幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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ちゃこの日記 [全413件] 391件~400件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
しょうぼうじどうしゃ じぷた 2 05月10日 (月)
 一人暮らしをしていた姉が倒れて、私が救急車を呼んで救出した。この「救出」というところを余談だけれども話させてもらおう。姉は高齢で、毎日夕食を給食センターから支援してもらっていた。だから、「2日間鍵がかかったままで、昨日の夕食も食べてないからおかしい。」と給食センターから私のところに連絡が入った。外出の心当たりもないし、車で飛んでいったが、何の反応もないので、ついに窓ガラスを割って家の中にはいった。彼女は意識朦朧として倒れていた。脳内出血が起きて、動くこともできず、声も出せず倒れていたのだ。もう一日発見が遅れたら、おそらくは助からなかったであろう。このような高齢者の事故を防ぐのもひとつの目的という、岐阜市の給食支援の制度に感謝!というところ。

 こんなことで、私は始めて救急車に乗ることになった。救急車のいちもくさんの世界は、本当はさまざまの人生のドラマをのせ、そこに関わる人々の献身的な働き、努力、そして感動、あるいは悲しみをも含む、深い深い世界があるのだ。

 ラボ・ライブラリーの「しょうぼうじどうしゃ じぷた」のもとになる、福音館書店の「しょうぼうじどうしゃ・じぷた」を書いた山本忠敬(ただよし)氏のメモを、たまたま見つけたので、一寸、紹介。
「東京消防庁牛込消防署。この絵本を作るためにこの消防署を取材させていただきました。実はこの、牛込―消防―火事との言葉の連想が私の子供のころの遊びとつながって懐かしく思うのです。というのは子供のころの戯れ歌の囃子言葉で、<かじはどこだ、うしごめだ、うしのきんたま(ここのところは小声で)、まるやけだ>といって遊んだのです。
 春うららの午後、消防署の前をぶらりと通りますと、訓練を終えたポンプ車とはしご車が並んで日向ぼっこをしています。消防自動車大好き人間としては見逃すわけには行きません。(後略)」

 何といって参考になるものではないけれど、作者は消防自動車大好きということはわかる。この戯れ歌は、大正10年前後、この本の初版が、1963年というからずいぶん古い。古くてもいいものはいい、のであるが、私は残念ながらこの絵本はそうは思わない。どのページの絵も平面的で、のっぽくん、いちもくさんなどと、擬人化された車のいきいきさもなく、じぷたも主人公なのに、魅力を感じられるようには描かれていない。
 働く自動車というのは子供たちの大好きなテーマだから、単にいい本だと見られているように思う。私はいつも「じぷた」のテーマ活動をするとき、除雪車の「けいてぃ」や、消防士のスモールさんのはなし「ちいさいしょうぼうじどうしゃ」などで心の中の幸せを補ってきた。

 そして元気な「じぷた」のテーマ活動ができたのは、私は勝手に、ラボ・ライブラリーと、福音館の「じぷた」とを別物と考えるようになってきた。音楽や歌の助けもあり、英語と日本語という言葉の幅の広さ、そして何よりもラボっ子のセンスと共同する力が、ラボ・ライブラリーとして物語を育ててきたと思う。お話を聞いて、子供に絵を描かせたほうが、よほど生き生きした絵がかける。

―――ぼくは、ぱんぷくんが、いちばんすきです。ホースから、ちからづよくみずをたくさんだすからです。しょうぼうしょのおじさんに、ぱんぷくんや、のっぽくんをみせてもらいました。ぴかぴかでした。じぷたみたいなのはいませんでした。ぼくは、かいぞうするジープがなかったのだとおもいました。―――小1(Y君)

