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ペルセウスは、おとぎ話的なところもあり、翼のサンダルで空を飛ぶなど、空想物語的でもあり、小さい子もよく聞いた。絵に描きたい一番人気は、ゴルゴン、メデューサである。ペルセウスをやりながら私は、やはり、山室静や、その他の本で、その周辺、アンドロメダの話などを読んであげた。そんなことから、星座の話をしてくれる子もいた。
・ ・・・「ペルセウスよ」 振り向くと、一人の見知らぬ青年が立っていた。・・・ヘルメスだ。「アテナとともにきみを助けにやってきた」 いつのまにか、ヘルメスのそばに、よろいを身につけた女神が立っていた。・・・
テーマ活動の友にアテナについての「注」がのっている。
アテナ誕生のところを読んで、みんなが喜んだのは・・・・・
・・・・[メティスには、ティタン族の持つ恐るべき力が、すべて備わっているのに、そのころ、ゼウスはまだ雷電という武器を持っていませんでした。しかしうまい計画を思いつきました。それともそれは、プロメテウスがゼウスのために考え出したのかもしれません。
「メティス姫よ」とゼウスは言いました。「そなたが自分の思うままに、どんな生物にも姿を変えるすばらしい力の持ち主であることを、わたしは知っている。そなたが偉大な、堂々とした雌ライオンや、雌グマになれることは、わたしも信じているのだが、そなたとて、まさかちっぽけな、つまらないハエのようなものになることはできまいな!」
「わたくしにできないですって?」と、メティスはいつもの考え深さをわすれてさけびました。
「お目にかけますとも!」 そして一瞬のうちに、ハエに姿を変えました。ゼウスは、ニンマリとして、ハエをとらえ・・・のみこんでしまいました。(ラボっ子たちのどよめきが聞こえる)
それが、メティスの最後でした。そしてゼウスは、彼女を飲み込んでしまったことで、メティスのもっていた知恵を、のこらず自分のものにしてしまいました。
ところが、それから何ヶ月かたって頭が割れるように痛み、苦しみの余り、ゼウスはプロメテウスに助けを求めました。
プロメテウスは、斧をとり、ゼウスの頭を割ってみました。神は死なないこと、自分にはどんな病も癒す力のあることを知っていたからです。
すると、なんとも不思議なことがおこりました。ゼウスの頭から、メティスの娘アテナがおどりでたのです。アテナは、もうすっかり成人していて、光り輝くよろいかぶとに身をかためていました。]・・・・
ペルセウスがヘルメスやアテナの助けを借りて、グライアイにあったり、ニンフのところに行ったりするところは、北欧の物語、太陽の東月の西などを思い出させる。
翼のサンダル、かくれ帽子、魔法の袋の三つの道具は、最大の力を発揮できるし、新月の形の剣、青銅の盾はまた特別の意味を持つ。こうしてメドゥーサの首を取ったペルセウスは、怖いものなしの勇者になり、アンドロメダを救い、彼女と結婚し、ダナエのもとに急いだ。
最後、ラリッサの国の大競技会で、ペルセウスの投げた円盤で、祖父のアクリシオスが死ぬというのは、ラボっ子も「ふーん」と息をのむところだ。
ギリシア神話なのだ。予言通り、どうにもならない運命に支配されている。
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幼稚園の子でも、しってる!というくらいで、ギリシア神話という構えた気持ちでなく、取り組んだ。
―――ギリシャの神様は音楽が好き、というなら、ふえもたてごとも、たのしめばいいのに。「パンのかち」と、ミダス王がいったから、アポロンはおこって、ミダス王の耳をロバの耳にしてしまうなんて、アポロンは権力があるんだ。
ミダス王のかみを切ったとこやも、「だれにもいうな」といったミダス王の権力におびえていた。おかみさんの「あなの中にでも、しゃべったら」といったところは、いい考えだと思った。
