死刑の基準-『永山裁判」が遺したもの 堀川恵子
日本評論社2009年発行
筆者は
1669年網走生まれ、元広島テレビ放送の報道記者、ディレクター
2004年退社現在フリーのドキュメンタリーディレクター
19490627網走生まれ 8人兄弟の4男
父は青森県板柳生まれ、腕の良いりんご剪定職人だったが博打に狂った
借金で家をとられ網走へ
母は北海道利尻島生まれ
1954母が板柳へ帰る、置き去りにされた4人のこどもたち、父もいなくなる
5歳ころ 網走から板柳へ移る
中2のとき ずっと家を出ていた父が岐阜で路上死
1965東京へ集団就職渋谷 西村フルーツパーラー
19690407永山則夫逮捕 19歳
19790710東京地裁死刑判決
19800607和美さんからのはじめての手紙が届いた
19801025和美さんアメリカから羽田空港へ
和美さん遺族への謝罪の旅、
19801212和美さんと面会室で結婚
198104行き倒れて入院していることがわかった永山の母に会いに行く
18810408ずっと恨んでいた母トヨに母の読めるカタカナで手紙を書く
ー以後1993年に母が無くなるまで手紙、季節の食べ物、お金など送り続けた
19810822東京高裁無期懲役判決
世論、マスコミは無期懲役判決を一斉に批判
19830708最高裁で差し戻し
19860403和美さんと離婚
19870318東京高裁死刑判決
19970801死刑執行 48歳
200903著者が和美さんと会う
永山則夫が処刑されて12年、裁判員裁判が始まろうというときに
著者は永山則夫が遺した膨大な手紙や資料を読み込み、
裁判官や弁護士を含めて、関係者に直接会ってゆく
著者の誠実な読み込み、調査や関係者と会ったときの言葉から
永山則夫やその母、その父、獄中結婚した和美さんの姿が浮かび上がってくる
また裁判官、弁護士など関係者のの経歴、人柄、考え方も見えてくる
特に和美さんとの出会いから無期判決までの奇跡的な経過
その後の差し戻し後の別れへといたる経過など
無罪判決
殺人という罪、贖罪、人が人を裁くことの重さ、死刑というものについて深く考えさせる本でした
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