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ラボ・ライブラリーで私たちが共有している「かえると金のまり」は、グリムの「家庭童話集」では、「かえるの王、別名、鉄のハインリヒ」などと訳されているものの再話である。しかも冒頭に収められた物語である。だからそれだけの意義のある物語であり、意識して最初の物語として収められたのだろうと思う。完訳グリム童話集によると、「むかしむかしのおお昔、まだ人のねがいごとがなんでもかなったころのこと、・・・・・」(金田鬼一訳)と始まっている。この出だしはあとのすべてに付けていい言葉であろう。
「かえると金のまり」の表現はまさにラボの再話者のセンスと意図によるものだが、グリム童話のはじまりをさわやかに飾り、祝福する気持ちが「ばらのかおりはそのにみち・・・」となったのだろうと私は思う。
りすについていって、泉を見つける。そこからもう姫の運命が操られていく。泉の精、かえるは、姫の分身、大切している金のまりを口にくわえて浮いてくる。すでに姫と王子は結ばれることになっている。
まり遊びに興じていたあどけない姫、醜いかえるを嫌って指でつまみあげていた姫、余りのかえるのあつかましさに、力まかせに壁にぶつける。しかしそれが王子の魔法を解くことになり、めでたしめでたしとなる。
そのあと、接木のように、ハインリヒの話がくっついている。これがこの物語の特徴であるとも思う。「いつもかわらぬ心で王子につかえてきたハインリヒが立ったままおともをしていました。」この忠臣ハインリヒの大変な喜びを、その内面的なものを、目に見えるものにした、それが、鉄のたがのはじける音である。それこそ、おめでとう!おめでとう!と歓喜あふれる表現がいいのではないだろうか。
―――わたしは、何度もこのお話を聞いています。だから、かえるは王子様だと分かっていても、「気持ち悪い! なんてあつかましい!」と思ってしまいます。「りす」と「風」と「金のまり」が、お姫さまと、王子さまをみちびいたかぎだと思います。わたしはこのお話が好きです。―――A子(小6)
―――「かえると金のまり」は、僕の好きな話のひとつです。その理由は二つ。
まず一つ目は、そのストーリー・パターンが、普通のものとすこし違うということです。普通なら、約束を簡単に破ってもいいと思うような姫、かえるに優しくしない姫は、un-happyになるのに、この物語は、そこが違う。その部分に何か現実的なものを感じてしまうからです。
二つ目は、最初と最後の四行の詩です。この四行がとても気になってたまりません。何を意味しているのか。そのなんともいえない神秘的なところが大好きです。このテーマ活動では、最後の場面、喜びにあふれた、馬車の場面が印象に残っています。―――S君(中3)
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ラボ・ライブラリーのタイトルが白雪姫だから、小さい女の子は、「しらゆきひめがほしい」といって購入する。「ヘンゼルとグレーテル」は、小さい子には「かわいそう、でも・・・・」と複雑に深く入り込む物語であるらしい。絵に描くと、ほとんどの子が、お菓子の家のところを描いた。この部分は、親から離され、自立を迫られる子どもがほっと、母親の胸のにおいを感じるところなのだろう。
パン一切れしかない貧しさ、ひもじさ、子捨て、など、現代では実感できないが、歴史的には意味があることらしい。中世のヨーロッパでは、子供は7歳になると「小さな大人」として扱われ、経済的な自立も促される。農村では農作業を手伝ったり、町では、他家に見習いに出るとか、領主や主人の家で雑用をするとかした。日本でもやはり昔は、7歳といえば子守をしたり、もっとどの家でも仕事があった。いずれにしろ、自立ということが考えられた。
また、ヨーロッパでは、飢饉のためとか、何らかの理由で、子供を育てられない人が、子を捨てる風習があったといわれる。堕胎や、中絶、子殺しをするのでなく、生んでから捨てるということだったらしい。運のいい子は拾われて、育てられる。
そう考えると、ヘンゼルとグレーテルは、厳しい現実にあって、自立をせまられ、目の前の困難をくぐり抜け、最後には、グレーテルなどもすごく成長している。そして自分たちの手で未来を勝ち取る。