「王さまの耳はロバの耳」と、国中にひろがって、みんなによろこばれて、ミダス王も、よかったと思う。―――K君(小4)
―――はじめのおんがくって、きれいなおんがくだね。アポロンのたてごとはきれいだな、とおもいます。でもミダスおうは、パンにみかたしてしまったので、アポロンに、ロバの耳にされてしまったんだよ。もう、みんなしっているから、ミダスおうも、もうはずかしがらなくてもいいんだよ。―――S子(小1)
―――どうして、あしがしゃべるの?そんなことは、だれも思はなかっただろうに。ミダス王は、パンのためになったのだから、パンにまほうをといてもらえばいいのに。パンには、ちからがないのかな。ミダス王はそのために、みんなから好かれるようになって、よかったと思います。
それから、わたしは、アポロンという名前をプラネタリュウムでききました。おにいちゃんが、せいざの名前は、いっぱいギリシャのかみさまの名前がでてくるぞ、といいました。―――M子(小2)
テーマ活動の友には、「注」がついている。ミダス王について、「フギリアの伝説的な王。黄金が好きで、なんでも金になる話は、有名。」とある。やはりパーティでは、このあたりを読んであげたくなる。こういう部分も2行で済ましてある本もあるし、目的によって本を選んだほうがいい。小さい子も含めてのパーティでは、楽しいほうがいいから。
・・・・「初めての酒盛りで、酔ったシノレスは、ミダス王の庭園で眠り込んでしまいました。王がシノレスを手厚く介抱したので、ディオニュソスは、何でも望みのものを贈ると、王に約束しました。「私の触るものは何でも、金に変えてくだされ!」と強欲なミダス王は、一心に叫びました。そこで、ディオニュソスは、おかしそうに目を輝かせながら、その願いをかなえてやりました。
ミダス王は、邸に帰るとすぐさま、その邸を、金に変えました。庭も、木や花もろとも、金に変わりました。しかし、食物や、飲み物でさえ、自分の唇が触れたとたん、金に変わると分かると、ミダス王は、自分がどんなにおろかだったかを悟り、ディオニュソスを探し出して、魔法の贈り物を返したいと必死に頼みました。
こんなことがあったのに、ミダス王は、ちっとも賢くなりませんでした。しばらく後、こんどは、アポロンをおこらせてしまったのです。」・・・・
なんだか読んだことあるお話、と思った子がいた筈。みんな何かで、ギリシャ神話に触れているのだ。
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ギリシア神話については、大勢の神々が出てきて、その名前と関係が大変だ。興味のある子は、系図を書いてきてくれたりしたが、本によって、名前の呼び方も違うので戸惑うことがある。
ラボ・ライブラリーのギリシア神話はテーマ活動のことを考えて、会話が多くしてあると感じる。パエトンの話は、小さい子も好きで、元気な楽しいテーマ活動が出来た。より興味を持って、楽しんでくれるようにと、私は、そのとき何を読んだらいいかと、一生懸命考えるのだった。
ラボの絵本は、おぼ・まことさんの絵であるが、これをより一層、色彩豊かに考えさせてくれるような表現があった。
ラボで、「何日もかかって、ようやく光りかがやく太陽の宮殿につくと、ヘリオスは、太陽のむすめたちにかこまれて、玉座でやすんでいるところでした。」という表現にあたるところなど。次のような文を読んだ。
・・・・ 「太陽の神は、ダイヤモンドをちりばめたようにきらきらかがやく玉座に、むらさきの着物を着てすわっておいでになりました。右と左には、「日」と「月」と「年」がならび、きちんと間をおいて「時間」がひかえています。頭に花をかざった「春」と、みのった穀物の茎でできた冠をかぶった「夏」が、はだかでたっているそばには、「秋」がブドウのしるに足をそめてたっていました。つめたい「冬」は、髪が霜で白くこわばっています。おつきの者にとりまかれていても、あらゆるものが見える太陽の神は、この光景のめずらしさとすばらしさに、ぼうっとなっている若者に気がつきました。」・・・・
