幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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ちゃこの日記 [全413件] 401件~410件 表示 << 前の10件 | 次の10件 >>
スサノオーーー霜月祭り 04月08日 (木)
 スサノオは重い話ではあるけれど、子供たちの中には、素直に入り、喜んで受け入れられた物語である。
ーーースサノオは、いい人なんだけれど、あばれんぼうなので、みんな、しんじていませんでした。天の国にいっても、らんぼうをしたので、あねがみが、石のどうくつにかくれて、空はまっくらになりました。それは、あまてらすおおみかみの話でしっています。--Y君・小3

ーーースサノオは出雲の国でヤマタノオロチを退治して有名です。ぼくは、小さいとき、おばあさんから聞いて知っていました。この話も、千吉が、おばあさんから聞いているようになっています。こうして昔から語りつがれてきたのだと思います。--U君・小5
ーーーといった文章が残っている。

 ラボのスサノオには、霜月祭りがでてくる。現在に残る霜月祭りのひとつを見に行ったときの感想を、書いてみよう。

 南信濃村、遠山郷一帯の神社で、12月、次々と日程をたてて行われる。重要無形民俗文化財に指定されており、私たちの訪れたのは、白山神社。今でこそ、アクセスが容易になったとはいえ、遠山郷は秘境の最たるもの。当時の深刻な状況が思いやられる。
 鳥居の奥にある社は、神社というより、小屋というに近い建物で、そこに神様が祭ってある。
 この日は、神社の土間に土でかまどが作られ、大がまに湯がたぎらせてあった。そしてその上には白い半紙を切って神座が飾りつけられてあった。すべて村人たちの手作りの神事であり、村を挙げての祭りである。
 遠くから行った私たちも、今日一日、この祭りに参加させてもらうのだから、当然、志を寄進した。すぐ半紙に「金::円・**様」と貼り出された。そのような紙は、すでに神殿の土間の壁一面を埋め尽くしていた。それらは、「金::円」から「神酒一升」「いわし一箱」「わらじ五足」など、村人一人ひとりの協力と、この祭りへの気持ちがうかがえる。
 祭りは午後から始まっているが、本番は夜。見物客も増える。特に面をつけた舞の始まるころとなると、神社いっぱいの人が集まる。そうして祭りは深夜まで続けられる。
 8時ころ、この祭りのみに出されるという面が面箱から取り出されて、神前に並べられた。面を扱う人は、口に半紙をくわえ、息が面にかからぬようにするのだという。
 面をつけるのは、大体お年寄りで、それを次世代のものが、提灯で足元を護り、笛と唄で誘導する。面をつけると、足元が見えないのだ。次々と面をつけた神(村人)が、かまどの周りで舞をする。そのうち、四面の舞といって、面をつけて荒れ狂う舞がある。それだけは、若者が威勢よく飛び上がり土間を駆け回る。それを、兄貴世代が受け止めるという、いろいろな想像を抱かせる舞であった。
 私のそばに小さい子供のある家族がいた。大黒様が出てきた。
 「ほら、おじいちゃんだよ。」と、母親が言う。小さい子は驚いた顔で大きな目を開いて見つめていた。大黒様は、舞いながらそばに来て、その子の頭をなでていった。

 八百万の神を招いて湯を献じ、新しい年に生きる魂、命、の蘇生を祈るという古くからの祭りは、ダイナミックな盛り上がりと共に、何も考えないものにも、理屈抜きで、何かを伝える力がある。

 村の長老は酒を飲み、面をつけて神(自分以外のもの)に変身して舞う。その全身に、これまでの人生、生きながらえた、喜びと責任がこめられている。次世代に伝えていかねばならぬ、長生きせねばならぬ、と思えば、それこそが元気の源である。若い世代は、それらを受け継ぎながら、囃子の声に、舞う足元に、長老たちの老いを含めた人生のすべてを感じ、自分たちの責任を思うのであろう。

 この間中、神である村人が、笹の枝を湯につけて四方に撒き散らしていた。
   蝶るいのこらず   はう虫のこらず
   お湯召せ   お湯召すときは   雲とのぼれ

   しずかなれ  しずかなれ  精しずかなれ
   深山の百千の精もしずかなれ
 心の底から、全身で唱えることができた言葉であった。
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こつばめ チュチュ 04月06日 (火)
 スサノオのことを思い出して、霜月祭りのことも、「国生み」のことも、わぁ、と頭の中がいっぱいになっているけれども、今どうしても書きたいのは、「こつばめチュチュ」である。