 単なる刺激や表面的な面白さだけに動かされるのではなく、深い感動を味わい、人間らしい豊かな心を育む絵本やテーマ活動であってほしい。
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かいじゅうたちのいるところ 1 05月08日 ()
 たくさん、たくさんあったぬいぐるみ動物など、整理に整理をして、やっと私の手元に残したい話題性のあるものだけにした。誰かの元にいってもいいよ、と思っても、いけなかった子たちが、マックスとかいじゅうたち。あまりにもよく遊ばれて、あちこちつくろわないと人に渡すこともできない。
 ラボのライブラリーに入るずっと前から、この「かいじゅうたちのいるところ」は、よく読み聞かせてきた。子供たちの大好きな物語だった。センダックは、実にうまく小さい子の心の奥にあるものを視覚化できる画家だと思う。
 ラボ・ライブラリーは、音楽もあり、勿論、英日の言葉からもイメージできるけれど、これは絵本の語るものが多く、やはり絵はおろそかにしたくない。
 誰でも、これくらい暴れたいときもあるはず。この日のマックスは、何か爆発させたいもやもやしたものがあったらしい。おおかみのぬいぐるみというのも、もうその表れ。ナプキンのようなものをつないで作ったロープを、本の上に乗って大きなかなづちで壁に打ちつけようとしている。そのロープには、きっと自分の好きだったぬいぐるみや、お母さんが困るであろうシーツのようなものが、かけてある。
 つぎのページには、マックスが描いた怪獣の絵がはってある。だから普段からマックスは、怪獣が好きなんだ。
 そうして叱られて、寝室に放り込まれ、マックスの顔は、怒り絶頂!でも、その怒りは、長くは続かず、やがてファンタジーの世界へと入り込む。
 それからは、すばらしい幻想的で美しい世界。マックスは開放感にあふれ、満足げな顔でMAX号に乗って航海。なんという子供の好きな世界だろう。すると突然、怪獣が現れてびっくりするけれど、今度は、その怪獣たちの王さまになってしまう。怪獣を手下にして、自分の好きなことができるとは、なんていいことだろう。ラボのテーマ活動をやっていたとき、このクライマックス、かいじゅうおどりを、一番考えた。みんなたのしく、ただただおどるが、そこに大切なマックスの気持ち、怪獣たちの気持ち、そしてそのずれ、の微妙さ、を見逃さないでほしいと。やがて、踊りつかれて、満足と、少し淋しいマックスの顔。そして最後の言葉がいい。「マックスは、ゆうごはんぬきで、かいじゅうたちをねむらせた。するとマックスは、おうさまなのに・・・・・・」みんなは、マックスが、ちゃんとお母さんのところに帰って、温かい夕ご飯も食べることができて、ほっとする。

 センダックの魅力に取り付かれて、私は彼の本をどんどん集めた。そしていまや、その大半をゆずってしまった。センダックは、まだまだこれからも、多くの子供たちの心を豊かにしてゆくだろう。
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わたしとあそんで 1 05月05日 (水)
わたしとあそんで
 連休は荘川高原にいた。朝露を踏んで、つくしやふきのとうを取る。高原はまだ、ふきのとうも出ているし、同時につくしも出ている。せせらぎのほとりには、みずばしょうが咲いていた。こんな環境にいると、私の大好きな絵本、「わたしとあそんで」を思い出す。
 この本は、読み聞かせに何回も読んだのは勿論だけれど、自分ひとりで何回も、静かに読んだ本だった。柔らかい淡い色調、やさしいタッチで、かしこそうな女の子「わたし」が描かれている。小さな女の子と、動物たちとの暖かいふれあい、それをお日さまはずっと見守っている。たった一人の女の子しか出てこないのに、何か広いおおらかな世界を感じる。マリー・ホール・エッツが晩年夫と一緒にすごした森の中での生活、彼女の自然観、自然の中に生きる人間と、その理想の状態が、この中にこめられているように思う。
 私は、なぜかこの本を読むと元気が出た。落ち込んでいるときいつも読んだものだった。パーティに力が入りすぎて、がんばれ、がんばれといっても、子供は思うようにはならない。自分自身が落ち着いて、暖かいもの、豊かなもの、魅力を感じるものをもって待つこと。・・・知らないうちにうまくいっている。
自分の周りには笑顔がいっぱい。・・・こんなことを何回も味わってきた。
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ありときりぎりす 2 04月27日 (火)
 草取りをしていると、ミミズも出てくるし、ありも動き回っている。ありの世界では、もう、いまや働け働けの時期なのだろうか。
 