「パエトンは、全身を火につつまれて、流れ星のようにまっさかさまにエリダノスの川へとおちていきました。」との最後のところ。ある本では、
「大きな川のエリダノスが、パエトンを受け止めて、からだのほのおをひやしてやりました。水の精たちはパエトンのために墓を立て、墓石につぎのことばをきざみました。
太陽の神の戦車をのりまわしたパエトンは、ゼウスのかみなりにうたれて、この石の下にねむる。父親の火の車はかれの手におえなかったが、そのおおいなるこころざしは、ほむべきかな。
―――パエトンは友達に、「太陽の馬車を引いているのが、ぼくの、おとうさんだ。」とじまんした。でも信じてもらえなくて、「太陽の馬車をかりてこい」といわれた。これは、ぼくたちの学校でもあるような感じだ。じまんしたこをいじめたくなる。
おとうさんのヘリオスは「それはいけない」といったけど、無理に一日だけ馬車をかりた。でもそれがいけなかった。いけなかったけれど、パエトンはかっこよく思った。エパポスにじまんしてやった。ぼくもパエトンと同じ気分になって、さそり座やしし座の間を走り回るのは、楽しかった。
馬車はあばれまわって、山や、森に火がついてしまった。ゼウスはいなづまで馬車をこわしてしまった。たった一日、いい気分になったけど、死んでしまった。かわいそうだけど、仕方がない。―――Y君(小4)
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テレビは連日アテネのオリンピックを中継してくれる。あまり寝不足になってはいけないので、あくる日のニュースに任せたり、ビデオにとって寝ることにする。
でも連日、いやおうなしに、ギリシアに頭がはしる。ついでにギリシア神話の本も出してみた。読んでない本もあるし、あのころよく読んだ、と思う本もある。私はまだ、ギリシアには行きそびれている。ラボ・ライブラリーにギリシア神話が入ったとき、ギリシア旅行の機会があったが、都合が悪かったし、絵を描くということを頭に置くと、青い空に青い海、そこに白い建物、まぶしすぎて自分の絵としての構成の仕様がないように思えて、いままで、ついついヨーロッパのほうを選んでしまった。ところが今は、次はギリシアだ。ギリシアに行こう、と思っている。
ギリシア神話の本は、いろいろたくさんある。何でもそうかもしれないが、どういう本に出会うかによって、ギリシア神話に対するイメージが違ってくる。幸いラボっ子は、ライブラリーを軸にその周辺から、自分の興味にあわせて読みすすめるから、年齢が小さくても、おとぎ話的な、ミダス王の話などから身近に感じることが出来るし、高学年は、哲学的にも、科学的にも、または天地創造の他の神話との比較とか、いかようにも自分の好きなように読めるのが、いいと思う。
ギリシア神話こそは、ラボ・テープを聞いているだけでは好きになるほど理解が出来るわけでなく、きっと何か読みたくなると思うし、ガイドとなる本が必要だと思う。
私がパーティで当時読んだのは、山室静さんの「ギリシャ神話」や、たまたま家にあった少年少女世界文学全集の中のギリシア神話(トーマス・ブルフィンチ=三浦朱門訳)だった。そして、とても面白く好きだったのは、当時、月刊誌、[子どもと本]のなかで連載された、「ギリシャの神々の物語」(ロジャー・ランスリン・グリーン=山本まつよ訳)だった。いろいろ読んでいると、大勢出てくる神々の名前、その関係などが、それとなく分かってくるし、書き方も、それぞれ違うのが、かえって面白く、だんだん理解が深まる感じがするのが楽しい。プロメテウスについては、パンドラの話など、みんなが納得したり喜んだりした。
「プロメテウスの火」をパーティで流したら、ある子が、「テーマ活動みたい。」といった。ナレーションが複数で語られているからだ。 新刊が出てすぐにそれに取り組むときは、それまでにどれだけの関係書物が読めるか、私は必死になる。
