奮していく様をしっかりと表現しないとうまくいかない。
これによく似た物語で、The Five Chinese Brothers (By Claire Huchet Bishop and Kurt Wiese )という本は、英語がやさしく、まったく同じような話なので、興味を持って子供たちがよく読んだ。この五人の兄弟は、・・・they all looked exactly alike, といい
The First Chinese Brother could swallow the sea.
The Second Chinese Brother had an iron neck.
The Third Chinese Brother could stretch and stretch and stretch his legs.
The Fourth Chinese Brother could not be burned. And
The Fifth Chinese Brother could hold his breath indefinitely.
というように書かれている。昔話らしく絵もとてもよく、いい絵本だ。
―――9人も兄弟があったら、にぎやかでたのしいだろうとおもいます。神様にもらったこどもだから、すごいちからをもっています。きてれつ六ゆうしみたいだと思いました。でも六ゆうしよりもすごいと思います。わたしの一ばんなれたらいいなおもうやつは、おぼれないです。―――K君(小2)
―――せっかくりゅうの柱をもとどうりにしてくれたのに、王様はそいつに天下をとられると思い、ほうびのことなんか頭になくて、そいつを殺すことばかり考えた。9人の兄弟はそれぞれとくちょうがあって、そのとくちょうが、ぜんぶ王様のいうことにあうので、おもしろいと思った。名前は、Neverがつくのと、つかないのがある。オモクナイヤサムクナイのようにナイのつくのはNeverがついて、ヒトマタギやハラヘッタなどは、ナイがつかないのでNeverがつかないと思った。
9人の兄弟のとくちょうは、ぜんぶ普通の人の出来ないことばかりだ。ほんとうにそうだといいなあと思うことが、お話だとできてしまう。―――T君(小4)
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私は、トルストイといえば「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」など、長編小説の作家で、その他のことは、ほとんど知らなかった。ラボのこのシリーズの中に、昔話だけでなく、トルストイのこの作品が入ったことは、トルストイに近づけただけでなく、このCDに何倍もの価値を与えていると思う。
トルストイが貴族生活を遠ざけ、ルバーシカを着て働き、農奴の子供たちのために学校を作ったりする。「教育は、締め付けたり、管理することではない。もっと自由に、伸びやかに行われなければならない。」といっていると聞くと、ラボ・テューターとしては元気が出てしまう。
一握りの貴族と、大多数の民衆、ロシアという国の近代化は非常に遅れていた。現在に至るまで、自由にものを発表できない苦しい状態が続いている。少しでもこうした背景を知ると、この物語の涙の意味も分かるのだろう。
作男のエメリアンが、アンナの魔法の力を借りて、皇帝の権力に打ち勝つ。現実には難しいことだけれども、それが民衆の夢であり願望であるのだ。長い間の大勢の人間の苦悩と涙が、一人の老婆の涙で代表されているようだ。太鼓は中身は空っぽ。音は大きく響いても、中身がない。権力なんて何だ。みんな同じではないか。「これはうちこわして、河に投げこんでしまわなければならないのです。」・・・・兵士たちは四方八方に散っていってしまった。・・・なんとも気持ちがいい。
―――しごとをやらせるこうていは、ぼくはきらいだ。エメリヤンはすごい。何でもできてしまう。ぼくも、あんなふしぎなちからがほしい。おばあさんはなんでもしっている。こうていよりえらい。こうていはほんとうはえらくない。たいこの中にこうていのような、わるいこころをつめてたたきわったのだ。―――M君(小1)
―――最も不思議なのは、アンナのおばあさんである。おばあさんは、何もかも分かっていたことと、それでアンナを取り戻せるといったこと、おばあさんの涙が乾くであろうといったことが、不思議でたまらなかった。こういうお話の中で、一人すべてを知っている老婆などが出てくるのは、よくあることだが「涙が乾く」というのが不思議でたまらなかった。何回も聞いて、やっと権力のあるものを打ち負かすことが出来れば、弱い小さいものが苦しまないですむようになる、ということだろうかと思うようになった。―――A子(高2)