ヘンゼルは泣きじゃくるグレーテルを励まして、小石を拾いに出る。いかにも小さい女の子を護ろうとする男の子らしい利発さを出している。でも私は単純に石が光って道が分かったとは思えない。月夜であること、それほど簡単に断ち切れない親子の思い、家に導く力が働いていたとしか思えない。それに反し、2度目は、ヘンゼル自身、パンくずで、家に帰れるとは思っていなかったと思う。親たちの状況も分かっていて、あきらめもあり、神様の助け、何かの助けへの願いがあったと思う。
森に迷い込んで、もうどうにもならなくなったとき、現れたのが、「お菓子の家」。この魔法の家は、二人を助ける。二人は食べ物にありつけたし、ベッドにも寝た。しばし、幼きときのよき母性の中にいることができた。しかし、男の子は大事に囲われ、女の子は厳しく働かされ、別の母親像が現れる。そんな中で、グレーテルは、立派に母親を乗り越えて成長する。
先日、熊野古道を歩く機会を得た。今、里山に熊が出没するニュースを毎日聞くけれど、熊野の道は、いのししに荒らされていた。昔は山は人間の暮らしにとって、宝の宝庫。と話し、話し歩いていた。
ドイツの森は、それこそ私たちには想像できない深い深い森。樹海だと思う。しかも人間の生命の源、特別の感覚を持って扱われていると思う。特に白雪姫でも、このヘンゼルとグレーテルでも、怖い森であると同時に、畏敬の念を抱かせ、生命、人間のすべてを包み込む宇宙的なものを感じる。
「石」も大切な鍵を握る存在だと思う。家に戻るときの小石、岩みたいに年をとったおばあさん。最後に、二人がポケットに詰め込んだ宝石、これは、今の身につけるジュエリーではなく、磨けば光る原石、山の宝物。すべて、命を救うものとなった。
―――親が子供を捨てる、そこまで考えなくてはならない貧乏とは、どんなものかと思います。帰る道が見つからなくて、お菓子の家にたどり着き、魔女の家で働いているとき、「こんなことになるならば、山の獣に食べられたほうがよかった」などと思ったりして、ヘンゼルとグレーテルは、本当につらい思いをしたと思います。
でも、何かにまもられていて、うちに帰りつくことが出来たのです。暗いお話のようで、ハッピーエンドです。―――Y子(中1)
―――まじょと、おかあさんは、いっしょじゃない?だってさあ、なんかしらん、そうおもうの。いしをおとしていってさあ、いえにかえれて、パンはみんなとりにたべられて、もりのなかでまよってしまったけど、さいごは、かんたんにかえれたんでしょ。だってさあ、これ、おかあさんといっしょだもん。ぼくは、そうおもうの。―――H君(小1)
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グリム童話。ラボ・ライブラリーの中のグリムは、白雪姫、ヘンゼルとグレーテル、かえると金のまり、ひとうちななつ、おおかみと七ひきのこやぎ、ホッレおばさん、きてれつ六勇士、そしてブレーメンの音楽隊がある。
グリムの物語をやるならば、やはりグリム童話について詳しくなりたいと、高大生は、グリム関係の本をよく読んだ。パーティでも、折にふれ、「(完訳)グリム童話」(小沢俊夫訳)を、よく読んだ。
グリム童話を知るには、1819年の第二版の序文がいい。小沢さんの訳で載っている。とにかくグリムについての本は、たくさん出ている。そのころ読んだ「メルヘンの世界」(相沢博)や、「メルヘンの深層」(森義信)などは、なつかしく、私の鉛筆のあとを見る。
白雪姫の絵本は、とても多い。図書館で、白雪姫絵本として借りたら、30冊以上あったことを覚えている。これくらいの本を、パーティに持ってきておくと、いやでも「白雪姫だ!」という気分で、テーマ活動も乗り気になる。また、白雪姫にかぎらず、絵本の読み比べは、とても面白い。いろいろ読んでいると、ひとりでに、いい本が分かってくるようにも思う。
白雪姫は、死んだと信じた后は、「森の中で七人の小人と暮らしている白雪姫はあなたより千倍も美しい]といわれれば、なんとしても!と思う気持ちになった。最初は飾り紐、次に、毒のくし、三度目に毒りんご。この三回の繰り返しが、ライブラリーでは、毒のくしが省略されているのが、私は困ったな、と思った。
毒りんごで白雪姫は死んでしまう。メルヘンの中の死は、いばら姫でも、百年もそのまま眠り続けるし、白雪姫も、生きた姿のままの死である。その美しさがより強調される。そして王子が現れて、生き返らせることになるけれど、その直接的な原因は、単なる偶然である。