少し時を過ぎると、資料集が出されたりして、後から、「あ、そうなのか」と思うときもある。特に、当時、神奈川支部での講演記録としてまとめられた、松本さんの「ギリシア神話の不思議と面白さ」は、「コロス」のこととか、ゼウス、多い神たち、ラボっ子が、なぜ?と聞くことを、すべて分かりやすく、話されている。これくらいのことを、テューターもうまく話せたら、子供も喜んだだろうにな、と、後から思った。今だったら、ずっとギリシアを近く感じて、テーマ活動も熱気を帯びるだろうに。
―――プロメテウスは、自分が人々に火を与えると、ゼウスに何をされるかわかっていたであろうに、それでも火を与えてくれた。そして火を使って、いろんなことを教えてくれた。それだけ人のためにいろいろとしてくれたプロメテウスに、ゼウスはなぜ罰を与えたのだろうか。たぶん、プロメテウスの予知能力におびえて、自分が助かる道を、無理にでもしゃべらせたいのだと思う。そんなゼウスは、自分の地位から落されても当然だと思う。なんでも自分の思うとおりには行かないものだ。―――K君(中1)
―――プロメテウスは、何のために人間に火を与えたのだろう?自らを犠牲にしておくった火を、どうすることに使ってほしかったのだろう。
火は、人間の進化、文明の発達に大きな役割を果たしている。でも、ひとつ間違えれば、すべてを焼き尽くす恐ろしい火になってしまう。ぼくたちは、この話の中で、もっと大きなことを知らなくてはいけない。プロメテウスは、過酷な苦しみに耐えて、耐えて、必ずその先には自由のあることを信じていた。誰でも苦しいときはある。でもそれに耐えて努力すれば、いいときが必ず来ると教えていると思う。―――T君(中2)
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男の子は、どの子も車が大好き、といっていいのだろうか。二人の孫を見ていると、女の子、男の子、好奇心の示し方、興味のもちかたが自然にはっきり分かれてくる。3才になる男の子は、おもちゃを意識し始めた頃から、車が好きだった。テーブルの端、敷居の上、などに、並べて遊ぶ。手先と口元をやや緊張させ、自分の好きな車を一列に黙々とならべていく。そんな姿をじっと眺めていると、私の頭の中では、彼に読んでやった絵本が、次々に浮かんで動く。[じどうしゃ、じどうしゃ、じどうしゃ](渡辺茂男・あかね書房)いろんな自動車が、いわゆる渋滞を起こして(事実は、どうぶつたちが、道を横断するのをのんびり待つのだが)つながっている。いろんな自動車が居るのが面白くて大好きなのだ。消防自動車をじっとながめる。「ちいさいしょうぼうじどうしゃ」のスモールさんがいるのかもしれない。一人遊びをしている彼の頭の中は、なんと楽しいことだろう。
何十分と遊んでいたが、そのうち積み木に機関車を乗っけて、ガチャガチャがッチャン!!!きれいに並んでいた車たちは、あちこちに転げ落ちた。いたずらきかんしゃだ!・・・遊び時間終わり!・・・「おやつ・・・」
「ちゅうちゅう」が、ラボ・ライブラリーに迎えられたとき、ほとんどのラボっ子が知っているお話だった。何回も、絵本を読んでいるし、バートンのほかの絵本もふくめて、みんなが好きだった。
テーマ活動で扱えるようになって、小さい子は、大喜び。ちゅうちゅうは、彼ら自身なのだ。レールの上を走るような音楽に合わせて、走り回った。そんなちゅうちゅうを、呆れ顔で、見ながら、中高生は、懐かしく思いながらも、自分たちまで走るわけにはいかない。やさしく見守る、ジムやオーリーのように、テーマ活動の表現として、一生懸命考えていった。絵に負けないような迫力、絵に負けないような表情をと、考えるだけでも、このテーマ活動の価値はあると思った。