―――この物語は、多くの疑問が浮かんだ。考えれば考えるほど深みを感じる。作者がトルストイであるから何か訴えたいことがあり、それがアンナや太鼓になって出てきたのだと思って考えた。
エメリヤンがふみそこねたカエル。これがアンナだと思うのだが、どうしてアンナはエメリヤンと結婚したのか。私はアンナが、皇帝に思い知らせるためにエメリヤンを利用したように思えてならない。しかし一方、エメリヤンのやさしさ、一生懸命さが好きになり、純粋に愛するようになったと思える。すべてを魔法の力としてしまっていいのだろうかとも思うが、力のないものが、権力をつぶすには、超自然の力が必要だ。「いよいよときがきたようだ」。おばあさんが渡した糸玉にも意味がありそうだ。糸つむぎは時間がかかる。長い苦悩と努力の時間の象徴なのだろうか。長い長い間の苦労、おおぜいの人々の涙を、おばあさんは知っている。一人の男が打ち鳴らす太鼓。その太鼓の音は、強制されないで人を動かす。人々は権力から逃れ、太鼓の音で救われた。―――Y子(大2)
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私は昔話のおばあさんではないけれど、それこそ針と糸が友達。毎日何かを作っている。そんな私はラボ物語についてもいろんな創造物を子供と一緒に作った。バーバ・ヤガーについては、タペストリーが残っている。すべて古ネクタイを切ってパッチワークしたもの。その鶏の足の上にのった小屋と別に箒を持ったヤガーばあさんを作ったので、子供たちは自由に動かして遊んだ。
こんなものがあるのと、私のなかには、ヤガーばあさんといえば、ホッレおばさんや西欧の魔女と同じようなイメージがあるのか、ハロウィーン頃になるとこの物語や関連の絵本や飾り物を身近に持ってくるのだった。
マーシャは困難を予想される森の中へ入っていく。途中、偶然見つけて拾うものがすべて自分を助けてくれるものとなる。異境に入って試練を勝ち抜くには、身を護る呪物の力を借りなければならない。マーシャは、風呂の水汲み、機織、女子の務めを経験し成長して帰る。
ルバーシカをつくろうための針と糸、プラトーク、サラファンそして最後にはマロースなどロシア独特の言葉が出てきてたのしい。
―――この話は暗い話だけれど好きです。何回も聞いていると、暗いと思えなくなり、マーシャがつかまりそうになったときも、あまりこわく感じません。マーシャはいつもやさしい子です。ねずみにパンを全部あげてしまいます。自分がつらいめにあっていても、人をうらまず、親切に出来るなんて、感心します。
タオルを投げつけると川になったり、くしをなげつけると、森になるところは、国生みを思い出しました。いろいろなことを考えて聞ける物語です。―――Y子(小4)
―――つぎつぎにマーシャを助けてくれるものがあらわれ、リズムがあるので、引き込まれてしまう。はたを織るとか、プラトークとか、出てくるものが女の子に関係したものが多いので、男の子が余り好きにならないようです。わたしは、まま母の役をやっていると、時々、そんな私がこわいような感じがします。あのマーシャのこきつかいかた、いじわる。ああ、こわいこと、こわいこと。―――M子(小6)
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まず絵本。スズキ コージさんの絵本は、今はたくさん出ている。たぶんこのラボの「わらじをひろったきつね]の絵を描かれた頃は、ユニークな新進イラストレーターといわれていただろう。私もこの人の絵は好き。音楽が聞こえてくるような画面。明るい色使い、はっきりとした表現、ダイナミックなところがあるのに、全体としてやさしさがある。木の実や、花、服の刺繍など細かいところにも行き届いている。
このテーマ活動は何回もやったし、よく楽しんだ。絵と同じ感じのバークサンダル(藤で編んだもの)、めんどりとがちょうのぬいぐるみも、十分遊んだ跡を残している。 Knock, knock, knock. Who’s there? は、小さい子達の大好きなところ。遊んでいても出る英語だ。
これはなんと言ってもリズムがよく、テンポの速い物語だと思う。そう思って、当時、ロシア語でよく聞いて、言葉は分からないのに、その韻を踏んだ言葉の美しさ、ごろの面白さ、リズムの気持ちよさを楽しんだことを思い出し、最近はCDになってそれが省かれたことにはじめて気がついた。(ラボ・テープを聴くことの出来る方はAUXチャンネルにはいっています)
