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来た~~~っ! いえ、地震でも火事でも火山の噴火でもなく、花粉症の症状。
早暁のころから鼻水がとまらない。アタマは、ぼ~~っ…。
でも、これ、きのうでなくてよかった!
きのうだったら、何千もの人にご迷惑をかけ混乱させるところだったから。
ということは、この症状、ホッとした気の緩みに関係するのかなあ。
横浜市消防音楽隊による演奏とドリル
地域住民がおこなう防災訓練としては例をみない規模、近隣20自治会を
糾合して、きのう2月15日(日)、第二回地域防災フェアを開催しました。
昨年末から何十、何百という機関や団体、企業、商店をまわって
準備を進めてきた地域の一大イヴェント。
横浜市を越えて川崎市の一部までにも参加自治会はふくらんで。
今回は予算の都合で防災ヘリコプターの出動はなかったですが、
子どもたちの防災意識を高めることをひとつの眼目として取り組みました。
衣類着火の際の対策を見守る子どもたち
これ、地上30mの望遠画像。高圧線にも届こうかという高さ。
おかあさんの足にしがみつく子どもの姿、わかりますか。
消火器使用や煙室、放水といった消防体験や災害救助体験。
人気は、地上30メートルのはしご車搭乗体験と起震車による震度7の体験。
電話・携帯電話による安否確認体験、アマチュア無線による通信……、
などなど住民の皆さんに実感をもって体験してもらいました。
チビっ子消防士による放水消火
春のぽかぽか陽気の好天に恵まれ、7,000人弱の人びとが参加
(報道関係には1万人の予定と言ってしまった。ホラフキ大根!)。
会場の広い公園と隣接する小学校のあいだを駆けまわるうち、
たっぷりと花粉を浴びてしまったようです。
心肺蘇生法とAED使用訓練
この催しと結んだわけではありませんが、来週2月25日(水)には
高齢者を対象に「悪質商法の被害をふせぐ」をテーマに“福祉討論会”を。
地区社会福祉協議会の主催、区役所ほかの公的機関が協賛して。
このごろ、この地域では強引な訪問販売や送りつけ商法にひっかかり、
悩む人が急増。このほか、振り込め詐欺、還付金詐欺、架空不当請求、
マルチ商法、キャッチセールス、霊感商法…。あとを絶ちません。
だいじょうぶですか、あなたは。
この種の卑劣な犯罪をぜったいに許さない、という取り組みを
地域をあげておこないます。
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☆ことわざに牽かれて動く人の世
小夜:ふだんあまりテレビを見ないおとうさんが、このごろよく見ておいでですね。
がの:ハッハッハ…。小夜ちゃんも早百合ちゃんも学校へ行ってしまったあと、年寄りふたりだけで向かい合って食事をしていても、ちっともおもしろくないじゃないですか。
小夜:小夜や早百合ちゃんにはいつもいろいろなおはなししてくれるのに…。
がの:これまでの小型アナログテレビが故障、仕方なく地上デジタル放送対応の薄型テレビを年末に買いました。37インチの液晶大画面、これまでのに比べて、やはりきれいです。
小夜:朝のNHK連続テレビドラマ「だんだん」を欠かさず見ておいでとか。
がの:欠かさず、ということはないのですが、だいたいおとうさんが朝食を摂る時間ですので。
小夜:イントロの歌に「袖振りあうも他生の縁…」なんて、古いことわざが入っていますね。小夜は、あれ、気に入ってるの。
がの:わたしたちの毎日の暮らしのなかに、そうしたことわざがいっぱい入っていること、だれも意識しませんけれど、そのことばに導かれながら人は日々動いているような気がします。
小夜:「七転び八起き」とか、「憎まれっ子、世にはばかる」とか、う~んと、「猿も木から落ちる」「猫に小判」「馬子にも衣装」「豚に真珠」とか…。
がの:猿や猫や馬や豚。それぞれの特性をうまく捉えてゆたかなことばにしていますね。むかしの人びとのすばらしい智恵です。
小夜:日本だけでなく、世界じゅうでその種の寓話がつくられてきました。キツネですと、賢いけれどズルい、とか、オオカミはいつも腹を空かしてガツガツしていて怖いとか、アリは働きものだけれどキリギリスは享楽的な刹那主義者だとか…。おサルはどうでしょうか。ちょっと軽薄なお調子ものとされていることが多いでしょうか。イソップのおはなしが代表的。小野かおる先生が紹介してくださったゲーテの「ライネケ狐」に出てくる動物たちも、それぞれの特性を個性的に与えられて物語をつくっていますね。
がの:ところで、今年は干支でいうと、何どしでしたか。
小夜:牛(丑)どしでしょ。年賀状にいっぱい牛の絵を見ました。
がの:牛の特性といったら、どんなことかなあ。
小夜:あのね、まず動きがのろいこと。ボーッとしていてにぶいこと。精悍な馬と比べられることが多いので。
がの:何かの会合でさいしょにやられる挨拶がやたらに長いとき、「牛の涎(よだれ)のよう」なんて言って、しかめっツラでこそこそ陰口を言う人がいますね。長たらしいことのたとえ。
小夜:(クック…、おとうさんのおはなし)
がの:なんですか、ひとりで笑ったりして。
小夜:いえいえ、何でもありません。
がの:牛にまつわることわざ、といったら、ほかにどんなのがありますか。
小夜:「鶏口となるも牛後となるなかれ」。大きな会社に就職して末端の小さな単純作業を繰り返しているよりも、小さな会社でもいいから、自由な発想を生かして力量が発揮でき、こつこつとやり甲斐のある仕事にうちこみ、ゆくゆくはそこの社長さんになって思いっきり自分のやりたい仕事をやる人生のほうが、結局のところ、ゆたかだ、といったことでしょうか。
がの:そんな意味でしょうね。もとは中国の春秋戦国時代に生まれたことばです。六つの国があって覇を競いあっていました。当時最強とされたのが秦という国。それぞれの国の王様にとってどこの国とむすんでその臣下になるのがいちばん有利か、大国の秦につくべきかどうか…。そんなときにある賢い人が言ったとされるのが「力ある安全な牛の後ろに身をちぢめているくらいなら、鶏の口のように他に率先して活発に動きまわる自由のほうが、男らしい生き方じゃないだろうか」といったことば。ここでは、牛はノロマでもないし、だらしない涎(よだれ)も垂らしていない。では、「牛耳る」ということば、小夜ちゃん、知っていますか。
小夜:よく耳にしますね。ある組織の会合などで、特定の人がその場を仕切ってしまうこと。いろいろな意見を強引にひとつの方向に固め、結論づけてしまうようなこと。いろいろな意見を無視して、自分の利益誘導のためにほかのみんなを有無を言わせず動かしてしまうこと。
がの:少数意見が大事にされないどこかの国の政治みたい。いいや、政治だけでなく、このごろは、他のひとにはまったく関心なく、自分の利便、自分の快適さしか考えない、“さもしい”人が多いのよね、どこの社会でも。
小夜:あら、この「牛耳る」も、もしかして、もともとは違う意味だったのですか。
がの:違う意味というほどではありませんけれど、もとは「牛耳を執る」という使われ方をしていたんですね。会議などのとき、そのグループのトップとか指導者になること、団体などの支配的な地位につくことを言ったもの。いわばリーダーシップをとることであって、そんなに陰険な意味、恣意的な意味はなかったはずなの。さてさて、それでは「牛に引かれて善光寺参り」というのは、ご存知でしたか?
☆牛に引かれて善光寺参り
小夜:善光寺といったら、長野の善光寺さんのことですか?