 ラボの「ありときりぎりす」の物語は、イソップ寓話を基に作られたものだが、当時の子供たちの成長と活動にあわせて、ラボ活動にぴったしと、作られていると思う。今のように百以上の物語のある時代とは、違った感覚で受け止められた。SK1,SK2,やっと3本目の作品であったのだから。

 イソップ物語は、誰でも何らかの形で、その中のいくつかに触れていると思う。絵本や幼稚園の購読本、または英語の副読本など、気がつけば、イソップは身近にいっぱいある。
 ちょっと価値あるものとしては、私は、Arthur Geisertの絵の[Aesop & Company with scenes from his legendary life]とか、A Classic Illustrated Edition---AESOP'S FABLES といって、アーサー・ラッカムとか、ウォルター・クレインとか数人の人の絵の本を大切にしている。また、オズボーン、コレクションのなかにある、BABY'S OWN AESOPは、私の大好きな本のひとつ。これもウォルター・クレインの絵。イソップの寓話を短い韻文にして、クレイン独特のきれいな絵で、説明的に描写し、さらに、一行の教訓を添えている。その教訓がなぜか、いやらしくない。たとえばーーー

   THE CROW & THE PITCHER
How the cunning old Crow got his drink
When 'twas low in the pitcher, just think!
Don't say that he spilled it!
With pebbles he filled it,
Till the water rose up to the brink.----USE YOUR WITS---

THE WIND & THE SUN
The wind and the sun had a bet,
The wayfarers' cloak which should get:
Blew the wind -the cloak clung:
Shone the sun -the cloak flung
 Showed the sun had the best of it yet.
    ---TRUE STRENGTH IS NOT BLUSTER----
            (残念ながら、ありときりぎすはない。)

小さい子も、読んであげると、英語がわからなくても、よく理解して、喜んで聞いた。

 ラボの「ありときりぎりす」も、ずいぶん詩的で口調がよく、美しい。初めの部分など非常に絵画的でもある。

ーーーこのお話は、「遊んでばかりいると、キリギリスのような目にあうぞ」といったぐあいに、教訓的に聞くと、ちっとも面白くない。テーマ活動では、みんな楽しくありやキリギリスになって動いている。
 テーマ活動で、ありになっているつもりでも、花や太陽や、虹を見るとき、みんな、自分自身に戻っているような気がする。たとえば、[花を見ろよ。目のごちそうじゃないか」というところも、どこに花を見たらいいのだろう。私たちは下を向いて花を見ていた様な気がする。ありから見たら、花は自分たちより上にあり、ずっと大きなものだろう。このように考えていくと、いろいろ面白い。ありときりぎりすの物語が、タローがゆきちゃんの家へ行く途中の広い原っぱで、生まれているような気がしてきた。ーーーK子(中1)---(この人はうちのパーティの一期生。いま40代半ばのおかあさん)

 ---「ありときりぎりす」をいま韓国語で聞いています。韓国語は絵文字のように面白いです。だいぶ覚えました。
 花は「ゴッテレン」わかりました「アヤスニダ」さむいんだ「チプダニダ」「ジョンブライミン リッマイミン ジョンハバケイリイ リッマイミン」まだまだあるけど、書ききれないので、こんどのノートに書きます。トランポリーナは本当に愉快です。---N子(小3)