最後の結末はやはり、勧善懲悪的に善人は幸福に、悪人は不幸にと、悪い王妃は、悲惨な死に方をする。あらゆるところに、対照的に、ヒロインの美しさや幸せを強調している。
このテーマ活動は、とても力の入った、忘れられない大きいステップとなったものだった。昔話の特徴を、丁寧に表現したし、言葉の意味を大切にしたこと、発想の転換によって、いきいきとした表現をうみだしたのだった。
―――グリム童話の話は、まったく日本の風景を漂わせてはいないのだが、小さい頃から、なぜかその辺にある話のように身近に感じていた。その中で、私は白雪姫が特に好きで、自分が白雪姫のような経験をしてみたいなあ、と思ったりもした。
私が小学校の3,4年の頃、このテーマ活動の発表をした。これまで何十とやったテーマ活動の中で、この白雪姫が一番好きだ。気取り、気位高いお后、愛らしい白雪姫、不気味な森、昔からお后が愛用した魔法の鏡、さらには、三滴の赤い血とか、白い雪、黒檀の窓枠、七つの山など、昔話の特徴にある原色の色や数まで、表現できたのだった。一番心に残っている表現は、白雪姫が森をさまようところで、私はこのとき森をやっていた。不気味さを出すように手を伸ばしたり、白雪姫をさそうように、木がささやきかけるようにしたりした。今もこのテーマ活動を自慢する。―――H子(高2)
―――白雪姫については、昔話の研究をしました。グリムについても調べました。ドイツだから、ドイツの森などについても調べました。そういうことがすごく楽しかったと思います。
森、お后、鏡、それから最初と最後の場面に力を入れました。白い雪、黒い窓枠を表現する発想がよかったと思います。だから三滴の血も表現できたのです。そんなものが表現できるかと思っていたのが、不思議と本当に赤く見えてくるのです。
この物語には、父親が出てきません。唯一の男性は猟師ですが、僕は猟師には父親の感情があると思いました。そして、鏡はお后にとっての男性だと思いました。この鏡を表現したときは、それこそ自分の指先までが、鏡になっている感じでした。―――K君(高2)
―――りんごをたべたために、しんでしまったしらゆきひめ。でも、すてきなおうじさまにめぐりあえて、よかったね。やっぱり、こころがうつくしく、やさしかったからかな。―――S子(6さい)
ディズニーランドではその雰囲気をみんなが楽しんでいるのだから、それはそれでいいのだけれど、ディズニーの「しらゆき姫と7人の小人」といえば、それはグリムとは違うといったほうがいいだろう。「子どもと本」の中で、山本まつよさんが「三種のメディアが変える白雪姫」(ケイ・ストーン)を訳している。素語り、印刷された文章、フィルムと、伝達の手段が変わることによって、物語がどのように変化するかをレポートしている。
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アイルランドの民話も面白いものがたくさんある。当時買った本で、「アイルランドの民話と伝説」(三宅忠明=大修館書店)もよく読んだ本のひとつだ。
ラボ・ライブラリーで言うと、このSK13は4つとも違う味のする物語だ。それぞれの特徴が楽しめる。
グリーシュは冷たい風が吹いたり、暖かい空気に包まれたり、荒涼たる荒地に立ったり、きらびやかな宮殿に入り込んだり、“UP and away!”とそれこそわれわれも一緒に巻き込んで連れて行ってくれる。
何しろ 妖精の出現というのは、面白い。妖精に興味を持つと、本当にのめりこんでしまう。パーティでも、のめりこんだ子が何人かいて、妖精博士といわれた者もいる。「Faeries フェアリー」(ブライアン・ブロード絵=アラン・リー文=山室静・訳)。少々高価な本だけれども、とても楽しい。愉快な絵や、グロテスクな絵、話、妖精の世界に親しみが持てる。 妖精は不可解な、魔的な力を現す。だから不気味だ。けれども興味のある世界だ。
―――私は、この話は何か神秘的な不思議な雰囲気を持っていて好きです。すごく深みのある話です。まじめに働いていてもお金がもうからない。けれども、そういうことを不満に思う弱い心が妖精にゆうわくされたんだと思います。すごいいきおいで荒々しくやってきた妖精たちは、いろんな魔法の力を持っていた。すきを馬にかえ、銀の粉で姿を見えなくした。姿が見えなくなったら、すごい。何でも出来る。次元の違う世界が出来てしまった。私はこの夢のようなところと、現実的なところとが一緒になっているのが面白いと思います。―――K子(小6)