がの:そうですよ。ラボランドに行ったついでに立ち寄ったことがあるじゃないですか。戒壇めぐりが怖かった、と青い顔をしてましたね。
小夜:むかし、あるやんごとなきお方が、麗々しく飾った牛車に乗って善光寺さんへお参りに行きました…。
がの:そんなんじゃありませんよ。これには古くから伝わる故事があるんですって。詳しいことは、善光寺さんの近くにお住まいの「どらみ」さんにお尋ねするといいのですけど…。
小夜:仏教の信仰と関係があるのでしょうか。
がの:どらみさんがどう説明してくれるかはわかりませんけれど、だいたいはこんな話です。信濃の国に、あるおばあさんが住んでいました(信濃の国のどこかなぁ)。で、そのおばあさん、ひどく意地悪で欲が深く、不親切な人でした。ある日のこと、お洗濯して干しておいた白い布を、隣りに飼われていた牛が角にひっかけたまま、走りだしました。走るは走るは…。牛の動きがノロくさいなんて、とんでもありません。早いの早くないの! 大事な白い布を牛ごときに奪われてたまるかと、髪振り乱し、着物のすそ乱して“韋駄天走り”で後を追うおばあさん。心臓はたちまちバクバク、それでも欲が深いので必死です。走りに走ってとうとう到着したのが善光寺さんだったというわけ。そして、ハッと気がつきます、ひょっとするとあの牛はただものじゃないぞ、観音様の化身だったのかも知れない、と。タチのよくなかった老婆にもさすがに信心が湧きおこり、その後は心を入れ替えて、ひとにはやさしく親切にして暮らし、最後はみごと極楽往生をとげたというおはなし。
小夜:おもしろいおはなし、仏教説話の典型みたいですね。でも、いまどきのひとはそのことばをそんな意味で使ってはいないんじゃありませんか。
がの:そうですね。人に誘われるままついて行ったら、思いも寄らないところへ連れて行かれた、といったようなケースかな。新宿・歌舞伎町で「社長さ~ん」なんて声をかけられて、いい気になってついていったところが! …そんな、だまされて連れて行かれた、というに近いのかな、ハッハ。
小夜:とつぜんですが、おとうさんにクイズです。「牛の角もじ」と言ったら、なんのことでしょうか?
がの:そのナゾ、だれに教わりましたか。
小夜:どうしてですか、万智子先生からですけれど。
がの:なるほど。さすがは万智子先生。
小夜:どうしてですか。
がの:それはね、兼好法師の書いた「徒然草」に出てくるんです(第六十二段)。答えはひらがなの「い」の字のこと。牛の角を見ると、そんな形をしていなくもないでしょ。延政門院という後嵯峨天皇の皇女の歌で、全体はもっと複雑なナゾになっているんですよ。
「ふたつ文字 牛の角文字 すぐな文字 ゆがみ文字とぞ 君はおぼゆる」
まず、「ふたつ文字」とは「こ」です。「牛の角文字」はさっき言いましたとおり「い」です。一説には「ひ」だとも言われます。「す(直)ぐな文字」とは「し」、ゆがみ文字とは「く」。ね、つまり、あなたさまのことを「恋しく」思っております、という恋歌です。
小夜:まっ! そんなまだるっこい言い方をしなくてもいいじゃないですか。
がの:だって、むかしはそれが教養ある人のたしなみであり、恋の流儀だったんですもの。もうひとつ、ご披露しましょうか。
「憂しき世を うしろにおきて潮(うしお)見む 有心(うしん)めでたく 喪(うしな)ふぞなき」
小夜:なんですか、それ。意味、わか~んない。兼好法師の作ですか。
がの:フッフッフ。知らないのか、この世界の名歌を! ……な~んちゃって。じつはおとうさんのいたずら。さて、いまの歌(?)にいくつ「うし」が詠みこまれていたでしょうか?
☆世界じゅうの寓話に語られる聖「牛」
小夜:ひどい! 小学生の小夜をだましたりしたらいけないでしょう。四つか五つ、歌い込まれていたでしょうか。問題の多い社会ですが、それはそれとして、広々とした海原を見て、せめて詩ごころをうしなうことなく大事にもちつづけていきたい…。
がの:どうもありがとう、じょうずな注釈をつけてくれて。ところで、「徒然草」には、ほかにも牛にまつわる記述がたくさんあります。人に角をむけるような牛はその角を切ってしまえ、人を噛むくせのある馬はその耳を切ってシルシとすべし、とか。
小夜:ギリシア神話に登場してくる牛もいますよ。テセウスとアリアドネのおはなしでは、いけにえにささげられた人を食う牛の怪物。ミノタウロスというクレタの迷宮(ラビュリントス)にすむとんでもなく凶暴な牛。また、月のように美しい娘、エウロペを背中に乗せてエーゲの海を泳ぎクレタ島まで連れ去った白い牛、じつはゼウスが変身したとされる牛のおはなしなど。
がの:エジプトの神話にも聖牛として出てきます。どちらかというと愚鈍な存在で、そんなにきわだった特性のない動物ですけれど、世界のどこにでも牛のおはなしはありますね。「牛歩」とは、ネガティブな意味だけでなく、足元確かな着実さをいうことでもあります。さっ、きりがありませんから、日本のことわざをもう少しみて、この話題はモ~、おしまいにしましょう。ほかにどんな日本のことわざを知っていますか。
小夜:「牛飲馬食」メタボのもと、とか。「九牛の一毛」、こちらの意味は、「大海の一滴」や「大倉の一粟」と同じでしょうかね。
がの:「商売は牛の涎(よだれ)」…商売というものは一挙に利益を得ようとすべきではない。気長に、しかも飽きずにやりなさい、という教え。
「角を矯(た)めて牛を殺す」…小さなキズを治すことばかりに気をとられて、かえって元も子もなくして大損を招くことのたとえ。
「女賢(さか)しくて牛売り損なう」…思慮のあまり、慎重になりすぎてチャンスを失うこと。中途半端によく出来すぎる女は、かえってことを失敗に導きやすい。さしずめ小夜ちゃんなんか、こころすべきだね。
「牛を馬に乗り換える」…劣っているものを棄てて、より優れたものを選び取ること(その逆の言い方もある)。アメリカ新大統領の「チェ~ンジ!」といったところ。
「牛は牛づれ、馬は馬づれ」…やはり人どうしのまじわりでは、似たものどうしの行動がいい。朱に交わったものどうしの気楽な関係。
「牛に向かって琴を弾く」…愚かな人にいくら道理を説いてもついに理解されることはなく、むだなことだ。
小夜:それ、「馬の耳に念仏」と同じね。それから、よくおとうさんがぶつぶつ独り言を言うじゃないですか、「どうせわたしゃ、暗闇の牛よ、おお、それでけっこう」と。生涯、ひっそりと欲なく生き、目立つような存在ではないけれど、それでも闇夜の奥にしっかり存在していたい、と。
がの:あっ、それは内緒でしょ! そんなこと、みなさんのまえで言ってはいけないじゃないですか。それに、なるほど「梲(うだつ)のあがらぬ」わたしではありますが、突然チャンスを得て「闇夜の提灯」に転身しないでもない。アッと言う間に流行歌手になって脚光を浴び、みんなを“ギュー”と言わせたり、ノーベル賞財団から「おめでとう」なんて受賞のお知らせが来たり…。
小夜:ないない、そんなこと。やはりこれは、見つけないテレビを見るようになった人特有のモ~ソ~(妄想)でしょうか。
★転記スミ ⇒ 「S&Gトーク=8」
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小夜:おくればせながら、おとうさん、おめでとうございます!(パチパチパチ…)
がの:うん…? あ、あれね。やめてくださいよ、恥ずかしいから。
小夜:福祉功労者の一人として、11月30日(日)、市から表彰されました。考えてみれば、小夜が生まれるより以前から、地域福祉方面のこと、なさって来られたんですね。
がの:そう。いまはそれだけじゃなく、青少年指導員として中高生のさまざまな問題にも頭をぶつけています。でも、いいですよ、それは、このラボのサイトでは。
小夜:さっきの電話は区長さんからでしたね。ずいぶん長い電話。なんですって、区長さん。
がの:うん、あのね、このあいだの市の福祉大会につづくフォーラムで記念講演をしたじゃないですか。「誰もが支え手、だれもが受け手の生活環境づくり」と題し、ボランティア活動のほうから新しい地域活動の方向を探るとして話しました。あれ、案外反響が大きかったんですって。で、区長さん、そのことで何かに書きたいんだそうです。区報かな。それでね、あのときのお話のポイントをもう一度聞かせてほしい、って。
小夜:でも、おとうさんは、あの大きな大会が終わって、やっと、やれやれ…、ですね。それにしても、おとうさんの講演やレポート、テレビ(ケーブル)やラジオは、このところ、福祉とか防災のことばかりでした。小学校低学年の英語導入のこともありましたけれど。以前はよく、サクラの季節になれば西行のサクラの歌とか、万葉植物のこととか、FMで毎年のように放送していたのに…。
がの:そうそう。すっかり文学ばなれ、古典ばなれでした。NHKラジオで文学のこと、読書のことを話すなんて、久しぶりでした。
小夜:だからなのね、おとうさんがご機嫌ナナメだったのは。おはなししたいことがいっぱいあるのに、時間だからとプツンとやられてしまって。
がの:もう、あのとき何を話したかったのかも忘れてしまいましたが、今年も残すところあとわずか、一応、ここでまとめてケリをつけましょうかね。
小夜:もう一度作品を読み返す、その意味は? 読書会というグループ活動を長くつづけていくコツは? それに、声に出して読むことについて…。
がの:おつきあいしてもらってありがたいのですが、失礼だよなあ、小夜ちゃんは。おとうさんがいっしょけんめいおはなししているのに、このあいだなんか、クークー眠ってしまうんだから。
小夜:ペコン! ごめんなさい。だって、おとうさんのおはなし、長いんですもの。きょうはサッといきましょうね、サッと。
――名作をもう一度読み返すことに何を求めておいでですか?