 ありときりぎりすは、韓国語も雰囲気があると思った。お母さんも加わっての、韓国語体験の発表会も、印象深く記憶に残っている。
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ガンピーさんのふなあそびー2- 04月24日 ()
 物語の背景とか作品の生まれる環境などと、余り仰々しくはいいたくないけれど、やはりそのような場所を訪れると、ピノキオとかドンキ・ホーテなどの絵も描きたくなる。プロの油絵の先生にいわせれば、そんなのは展覧会向きではない、とか、構図が悪いとかいう。でも私は、どうしても描きたい絵は描く。
 
 Stratford-upon-Avon(シェイクスピアの生地だけれど)を訪れ、エイヴォン川で舟に乗った。その雰囲気は、まさにガンピーさんのふなあそびだった。勿論美しい町並み、木骨造りのチューダー様式の家並み、シェイクスピア劇場や高い尖塔を持つ美しい教会も、すべてよかった。でも何よりも、岸辺の緑、丸く作った橋げたの下をくぐってゆったりと行く舟は、うれしかった。白い小さいボートが、岸辺につながれ、その奥に家が見える。白鳥や水鳥もゆったり泳いでいる。本当にひょっこりガンピーさんが現れそうに思える風景だ。
 私は、ここの緑と舟と家と水辺をそのときの印象で、8号の油絵に描いた。そして勝手に「ガンピーさんのふなあそび」と、題をつけた。その絵は、奈良の秋枝テューター(故人となられたが)のうちにある。

 ---「わたしものせて」「のってもいい?」という意味の言い方が、あんなにいろいろあるなんて、おもしろく思いました。また、その言い方、声がとても個性的でその動物にあっていて、楽しく聞くことができます。
 ガンピーさんは、動物を愛し、自然を愛し、何時もそれらと会話し、一緒に暮らしているんだろうな、と思います。私も動物たちと一緒にふねにのって、お茶を飲みたい。そんな純真な心にしてくれた物語でした。---A子(高3)

 ガンピーさんは、ふなあそびのときはシャツ姿だけれど、最後のお茶のページでは、襟付きのブレザーのようなのを着ている。イギリス紳士だなあと思った。イギリスで、お茶に招かれたとき、女性はきちんとドレスを着て、ヒールの靴をはいていたのに感心したことがあった。日本だったら、着物に帯を締めてお迎えするくらいの感じを受けた。ちょっと古い奥ゆかしい奥さんだったのかしら。
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ガンピーさんのふなあそび 1 04月23日 (金)
 ヘレン・オクセンバリーに、先に触れてしまったが、私たちはJohn BurninghamのMr Gumpy's Outing を持っている。私は「えほんぶんこ」と名づけて、好きな本を集めていた。その中に、The Quangle Wangle's Hatと、BORKAもあった。当時は、この2冊に特別な思いを持っていたわけでなく、むしろQuangle Wangleは、エドワード・リアの文で、面白い絵だなあ、と思っていた。
 やがてラボに、「ガンピーさんのふなあそび」がはいるころ、「え!?」と気がついて、あらためて見ると、BORKAの見返しには「FOR Helen」とあり、The Quangle Wangle's Hatの方には、「For John」とある。これらは二人の処女作だと思うし、こんなことに感激した私は、ますます二人の作品を買うことになった。
 バーニンガムさんの絵本はたくさんあるけれど、私は、BORKA(The adventures of a goose with no feathers)と、TRUBLOFF(The mouse who wanted to play the balalaika)が、特に好き。これらをパティーで読んであげると、「へえー、こんなお話を書く人なんだ」と、ガンピーさんのやさしさをさらに身近に感じてくれるように思われた。

ーーーガンピーさんはいい人だから、いろんな動物が「のせて!」といってきます。ガンピーさんは絶対いやだとはいいません。はじめてガンピーさんに会った人でも、お友達になれると思います。ガンピーさんは、世界中の人と、友達になれると思います。---S子(小6)