―――その日その日の暮らしもつらいグリーシュの話、アイルランドのこの土地はこんなに貧しいのかと思った。その生活を頭の中で想像してみるが本当に分かるとはいえない。 月に話しかけるというのは本当にさみしさを感じる。
ある晩、妖精が現れる。この妖精は美しくなく、小悪魔みたいだ。妖精にもいろいろ性格があるんだと思った。妖精に「いっしょにくるか」といわれて、とまどうかと思えば、「いきます」といったのでびっくりした。何か夢を求め、冒険もしたかったのだろう。フランスまで行って国王の娘をさらうなんて、家を離れたこともないグリーシュにとっては、すごいことだった。でも純粋なグリーシュは、すぐ姫を自分が救おうと思う。それを知った妖精は、姫をおしにしてしまった。このまま終わったらどうなるかと思ったが、一年前と同じように現れた妖精の話していることから、薬草のことを知り、それをのませて、姫はしゃべれるようになった。この薬は、すぐに一日ぐっすり眠りこんでしまったという。ぼくは、ロミオとジュリエットを思い出していた。とにかくグリーシュは2度の偶然で幸せになれた。―――K君(小6)
―――このお話は、とってもロマンティックだと思います。でもちょっと意味が分からない絵がたくさんあります。わたしは、この絵はどんな意味を表しているのか考えましたがちっとも分かりませんでした。―――A子(小4)
(あさえちゃん、今日は何かうれしいことありましたか。そのときのあさえちゃんの心を絵にしたら、どんな絵になるでしょう。泣きたいようなとき、くやしい思いをしたときの心は、どんな形で、どんないろにしようか。絵かきさんの絵は、このグリーシュのお話の世界に入った絵描きさんの心だと思います。こんど、みんなで絵本を持ってきて、グリーシュのお話を聞きましょう。グリーシュの心が分かるまで。)
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そんなばかな!などと思わないほうがよい。淡々と読む(聞く)と実に楽しい。今まで気にしなかったことを、何かの拍子に気にしだすと、だんだん増幅していろいろ心配が広がることがある。大ばか者も、本人たちは大真面目、だから滑稽なのだ。現代でも、もしかして自分も、ほかから見たら、何かまじめにおおばか者を演じてはいないかと思ってしまう。
デンマークの郊外で、屋根に草の生えた家をたくさん見た。私はすぐ、この物語を思い出していた。50センチくらいにいっぱい伸ばしているところもある。わざわざ、種をまくのだという。保温のため。
―――ぼくは、むすめがビールをくみに行って、こわくなって、ないているところがおもしろかったです。そのつぎに、おっかさんがきてないて、つぎにおとっつあんもきてなきます。むすめがえんえん、おっかさんがあんあん、おとっつあんがおんおんと、なくところがいちばんおもしろかったです。ぼくは、ホリッド、マレッをみたいです。テープをきいて、どんな木づちかかんがえていたら、こわくなりました。―――S君(小1)
―――私が、一ばんおもしろいと思ったところは、天下のおおばかがでてくるところです。牛むすめに、ズボン男、月をすくいだそうとした村人たち。なんで、あんなことをするのかなあ、と思っていました。でもこのごろ、何回もきいているうちに、それは、[天下のおおばかもの]だからだとわかりました。―――A子(小3)
―――お百しょうさんの家の、おろか者は、三人のその家族。
頭の上に、きづちがあって、もし、むすこがうまれて、
そのきづちが、むすこの頭の上におちてきたら・・・・
そんなきづち、おろせばいいのにねぇ~
牛をやねの上にあげて、草をたべさせるより、
自分が草をおろして食べさせればいいのにねぇ~
そうすれば、牛も死なずにすんだのに・・・・
ズボンのはき方も知らない。そんな人がしるなんて・・・・
しんじられないですねぇ
はくのに一時間。ちこくしてしまうし、つかれるねぇ~
月が池におっこちた。
そんなばかなこと、あるはずないのに・・・・
それが、ただの影だと知らないなんて・・・・ばんざーい!天下のおおばか。―――Y子(小5)
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これらも、ジェイコブズ。トム・ティット・トットは,English Fairy Tales のほうが、英語の昔話の雰囲気が出ていると思う。ラボ・ライブラリーは現代に分かりやすくしてある。