小さいとき、若いときに通った道を、10年後、20年後、30年後に改めて歩いてみる。以前見たものがそのまま残っているのを見るのも楽しいし、すっかり印象が変わってしまった風景に出会うのも、また楽しい。少なくとも、そこに足を向けてみることなしには、その楽しさは得られませんよね。そんな、つつましい楽しみのためではないでしょうか。
わたしたちの世代は、大学に入るなりすぐ学生運動の渦中に投げ込まれました。はげしく闘って、そして挫折して、傷ついて、その虚脱感のなかで、ある人はマージャンに走りました。アルバイトに走った人、演劇や映画にのめりこんでいった人も。で、わたしの周辺にいた人たちは、とりつかれたように本を読みました。今はほとんど読まれることもないようですが、当時は実存主義がもてはやされる時代でして、ニーチェのニヒリズムから、キェルケゴール、ハイデッガー、ヤスパースといった実存主義哲学、サルトル、カミュ、カフカ、ボーヴォワール、メルロー・ポンティ、シモーヌ・ヴェイユ、ジョルジュ・バタイユらの実存主義文学、日本のその系統の埴谷雄高、椎名麟三、大江健三郎、倉橋由美子らの作品を争うようにして読みました。ええ、まるでそれがファッションでもあるかのように、手あたりしだいでした。ほかの仲間に先を越されて侮られるのが悔しいから、一歩でも先んじよう、1冊でも多く、と。
そんな読み方が何のタシにもならないことは言うまでもありません。一夜漬けのお勉強が、試験のあとで何も残さないのと同じこと。専攻していた国文学のほうはさっぱりお留守という次第でした。で、ろくに自分の勉強はしないまま社会人生活へ。能率主義、成果主義の車輪に組み敷かれ、目の前の仕事に追い立てられているなかで、かつて読んできた本が話題になるようなことはありません。悲しいかな、何を読んだのか、記憶は影さえ残さず霧のかなたです。それだけの粗雑な読み方しかして来なかったということですね。
読むとはどういうことでしょうか。読むとは、読んで考えるということです。自分の感性で問題を捉えて考えるということ。その場で必要な知識を得るためなら、知るだけでいいのなら、テレビを見るほうがいい、インターネットを見るほうがいい。そのほうが情報量は多い。すなわち、たくさん読んでは来たけれど、考えることはして来なかったんですね。
で、はるかな星霜を経て、埃まみれになった本を書棚の片隅から引っ張り出して、今度はゆっくりともう一度読む。読書会はそういう機会であり、ほんとうにありがたいと思います。
その本はどれも、すっかり黄ばんで活字もかすれて読みにくい。古本特有のいやな臭いがすることも。ですが、手垢の染みたその本を開き、赤鉛筆、青鉛筆で引かれた傍線、とがった鉛筆の先で細かに書き込まれたメモなどを見ると、気恥ずかしさとともに、言うに言われぬなつかしさがこころを満たしてくれます。おもしろいのは、読み直して、大事な箇所や気に入った表現のところに改めて傍線を引くとすると、昔のところとはぜんぜん違う箇所だったりする。そのズレこそがわたしの年輪なんでしょうか、若いときの寡聞ながらも真剣で純粋だった自分のすがたが見えてきます。また、家庭をもち、子を持ち、失敗を繰り返し、現実の波に揉まれてスレっからしになったあとの、疲れの見える今の自分のすがたが見えて来る。ですから、名作の再読というのは、青春の日々を振り返り、もう一度、自分を探る旅をしているようなものではないでしょうか。
いい旅をするためには、ホンモノでなければなりません。すぐれたホンモノを見ること。読むことは読んで考えることだと言いました。では(ホンモノを)「見る」とはどういうことか。目の前にあるものをよく見る、目を近づけてじっと観察する、正確に捉える、…このごろはそういうものではなくなってきたように自分では感じています。「見る」とは、目に見えないものを見ること、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。そんな読み方、そんな見方ができると、名作はいっそう輝くと思いますね。
☆
――読書(読書会)を長くつづけるポイントは何でしょうか。
何でもそうでしょうが、いい仲間がいることが一つの要件。そして、無理があってはつづきません。楽しくなければつづいていきません。読書においても、こころに楽しくひびくものがなければ、すぐに途絶えてしまいます。何が楽しいか、どんなことにこころの鐘は鳴るのか、それは人それぞれ。ですが、読み継いでいくうち、おのずからルートがつくられ、広いところにつながっていきます。先回、ドーデーの「最後の授業」と山本有三の「米百俵」とのつながりを一例として見ましたね。「国破れて山河あり 城春にして草木深し…」(杜甫「春望」)で、フランス語による最後の授業で母国語を守ることの大切さを子どもたちに伝えた先生と、占領軍から日本語を守り抜いた山本有三の気骨。とりわけ、身を投げ出して「フランス万歳!」をいい、捕縛されて教壇から消えた先生の誠実さは、ヒルトンの「チップス先生さようなら」の、一人の老教師の愛情あふれる子どもとの向かい合い方にリンクしていきます。教育の本質を問う読書になっていきますね。どこをテーマにして読むか、そこがはっきりしていると、作品世界がくっきりしてくるとともに、どんどん広がりが生まれてきます。
近い例で、11月にはヘッセの「クヌルプ」を読みました。非人間的な戦争や人間性を圧殺する社会機構の“車輪”(「車輪の下」)から脱して自由に生きるとはどういうことか。主人公の流浪と漂泊の人生に神はどんな意味を与えたのか。「スガンさんのやぎ」の自由の場合、良寛さん、山頭火、寅さんの自由の場合とどこがどう違うのか、…どんどん広がりをもってテーマがあらわれてきますね。
今月はまた、ユーゴーの「死刑囚最後の日」です。自由の問題とも無関係ではありませんが、日本では来年の5月から裁判員制度がスタートします。法律家でもないわたしたち個人が一人の罪人をどう裁けるのか、怖いことになってきました。また、ずうっと引っかかりながら一歩も前進しない死刑をめぐる論議。無関係ではいられない、突きつけられている課題を、このあと、わたしたちなりの市民感覚で考え合い、話し合ってみたいと思っています。
小夜:おとうさん…。
がの:長い、というんでしょ! はい、おしまいにしますね。もうひとつ、「声に出して読むことについて」は、もう、ラボのみなさんには自明のこと、語る必要はありませんので。はい、ご清聴ありがとうございました。
小夜:よかった。おとうさんは、これで胸のつっかえがとれ、こころおきなく新年が迎えられそうですね。読むというのは、読んで考えること、見るとは、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。読書はファッションでもなければ、広い知識を得るためのものでもないのですね。
がの:そうですよ。トクをするために読む、知ったかぶりをするために本を読むなら、それは物を獲りあう世界と同じ。物で栄え、物で滅びる世界。つまらない争いの絶えることなき世界です。そういうのは、もういい。
小夜:来年は小夜も、ホンモノの本を読んで、じっくり考えるようにしますね。
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小夜 ごめんなさい、小夜の不覚でした。
がの どうしましたか、何かまた毀しましたか。冷静そうですけど、じつは意外にそそっかしく、よくものをなくすし、よく器を割るからなあ、小夜ちゃんは。
小夜 そんなんじゃありませんよ。一生の不覚。
がの またまた、おおげさな…。さては、このあいだおとうさんが陶芸教室でつくったご自慢の花瓶、あれ、落としたんじゃないでしょうね、まさか。だいじにしてくださいよ。不朽の傑作かもしれないのですからね。
小夜 ちがうの。このあいだのラジオの放送、じつはむこうのお部屋で録音していたの。
がの あっ、録音はやめなさい、と言ったのに。ごめんですよ、あとになって自分の声を聞くくらい、いや~な気分になることないですから。
小夜 ええ、そうは言われていましたけれど、ひとによっていろいろご都合があるじゃないですか。「聞けなかったけれど、どうでしたか?」といわれたとき、それを聞いてもらえれば…、と思って、念のためのつもりで。事実、あのあとたくさんの人から言われたじゃないですか、「ごめん、聞きそこなった」と。
がの いいの、いいの。ごらんなさい、結局、言いたいことも言えないままプツンされちゃったじゃないですか。
小夜 おとうさんは何度もそれを言いますけれど、そんなことはありません、ちゃんとそれなりの時間は与えられ、けっこうたくさんお話ししていたじゃないですか。
がの そうかなあ。
小夜 午後4時からの放送と聞いていたので、それに合わせてカセットテープをセット。ところがそのテープは片面30分のものだったの。おとうさんの出演する4時35分すぎのものは、まるでペケでした。
がの そうでしたか。でも、べつにいいじゃないですか、もともと電波による放送なんて瞬間で流れて消えてしまうもの、虚しいもの。それに、生放送のなかで何を話したのか、おとうさんにはぜんぜん記憶がないのよね、とにかく、アレッ、という間に時間切れで。
小夜 前回、ここで冒頭部分を少し整理しました。おとうさんのタチの悪い腹の虫がおさまったかどうかは知りませんけれど、記憶の糸口は、幾分か、つかめたはず。小夜はラボのみなさんにお約束してしまいましたし、採り上げる作品はどんな基準で選んでいるのか、海外の作品にこだわって読む理由はなにか、そのあたりのことを改めてお話しくださいませんか。