ロシアではこのような小噺的昔話は、会話の部分にその魅力があるという。そして語り手はその会話の部分をもっとも大切にするという。何かのきっかけですぐ昔話が出るという。・・・[飲み屋などでみんなが、がやがや言い争っている。「かみさまはちゃんといるんだ」と誰かが怒鳴る。すると一人が「うそをつけ、このやろう」と言い返して、その証拠にと昔話をする。最後にはみんな「なるほど、神様なんていないのだ」ということになる。するとほかの一人が逆に「馬鹿なこと言うんじゃない」と怒鳴り返して、神様の話を聞かせてやることになる。つまり他人をやり込めるときにも昔話が出る。](中村善和・ロシア昔話についてより)・・・昔話が生活の中に生きている。
―――きつねは、わらじをひろってから、お百姓さんの家に行って、めんどりにかえたり、がちょうにかえたりした。でも、その欲が、三番目のお百姓さんの家に行って最高になり、むすめがほしいと言い出した。とんでもない!だから、最後には犬に食べられることになってしまった。 ばちがあたった、と思った。なんでも調子がいいと、欲を出しすぎてしまい、悪いことにつながる、と思った。―――Y子(小6)
―――わらじをひろってから、どんどん人をだましてどんどん自信がついてしまった。だますこともきつねのちえだ。面白いと思う。三回の繰り返しで、調子が変わる。みみやみみ、あしやあし、めだまやめだまといった後、自分のものであるのに、邪魔者に思っていた、しっぽに聞いた。そして犬に食われることに。あっという間に終わる、おわりかたがむつかしい。―――K君(中1)
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グリムの昔話に続いてロシアの昔話。ロシアのグリムといわれる、アファナーシェフ(民俗学者)の[ロシア民話集]にこれらは収められていて、岩波文庫の中村善和編訳の本など、私の赤ペンの後が懐かしい。新刊が出てしばらくすると、丁寧な資料集が出されるので、それを読めば必要な知識も得られるが、当時は、物語の周辺の関係書をいろいろ読んだものである。
ロシア昔話では、語りはじめと語りおさめの決まり文句が特に発達しているといわれる。「まほうの馬 シフカ・ブールカ」でも、簡単ではあるが、「むかし、むかし、わたしの口ひげがまだこんなに白くなかったころ。」と語り手の語りで始まり、物語の進行にしたがって、自然に意識されなくなり(テーマ活動では特にそうだが)また最後のところで、「わたしもその席でビールや蜜酒をごちそうになりましたが、みんな口ひげをつたってながれてしまい、口にはちっとも入りませんでした。」と終わっている。
語りおさめは面白おかしく、聴衆の心を現実の世界に戻し、韻をふんだ早口言葉で、昔話から語り手へと相手の注意を移すのだ。ほかにも、
ビールも飲まずワインをかもすでもない。
二人は婚礼をすませて、仲良く暮らしはじめた。
わたしは客に招かれ、ごちそうにあずかった。
だが、酒は唇をぬらすだけ、一滴も口には入らなかった。・・・などというのもある。
言い換えれば、語り手は、口が渇いていて、飲み物を催促しているのである。時にはもっと露骨に、「これで話はおしまい。ところで、ウォッカを一杯ひっかけたいものじゃ」などというのもあるらしい。
昔話をして、酒を飲み交わす、この部分だけはのんびりとした世界だ。しかしそうでない現実から、より幸せな暮らしを願って、夢や、祈りをこめて語り継がれたのがこうした昔話だろう。決して強く、能力に恵まれたものではない、むしろバカと呼ばれるような人間、または継母の下でつらい境遇に耐えるこどもが、魔法の力を借りて、人の出来ないようなことを成し遂げたり、幸せをつかむ。人々は夢を膨らませ、活力を得たのだろう。
―――みんなにバカにされていたけれど、イワンは、心がすなおで、やさしい。そのやさしさが、おとうさんにつたわった。まほうの馬をもらって、だれもできないことができてしまった。イワンもほんとうにエレーナひめとけっこんできて、びっくりだ。イワンはいつもふざけているようだったけれど、きっと、ゆめをもっていたと思う。だから、りっぱなおうじさまになれた。―――T君(小3)
―――墓に行って夜とぎをするのではなく、「畑を荒らすものがいる。それを見張りにいくが、兄二人は、夜中に干草の上で眠ってしまい、まじめに見張りをしなかった。イワンのバカは、まじめに見張りをして、火を吹いて畑を荒らしにきた馬を捕らえた。すると馬が助けてくれたらあなたのために何でもすると約束する。」という出だしの話もある。
シフカ・ブールカと呼んで、右の耳から、左の耳へ、出る。これだけのことをするだけで、立派な若者に代わるのが面白い。しかも、一度では成功しない。三回の繰り返しで、やっと成功するところが、昔話らしい。安心して聞いていられる。―――K君(中3)