 バーニンガムさんとは、思い出が多く、岐阜の鵜飼にお付き合いする機会があり、そのとき長良川から山を見て、「ああ、これは北斎のやまですね」といわれた。見慣れている山を、思わず見直した。
 そしてテューター仲間とイギリスへ行くことになり、そのことを彼に伝えて、できたらお会いしたいというと、「その日は、あいにく旅行中で」ということ。
 それはそれとして、イギリスに行き、たまたまそのときお願いした車の運転手が、バーニンガムさんの家がわかるというので、いらっしゃらなくても、家だけでも見たい・・・ということになった。
 「ここだよ。ここだよ」とわいわい。家の中でなにやらわからぬ日本語で騒がしいのを聞いたら、誰でものぞいてみるだろう。テラスにひょっこり一人の男が現れた。バーニンガムさんだ。「あら、いらっしゃったんだ」「きてよかった!」
 バーニンガムさんも、予定を繰り上げて、昨日帰ってきたばかりで・・ということだったが、彼にとっては、とんだハプニングとなった。お庭を見せてもらったり、お茶を飲んでお部屋を見せてもらったり。彼らの作品の生まれる環境の一端を知った感じだった。
 彼の部屋の壁には、小さい紙がいっぱい貼られている。スケッチやプロット的な下絵のようなもの。思いついたものを描いていき、構想を練って仕上げていく、といわれていた。
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かぶ 1 04月22日 (木)
 庭はポピー、フリージア、矢車草と、にぎやかに目を楽しませてくれるようになったが、一方で、草の成長のすごさには困っている。タンポポ、ほとけのざ。草も花をつけるのだから、と思っても、やはり草取りはしないと、大変な状態になってしまう。よいしょ、こらしょ、ではないけれど、一生懸命引き抜いている。

 私の手元には、3冊の「かぶ」の絵本がある。そのうち、最初に買ったのは、Helen Oxenbury のThe Great Big Enormous Turnip である。これは、絵本として、非常に楽しめる。素朴な昔話というより、彼女のセンスで、細やかに絵を描き、パステル調に近い色使いで、きれいに描いている。ロシアのお話からは離れ、半そでを着て、ブーツをはいているし、old man は夫のバーニンガムに似ているようにも思える。花がいっぱいあって、イングリッシュガーデンの雰囲気。
 壁にいっぱい写真を飾った部屋で、オウムと話をしているold womanを呼びにいくとか、木の上で本を読んでいる孫をよびにいくとか、絵のページがほかのに比べ倍の枚数ある。

 次に買ったのは、図書館や幼稚園にもある日本語の「おおきなかぶ」である。佐藤忠良さんの絵は、ロシアのお話としてのこだわりは持っていても、私たちにしたら、「ゆきむすめ」とまったく同じ感じであって、通り一遍で面白さがない。

 そして次にラボの中に「かぶ」がはいってきた。小野かほるさんの絵は、素朴でかわいらしく、昔話「かぶ」の雰囲気を持っている。バークサンダルをはかせ、服のすそにはロシアの特徴を持たせてある。また、お話が進むにつれて、その表情がよく、丁寧に描いてある。ラボの
Grandpaは、かぶの種をまいている。「おおきなかぶ」では、おじいさんが、ポコンと、かぶを植えている。

ーーーじっちゃとばっちゃが、「おおきなかぶになれ」「あまいかぶになあれ」といって、人間をそだてるようにそだてていくところがいい。
ーーーH君小2

ーーー「いどにおちたぞう」ににているね。---M子小1
 (井戸に落ちた象を馬やヤギが出てきて引っ張るが、だめで、最後にねずみが出てきてみんなで力を合わせて成功する。エッツの話)