―――ちゅうちゅうのおはなしで、わたしは、ちゅうちゅうになったり、おきゃくになったり、ふみきりになったり、はねばしになったり、のはらになったりします。おきゃくがいちばんすきです。ちゅうちゅうは、きれいなかわいいきかんしゃで、ぴかぴかひかっています。ジムが、ちゅうちゅうをみつけにきてくれたとき、ちいさいこえで、TOOTといったところが、かわいくてすきです。―――T子(6才)
―――この話は、たしか、ぼくが、幼稚園のときに読んだことがあって、すごく好きだった。だから、この絵本が、ラボのテープになると聞いて、びっくりしたと同時に、すごくうれしかった。ラボ・テープで聞くと、音楽の効果もあって、イメージする世界がいっそう広がった。ちゅうちゅうは、子供の心を持っている。でも、古くからあったようで、もうおじいさんなんだろう。ちゅうちゅうは、その本を読む人と同じ年代になり、みんなを共鳴させる。―――M君(中3)
―――小学校6年の頃、はじめてコンテで絵を描いた。コンテ一本で明暗を出すのは、むつかしかった。それ以来コンテで描かれた絵に興味を持つようになった。ちゅうちゅうの絵は、迫力がある。そして、細かいところまで、丁寧に描かれ、ちゅうちゅうや動物や、木や森まで表情がある。何時まで見ていても飽きない。―――E子(大1)
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「耳なし芳一」「鏡の精」とCDを聞き直したら、ラフカディオ・ハーンの本も何かあったな、と思い探してみた。「ラフカディオ・ハーン」・・・異文化体験の果てに・・・牧野陽子著(中公新書)が出てきて思い出した。読みやすい本で、中高生にも紹介し、当時、読んだことがあったなあ、と。やはり、ハーンについて少しでも知ることは、より怪談を理解し、楽しむことが出来る。
―――このお話の作者は、ラフカディオ・ハーンなので、なるほど、そうか、と思った。学校の教科書には「むじな」がのっていて、ハーン、小泉八雲についても、調べた。
籐太郎は、ぎょっとするような生き物の鮫人を、連れてきて、自分の家の池に住まわせた。藤太郎は、親切で、気持ちの素直な人だと思った。ところが、病気になるほどの恋に落ちて、寝ているとき、鮫人が悲しんでないた涙が、みんな宝石になった。これはすごい。誰だって喜んでしまう。藤太郎もそれを見たら、いっぺんに病気でなくなってしまって、その宝石をひっしに拾い集めた。鮫人は、ただ、泣いた理由がわからなくなって、びっくりしただろう。しかも、もう少し宝石が足りないから泣いてくれと、とんでもない勝手を言うから、鮫人は、怒って「本当に悲しくなければ泣けない」といった。これは、人間の勝手な欲深さに対して、海の生き物の純粋な清い気持ちが、戒めたように思う。
話は、酒とさかなを持って、瀬田の唐橋へ行き、鮫人は、竜宮の方をむいて、泣いてくれた。おかげで、藤太郎は、結婚できたし、鮫人も、竜宮へ帰れるようになったし、めでたし、めでたし。なんか宝石を贈って結婚するなんておかしい。いやな感じ。―――M子(中2)
「エメラルドのように澄んだ緑色の眼」から、涙・・・宝石がこぼれ落ちる。この色彩は、絵を見るより、自分の瞳に浮かぶ、自分のイメージの色のほうがいい。古い小型本のほうの絵を見て、6歳くらいの子が、強烈な絵を描いたのを覚えているが、この部分の絵は小型本のセンスのほうがいいと思う。
ハーンの怪談は、怖いというだけでなく、やさしさに貫かれている。神秘なもの、不可思議なものへの興味を呼び起こし、それらをつまらないと排除するのでなく、帰って、人の心を豊かにするものだと分からせてくれる。
牧野陽子さんの本から、私の印象に残る箇所を抜書きしておこう。
「ハーンは、人生においても、文学においても、夢がもっとも大切なものだと考えた。ハーンの言う夢とは、睡眠中に見る夢のことも、また現実を離れた空想と幻想の世界のことをも指している。
ハーンは、{作家への言葉}と題したある日の講義で、学生たちに次のように述べている。