――みなさんで読み合う作品はどんな尺度で選んでいますか。
一応、どんな作品を採り上げてほしいか、おりおりメンバーに希望をうかがいます。これまでは、こんなのが読みたいと、声をあげて具体的な作品をいう人の例はなく、わたしが半年ごとにプランを立て、それに沿いつつ、なお柔軟性をもたせながら進めてきました。基準のようなものは特になく、かといって、何でもいいというふうにもなりません。平坦な目で見て、ある星霜のなかで社会的評価の定まっている作品から、その時どきの話題性に富むと思われるもの、みんなで考え合ってみたいテーマをもつものをリストアップし、集会所の掲示板に公表いたします。
あれこれ作品を考えているなかで、いろいろ意外に思われる発見があります。人口に膾炙され、さまざまな機会に耳にして知っているつもりでも、実際には読んだこともない作品だったり、本はずっと以前に買って持っていたけれど、読む機会もなく、いつか興味は失せて、書棚の隅にうずもれたままになっているような作品。どなたにもそんな本がたくさんありますね。
この読書会を進める第一歩のとき、3クラスの中学生たち数十人といっしょに「星の王子さま」を読みました。これなど、世界じゅう、聖書についで多くの人が読んでいるとされていますし、知らない人はまずいませんが、事実は、きちんとこれを読んでいた人は、旧世代の人もふくめてごくごく少数でした。この有名な作品でさえ、です。それとなく生活していて、いろいろな機会に話題になることがありますので、みんな知っているつもり、読んだつもり、あるいはごく一部分を限定的に知っている、といった状態。
別な例で、先ほどから出ているドーデの「風車小屋だより」に立ち戻って、このなかに「アルルの女」という短篇があります。ビゼーの作曲した名曲がすぐ思い浮かびますね。その名を聞いただけで、あの曲が頭のなかで華麗に鳴り出すほど、よく知られた曲。ですが、どうでしょうか、これはどんな物語につけられた曲なのか、どれほどの人が知っているでしょうか。(オペラ用の台本は別に書かれていますが)原作は文庫本にしてわずか6ページ足らず、アッという間に読み終えてしまいます。しかし、それだけのなかに展開する壮大な人間ドラマの山脈。気づいてみると、そこでは一行たりとも“アルルの女”、…かんじんカナメの人物の実像は描かれていません。にもかかわらず、読むものには、そのイメージがくっきりと目の前に見えてくる。その容姿や衣装、ことばづかいや声の調子までが。こういうのを名作というのではないでしょうか。抑制され、引き締まったその文章は、ほんと、魅力的です。一語のムダさえない文章のなかに、人間の、わかっていてもどうにもならない、若ものの抑えがたい心情、哀れなまでの憧れの思いが描写されています。そんなところはぜひしっかりと味読したいと思いますね。一読したら、ビゼーの曲もそれまでとは違うように聞こえるかも知れません。
やはり、古今の名作とされているようなものには、汲み取っても汲み取っても尽きることのない滋味がありますよね。想像力によって書かれた作品ながら、そこには日々のこの現実以上にリアルな、ほんものの真実に出会う機会になります。
――海外の作品にこだわる理由は、何かありますか?
理由はありませんし、こだわってもいません。これまでの76回を振り返っても、山本有三の「米百俵」や松谷みよ子さんのの「龍の子太郎」、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」、最近では梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」も。
「米百俵」は小泉・元総理がご都合主義的に引き合いに出した作品で一時話題になりましたが、そういうことでなく、ドーデの「月曜通信」のうちの「最後の授業」に関連して、ことばこそ文化の精粋であり、母国語を守ることがどれほどたいせつなことかを話題にしました。そのおり、わが国にも同様の母国語が失われそうな危機がありました。GHQによって日本語から漢字・平仮名・片仮名が奪われローマ字表記に統一されようとしたとき、貴族院議員だった山本有三が頑迷にがんばって日本語を守った、そのすばらしい気骨と「米百俵」で書かれた長岡藩士の小林虎三郎の気骨、今このときの空腹を満たすより、10年後、50年後の長岡を考えて若ものの教育に百俵の米を投ずべきとする堅い信念、枕元に反対派の刀が林立するなか、命を張って学校をつくることにこだわったその根性にふれようと、読んでみました。それのみならず、その時期、文学散歩で三鷹から吉祥寺のあたりを歩きました。太宰治の心中事件で知られる玉川浄水のほとりに瀟洒な西洋館の山本有三記念館があり、多くのメンバーといっしょにそこを訪ねていることにもよります。
小川未明の「赤い蝋燭と人魚」は、同時にアンデルセンの「人魚姫」を抱き合わせて読み、人魚の描き方ひとつをめぐって、日本人と西洋人の感性の相違、あるいは同じ感じ方といった点を探りあいました。
たしかに、それ以外は海外の作品でしたね。わたし自身はもともと、大学では国文学を専攻したほどで、そちらの専門というわけではありませんが、この地域には、わたしたちのこの読書会のほかに、もうひとつグループがあります。むしろそちらのほうが参加者も多く活動歴も長いのですが、そちらは日本の作品のみをずうっと読んでいます。趣味で読書をする程度の人たちがほとんどですから、どうしたって、日本の作品のほうが近づきやすい、親しみがある、ということでしょうね。しかし、それでおさまらないのがこの地域の特徴なのかも知れません。
ご承知のように、横浜はわが国が海外との交易をはじめる最初の窓口となった地。生糸貿易を中心に閉ざされていた国を開き、国の富を築いていった歴史があります。まあ、それを持ち出すまでもなく、身辺どちらを向いても、海外をよく知る人、豊富な国際交流経験を持つ人、国際的視野を持つ、開けた感覚の持ち主に恵まれています。新しがりやのものずきなのでしょうか。つい最近の話題では、介護福祉士をめざすインドネシアの若ものをイのいちばんに迎え入れたのがこの近くの福祉施設です。施設で受け入れる、ということでなく、地域の全体で迎え入れようとの気運のなかで。ODAを通じて赤道直下のアフリカ諸国を駆けまわり、農業指導にあたっている人がいます。イギリスとのあいだの航空路を長年行き来していた人を中心に、荒れて人が近寄らなかった公園をバラいっぱいのイングリッシュ・カーデンのスタイルに生まれ変わらせた人たちも。
ですから、このあたりの人には海外文学も、意識としてそんなに遠くはなく、パンとコーヒーがいつの間にか日本人の朝食の定番になっているように、ごくふつうのことで、むしろそれがないと何か欠けているようにさえ思える感覚があるようです。
わたしたちは読書を、何かのために、と考えたことはありません。それでも、たとえば仕事でイギリスへ行ってしばらくあちらで生活することになった、というような場合、むこうで出会う人びととのあいだで、シェークスピアの作品を話題に語り合う、モームやヒルトンやマンスフィールドの作品、ゴールズワージーやテニスンの詩を話題に近づき合えたらすばらしく、どうでしょうか、ビジネスを超えた良質な人間関係が築けるように思いますね。
ある開発途上国に仕事で行った人が、会で読んだツイアビの「パパラギ」を話題にして、現地の村じゅうの人たちとおおいにもりあがったとも聞きました。功利性を求めるわけではないにせよ、良質な読書を通じて、ある種の柔軟なセンスが知らぬ間に培われていくように思います。
☆
小夜 ほら、おとうさん、おしゃべりしすぎですよ。ドーデのムダのなさ、抑えのきいた文章を言って、まだその舌が渇かないうちに、これですからねぇ。まだ言いたいことがありますか。小夜はもう眠いです。
がの ありますよ、もちろん。放送前の打ち合わせでは、「名作をもう一度読み直す、その意味は?」とか、「読書の活動を長くつづけていくコツのようなものは?」とか、「声に出して読む、その意味は?」なども話したはずなんですけれど。
小夜 またにしてく……クークークー…(寝息)
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小夜:おとうさんは、なぜ、テレビやラジオに出るたび、不機嫌になるのですか。
がの:えっ、そんなに不機嫌そうでしたか。
小夜:そうよ、傍から声をかけるのがちょっと怖いくらい。
がの:そう、それは悪かったですね。でも、ちょっとひどいとは思いませんか。いろいろ言いたいことがあったのに、何も言わずにいるうち、プツン! ですよ。乱暴です。いつもいつもそうなんだから。
小夜:仕方ないじゃないですか、テレビもラジオも秒単位でプログラムされているのですから。それに、おとうさんのために番組が組まれているんじゃないですからね。
がの:それにしたって、ほら、あのときは風邪をひいていて、鼻汁はダラダラ、ちょっと話すと声がかすれてしまう状態。まずいな、ということで朝一番にお医者にいって、「なんとかしてくださいよ」と泣きつき、これなら、といういちばんいい薬をもらって服んで、それから午後ずうっと待機してくれといわれていて、外出もできない。まず、ディレクターとさんざん話して、そのあと、アナウンサーとも。
小夜:アナウンサーのおねえさんと機嫌よく話していたそうじゃないですか。
がの:あ、あのひとはおとうさんと同郷なの。大学は名古屋のほうだったと思うけど。