 子供たちと一緒にこの3冊を、丁寧に見る。ラボの「かぶ」の本のあたたかさが、みんなの中にもしみこんでいった。
 単純な物語からも、心に太い芯を残すことができる。
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わだつみのいろこのみや 1 04月18日 ()
 最近スーパーの鮮魚売り場の切り身の魚に、「**ダイ」と余り知らない名前をつけて、売られているものがある。日本近海のものでなく、切り身で売る場合、わけのわからぬ名前をつけるより、皮など見た目がタイに似ているならば、「**タイ」と、タイの名前をもらったほうが、買い手に受けがいいと、魚屋さんは言う。
 私はスーパーを利用するにしても、対面コーナーで、なるべく一匹買いをするように心がけている。家族の人数が少ないので、半身を刺身、半身を切り身、そしてあらももらう、という買い方、がパックの切り身を買うより好きなのだ。
 ところで鯛は「マダイ」。おめでたい魚として尾頭付きで使われるもの。なんといっても、味も姿も品のいい魚だと思う。古事記に「このごろ、たい、喉にノギ(パソコンでは漢字がでません、魚へんに更と書く)ありて」という。魚が魚の骨が喉に刺さったというのが面白い。

 ---小さいときから知っていた、「海幸彦、山幸彦」の話が、すごくきれいな話となって、新しく出会ったという感じです。聞いていると、いろんな色が、目に浮かんできます。ちょっと普通の絵には、かけないと思うので、この抽象画は、まったくこの物語にふさわしく、いろいろイメージが浮かんですごくたのしいです。僕はホデリの役になり、「白い砂浜」や、「葉っぱの一まい一まいをみがきたてるような林」を、どのように感じ取ろうかと、一生懸命でした。---H君高2

 「わだつみ」海をつかさどる神、「いろこ」うろこ。こんな題名を持つこの物語は、最初はとっつきにくいものでしたが、古事記などといっしょに読みすすめながら聞いていると、とてもわかりやすく、興味深い物語に思えてきました。ちょっとした弾みで起こったことが、スケールの大きい物語に発展しました。
 最後-ーー赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 
            君がよそひし 貴くありけりーーーいまも、しっかりと心の中に刻んであります。---Y子大1

 さらにY子は、ラボの話の中には出てこない終わりの部分を興味深く、話すのだった。海に残されたトヨタマヒメは、子供が生まれそうになって、ホオリを頼ってやってきた。ホオリは大急ぎで、お産のための産屋を作った。その屋根は、ウの鳥の羽で葺いたのだが、葺き終わらないうちに、生まれることになってしまった。トヨタマヒメは、「どんなことがあっても、中をのぞかないでください」といったけれど、
ホオリはついにのぞいてしまった。その姿は、美しいトヨタマヒメではなく、大ワニだった。(昔のお産の苦しさすごさを言うのでもあろう)見られてしまったトヨタマヒメは、[もう恥ずかしくてお会いできません」と海の中に姿を消した。そしてそのうまれたウガヤフキアエズノミコトのため、妹のタマヨリヒメを送りこの歌をホオリに送った。

 ラボの物語が、この歌で終わっているところがにくい。興味を持って読みたければ読むといいーーーと教えている。
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オオクニヌシ 2 04月14日 (水)
 今、家を新築中の親しい人に、新築祝いにお人形を作ってあげようといった。どんなのがお気にいるか、パンフレットを見せて選んでもらった。彼女はいろいろ迷ったあげく、「やっぱり床の間には風格のある「大黒様」をもらうわ。」といった。だからこれから、その大黒様を作らねばならぬ。
 大黒様といえば、本当に何時ごろからこのお姿になったのだろう。後の世の人たちの、勝手な、自分たちに都合のいい想像が、床の間に飾って、福を呼び、財を呼ぶように、うちでの小槌まで持たせてしまったのだから。昔の人は、たくましいと思う。ラボのオオクニヌシも、最後を大黒様を知らない子はないだろう、と結んでいる。