 4月。新学期、入学式のときである。ピカピカの一年生を見ると、私の頭には、この物語が飛び込んでくる。

 「こつばめチュチュ」はツバメの話、と思って、みんなツバメになって飛び始めた。ところが、その音楽は、ターン・タタタタ・タタ・タン・・・タタターンターーーと、どうしてもツバメの飛ぶ感じではない。「ツバメの感じじゃないよ」といった子の言葉に気づいて考える。

 そう。これは小学一年生の音楽だ。そう思うと、お話が、すーっとみんなの体の中にとけ入った。
 この話は、シンプルなようでも、一言一言の言葉が意味を持つようで、前後の文脈でまたその意味が深まり、解釈が深まる。
 
 授業は、いつ始まるの?「おはよう、チュチュくん」といっているのは?これはチュチュだけにいっている、「みなさん、おはよう」でないから、これはまだ学校への途中。

 授業が始まった。「あっちをごらん、・・・・ひこうきがとんでいるでしょう、あれは、シドニーまでいくんですよ。」・・・それからしばらく続く授業風景。でもここで、マスケル先生がこの日教えておかねばならないことは、・・・
 あなたたちも、もうすぐシドニーへ行くんですよ。ツバメは鳥の中で一番早く飛べますね。でも、南の国まで行くには、虫をたくさん食べて、丈夫な体になって、くださいね。・・・ということか。
 そしてつぎはその予行演習ともいうべき運動会。けれどもそこで、事件が起きる。チュチュは、みんなから離れて、入院しなければならなくなる。注射も我慢する。

 困難に出会ったり、病気したり、そうしてみんな少しずつ成長していく。まさに一年生への応援歌だと私は思う。4月、新一年生歓迎会で、よくやった物語だ。
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スサノオ 04月03日 ()
 今、大阪の宝塚歌劇では、雪組公演の最中。しかも1914年が初公演だから今年は90周年だという。その公演の初日に私は宝塚に出かけた。今頃なぜ宝塚?ーーーそれは今年90期生として宝塚音楽学校を卒業した50名の初舞台でもある。しかも、いい成績で卒業できたこの中の一人、「響れおな」(ひびきれおな)が、わがパーティのラボっ子だったから。 考えてもドキドキする舞台であった。
 そして演目はスサノオ。勿論、このスサノオは、宝塚の歌劇として演出者がそれなりの考えとテーマを持って脚色、演出されているから、宝塚らしく華やかでもあるが、なかなか見ごたえのある舞台だった。
 そして、私の目は、何といっても、わが子、響れおな、を追っていた。50人のスターのたまごたちは、全員「民」の男性、女性の役である。彼女らにせりふなど、まだあるはずがない。トップ・スターや先輩たちの演じる役の下で、懸命に振る舞い、コーラスで盛り上げる。
 そんな姿が、私の中で、ふと、彼女の小学校のときの姿とダブってきた。100名余りでのテーマ活動は、迫力があって楽しかった。(大勢の中では、すべての子の親が満足してくれるように、すべての子にせりふがあるわけがない。テーマ活動の中では、すべての子が物語をこころで語っていると、私は信じていた。)小さい子達は、木になったり、風になったりを、十分に楽しみ、物語を体で受け止めていた。そうして大きい子の態度、語り、英語を、うまいなあ、と思ったり、あこがれたりする。
 うちに帰って、彼女の言葉が残ってないかと、文集を調べてみた。
 [西遊記」のテーマ活動で。---[そんごくうのTくん、すごくじょうずで、すてきでした。わたしはT君に、聞きました。「はずかしくなかった?」 T君は、「はずかしかったよ。でも一生けんめいやってたら、たのしくなったよ。」といいました。わたしは、わたしなりにうまくできたと思います。](小3)
高校生に憧れていた小学生は今、スターと共にいるこの舞台で自分の未来に夢を描いている。応援しているよ!響れおな!