小夜:それに、そのあとの青木奈緒さん。ずいぶん長話でしたよ、20分、いや、30分かな。
がの:あの人のおばあちゃん(幸田文さん)のおとうさんが幸田露伴。青木玉さんのお嬢さんにあたります。すばらしい感度というか、アタマがいいというのはああいう人のことを言うんでしょうね。知性にピカッとした輝きがあり、お話ししていて、楽しくなってきてキリがない。そうね、おとうさんの話したかったことはそのとき話してしまったから、それでもういいようなもんですね。
小夜:そうそう、小夜もあんなすてきなおとなのひとになれたらいいな。ていねいで、ものやわらかで、しかも、積み上げられた知識が豊富で、考えがはっきりしていて。なによりも、ことばのはしばしにまで、たしなみがあって…。
がの:さすがに幸田露伴の血を引く人。ええ、たしなみを自然に備えている人です。でも、考えがはっきりしている、と言いますが、おとうさんと話しているときは、なんだか、とても不安そう、自信がなさそうだったようには思いませんでしたか。本番で何を話したらいいか、わからない、困ったわ、とか。
小夜:午後4時、本番直前、おとうさんとの電話の最後に「決めました!」とおっしゃいました、「ありがとうございました」とも。おしゃべりのなかで、ピピッとこころにひらめくものがあったのでしょうか。青木さんのあとにはアンカーの柿沼さんからも、挨拶がひとこと。毎日の番組、そのひとつの番組をつくるのも、たいへんなんですね。
がの:もう、あのことは忘れました。忘れないと、いつまでも腹のムシがおさまらないですから。
小夜:おなかに悪いムシを抱えていると、精神衛生上よくないですから、言い残したことを小夜が聞いてあげるわ。
がの:もういいですよ、口惜しかったり恥ずかしかったりして、思い出したくもない。
小夜:まあ、そうおっしゃらずに。本番前の、アナウンサーのおねえさんとの話には間に合わなかったけれど、青木さんとの話、あれはとてもよかった。小学校からハーハー息をきらせて走って帰ってきたけど、その甲斐があったと、小夜はほんとに思ったわ。
――青葉ふれあい読書会《どんぐり》とは、どんなグループですか。
さまざまな世界の名作文芸を読みあうグループですが、たくさん本を読むこと、広い分野の本を読むことが目的ではありません。地域活動の一環として続けている活動で、“ふれあい読書会”としているように、すぐれた文学作品を介して地域の人と人とが出会い、それぞれの考え方や意識を交流しあう場です。広い層の人たち、幅広い世代の人たちの参加を期待して8年前にスタートしました。
活動の軸に据えているのは、海外の名作文芸。海外に限定しているわけではありませんが、すぐれた文学作品に描き出される人間それぞれの生きざまをテーマに参加者みんなの前に据えて、それをめぐってさまざまな世代、さまざまな層の人同士で考え方、感じ方を分かち合うこと。そんなところからこころの健康な人であふれる地域にしていきたい、それがねらいです。
――参加者はどういった人たちですか。
いちばん初期のころには、中学校の授業の一環として「星の王子さま」を3クラスの中学3年生と旧世代の人とでいっしょに読み合ったことがありました。その後、中学生、高校生の参加はほとんどなく、40歳台から70歳台の中高年の方がた、それもほとんどは女性、家庭の主婦です。でも、とても意欲的な方がたで、ふだんそんなに読書をすることはないにしても、こころに健康なものをもっていて、明るく闊達で、わたしはこういう人びとに囲まれていて恵まれているなあ、といつも思っています。会員制でもなく、だれでも、いつでも参加できます。参加している人たちからは、たいへん喜ばれ感謝されています。作品を通して多様な人生にふれ、未知の世界、多様な美しい自然にもふれてこころを震わす。そうしたこころの刺激が感性にみずみずしい若やぎをもたらし、こころの健康を保つことになっている、と言ってくれています。
――名作とは、どういう作品と思いますか。このごろ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や小林多喜二の「蟹工船」がよく読まれていますが、それをどう思いますか。
すぐれた文学作品には、例外なく、ウソがない、甘やかなゴマカシがない、読んだあとにはホンモノに触れたときに特有の深い感動が胸に残る…。このごろ特にそんなふうに思うようになりました。「カラマーゾフ…」も「蟹工船」も読者に鋭く訴えるものがそこにあるからだと思います。ウソやゴマカシがない例を、最近みんなで読んだ「風車小屋だより」と「貧しき人びと」から挙げてみましょう。
前回10月16日に読んだばかりのアルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」。この短篇集のなかに「スガンさんのやぎ」という一篇があります。おことわりしますが、これ、わたしの名前にひっかけてテーマにしたのではありませんよ。岸田衿子さんの訳による絵本があります。ご存知でしょうか。これはしかし、絵本らしくない絵本と言えるかも知れません。人によっては、これを子どもに読んで聞かせるのを躊躇うこともありそうです。ヤギが登場する絵本としては、「三びきのやぎのがらがらどん」や「おおかみと七ひきの子やぎ」など、いくつか馴染み深いものありますね。ヤギとトロル、ヤギとオオカミが戦いますが、最後は弱いはずのヤギが勝って、パンパカパ~ンと、ハッピーエンドになります。ハッピーエンドが児童文学の常道ですから。しかし「スガンさん…」のほうは、そのようにはなっていません。死力を尽くして一晩じゅう戦って、ついには力尽きて倒れ、食べられちゃいます。束縛から逃れ自由であることは尊い、冒険心を奮い自分の可能性を確かめる努力は大事。若いこころにはだれにも抑えられない欲望でもあります。一方、自然の仕組みにもそれなりの峻厳な約束ごとがあります。あぶない森へ行けば、高い崖から落ちることもあるだろうし、オオカミに襲われることも自然の掟のうちです。そうした約束ごとにしばられて生きているのが、とりもなおさず、われわれの存在であり、現実だ、とこの詩人はきびしい。童話的な甘やかしはここには微塵もない。
おなじ「風車小屋だより」に入っている「星」という短篇。文庫本にしてわずか5~6ページのものですが、これなどはまさに珠玉の“名品”と言えるのではないでしょうか。読んだだけで、これほどの幸せにめぐりあったことがあるだろうか、と思うほど、いい気持ちにさせてもらえます。雨に拭われたあとの夜空に見る星のように、透き通ってさわやかです。
これを読んだ前の月、9月にはドストエフスキーの「貧しき人びと」を。これはロシアの大文豪が24歳のときに書いた処女作です。最下級の役人の男と、孤児で病気がちの娘。ふたりのあいだには親子ほどの年齢差があります。小心もの同士のつつましやかな、悲しいほどに秘めやかな愛。ふたりがどれほどこころを通わせ合っても、どうにもなりはしない。双方それぞれ涙ぐましい努力をしつつ互いを思いやります。しかし、足掻けば足掻くほど、その足はすべって泥沼の深みにはまりこんでいきます。
このへんは、このごろ顕著に現われてきた格差社会のひずみのなかで苦しむワーキングプアと呼ばれる人びとのすがたをそのまま照射してはいないでしょうか。19世紀の半ばに書かれた作品ですが、今の時代をみごとに映し出しているとも言えますね。オンリピックから帰ってきたメダリスト、あるいは宇宙から帰還した宇宙飛行士など、いわゆる勝ち組の成功者が、子どもの前に立って必ず口にするのが、「夢を持て」「夢は、持ちつづければいつか必ず叶うもの」と言います。しかし、現実はどうか。“ひきこもり”や“不登校”の人の悩みがそういうことばで解消した例は聞きません。そんなのはソラゴトさ、と嘲うかのように、夢を持てば持つほどに事態は悪いほうへ悪いほうへと歯車の回転を早めていくケースのほうがずっとずうっと多い。わたし自身のこれまでを振り返っても、その思いのほうが強いですね。挫折、挫折の繰り返しのなかを、あえぎあえぎ生きてきたようなものですから。夢とは、なかなか叶うものではないから「夢」なんだ、と身にしみて思わされてきました。
作品中の貧しい男と女の「不幸」と「不幸」を掛け合わせたところで、奇数と奇数を掛けても偶数にはならないように、それがクルッと「幸福」に裏返るようなことはなく、どんどん不幸の淵へ導かれていく。ロシアの文豪はついにふたりに幸福な結末をさずけることはありませんでした。
貧しいのは努力が足りないからか。たくさんたくさん涙を流せば幸せになれるのか。運命はかならずしもそんなに公平ではないことを知らされます。
九等官の小役人のマカールと、貧しくとも清らかな少女ワーレンカ。わたしたちは、その男女の貧しさと、わたしたち自身が今感じている貧しさとを比較して話し合いました。贅沢や虚飾を捨て、ある程度の辛抱をし、節約につとめれば、どうにか凌げていくわたしたちの日々の貧しさに比し、不幸な運命に弄ばれるこのふたりの場合は、すぐ死に直結する貧しさです。何がほんとうの貧しさか、何が本当の不幸か。それを容赦なく問いかけてくる作品がこれ。こういう訴求力をもってわたしたちの胸板をぶち抜く作品を名作というのではないでしょうか。
小夜:はい、おとうさん、長くなりましたよ。ここでプツン! 読む本はどんな尺度で選んでいるのか、海外の作品にこだわる理由は何か、声に出して読むこと、など、まだまだありますが、このつぎにしましょう。少しは腹のムシがおさまりましたか?