もし諸君が優れた想像力を備えているなら、霊感を得るために書物に頼ることは止めたほうがよい。それよりも、自分自身の夢の生活に頼るのだ。それを注意深く研究し、そこから霊感を引き出すのだ。単なる日常の体験を超えたものを扱う文学において、ほとんどすべての美しいものの最大の源泉は夢なのだから。」
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耳なし芳一のついでに「鏡の精」。
―――不思議な物語である。魔性の持つ力の話。いろいろな災難に会う人、それからうまく逃れられる人、いつも不思議に思うことがある。魔性に惑わされて命を落とす人、魔性に助けられて人の力の及ばぬこともでき得る人。神官松村は、魔性に惑わされぬ強い精神力を持っていたのだと思う。そして鏡の精である弥生は、その松村に助けられて神霊として祀られたので、その恩に報いた弥生の予言で松村はまた、助けられることになる。なんとも不思議。ぞっとしながら聞く話である。―――Y子(高1)
―――松村は、鏡の精の弥生を信じてよかった。弥生はかわいそうだった。古いどの主、毒龍に操られて、心ならずも多くの人の命を失わせてきた。でも本当は、よい人(精、魂)で、そこから早くのがれたいと思っていた。松村も弥生を助ける力をもった人だったし、弥生は、松村と松村の家族を救った人でもある。人というけれど、本当は魂の話だと思う。おばあさんが「人は死んだら、魂には階級があるのだ。それは、この世よりも厳しい。だから、志を高く持って、よい行いをせにゃいかん。」と、よくいっている。そういうことかなあ、と思った。静かな重みのある話だと思った。―――Y君(中1)
私の小さい頃、祖母が、わらを燃やして火鉢に入れるわら灰を作った。(いまや、見たこともない死語になった言葉みたいだが)そのとき、もし縄を燃やすことになると、それを10センチくらいに切って燃やした。縄を編んだ人の労力を思って、こちらもそれだけの手を加えて、それに報いる気持ちを持つというのだ。ものには、それを作った人の魂がある。ものを粗末にしてはならぬ。ものをまたいではいけない。特に、鏡、はさみ、本などは下に置くものではない。うっかり踏んだり、またいだりするといけないから、というのである。もし、うっかりものを踏んづけたり、落としたりすると、そのものに謝る、またものをとって、それを押し戴いた。(ものをうやうやしく顔の上にささげる。)
私はこのような精神が、まだ肌で理解できるけれど、このもののあふれた消費社会で、理屈や、説得ではなく、「ものを大切にする」精神を、理解することは出来るのだろうか。
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夏休みで遊びに来た7歳の孫に、怪談、小泉八雲怪奇短編集(偕成社)の中から、「ムジナ」と「雪女」を、読んでやった。淡々と読む私の顔をときどき見ながら、声もなく、聞いていた。読み終わると、それまでためていた息を、一度に出すように、大きな息をふーっとはいて、私の顔を見て、ニコッと笑った。
8月、私は必ず思い出すテーマ活動がある。それは、「耳なし芳一」。
私の家の近くに、公園がある。今は、多少の遊具があって、芝生と砂利道になっているが、何年か前は、まだ整った公園ではなく、木立と大きな砂場があるだけだった。高学年の夜のパーティで、「耳なし芳一]をやろう、「あそこの公園でやろう」と言い出した。テープ(その頃は、ラボ機に電池を入れて)をもって、公園へみんなでぞろぞろ。
砂場で「耳なし芳一」をやった。砂場に座る芳一、そばに立つ侍。その頃の公園の夜は誰もいなくて、東は堤防、南は河川敷、西は畑、道を隔てた北側にだけ民家がある。公園内は真っ暗。そこに、「ほういち!」とひびく。笑うものなどいない。いやでも「耳なし芳一」の物語が心にしみる。終わって、ラボ・ルームに帰ったみんなは、それぞれの感動を胸に、しばらくは声もなく、ぐったりと座り込んでいるのだった。