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この物語はみんなが面白い、大好きという。「きてれつ六勇士」に出会う前に、グリム童話「六人男、世界をのして歩く」を読んでもそうはならなかったと思う。兵隊、力持ち、猟師、鼻息男、イダ天野郎、帽子男、と名前で性格も分かるし、絵本でその特徴がさらに強調され、小さい子も、この六人のキャラクターの絵を喜んで何回もノートに描いてくる。何回も面白がって絵を描いたり、物語を聞いたりするので、イメージが深められる。
グリム童話も本当にバラエティに富んでいる。人間が昔からどんなことを考えて生きてきたかがよくわかるような気がする。自分たちの力のおよばないことに対して、神の力を信じたり、すべてのものに心を感じたり、魔法の力を感じたり、すべて知識で解決できるわけでなく、畏敬の念、謙虚の気持ちが生きている。昔話も、古いわけでなく、現代のわれわれの感情と変わらないと思われる。
きてれつ六勇士は、動物も出てこない、魔法メルヘンとも少し違い、自分たちの力を持って権力に打ち勝った。人間の歴史は何時の時代も戦いの歴史。除隊した兵隊が登場する物語も少なくない。
―――ぼくが気に入っている話は、きてれつ六ゆうしだ。かっこいい音楽が出てくるから好きだ。へいたいがもらったほうびは、びんぼうくさいものばかりだ。でも兵隊は、5人もなかまをつくり、すごいやつばかり。へいたいはみんなをまとめるちからがある。ほんとうは、へいたいが一ばんえらいと思う。王様がむずかしいことを言うけれど、六人のとくいわざで、さいごには、たくさんのきんかをもっていってしまうのがおもしろい。―――K君(小3)
―――ストーリーも面白いけれど、ストーリーよりもむしろキャラクターが好きだ。この六人の勇士は一人ひとりがすごい特徴、すごい能力を持っていてその個性を生かしたストーリーが面白い。話のテンポが早いので、それだけインパクトがある。
僕がこの話が特に気に入っているのは、一人ひとりのキャラクターをダイレクトに絵にしているところだ。その特徴を一人にまとめると立派な超能力人間が出来る。兵隊はそんな人間なのだ。そんな力を持ちたいなというみんなの願望だと思う。ビンのふたやびょうにたとえられた騎兵が痛快である。―――H君(高1)
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「いさましいちびっこのしたてやさん」とか、「ゆうかんな仕立て屋さん」として、完訳にはのっている。
小気味よい明るく楽しい物語だ。ジャムのにおいによってきたハエを、たたいたら、7匹死んだ。それだけのことで、自分をたくましいたいしたものと、思い込むのも、それこそたいしたものだ。「ひとうちななつ」を、ハエとは思わず、人間を7人だと思って、恐れおののくやつたちもこっけいである。
チビの仕立て屋が、力も富みもかなわぬ相手を次々と知恵を使ってやっつけていく、その様を気持ちよく語るには、口調も軽やかに躍動的でありたい。ラボ・ライブラリーの語りはそれが十分に考えられていると思う。軽やかに、仕立て屋の足取り、しぐさが分かるようで、テーマ活動もすっちきりとやりたくなる。
ラボ・ライブラリーの再話は、終わりの部分が他とは違う。仕立て屋は王様にはならず、断る。しょせんおれは仕立て屋。といって終わるのはスカッとしてよい。これが「お姫様をもらって、夢を見て・・・・云々」となっていたら、テーマ活動ももたもたしてしまう。
―――ぼくはポケットがいっぱいあったほうがいい。それは、寒いときには、手を入れてあたためられる。遊んでいて、いいもの見つけたらひろってポケットに入れる・・・石でもガラスでもシールでも。ポケットから出すときが楽しい。
したてやはポケットにチーズと小鳥を入れていたから、巨人に勝てた。それがなかったら、巨人にも勝てなかった。勝てなかったら、その後の成功もないから、やっぱりポケットがあったから大成功したんだ。―――S君(小4)
―――ぼくは、はじめ「ひとうちななつ」は、なにのことか、わかりませんでした。ぼくは、ひとうちななつはつよいので、ひとうちななつみたいになりたです。―――T君(小1)
―――この話は、とにかく面白い。すべてが仕立て屋の成功につきる。自分のひとうちで、ハエを7匹、というまぐれかもしれないこの出来事に、自信を持ち、世界を相手にしてやると意気込んだ。その大きな夢のおかげで、ぶつかる大きな壁を知恵を使って労せずして見事やっつける。そうして幸せに・・・ということかと思ったら、自分からその自分に合わないような権利は断ったのだ。自分の自信を失わず、あくまで仕立て屋、この誇り高き仕立て屋は本当にえらい!最後に僕の一番好きなフレーズがこれ。
Beware of what the scissors tell;
When you’re snipped, you ‘ll part and yell!