 ラボのスサノオは、中学生、高校生に特に人気があった。彼らには、とても魅力的な英雄神なのだろう。自分を抑えることができない暴力性は少年、自分たちに重なる。空の神に追われ、地上に降りたスサノオは、ヤマタノオロチを退治して、クシイナダと結婚する。ということは物語の中で自分も一緒に青年に成長する。誰もが気持ちよく語った物語だった。
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なよたけのかぐやひめーその2-「死なれて・死なせて」 1 04月01日 (木)
 先日の「なよたけのかぐやひめ」の項に、がのさんから書き込みを頂いたので、もう一度書きます。

 私は秦さんの「なよたけのかぐやひめ」には、文学を読む姿勢というか、その心を教えてもらったように思う。何が何でもすべての作品をそのように重く受け止めねばならぬというのではないが、作者が魂をこめて書いた作品を、より共感し、より近いところで受け止められれば、それだけ、心に残るものも多く、その人自身の糧ともなるのだと思う。
 
 「死なれて・死なせて」秦恒平・弘文堂ーーにおいて、秦氏は、「なよたけのかぐやひめ」は、親が、真実いとおしい幼いものに「死なれて」しまう物語。天女の昇天などという美化とは、およそかけ離れた切なさを感じると、書いておられる。かぐや姫として伝わる、只のおとぎ話ではなく、完成された文芸作品だといいつつも、特に「死なれる」ものの胸をかきむしるほどの焦慮、苦しみの想いを、ひとつひとつの言葉にのせて、この「なよたけのかぐやひめ」を書かれたのだと思う。
 「死なれて・死なせて」の中で、その想いを、秦氏の生い立ち、境遇、体験を根こそぎ掘り起こし、その実感を伝えようとされている。更に多くの文学作品、古事記、平家物語、源氏物語などにも関わって書いておられる。また、漱石の「こころ」については、特に深く書かれている。余分だけれども、「こころ」は、秦氏の戯曲があるから。
 そしてこの避けられないものを、乗り越えていかねばならぬ。この愛があるゆえの悲しさ、それを乗り越えて「生きる」をテーマに書いておられる。
***
 三年という月日がたち、国の帝となよたけのかぐやひめとは、文をかわし、歌を詠みかわして、ほのかな愛とたがいの敬意とを伝え合っていた。
 そしてその年の春はじめから、ともすると、かぐやひめは月の出美しく晴れやかな宵にかぎり、かえって、心しおれた様子をおきなやうばに見せていた。
ーーーどうしたことか、あんな姫を見たことがない・・・
ーーーお月さまの顔を、そんなにごらんになるもので、ない。縁起がわるいといいますよと、何度もいうてみるのですが・・・。
***
 美しい言葉。声に出していってみたい言葉なのだ。またそうしなければ、本当に美しいと感じられない。知識として知るものでなく、自分の物として感じるものだから。

 (「死なれて・死なせて」の本も上手に伝えることはできません。)
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ピノッキオ 03月30日 (火)
 風邪を引いて久しぶりに医院へ行った。このクリニックの子供たち三人がラボっ子だったこともあって、親しくしている。
 待合室に、ピノッキオの油絵が飾ってあった。これは私の個展のときクリニックの奥さんに、「待合室には、こういう明るい絵がいいわ」といわれて、譲ったものである。
 イタリア・フィレンツェの郊外、コッローディ村(ここは作者コッロディの母親の在所という)のピノッキオ公園の入り口にある、ピノッキオのモニュメントをシルエットにして、その前に私がお土産に買ってきたおもちゃのピノッキオを二人並べて描いてある。待合室の雰囲気にぴったり納まっていた。

 ピノッキオ公園は、メリーゴーランドなどもあって遊園地風になっているが、すべてピノッキオのお話。仙女さま、棺おけを担いだ4匹の黒うさぎ、などのオブジェのそばを子供たちがお話をしながら飛び歩いていく。ピノッキオの物語がイタリアのこどもの生活の中に溶け込んでいるという感じがする。広場のまわりにはタイルにピノッキオのお話の各場面が描いてある。最後には大きな鯨の中に入れるようになっていて、時々潮を吹き、水浸しになる。
 ピノッキオ公園の売店で小さいピノッキオ人形が、たくさん売れて、売店のおばさんはちょっとびっくり。テューターはラボっ子の土産にいつも、どうして?と思われるほどの数を買うから。

 フィレンツェは1981-1983年の3年間ピノッキオ誕生百年祭をやったそうだ。ピノッキオは1881年に「操り人形のお話」として連載が始まり、ピノッキオが木の枝につるされて死んでしまうところで、一応終わったのだ。その後、あまり評判がいいので、またピノッキオをよみがえらせて、連載を続け、ついに1883年まで続いた。だから、この三年間をピノッキオ誕生の年としているらしい。そして、誕生日も2度ある。人形として生まれて・・・人間として生まれる。
 
 
 
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ナーサリーライムーーーラボって? 03月27日 ()
ダンボールにいっぱいのパーティだよりは、育っていったラボっ子の声や顔が詰まっている。こんな声も聞こえる。
 