《つづく》
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横浜美術館の特別展「源氏物語の1000年--あこがれの王朝ロマン」。
だれの発想によるものか、よくぞこれほどの文物を蒐めたものである。
そのほとんどは国宝級、もしくは重要文化財、重要美術品である。
時代、時代を代表する第一級の絵師がこぞって描いてきた、
みやびな源氏絵の魅力と、その感性に捕らえられた普遍的な人間模様に
うならされるとともに、
わたしは、和紙のうえを生きいきと走る筆文字の美しさに、
うっとり! うちのめされるような感動を覚えました。
すばらしい仮名書き。絵と詞書の絶妙なバランス、点と線と面の調和、
そうそう、何も書かれていない行間が美しく呼吸しているんです。
計算されたものなのか、自然のままなのか、字くばり、墨の濃淡の変化、空間の残し方に、う~~ん! と唸らされます。
ひょっとして紫式部の自筆を見られるか、との期待もあったのですが、それはありませんでした。その代わり、
日本三大名筆の一人とされる藤原行成のものと伝えられる書が見られましたが。
平安朝から今日まで(明治の激浪には流されて一時途絶えるが)、
とうとうたる流れをもって日本のゆかしい文化を染めてきた絢爛たる物語。
源氏物語千年紀とされる今年こそおびただしい数の関係書籍が出版されているが、
古来これほど語られてきた物語はない一方、
これほど読まれないものも珍しい、とされるわが国最大の古典。
いやいや、いまブームの“篤姫”さまが、ドラマでときどき読んでいたじゃないですか。
遠いものと思いがちな王朝びとの生活様式と生活意識が、じつは
いまのわたしたちの生活全域の底流になっている、
もっとも良質なモラルにもなっている、日本文化の源泉になっていることを
改めて思い知らされる機会ともなった、そんな展覧会でした。
日本人なら、もう、これを読むしかない、
これを読み継いで、つぎの1000年まで伝えていくしかない、と思うのですが…。
2千円札の裏側に描かれている紫式部
☆
テューターのみなさんにこの機会にご紹介したい本があります。テューターの先輩であり作家としてご活躍中の内田聖子さんがこのほど上梓した「清少納言 紫式部--王朝イヌ派女VSネコ派女」。日本文学館より刊行され、正式にはこの11月1日の発売となっていますが、わたしは一歩早く読ませてもらいました。
あなたはイヌ派? それともネコ派? 葵の上や六条御息所にみるプライドの高い女性、紫の上や空蝉にみる賢い女性、夕顔や玉鬘のような柔軟性あるかわゆい女性、朧月夜のような闊達でコケティッシュな女性、藤壺のような控えめながら気品と華を秘めた女性、美人には遠いが情こまやかで性格のいい末摘花のような女性、…などなど、これまで出会ってきたテューター、このネットで知るさまざまなタイプのテューターをこのレンズで見ていくと、ちょっと趣味が悪いと言われそうですが、万華鏡を見るようでおもしろい。王朝時代を生きた女性の心もように大きくふたつの典型を見ながら、いまの時代の女性の生きかたのあるべき姿をさぐる作、…といえば何やらモノ堅いようですが、そんなことはありません。むしろ、ほんわりとやわらかいです、やたらおもしろいです。さわやかな心のビタミンに、よかったら、お読みになりませんか。

伝土佐光芳筆の「紅葉の賀」部分/「青海波」を舞う光源氏と頭中将

「青海波」の舞いを前にする永遠の女性・藤壺と桐壺帝
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♪この実、なんの実、木になる実~…♪
長さ23センチ、周囲32センチ。おっきいですよ~。
日本では、ふつう、見られないと思いますが、これ、何かおわかりですか。
バオバブの木の実だそうです。
ODA(外務省国際協力政府開発援助)の仕事にあたっていて一旦
8月にアフリカから帰国、また11月には農業開発の任務を帯びて
赴くことになっている一友人に見せてもらったもので、
最貧国のひとつとされるマラウイ共和国――
アフリカ大陸南東部の小さな内陸国――から持ち帰ったおみやげ。
(マラウイについては、機会があれば、あとで聞いたかぎりのことを)。
アフリカをはじめ、マダガスカルやオーストラリアのサバンナ地帯で見られる木。
学名は Adansonia Digitata
セネガルのことばで「一千年の木」という意味になるそうだ。
周囲50メートルにも成長することもあるという世界最大級の木。
幹の太さにひきかえ、葉はポニョポニョッと上のほうにちょっぴり。
見た目に特徴ある木で、根っこを空に向けているようにも見える。
天地創造のとき、神さまがヘマをやらかし、逆さに植えちゃった、
とも言われる。
熱暑と乾燥に耐え、雨の少ないサバンナの地にすっくとそびえ佇つ
シルウェットが印象的。
雨季(12~4月)に、泰山木ほどの白い大きな花が下向きに咲き、
乾季(9~11月)になると、カンペキに葉が落ちてしまいます。
大木を切ってみると、中が空洞になっていることが多いようです。
空洞になった幹のなかに吟遊詩人を入れて埋葬するのが伝統という部族もあるとか。
その幹だが、見た目にはどっしりとして頑丈そうだが、
どうやら、それは見かけ倒しのウドの大木。
軟らかな繊維質でできていて、スポンジのような構造になって、
そこに水分をたっぷりと蓄えている。
年輪などなくフワフワしているので、これで家を建てよう、ったって、そりゃ、無理。
ですが、どうしてこの巨木がサバンナにスッと佇っていられるのか。
落雷で草原が火の海になることもよくあります。またこのごろは、
放牧地開拓のために火を放つこともあって、
草原の植物のご難はあとを絶たないわけですが、
多量に水分を含むこのバオバブの木だけは、なんとか生き残ることができるのだ、とか。
アフリカ大草原。野生の大地。ゾウやライオンや豹のテレビ映像――、
弱肉強食のむごい営みの摂理の背景に、
あなたもきっと一度はこの木を見ているはず。
あるいは、サン=テグジュペリの「星の王子さま」を読んだ人なら、
ふしぎに強烈な印象で頭のシンのあたりにそのイメージが
残っているのではないでしょうか。
星をむんずとワシづかみにしていて、
「早く追いはらわないと、もう、どうしても、根だやしするわけにゆかなくなる」存在。
サン=テグジュペリが三本のバオバブの木に託したメッセージについては、あとでちょっと触れましょう。
果実は、ヘチマのように垂れ下がり、えら~く硬い。
いまは乾燥してこんな色をしていますが、もともとはきれいな緑色をしているとか。
完全に乾燥したものでないと海外に持ち出せない国際ルールのためですね。
現地では、果肉を食用にしたり、調味料として使うそうです。
で、そうなると、どうしたって、この実の中が見たくなります。
みなさんも、そうじゃありませんか。とは言え、これは
はるばる持って帰ったせっかくのみやげの品。貴重品ですからね。
でも、「一生のお願い!」と拝み倒し、割ってもらいました。
硬いんです。素手でいくら割ろうとしたって、歯(?)が立ちません。
ノコギリでギコギコ、ギコギコ。
あらわれましたるは~、コレ! というわけ。
発砲スチロール片のように見える白い果肉の一つひとつに
黒い種子が入っています。まさか毒ということはなかろうと、
ひとつつまんで舌のうえにのせてみる。
味は、なんと言ったらいいか、ほのかに甘ずっぱいが、
ほとんど無味。臭いもない。乾燥しすぎたからでしょうか。
もとは、オレンジの3倍のビタミンCを含むそうだ。
現地の人はこれを口に入れ、チューインガムでも噛むように
クチャクチャやっているという。もともとは、
わたしが味わったのより酸味が強いのだろうと思われる。
種子は食用油にもなるし、葉は腹痛に効くとか。
さて、サン=テグジュペリの「星の王子さま」に戻って…。
一度出版された作品は、読む側の自由勝手な読み解き方が許されているわけで、
ここでもそうさせてもらうことにしましょう。
この絵ばかりは「一生けんめいになって」描いたと作者がいうこの絵、