Beware of what the needles say;
Once you’re stuck, you’re there to stay!―――T君(中2)
{小1のT君と中2のT君とは同一人物。成長のあとが面白い。}
―――全体に詩のような感じがする。表現がとても面白くて好きです。平凡な仕立て屋がハエを7ひき殺したことで旅に出ます。「ひとうちななつ」という意味を人々がまちがえて、仕立て屋が有名になっていく。そして王様の難問も頭を使って片付けた。でも仕立て屋は王様のその気でない約束を、自分から断って、ポケットのたくさんついている服を作る仕立て屋に戻ったのです。
世界一強い、ひ・と・う・ち・な・な・つ! 思いっきり活躍して、静かに去る。かっこいい。面白くてジーンと来る物語です。―――H子(中1)
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孫がうちに遊びに来ると、ラボ・ルームに残っている本を、時間のある限り読んでいる。夏休み、石井桃子さんの「ホレおばさん」を読んで、感想文を書き、学校へ出すんだといって持っていった。
―――わたしはさいごに、金の雨がふってきたところが、きにいりました。なぜ金の雨がふったかというと、はたらきもののむすめだったからです。
パンを出したり、りんごの木をゆすったり、やさしくしてあげました。ホレおばさんのうちでは、ホレおばさんのいうことをよくきいて、よくはたらきました。
いとまきがいどにおちたから、むすめはいどにとびこんだんだけれど、ホレおばさんのところへくることができたのは、いとまきのおかげです。いとまきも、いいむすめだと、知っていたのだと思います。わたしは、このむすめがいいな、と思いました。―――(小学2年)(このあと、ラボのは、なまえがあるけど、これはなまえがない!学校へはこっちを出す。 といっていた)
ホッレおばさんについては、相沢博の「メルヘンの世界」に「善と悪、美と醜の対照」という項目にとりあげられている。
マルガレーテとローザ、このラボの命名は、純白とにごった赤をイメージさせる。その二人は、まさに対照的。よく働き、心の優しいマルガレーテ、怠け者で、心の醜いローザ、それを象徴的にあらわす、最後の報酬、金の雨、純金と、真っ黒で、べとべとしたピッチ。ヒロインは幸福をつかむ。
これらは眼に見えぬ運命に導かれている。マルガレーテの日常から、非日常の世界に導いてくれたのは、糸巻きである。パンとりんごは、苦しむものに対して、彼女の心根を試している。このあたりも、ホッレおばさんが采配を振るっている。
テーマ活動で、この糸巻きの大切さを感じた子の発言が、その場の雰囲気と緊張を一気に高め、高尚なテーマ活動としてまとまっていったのを覚えている。
―――マルガレーテはいい子だと思った。まま母のいうことを、いやともいわず、「はい、おかあさん」といって、ちゃんと仕事するんだから。井戸の中の世界にはいあってからも、パンやりんごや、食べ物を目の前にしても、食べないでやさしくしてあげるんだから、わたしは、この物語が好きです。シンデレラににていて、いじわるな姉には、ばつをあたえるというので、気持ちがスキッとする。
ホッレおばさんの世界は、不思議な世界だけれど、何にでも心が入っている、はねまくらや、はねぶとんをよくふって雪をふらせ「いまごろ、森も野原も真っ白になるんだわ」なんていえる世界、いいなあ、と思いました。この世には、いろいろなことがあるけれど、つらいときでも一生懸命心をつくしていたら、誰かが手をさしのべて、幸せにしてくれるとも、思えました。―――H子(中3)
―――ぼくは、りんごとおんどりをやりました。おんどりは、「きんぴかおじょうさんのおかえりだよう」といったり、「べたっくろおじょうさん」といったり、さいばんかんか、かみさまみたいだとおもいました。ちゃんとよく見ている人が、いるのだと思います。―――T君(小1)