のんきな母さんに、のんきな娘、成り行きに任せてうまく言ったよ、という感じ。この魔物も、little black thingとか、impとかの表現になっているけれどFairyの仲間、地の精といって言いかと思う。
母親が変な歌を歌って、王様に聞こえてしまい、機転を利かせて替えて歌ったため、后になれた。こんな簡単なすごいこと、面白い。ところが、この王様の后には、大変な運命があった。毎日5かせの糸をつむがねばならぬ。糸車、糸つむぎというのは、今は博物館でなけれは見られない。大体のイメージで想像をする。大変なこと、とても怠け者の娘には出来ないことと判断する。娘にとっては、初めて出くわした大難儀。
娘は魔物をさほど怖がりもしないで、またその天性で楽天的に取引をして、とりあえず毎日のノルマをかせぐ。さてまた成り行き任せの偶然が起こるのだが、いつも行かない場所に行った王様、そこで王様の耳に入った妙な歌。これで、娘の命は助かることになる。
トム・ティット・トット! 名前を当てる。名前は、魔物の本性であり正体である。俺の正体を見破ってみろ! だから、正体を見破られた魔物は、魔物としての力を失ってしまう。
成り行き任せの・・・、とは、われわれの無意識の世界の意識である。偶然といえどもそこには、無意識の意識がはたらいている。
―――トム・ティット・トットは、まけたんだけれど、たすけたんだね。―――N子(6さい)
(トム・ティット・トットは糸をつむげない娘に代わって、毎日つむいでくれて、結果として、
娘を助けたことになった、という意味。6さいでもよくわかっている。)
―――むすめは、かんちがいをしていました。「もどる」というのは、やわらかくなることなのに、「いって、もどってくる」と思うなんて、本当におかしい。おっかさんは、うたをかえてしまったから、おしろへ行くことになってしまいました。できなければ、できないといえばいいのに。でも歌が、うそをついたことになって、おっかさんがろうやにはいることになるかもしれません。むすめは、はじめはよかったけれど、やっぱしたいへんなことになってしまいました。どれくらい名前を考えたのだろうと思いました。王様に教えてもらわなければ、ぜったいにわからなかったと思います。
トム・ティット・トットという名前に、まほうの力があったのだと思います。すごく元気だったまものが、きえてなくなってしまったのだから。―――A子(小3)
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ジェイコブズのフェアリーテイルズは本当にいろんな味のする物語があって楽しめる。子供たちは案外怖い話も好きだ。English Fairy Tales の中では、
Teeny-TinyやThe Strange Visitorなど、訳本で読んであげても好きだ。Teeny-Tinyは英語の響きとしても小さい子も楽しむ。怖くても、また聞きたい、という感じ。このThe King O’ The Catも同じで、これは夜で始まって、そのまま夜で終わる。静かに聴くと気味が悪いけれど、何か不思議な雰囲気があり、気味悪く終わるのでなく、後味がいい。
堂守とか墓とかの言葉から、子供たちはどんな雰囲気をイメージするだろう。日本のお寺の墓と、西洋の教会の墓とは違うけれど。そんなこと彼らには問題でなかったんだ。トム・ティルドラム、ティム・トルドラムなどの名前を面白がり、”I’m the King o’ the Cat!” というのが得意そうだった。
―――トムじいさんと、おんなじねこが、9ひきいたところが、きみがわるかったです。その9ひきが、ねかんをはこぶところが、もっときみがわるかったんです。どうもりのおじいさんは、ねむってしまって、そのなかにねこのおそうしきがでてきたんだと思います。さいご、トムじいさん、トム・ティルドラムが、王になって、大きくなったのが、へんなかんじでした。―――N君(小2)
―――トム一族というように、人間界とは別に、広い猫の世界があって、王の統治の下に、人間界と関わっていると思うと面白い。うちの飼い猫だ。かわいい、かわいがってやっている、などと人間は思っていても、あんがい、人間が、猫に見られているのかもしれない。―――K君(大1)
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―――くるりんぼうずの大すきなわけは、とってもたのしいからです。それに、早口でいうからです。かまどから、くるりんぼうずがとび出して、つぎつぎとおいかけっこするのは、とってもおもしろい。でも、おとっつあんとおっかさんは、がっかりだったろうな。やいていたもろこしパンににげられて。