それから、8月の納涼パーティとして、数年続いた。発表会に向けてだけでなく、日常的に、いろいろな物語を聞く雰囲気が浸透した状態が、このような楽しみ方も可能にしたのだ。
―――僕は、このテープをずっと前から持っていましたが、小さい頃、この話を、まともに聞いた思い出がありません。何度も聞こうとしたのですが、怖くて、途中でやめてしまったような気がします。それから、小学校高学年になって聞いたときには、難しくて意味がわからず、これもいい加減の聞き方でした。そして、中学、高校となり、最後までじっくり聞くようになり、意味もよく理解でき、興味がわいてきました。平家物語と一緒に考える物語です。―――T君(高3)
―――私は「耳なし芳一」は、好きではありません。気味が悪いからです。びわの音が、なんともいえぬ不気味さをあらわしていると思います。でも、大きい人たちの、テーマ活動を見てから、少し興味を持つようになりました。英語がゆっくりで、「ほういち」「へいけ」「げんじ」「びわ」「あんとくてんのう」「はんにゃしんぎょう」など、いっぱい日本語が出てきて、わかりやすく思いました。耳なし芳一が、体中に書いてもらった、「はんにゃしんぎょう」は、おまじないのことばだと、思っていたら、おばあさんが、「はんにゃしんぎょう、だよ」といって、お経の本を、見せてくれました。おばあさんが、持っていた本と、同じなので、びっくりしました。―――K子(小6)
ラボの「耳なし芳一」の本は、新しくなっている。以前の小型の絵の少ない本も、小さい子には興味を引かないかもしれないが、悪くないと私は思う。それだけ、イメージを固定しないで自由に持つことが出来る。
でも、新しい本は、またいい。LIBRARY NOTE が貴重だと思う。こんなに身近に簡単に、一流人のことばに触れられるとは、ラボは恵まれている。でも、絵本は、ハーンの研究者ではない人が描いている。それが非常に新鮮な感じにしていると思う。私は、上野憲男氏の「幻想と祈りの世界との強調」のなかでいっている、「私は私なりに、ハーンの宇宙観に触れた実感を微小ながらも感じえたことは、大きな喜びであった。私は常々、音楽、言語など、人間の内なるものの表現にも関心を持ってきた。また、西欧的なものと東洋的なもの、古いものと新しいもの、などの融合と反発を折り重ねながら、私自身の空間を模索しつづけてきたつもりである。」といったことばを頭の中で反芻しながら、彼の絵本をじっくりと眺めている。
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自分の子供を育てるときは、自分自身も経験のない中で、育児のすべてに責任を負うわけだから、子供の成長に感動しながらも、その感動を、せいぜい育児日記に書き残す程度で、ゆっくり味わい感心している暇もなく、次の仕事に追いまくられる。その点、孫となると、改めて、幼子の成長の早さ、その不思議なほどの吸収力、生命力に感動と喜びを持ってみていることが出来る。
アリソン・アトリーの描くチム・ラビットの世界は、こうした子供が、毎日新しい体験をしながら大きくなり、心を豊かにしていく、子供の発見や、心の動きや、周りのものなどを、アトリーの温かい目で見、それを正しく、やさしく小さい子にもよくわかるように物語にしている。愛情たっぷりの表現、無邪気で、好奇心に満ち満ちた、「ただのうさぎでないうさぎ」が、いろんな体験をしていくのが楽しい。
ラボのティム・ラビットは、詩やナーサリーライムといっしょに、ASK MR. BEAR and OTHER STORIES として入っていて、ちょっとアトリーとしては、損をしているように思える。それとも、このようなテーマは、テーマ活動としては、地味で、扱いにくいのだろうか。
たしかに、風、ひょう、かみなり、いなびかりなどを、初めて体験したティムに、お母さんがやさしく、正しく教える。これは大変大切な、自然への興味、その厳粛な秩序を覚え、その美を感じる入り口だとは思っても、実に静かに、緩やかに、人の心の中に入り込んでくる。私は、アトリーの楽しさは、この一つの物語だけでは、無理だと思う。