―――わたしは、「糸まき」のやくをやりました。糸まきはこのお話ではなくてはならないもの、とても大切なものだと思います。「あの糸まきは、ホッレおばさんの使いだと思います。毎年、冬に、ホッレおばさんの仕事を手伝うむすめを一人さがすというホッレおばさんの命令で、マルガレーテのところにいって、井戸に飛びこませ、夏のパン、秋のりんごなどで、どれだけやさしく、はたらきものかをためして、マルガレーテよりひとあし先にホッレおばさんのいえにいって、どういうむすめかをしらせていた」と思ったからです。これはわたしが考えたホッレおばさんと、糸まきの関係です。―――Y子(小5)
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How many leaves are there on a tree? テン! アハンドレッ! アサウズアンッ!と子供たちは元気にテーマ活動に興じた。これはテーマ活動を念頭において再話した、再話者の物語だから。・・・・勿論グリムのオオカミと七ひきの子ヤギには名前はない。一ぴきはテーブルの下に、二ひきめはベッドの下に・・・というかきかた。再話者の話を聞きたいものであるが、・・・・再話者の書かれた文章の中から、考えてみる。
小やぎたちは、なぜ七匹なのだろう。おおかみは七をみんなのみこもうとした。けれども六しかのみこめなかった。のこる一が母親と協力して六を助け出した。七はまたもとにもどった。おおかみが再びやってきても同じことが繰りかえされるだろう。とすればこの七は、ただひとまとめの七ではなく、六と一なのだ。なにか身近にこんな七がある気がする。一週間だ。するとピイプは日曜日か。再話者のつけた大きい順に、コリル(月)、コリーヌ(火)・・・と曜日が始まって、・・・おおかみはつぎつぎと土曜日までは飲み込めたけれど、日曜日、神の安息日まではのみこめなかった。(という考え方もある)
ピイプというのは実にかわいい。音の響きがいいし、peepという時計の中から「のぞく」というイメージにもつながる。ピイプは時計、時間の城に隠れた。時計は現在を未来へ進める力だ。時計に隠れたことで、ピイプは、時計と一体になり、そこから這い出したピイプにも、未来を切り開く力が備わったと考えられる。
再生した小やぎたちは、新しく始まる一週間を意味する。この堂々めぐりする時間は、おおかみと時計、過去へ引きずり込む力と、未来へ駆け出す力とのせめぎあいなのか。
メルヘンでは、おおかみは危険な動物の代表である。世の中の悪のシンボルである。幼いものに、用心して悪を避けることを教えている。
―――わたしのよんだオオカミと七ひきの小やぎは名前がありません。でも名前があると、性格が分かるみたいで、遊んでいても楽しいです。お母さんは森へ行ってなにをとってきたでしょう。 だいたいそうぞうできます。きのこ、くるみ、そのほかいろんな木の実でしょう。いいくらしをしています。おおかみもけっこうかしこいなあと、思いました。「イッツマザー イッツミー」といっていろいろ工夫するところが好きです。でも最後には、「ごろごろがったんこりゃまたへんだ」などといって、井戸に落ちてしまうなんて間がぬけています。―――H子(小4)
―――絵を見た瞬間、やぎが目玉焼きに見えてしまった。いや、これはおかしいが、抽象画はそれぞれ自分の考えで楽しめる。イメージが固定されないからいい。おおかみが何が何でも食ってやろうといろんな手を使ってくるのが面白い。でもおなかを切られて、石まで入れられてもしらずに、ずいぶんのんきなところがある。この話は、はじめのほうは創作っぽいと思ったけれど、やっぱし昔話だなあと思った。―――M君(高2)
―――今、テーマ活動で取り組んでいる「おおかみと七ひきの小やぎ」は、とてもはらはらする物語です。おおかみの声にこやぎたちが耳をすましたり、お母さんの帰りをいまかいまかとまちつづける・・・。そんなところをみんなは、オオカミの顔を見て、ニコニコ笑ってしゃべっています。本当は、顔は見えないし、もっとこわいのです。その小やぎたちを食べようと思っているオオカミも、小やぎたちは見えないけれど何とかして食べてやろうと必死です。もっと真剣にならないとおもしろくありません。わたしは、このきんちょうするところがすきです。―――M子(小6)
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