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| ちゃこの日記 [全413件] 411件~413件 表示 << 前の10件 |
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今年のお雛様は、もう、どのうちも片づけられたと思う。私も2月から飾っていた床の間の雛の掛け軸や、家中のあちこちに飾ってあったお雛様を片付けたところである。
ひな祭りは、確かに女の子の幸せな成長を願っての行事だと思うけれど、ちょうどこの時期、春を待つ気持ちと重なって、いかにも幸せを呼ぶように思える。私はそんな気持ちを大事にして、いくつになっても自分のためのひな祭りをやっている。
私の飾るお雛様は、立雛,土鈴雛、紙人形といろいろあるが、特別の思いで飾るのは、折り紙雛と40年余飾り続けた私の手作りの雛である。
この手作り雛は、私が娘のために作った、全くお金のかかっていないお雛様である。
髪の毛は黒糸。綿を丸めて白絹で覆って作った顔には、米粒で鼻がつくってある。内裏様の金襴や、三人官女、五人囃子の着物や袴は、私の母親の代からの帯地や着物の端切れで、工夫して着せてある。それらはみな、かまぼこの板に黒い艶紙を貼り、その上に一体一体乗せられている。五人囃子の鼓には、ミシンのボビンが利用してあったり、笛はつま楊枝。とにかく、それらしく作られている。これらを箱や本を利用してひな壇を作り、赤い布をかけて、ダンボールで作った金屏風を立てて飾る。
はじめは、一二年の、間に合わせのつもりだったのが、娘もこの人形で大満足。小学校のころには、「世界でひとつの私のお雛様」と、得意げに作文を書くほどになった。今私が、人形作りを本格的にやりだしたことを考えると、こんなところに私の人形作り、細工ものの原点があったのかも知れぬ。
今、手芸店には簡単にすぐに作れるいろいろなものの材料が売られている。それらを利用するのも、作り方を覚えたり、アイディアをいただくにはいい。でもパッチワークや細工ものの本当の精神は、この残り布で何を作ろうか、とか、これを作りたいけれど何か利用できるものはないか、と考えるところにあると思う。
裁縫というのが一般的でなくなった今は、残り布などもない。でもブラウスやエプロンの古いものを、廃品回収に出す前にちょっと考え直すだけで、かわいい柄の小布が出たり、思わぬアイディアで楽しいものができるかもしれない。
こういうことに時間をかけたり、考えたりするのも、かえってゆとりと充実感を味わう生活になるのではないかと思う。そしてまさに手作り教育ラボにもつながる精神ではないかと。
(折り紙雛は、また別の項目にします)
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ラボ・テューターをやめて*年、ラボっ子たちが集い、楽しんだ痕跡はそのまま。ラボ・ルームの状態はほとんど変わっていない。ただ、部屋の空間だけは、絵を描く仲間が集まって、絵を描く教室として使っている。
壁面を埋めているのは絵本や児童書。ラボの活動にあわせてそろえた物語絵本やその関係資料、文庫活動や読み聞かせのために集めた民話や児童書である。絵本を集めるのは私の趣味でもあった。書店の絵本コーナーで、自分がひきつけられた絵本を毎月買い、「これは無駄遣いではない、ラボっ子に還元できるのだ」と自分を納得させて、楽しんでいた。だから相当の冊数になり、その中には、原書、特にマザーグースの絵本など、何十冊と集められていた。
ラボっ子たちは活動の時間より早く来て本を読んだり、また、そのあと借りていったりした。みんな、お話しが好きになった。テーマ活動の物語を複数の異なった作者の絵本などで見ると、それぞれの子の発想が豊かになった。みんなが利用し、みんなに親しまれた本。・・・それがこのところ、私にほこりを払われているだけで、あまり動かず、部屋の飾り物になっている。私はふっと思った。「これは確かに私の宝物。でも本当にいいものは、やはりそれが活用されることだ」と。そして、今、活用してもらった方がいいと思い、現役テューターに譲ることにした。
簡単に[どうぞ]というのではない。一冊一冊手にとって、いろいろな思いとともに考えた。「これはよく読んだ本だ。また読み聞かせに役立ててほしいな」とか、「この本はみんなが好きだったなあ」と、次に読む子の顔まで想像するのだった。そして、私のお別れ出きる本と、できない本とを分けていった。