みなさんは何をお感じになりましたでしょうか。
そんなにうがって読まないでもいいじゃないか、
素直にスッと読めばいいのよ、という声が聞こえてきそうですが、
そうはいきませんよ。なぜなら、
サン=テグジュペリはこの作品のなかでも
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない」
「かんじんなことは目に見えない」
といってるじゃないですか。本を読むときには、
オモテに見えていないものをしっかり読み解かなきゃ、ね。
日々、地球が損なわれつつある切迫した危機感へ寄せる、
作者のこんなメッセージが秘められていると考えられます。
まず、今日的な課題に照らしていうなら、
これは地球環境の破壊を警告するものだ、
ということができるでしょうか。
一本は二酸化炭素の増大、一本はオゾン層の破壊、
もう一本は地球規模で進行している砂漠化、への警告。
ちょっと哲学的にいうなら、
人間の心のなかに芽生える邪心や犯罪への誘惑と衝動。
強欲、罪悪、裏切り。あるいは、他者への無関心。
また別な人は説く。
その三悪とは、貪(どん)=むさぼりのこころ、瞋(しん)=抑えがたい怒り、
痴(ち)=思慮の足りないこと、であると。
さらに、行動し戦うこの実存主義作家が生きた状況に即して考えれば、
第二次世界大戦をつくりだした全体主義の大津波への脅威と
理解するのが自然かも知れません。
一本のバオバブはドイツのナチズム、一本はイタリアのファッシズム、
そしてもう一本は、日本の帝国主義の野望です。
世界をぶち壊す未曾有の大嵐の予感のなかにあった作者の想念が生み出した毒気ある種子。
そこに、「ほうり出しておくと、きっと、とんだ災難になる」
「星が爆発してしま」うほどの危険な潮流の予感を、
飛行機乗りである作者は空の高みから感じていたと思われます。
☆
<追加情報>
このめずらしいおみやげを見せてくれた知人は、体育会系というか、文学にはほとんど疎遠で、「星の王子さま」も読んだことがないという、めずらしい人物。そこで、わたしのものを持っていって読んでもらったところ、本の絵は「私が感じているバオバブとはかなり違いますね」という。「バオバブのけんのんなことは、ほとんどしられていませんし…」と文中にあるが、あの木を見て剣呑だなんて思ったことがない、と。
「バオバブの樹皮は、つやつやしてひじょうにきれいです。一本一本の木にそれぞれ特徴があり、あるものは悲しそうだったり、寂しそうだったり、あるいは楽しそうだったりで、どれほど見ていても飽きません。ところが、雨季になり、葉が茂ってくると、特徴あるはずだったバオバブは他の木と見分けがつかなくなります」
とメールで寄せてくれました。そして、ジンバブエで見た光景が印象的で、バオバブの大きな白い花がポタッと音たてて地面に落ちるか落ちないかのうちに、ヤギがさっとすばやく飛んできておいしそうに食べるのだそうです。
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ゲーテ作品のうち、もっとも早く日本に紹介されたのがこの動物叙事詩「ライネケ狐 Reineke Fuths」。明治17(1884)年のことでした。その後、内田百閒の訳が出て、日本でも多くの読者を得たといいます。最近では、上田真而子さんによる新訳「きつねのライネケ」が岩波少年文庫から出ていますね。
これは、13世紀ごろからヨーロッパ各地に広く伝わっていた説話。それが寓話として教訓的に広められていきました。フランスでは、この悪がしこいキツネの主人公に“ルナール”の固有名詞を与えて、今でもあちこちで語られているそうです。
ヨーロッパの人たちは、ここにどんな寓意をこめたのでしょうか。
――いつも不平不満ばかり言っている人は、結局、(得るものなく)多くを喪う。つつしみを知らぬ強欲の精神、我欲は、落ち着いた時を奪い、ただ不安と焦慮のうちに生きるのみで、結局は、何にも与えられることはない。
また、
――主張がどんなに正当でも、どんなに強力な手段方法でも、深い知恵というものがなかったら、ついに悪者に勝つことはできない。
そんな教訓として語られているようだ。どうお考えでしょうか、こうした考え方は。
それでちょっと思い出したことがあります。この夏、甲州に遊んだことは、この「ひろば@」のどこかで紹介いたしました。その際、ぶどうで有名な勝沼に行き、国宝の古刹「大善寺」へ連れていってもらいました。ご本尊は薬師如来(国宝の秘仏)で、ここの如来像はちょっと変わっているのです。右手には薬瓶ではなく、一房のぶどう。で、そこにかかっていた扁額の文字が「一怒一老 一笑一若」。
甲州で見る扁額といえば「風林火山」におよそ相場が決まっているのですが、ここのは違っていて、人はひとつ怒るたびにひとつ年をとり、ひとつ笑うたびにひとつ若返る、……いい音、いい色と形、美しいものを見て、五感をびりびりふるわせ、楽しい刺激を受けていれば、老いることはない、――ね、だれがつくったことばかは知りませんが、この仏教的な格言は、ゲーテ描くところの弁佞(べんねい)ギツネの寓話に、ちょっと似ていませんか。(牽強付会、無理なこじつけかなあ)
真実性はないが、口先がうまく、こころがよこしまな佞奸邪智(ねいかんじゃち)な者。どうも、わたしにとっては、もっとも苦手で嫌いなタイプの存在。権力あるエラいものにはじょうずにこびへつらう一方、優秀な人が自分の前にいればどんな汚い手段を用いてでもその足を引っ張る、ひとの痛みなんて何とも思わないタイプ。あなたのまわりにもいませんか、こんなヤカラが。大文豪は、ハッピー、ハッピーの甘っちょろい気休めの言い逃れなどせず、まっすぐものの真実を伝える。それがホンモノの文学というものなのでしょう、たとえそれが子どもに伝えるものであっても。
小野かおるさんに招かれて、台風の上陸を懸念しながら、9月19日(金)、東京・乃木坂の国立新美術館の「新制作展」を観てきました。
小野かおるさんは、前2回、4点ずつを「新制作展」のスペースデザシン部門にそれを発表してきました。今回のⅨ~Ⅻをもってようやく完結しました。5年余にわたって取り組んできた新しい表現の挑戦であり、たいへんな労作です。
前作Ⅰ~Ⅳ(2006年)、Ⅴ~Ⅷ(2007年)と、いささかの作品解説については、「ページ一覧」の「アート回廊<1>」をごらんください。
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―― いくらうちが貧乏だからってよォ、ごはんは「ナシnasi」つ~のはないんじゃないけ。おいらが餓死してもいいんけ? なあ、「イブibu 」(かあちゃん)よォ。
―― 「アンダanda 」(you) 、ひと聞き悪いこと言うもんでねェ。腹へってんなら、そこらの「マカナンmakanan」(food)で 、とりあえず「マカンmakan」 (eat) なっておけや。「クエkue」(菓子)かなんぞもそこらにあるだろが。「クエ」っつたって、食えねぇわけのもんじゃねェ。食うmakanときにゃ、よく「ギギgigit」(噛む)るんだよ、「ギギgigi」(歯)は大事にしなけりゃなんねェど。だけんどもよォ、「魚ikan」は(食ったら)イカンぞな。
―― 水、くんねェかな、かあちゃんibu。
―― Air かい。自分で飲みな、もうバイbayi (baby) バイなんて言ってる年じゃねェんだからな。
―― Airったら、空気じゃねェか。空気をいくら吸ったからって、腹の足しにはなんねェじゃんかよォ、かあちゃんibu。
―― ばかだね、anda (you) は。ちっとばかしラボやってるからって、Airは「エアー」じゃあねェだろ。アイルって言うんだろが。空気を言うんなら「ウダラudara」 。そら、ウダラうだら言ってねぇで、「バッパbapak 」(father) を呼んできな。もうすぐ「マカン・シアンmakan siang」 (lunch) だよ。