「チム・ラビットのぼうけん」A・アトリー(石井桃子訳・童心社)には、九つの物語が入っている。これを全部読んだら、だれでもその良さがわかり、好きになれると思う。どれもいいけれど、「チム・ラビットとはさみ」「チム・ラビットのうん」などが、うちでは人気があった。ついでに「チム・ラビットのおともだち」も読みたい。
―――ティムは、かわいいこうさぎ。かぜや、ひょうをこわがって。おかあさんは、やさしそうだし、ちゃんとおやつをつくっていてくれたし、ちゃんと、それがなにだかおしえてくれたし、いいおかあさんだね。
こんどは、うさぎでもなし、こぶたでもない。そんなようきなどうぶつはなにかな?それはうさぎにとって、こわいものでした。でもティムはしりません。風や、ひょうや、かみなりは、にげろ、にげろとおしえてくれました。おかあさんに「なに?」ときいたら、いぬだったんだね。
おかさんは、「いぬとにんげんはきをつけなさい」とおしえました。だんだんティムは、べんきょうしていきます。―――T子(小1)
自然破壊のどんどん進む今、みんなの心の中にしみこませ、自然の中に生きている自分を感じてみたいと思う。
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毎日、うちの周りを何匹かの犬が散歩する。それぞれの犬が、大体同じ時間に同じ犬が、自分の主人と一緒に散歩している。彼らはかわいがられている。でも私は、勝手なことを考えてみる。この犬たち、長靴を履かせても、絵にならないなあ。愛犬と主人、飼い主に忠実な犬の話は、やはり犬という性格。
うちの庭に寝そべっているのら猫の顔を見ても、鼻先でものを考えるような感じがする。そして、それ!いまだ!というときには、しなやかに、敏捷に反応する。
森に寝そべって、まんまとウサギをしとめ、Silly little rabbit とつぶやく。ねずみになった山男を、ぱっくりのみこんで、したなめずり。ささっ!と一発やつけて、ゆったりと足音もなく去る。やはり猫は長靴が似合う。
―――この話は、一匹のねこが主役でいろいろなことをします。わたしは、ねこといえば、ひなたぼっこをしているねこのイメージがつよいけど、このねこは、長ぐつをはくと、ふつうのねこではなくなるのです。三番目の息子が、ねこしかのこっていなくて、しかたなくもらったねこが、思わぬ力を、はっきします。どんな役に立たないものでも、そまつにしてはいけないと、いっているようです。わたしが、一番おもしろいと思ったのは、山男が、ライオンになって、「大きいものになるのは、簡単ですが、ちっちゃいねずみには、なれないですよね」といわれて、山男はおこって、ねずみになります。「できないですね」といわれて、くやしがって、うっかりねずみになってしまったところです。―――Y子(小5)
―――ぼくは長ぐつをはいたねこの絵本を一しょうけんめい見ました。テープをききながら、考えました。これが、ねこだ!とわかりました。ねこの動くのが、線になっていると思います。でも、ときどき、わからなくなります。わからないけど、ぼくだけ、わかったことにしておきます。―――Y君(小4)
昔話に、新しい絵、新しい音楽がついてラボ・ライブラリーとなり、ラボっ子が、さらに物語を育てていく。テーマ活動にするとき、この絵も、音楽も、これだからこそ、イメージを自由に深めていくことが出来ると思った。
別の意味で楽しんだのは、ハンス・フィッシャーの、「長ぐつをはいたねこ」だった。フィッシャー独特の線が生きた絵。また、昔話らしくなく、フィッシャーが注釈をつけて、物語に仕立てている。でも猫もとても楽しい。猫が大主人公、その他は添景人物だ。それだけ、猫の表情が、引き立ち、実に楽しい。
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