 子供たちも、[国生み」に出てくる人物では誰が好き?--というと、オオクニヌシとやまさちひこ(ホオリとはいわない)という小さい子が多かった。

ーーーオオクニヌシは、とても情け深い人です。ウサギの話を聞いてやり、いい方法を教えてやりました。でもオオクニヌシはとてもかわいそうだと思います。八十神やスサノオに殺されてしまいそうになりました。でも、いいことをしておれば、きっといい事が起こると思います。どきどきしていても、必ず助かります。荒野に連れ出され、火を放たれて、どうしていいかわからぬときも、ねずみが出てきて助けました。ねずみのいった言葉が面白いと思います。「内はひろびろ、外はきゅうくつ」。この物語には、いっぱい不思議な言葉や、なぞのような言葉が出てきます。---Y君小6

ーーー僕たちの周りにも、このウサギのような人もいるし、八十神みたいな人もいる、---因幡の白兎、として知っている物語、その中に出てくる大国主命の本物の話で、(この言い方が面白いと思う)やさしくて我慢づよいオオクニヌシが、いろんな困難を仕掛けられて、それを切り抜け、成長していくところがすごいと思うし好きです。。僕たちが知っている大黒様はこのオオクニヌシの姿だと思いました。---T君小6

 オオクニヌシは、いろいろな悪巧みにも、ぎりぎりまで我慢して、それでも相手が自分への攻撃をやめないときは、痛快に立ち上がってやっつける。戦えば勝つ力と知恵を内にもちながら、できる限り我慢して、争うまいとする。真の勇気とはどういうものかを教えてくれているのだろう。

 
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国生み 04月11日 ()
 岐阜から東海北陸道で、一時間半。荘川高原の山小屋へ行った。岐阜の家の周辺では、桜も終わりかと思われるのに、たった一時間半で、雪の残る、早春の高原に着いた。ふきのとうがいっぱい出ていた。

 夜、まだ小寒い外に出てみる。地面の雪と、葉を落とした木の枝が空に伸びているのを明るいと思うくらい、暗い。夏、数人のラボっ子と来たとき、木の葉や草の茂った森は真っ暗。その暗さにびっくりした。そのとき、太古の暗闇について想像し話し合ったことがあった。

 こんなことも思い出しながら、先日来のスサノオの影響もあって、「国生み」が聞きたくなる。時々、また何回でも、聞きたくなるのは、格調高い日本語、落ち着いた語りである。

 ラボの「国生み」の物語は、古事記の上巻、天地の始まりから、海幸山幸まで。それを、本当にうまくまとめて、ラボっ子たちのためにつくられたものだと、いまもって、この宝物に感謝する。

 とにかく、神様の名前で言うと、アメノミナカヌシから、ウガヤフキアエズノミコトまでの話しになる。古事記では、もうどんどん出てくる神様の名前で、いやになってしまう。

 それをーーーがらんどうがあった。
            大地は、まだなかった。
       がらんどうしかないけれど、まんなかはあった。
    そのまんなかを見あげると、高いなあという感じがあった。
    とうといものがあるぞという感じだった。

 と始まる。パーティで、古事記(勿論現代語訳のやさしいもの)を読んであげて、「がらんどう?」・・・「この神様のことか?」「まんなか?」「どの人だろう、この神様かなあ」などと、わいわいやったことも思い出す。
 また、「高いなあ」という感じは、どのように言ったらいいのだろう、と、何回もそこのところをみんなで言ってみた。また、「とうとい
ものがある」という感じの高さとは、どんな言い方をすれば、感じられるのだろう、と思った。格調高い文章も、文字だけを読んだのでは、何の価値もなくなる。

 古事記を読んだ幾人かの高大生は、すごく面白いといった。私も面白いと思う。特に彼らの読みたくなったのは、ラボの物語にない部分の面白さだ。それもわかる。そして昔の人の想像力に感心した。日本人の祖先がたくさん登場し、いろんな事件を引き起こす、と考えれば、古事記の世界はロマンチックで、おおらかな世界だと思う。
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