―― うん、わかった。でもよォ、かあちゃん、かあちゃんのことはアダムとイブのイブでわかるけんど、とうちゃんのこと「バッパbapak」はねェと思うんだけどなぁ。せめてジジイくらいにしとけばいいのにな。
浴衣に着替えて“東京音頭”9月9日の歓迎会にて
お騒がせいたしました。「アネーaneh」(へんてこ)な親子のインドネシア語もどき会話でした。
「スラマッ・パギ」 (good morning !)、「スラマッ・スィアン」 (good day !) とか「トゥリマカシー・バニャッ」 ( thank you very much) 、オランウータンの「オランorang」が人のことくらいは、どこかで耳にしたことがあり、わかるような気はするけど、知らないですよねぇ、インドネシア語。ラボの周辺にはけっこういるのかなあ、この方面にも通じている人。さっぱりわからないことばですが、すこしばかり勉強しなければならない仕儀になりました。この年齢になってからの新しい外国語への挑戦ですから、口惜しいかな、なかなか覚えられず、簡単には身につきません。だれか「トロンTolong !」 (help, help !) というわけ。
日ごろの地域活動の一環で関与の深い特別養護老人ホームで、このほどインドネシアから来日した介護福祉士を目ざす女性2名を受け入れました。EPA(経済連携協定)が日本とインドネシア間に結ばれていて、それにもとづき、9月に入ってすぐ280名のインドネシアの若ものが来日したのを、皆さんもテレビや新聞でご存知のことでしょう。このグループとは別に、8月31日、3名が来日、9月4日からさっそく、横浜・青葉区のその老人福祉施設に2名が入りました。日本で初、第一号です(もう1名は東京の某施設に)。ほかの280名は半年間の日本語研修を修了ののち各地の施設に入りますが、この3名は、インドネシアですでに看護師の資格をもっていたり、ある程度まで日本語ができるとされ、先陣を切って介護の現場に立つことになったという次第。
「日本語堪能」といわれていますが、いやいや、なかなかそうは…。ことばだけでなく、生活習慣も大きく異なることもあって、当分はさまざまなオリエンテーションの期間(3名いっしょ)。配属の翌日の9月5日、厚生労働省のおエラがた2名につづいて、わたしによるオリエンテーション。それは、今回の受け入れが、介護職員の不足を補おうというものではなく、また、国の政策にそっくり添ってというものでもなく、これが高レベルの国際交流の実質をつくるものになるだろうと期待してのプランで、地域をあげて歓迎し、これから応援していく、という地域の意思を伝えるための説明でした。平均寿命日本一(男)のこの地域が抱える苦しみも楽しみも、いっしょに分かちあっていきましょう、と語りかけました。
彼らはこのあと、介護現場で研修を積みながら、介護福祉士国家試験を目ざします。4年以内に合格して資格を取得しなければ、インドネシアに帰されるというきびしい条件が負されています。日本語で育った日本人にとってさえ難関とされる試験。何とかがんばって彼らに合格してもらいたいと思えば、わたしも少しは彼らの国のことばを知らないといけないんじゃないか、……わたしの無謀な挑戦はそんなところが発端です。新しい異文化との出会いの楽しみもありますし。
しかし、うれしいじゃないですか。来日した多くは、資格をとって日本で高収入を得て働きたいと思っているようですが、9月9日、百数十人もの地域の人たちが集まって開かれた歓迎会の席、こちらで受け入れたうちの一人は、合格するかしないかではなく、しっかり研修を積み、「ゆくゆく、国に帰って、このような介護施設をつくって運営していきたい」と、その夢を語ってくれました。インドネシアには、まだ「介護」という概念さえもない。家族で、地域で、自然にふつうにそれが行われているからと思えば、それはたいへん結構なことだが、高齢化は逃れがたい世界の趨勢です。インドネシアも例外のはずはありません。この日本滞在中に多くのものを学び取ってもらいたいと願っています。
さっそく地域の人たちに溶け込んで
もうひとつ付け加えるなら、最初にわたしが会ったときの3人、こちらがドキッとするほど丁寧な、優雅なお礼のお辞儀をしてくれたこと。よほどよく日本のことを勉強してきているな、と感じさせてくれました。ほんとうにやさしい笑顔でした。いまの日本人がどこかに置き忘れ、捨て去ってしまった美しいもの、やさしい高雅なものを、ここに思いがけず見せられたように思い、感動しました。そのたたずまいから、逆に、彼らのすぐ近くで働く日本の若ものこそが多くを学ぶことになろうかと期待しています。
では、みなさん、スラマッ・ジャラン Selamat jalan !(So long !)
挨拶でよく使われるSelamatは good とか happy とかsafely といった感じ。Jalan は、旅の雑誌「ジャラン」が日本にもありますよね、それです。旅をするとか、道のこと。お帰りの道が安全なものでありますように、という意味になるでしょうか。これにかぎらず、なかなかやさしさのこもった言語ですね、インドネシア語は。
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不心得者による乱獲のおそれがあるので、あまり詳しく場所は書かないほうがよい、というのが常識らしいのですが、性善説の好きなわたしにはどうもその感覚に欠けているようでして。これは、山梨県甲州市のはずれ、三富の徳和渓谷に沿う小徑でふと目にした小さな山野草。花とも呼べないようなつつましさで、清水のしたたる道の片隅にけなげに咲いていました。わたしにとっては、初めて見る花でした。どこか弱々しく、いとしさを感じさせてくれる野の花。なんというほどのこともない花で、いや、もしかすると、以前どこかで見たけれど、目にもとめずに過ぎた花かも知れません。
じつは、みなさんもご存知の、画家“バルバおじさん”の、山梨・三富村にあるアトリエへ、8月中旬のある日、遊びに行ったとき、近くの渓流に沿ってちょっとハイキングに行きました。せせらぎの音のほか音はなく、セミさえ鳴かないひんやりとした空気の流れる深い緑のなか、山側の斜面に二、三株、ひそやかに夏の光耀を浴びていたものを、何気なくレンズにとらえたもの。
帰ってきて、ひとから、これが「シデシャジン」(四手沙参)という名の山野草で、ちょっと珍しい、貴重なものだ、と聞いて、へ~ェ、というわけですが、名前がわかっただけで、急に親しく近づいたように思えるから、不思議。よくありますよね、こんなこと。はじめて会ったのに、名前を知っただけでずうーっと以前から知っていた人のように思えるようなことが。名前って意外に大事。改めて花に目を近づけ、よく見れば、花冠が細かく五つに裂け、糸のようになって反り返り、なかなかかわいい。なるほど、神社で玉串を捧げるとき、その玉串に垂れている四手に似ていなくもない。しめなわにも下げられる細長い紙、その印象を借りて誰かがつけた名らしい。
図鑑で調べると、キキョウ科、シデシャジン属、学名Asyneuma Japonicum とあり、日本が原産の多年草とのこと。
「沐雨櫛風」(もくうしっぷう)または「櫛風沐雨」ということばがあります。外に飛び出し、雨でびしょぬれになり、風にばさばさと髪を振り乱しながら、脇目もふらず東奔西走する姿を形容することば。阿修羅って、こんな感じ? キャンプだ、合宿だ、国際交流だ、と追い立てられるラボの夏。この「ひろば@」に書き込まれているものの表題をザッと見ただけでも、わたしのような気の弱いものには、ゾッとおののくものがある。
ですが、どうでしょうか、ひょいと立ち止まって路傍に咲く小さな花に腰を屈してしばしこころを寄せてみる、そんな余裕もほしいもの。「夏休み」といわれるくらいです。夏は本来、人間が人間らしく休むものなのかも知れません。それに、ほんとうのものは、立ち止まってじっくりと見ないとよく見えないことが多いようでもありますので。
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