くるりんぼうずとおいかけっこするひとがずいぶんいたけど、みんなまけてしまった。でもさいごにまけたのは、くるりんぼうず。―――K子(小3)
―――もろこしパンがとび出して、くるりんくるりんいくので、くるりんぼうずになった。「みんなまかしてきたんだぞ~」というところがおかしい。くるりんぼうずはいばっていて、ちょうしにのりすぎて、きつねに食べられてしまった。「ほう、そうかい」といったときには、もうおそい。ぱっくりやられてしまって、ちからがぬけてしまった。―――T君(小2)
歌うように、くるりんくるりんと、もろこしパンが転がるリズムに乗って、話がつぎつぎとすすんでいく。I’ve outrun an old man, an old woman,・・・おいらはかけっこで・・・と、どんどん負かしてきた者たちが積み上げられていく。早口だからこそ調子が出て、小さい子ほど、必死にしゃべった。みんな、はじめは、くるりんぼうず、最後はきつねになりたくて、困ってしまった。二組に分かれて、掛け合いをした。本当に楽しく遊べた。
関連の絵本としては、マーシャ・ブラウンの「パンはころころ」は、とても語りがいい。絵も生き生きしているので、私はよく読んだ。同じように瀬田貞二訳の「おだんごぱん」も加えて、広がりを持たせた。これは少し、やんわりとした絵で、やさしく静かに扱える。
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誰でも知っている話だろう。そして絵本もたくさん出ていて、雑誌などにも簡単に載せられている。「わたしの知っている話は、二匹のコブタのいえがこわされて、レンガの家へにげていきます。」という子も少なくない。
幼稚園でもよくやった。はじめは、みんな、「こぶた!」という。しかも3番目のコブタが一番人気がある。おおかみのやり手がなくて、テューターがおおかみをやる。すると、2回目からは、オオカミの人気も出てきて、「フフーのフー」がもう最高に面白くてのめりこんでしまう。
―――3番目のコブタはあたまがいいな
レンガのがんじょうな家を作って。
おおかみは、自分は強いと思っていても
レンガの家まではふきとばせない。
3番目のコブタはあたまがいいな
6時に約束したら、5時にとりにいくなんて。
おおかみは、くやしくて また約束したけれど
またまたやられて、なんて まぬけな おおかみ!―――M子(小6)
―――この話も、昔話のはじめの決まり文句、「ワンサ ポンナ タイム」ということばが最初に出てきます。「むかしむかしといえば、ぶたがうたうようにはなしたり、サルがかみたばこをくちゃくちゃかんだり・・・」というはじめの歌うようにいうのがおもしろいです。おもしろいことばがいっぱいあります。「ノウノウ・・・・マイチニチンチン」というところです。
一番目のブタも、二番目のブタもたべられてしまう。三番目のブタはあたまがいい。おおかみも最後にはなべに落っこちて死んでしまいます。三番目のコブタはなべでにたおおかみを食べました。一番目のコブタと二番目のコブタをたべたオオカミをです。なんだかへんですね。―――A子(小6)
ジェイコブズの昔話は、後味がいい。「ぐつぐつ煮て食べてしまいました。」といっているのに、楽しいお話として、心に残る。これが昔話のいいところなのだろう。だからこそ、変に道徳的に考えて、「三匹がなかよくくらしました」などと書き換えられては、間の抜けた話になってしまう。
物語とは全然関係がない話になるが、「3びきのこぶた」(安野光雅・絵=森 毅・文=童話屋)という絵本がある。私はこの絵本を買うとき、安野さんの絵本が好きということと、物語に何か関係してるかな、と思ったのだ。実はこれは数学を扱っている。しかも[順列と組み合わせ]高校の確立・統計の科目に入る。しかし、この絵本を、小学校の高学年が喜んで一生懸命見ていたのだった。
私は、この作者二人の言葉が気に入っている。
「安野さんの絵は、若い女性に人気があるらしい。数学というのは、若い女性に人気がないらしい。小人が出てきたりしないからかも知れぬ。でも、数学の世界にだって、小人が出てきたり、虹がかかったりしてもよい。数学の世界は、いたずらをしたり、夢を描いたりする世界でもある。」―――森毅