 What are little boys made of?
       おとこの子って なんでできてる?・・・

 What are little girls made of?
       おんなの子って なんでできてる?・・とやっていた時

 Yちゃんが
 
 ラボって なんでできてる?
        ラボって なんでできてる?
 せかいのおはなし そしてともだち
        たのしいであい ふしぎなであい
 そんなもんで できてるのよ

 ラボっ子って なんでできてる?
        ラボっ子って なんでできてる?
 ちえとセンス ゆたかで やさしい
        こころとことば
 そんなもんで できてるのよ

 パーティって なんでできてる?
        パーティって なんでできてる?
 やさしいなかま たのしいなかま
        げんきでたのしく やれるもの ぜんぶ
 そんなもんで できてるのよ!

 この子も、このあいだ結婚したんだ。
 
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なよたけのかぐやひめーーー(折り紙雛その2) 1 03月26日 (金)
 毎年たくさん折っている折り紙雛を応用して、かぐや姫の物語を作ることができる。和紙の柄、髪の毛の色などを工夫して、おきなやうばをつくり、五人囃子を応用して護りの人々を作っていた。
 
 そんなある日、3年生のKちゃんが、竹筒に紙の人形を入れて持ってきた。みんなが「わぁ、かわいい」といい、それぞれにいろんなことを考えたに違いない。結果として、竹やぶへいって竹を切らせてもらってきてみんなが好きなかぐや姫を作りたい。ということになったのだ。
 トラックを借りてきて高大生が、竹取のおきなだ、と喜び勇んで竹やぶに入らせてもらったものの、竹を切るなんて、容易くできることではない。手も足も血だらけにして、悪戦苦闘。やっと数本の大きな竹をもらってきた。それを斜めに木って節のないのにも底をつけ、みんなが自分のかぐや姫を入れた。
 こんなことで気分も上々、4話全部を一気に発表しよう、ということになり、1話から4話まで2時間の丁寧な重い発表になった。やる方も、見る方も大変だった。

 とにかくこの「なよたけのかぐやひめ」は、私は一言一句逃したくない。秦恒平さんの日本語の気持ちのいいこと。リズムがよく、格調高く
古典の味があって、新しい。私にとって、声に出して読みたい日本語のひとつだ。
 秦恒平さんは、ご自分の本「死なれて・死なせて」の中に、この日本語の原稿を頼まれたときのことを書いていらっしゃる。そして竹取物語についての想いから、死なれて、死なせて、「愛」そして「生きる」を書いている。この本を読むと、なよたけ・・・の味わい方も更に深まってくる。
 
 今も時々、刺繍や、人形を作りながら、おとなのCDとして聞いている。
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折り紙雛(その1)ーーー国際交流 03月25日 (木)
 私のお雛様の中で特筆したいのが、折り紙雛。
 この折雛は、私がラボを始めたころに出合った一冊の本からはじまった。[折りびな」(田中サタ著・石井桃子監修・福音館書店)という本で、殿、姫、三人官女、五人囃子の折り方が示してある。和紙の折り紙を、唐衣、小袖、下着、袴それに髪の毛を作る黒と顔を作る白の紙など4枚から7枚を重ねて折るという相当高度な折り紙である。
 この折雛を、石井桃子さんがお友達から外国へのお土産にといただかれ、そのかわいさに感動した石井さんは、「三月 ひなの月」の挿絵にこの雛をかたどって使われることになる。その後、大勢の人の要望にこたえて、「折りびな」の本ができたらしい。
 田中サタさんは折り紙の名手だった嵯峨千代から伝授されたという方に教えられたというが、創案者は不明らしい。
 
 私は、この十人を幾組か折った。外国へ赴任する家族に差し上げたり外国で女の子が生まれたとき、送ってあげたりした。
 それから私は、この中の殿と姫の二人を折ってそれがちょうど入る大きさの「たとう」に入れた。これは国際交流のお土産として、毎年使われた。これまでに何百組折ったことだろう。
 この殿と姫を柄の違う上着、それに合う色の袴でたくさん折って並べると、面白いことに目も鼻もない顔にも表情が見えてくる。そして雰囲気の合う二人(殿と姫)がきまる。そんな二人の入った「たとう」をもらうと、みんな「え、何が入っているの」という顔で、そうっとたとうの三角の耳をひっぱり、中から出てくるかわいい折雛に驚く。
 