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そうして2,3人ずつ若いテューターに来てもらって、話をしながら本を選んでいく日が続いた。「わぁー、ベスコフだ!ベスコフ大好き。これはベスコフの原書?」「これはエッツ、これもエッツなのね」
「私、この大草原の本がほしい。マザーグースはどれもほしいくらい。こんなの見せたらよろこんで、ナーサリーライムも楽しくなるだろうね」
などと、時間は、あっという間に過ぎる。「こどものとも」も何百冊。
「いちごばたけのおばあさん」を手にとって「なつかしいわ」という。今も続いている福音館の「こどものとも」。私の持っているのは、そのバックナンバーということになるのだが、かえってそれがなつかしい。選んだ本を廃品回収のようにビニールテープで縛り、喜んでもっていってくれた。
淋しがってはいけない。[さようなら]をいった本だから。と心の片すみで思いながら、一方ではすごくうれしくなる。
「あ、このアリスは、この人のところへ行くのか」「あ、この人がアボリジニの本を読んでくれるのだ」と。本も喜んでいるように思える。
どれもまた明日から何人かのラボっ子の目に触れ、人を喜ばせ、人の心に残ってくれるのだ。私の財産、私の宝物、私の思い出として置いておくよりも、これから更に一働きも二働きもしてくれるこの本たち。
「みなさん、いい活動をしてくださいよ。」と、祈りながら送り出した。
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毎年2月を過ぎるころ、私は庭の枯れ枝を取ってきて、部屋に飾る。その枝に私のトプーたちが止まるのだ。
私のトプー。それは何年か前、テーマ活動をやっていて、幼児が紙を切ったり、ティッシュをちぎって飛ばしていたとき生まれた。その後、毎年春を待つ頃、このテーマ活動を思い出し、このはるかぜたち、「私のトプー」を作って、楽しみ、みんなにプレゼントもしてきた。
それは、綿を大豆よりやや大きめに丸め、ストッキングを4cm角位にきって、のばしながら綿を包み糸で縛る。縛った元のところで余分の布を切ると、小さいかわいいはるかぜのからだができるというわけ。それに、一辺5mm位の三角形にきったフェルトを糸の先につけ、ぶらぶら動く手足にする。サインペンの先で、トン、トンと小さい目を入れると、かわいい(小野かおるさん風?)はるかぜになる。手足が、糸なので、ぶらぶら動くのが、表情があって面白い。
こんなのが部屋のあちこちにそっといると、なんだか楽しく、春を待つ気持ちとしてもいい。物語を知らない近所のおばさんまでが「かわいいね」といって、作って飾っている。
小野かおるさんは、ずいぶんたくさん絵本、児童書を出している。私はどれも大好き。暖かい感じがする。はるかぜトプーのテーマ活動をやっていたら、小学低学年の子が、「これと同じ・・・」といって「ねずみおことわり」(小野かおる作・絵)という絵本を本棚のたくさんの本の中からすっと出してきた。そして、「こっちは春のお日さま、こっちは夏の太陽だよ」といった。
あるとき、庭に出て「春見つけをしよう」といった・・・・みんなで見つけた春の報告。
「黄色い花が咲いていた」[すいせんが咲いていた」「かれた草のところに青い草が出ていた。白い花も咲いていた]・・・「あのね、うめの木からはね、もうトプーがでてっちゃったの,もうお花がしなびてたから。あっちのはっぱのない木にいったんだよ。」
「春一番」が吹いたといわれた翌日。「昨日、ひどい風だったねー」
「うん、うちの庭もキイロホッペターズとモモイロビンターズの大喧嘩」・・・なんとラボっ子ならではの会話である。
何かにつけて、物語が浮かぶというのは、心温かく、いいものである。春先、今も、思い出される会話である。
はるかぜとぷーのし
とぷーは はるかぜのこ
ふわりとうかんで おでかけ
みんなをつれて ふわり ひらり
お花を咲かせ ちょうちょをとばす
ライオンのたてがみ もうふのよう
あらあら ここはいけない
けんかがはじまる
イエローチークス
がんばれ スイーッシュ
ピンクチークス
ぼうしがとぶよ めがいたい
クワーィエッ!
もう、やめよう みんなが こまってる ーーーN子(小4)
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