「自然が美しいように、数学も美しい。そのはずなのにこの頃は、入学試験と、それに適応しようとする教育のためか、数学は誤解されて、ひどい嫌われものになってしまった。でも本当は、美しい。昔は女神にたとえられたくらいだった。その姿を除き見るためにこんな絵本があってもいいだろう。」―――安野光雅
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このSK10の物語は、ジェイコブズの再話によるイギリス昔話で、SK11として出ていた、English Fairy Tales がもとになっている。だからそれを監修された瀬田貞二さんの解説がそのままSk10の巻頭に載せられている。 だから、当時は、このシリーズをやるときは、私は少しでも、English Fairy Talesに触れるようにしていた。まだ、それくらいの余裕を持っていたのだ。
ジェイコブズの昔話は、彼が常に子供たちに語り聞かせながら文字に写していったといわれ、それが素朴な語り口で、音楽的な流れも持っていて、とても心地よく感じ、小さい子にも分かりやすくしているのだ。私は、パーティで少し時間の余裕が出来ると、何の準備もなく、何時読んでも安心して読めるものとして、ジェイコブズの昔話を読んできた。訳本では、「イギリスとアイルランドの昔話」(石井桃子編・訳・福音館書店)を使ってきた。でも、「ちいちゃい、ちいちゃい」などは、英語のほうが、みんなはよろこんだ。
物語の多くが、日常から非日常(異郷)へ、異郷から日常へと境界線を越えて飛び込んでいくけれど、まさにジャックもまめの木を上って、天上にいく。
ジャックがミルキー・ホワイトを連れて市場へ行く途中、おじいさん(神様と考える)が現れ、豆5粒と交換する。これこそが、異郷への橋渡しとなる大切なものだった。こどもたちも、いろいろな物語に出会いながら、なれてくるとすぐ、「これが天上へのみちをつくるものだ」と分かってくる。そこでテーマ活動も、大切にするものを心に納めて進めていくことができる。
豆の木は天まで高く高く伸びる。[ぐんぐん、ぐんぐん、ぐんぐん、ぐんぐん、] 英語では、So Jack climbed, and he climbed and he climbed・・・と7回の繰り返しがある。いかにも高く上り、本当にわれわれを天まで連れて行ってくれる。若者ジャックは、冒険を重ね、幸せをつかむ。
こんな気持ちで、豆の木の表現が、何時も大きなテーマであり、楽しみでもあった。テーマ活動の表現には、発想の転換が必要だ。じっと物語に浸り、心は海原のように広がった子が、ふっといい発想をしてくれる。それが私のテーマ活動の醍醐味を味わう瞬間だった。 ジャックは上を向き、足を踏ん張って上へ上へと上っていく。豆のつるはくねくねと、天(ときめたところ)へとのびる。テーマ活動では、つるも、心はジャックになれる。大勢の心がひとつになった温かい表現が生まれる。
―――ぼくはこのはなしで、好きなところは、「フィー、ファイ、フォウ、ファン、人がくいたい、どの子をとろか、イギリスやろうのうまそなにおい」というところです。ジャックはびんぼうだから、ミルキー・ホワイトがぜんざいさんなのに、まめととりかえてしまって、しかられるにきまっていた。でも、ジャックはうんがいいし、なにかぼうけんができるとしんじていたと思う。―――Y君(小2)
―――”Good morning, mum,”これはぼくが、ジャックをやっているようすです。山男のおかみさんは、優しい人でした。僕はなぜか、おっかさんのように思いました。だから勇気がでたのです。だんだんお金持ちになっていい気分です。ぼくはジャックの気持ちになれて、たのしかったです。―――M君(小4)
―――ジャックと豆の木は、小さいときから知っていて、親しみ深い物語だ。貧乏なものが、最終的には大金持ちになる話は、よくある物語だ。現実に起こりそうもないことが出てくるのが、昔話の面白さだと思った。魔法の豆、それが天までとどいて上っていく。そして金貨の袋を盗む、たいした度胸。しかも2回、3回と運試しをして、見つかってしまうけれども、それくらいのスリルはほしいところ。そして無事成功。お姫様と結婚するなんて出来すぎた話だと思うけれど、昔の人の夢がそこにあったのだろう。―――T君(高3)
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