 何人折っても飽きることなくかわいい。
 これからもまだまだこのプレゼントは続くと思う。
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つくし摘み 1 03月24日 (水)
 私は小さい時から毎年つくしをを摘みに行っている。この頃はみんな忙しくてそんな時間を作るのも容易ではない。
 つくしの食べ方について話をすると、ほとんどの人は、「たまごとじにして・・・」と言うのが多い。私は甘辛味の佃煮風にする。これは日持ちもするし、人に差し上げたり、地方に送ることもできる。だからつくしをつむといっても、一握りというような感じでなく、たくさんの量がほしい。
 
 春になると、[ねえ、どこか、つくしのたくさん出ているところ知らない?」と、みんなに話しかけていた。
 ある年の春、そんな、つくし好きの私を知っていたラボっ子のお母さんのOさんが、「先生、うちにつくしがいっぱい出たから取りに来て!」という。「あ、そう。でも・・・あなたもとって食べるでしょ」と、私は屋敷周りに出たくらいのつくしを想像して、躊躇して言った。でも、とにかくたくさんあるから、というので「じゃ、お言葉に甘えて・・・」ということになり、袋を持ってつくしを摘みに行った。
 Oさんのうちの屋敷裏へ連れて行かれて私はびっくり仰天。5mくらいの畝2本に、2,30cmにのびたつくしが,びっしり生えていた。
 Oさんは農家。「つくしが生えてくるように、ここだけ耕さないでおいたのよ。」という。
 私は、うれしさ、感謝、驚きの入り混じったなんともいえない気持ち
の中、確かに有頂天でつくしをとった。Oさんとおしゃべりしながらとっているのだが、二人ともきっと「何か変だ」と思うのだろう。妙な笑いがこみ上げてくる。見つけてとる・・・のではなく、ひたすらとるつくし・・・というのは、おかしくて、手も笑ってしまう。畝の半分くらい取ったら十分。あっという間にたくさんのつくしをとって、私は大満足の筈。「本当にありがとう」と、お礼を言って帰った。
 私のため、私を喜ばせようとつくしを生やすことを考えてくれたOさんには、心から感謝。でも、「やはり、つくしは、さがして・・・あった!と、見つけて摘むものだ。」

 今年も、つくしを摘みに堤防へ行こう。
 
 
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空のかけらをいれてやいたパイ 03月21日 ()
 ここに1メートル四方くらいの大きさのタペストリーがある。モチーフは「空のかけらをいれてやいたパイ」。お話を聞いて幼児たちがきれいな絵を描いてくれるので、私も一生懸命作ったものだ。みどりと紫とピンクのグラデーションがとてもきれいなインド綿の古いワンピースが、このパイの浮かぶ空のイメージにあっていた。それを小さなパーツに切って、縫い合わせていく。下の方は暗く、上に行くにしたがって淡く夢のある空になっている。そこに黒い布のアップリケでパイのシルエットが浮かんでいる。ラボっ子の小さい妹がついてきてお昼寝をしてしまい、これをかけて寝ていたこともあった。

 ある年の3月、There's some Sky in this Pieのテーマ活動をやっていた。そこへ、私立中学受験のためしばらく休んでいたY君がやってきた。みんなで「よかった、よかった」と迎えて、楽しくテーマ活動をやったにもかかわらず、Y君の態度は沈んでいる。[どうした?]「うん、なんか作り話でつまらない」というのである。
 なるほど、学校、受験という現実にあっては「目に見える世界」しか信じられないかもしれない。しかし、「目に見えない世界」を感じる能力も大切である。知識は必要だ、しかし知識だけで本当の人間の可能性は伸ばせるのだろうか。どんな科学者でも何かを発明し、創造するとき、そこに「ひらめき」が必要だ。空想できない人、夢のない人に何が作れるだろう。と話し合っていき、[空想すること、また、空想できることはすばらしいこと、必要なこと]と言い切れる雰囲気になったことを覚えている。それからずいぶん私もそれが裏づけできるように、ファンタジーについての本を読み研究したものである。
 
 There's some Sky in this Pie はジョーン・エイキンのファンタジー短編集 A Necklace of Raindrops and other stories の中の一編である。小さい子達はこのラボの本とは違う表装の本に同じピアンコフスキーの挿絵を見つけてびっくりするのである。

 これの訳本、岩波の「しずくの首飾り」(猪熊葉子訳)も何回読んだことだろう。この中の「しずくの首飾り」や「魔法のかけぶとん」はスケールが大きく、みんな大好きだった。手元の本は歴史を感じさせるほどになっている。次に読んでやるのは、孫のためだろうか。

 
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