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午後からは雨といわれていた天気予報が外れて
とんでもなく暑い一日になった
蒸し暑く、風がない
日陰だと少しは楽というコンデション
6人で8:30~16:00
キンモクセイ二本の刈り込みとサザンカを担当
持っていった凍らしたお茶、頂いた1リットルのジュース
が空になった
夜はコンサートへ
25歳のペテルブルグ生まれのドイツ人女性のういういしく優雅な演奏であった
ピアノの青年の演奏も好感が持てた
2008年07月04日
アリーナ・ポゴストキナ ヴァイオリン リサイタル
会場 武蔵野市民文化会館小ホール
武蔵野文化事業団(0422-54-2011)
演奏者
アリーナ・ポゴストキナvn、ペール・ルンドベルイp
演目
モーツアルト ヴァイオリンソナタ第34番KV378
ラヴェル ヴァイオリンソナタ ト長調
S.プロコフィエフ 5つのメロディ op35bis
R.シュトラウス ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 op18
開場時間 18:30
開演時間 19:00
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自転車で行けるところにある武蔵野大学の公開講座へ
■武蔵野大学案内
平成20年度 日本語・日本文学科公開講座日程(前期)
「源氏物語千年紀」
第一部 「王朝装束着用実習」 (授業でやっていた実習を今年は公開)
日時:2008年7月3日(木)10:40~12:00
会場:本学雪頂講堂
講師:高倉装束研究所員/清谷 千郁 ほか(今日は別の方だったようだ)
申込:不要
聴講:無料
第二部 「源氏物語の名―主人公たちの名前をめぐって」公演
日時:2008年7月3日(木)13:00~14:30
会場:本学雪頂講堂
講師:國學院大學栃木短期大学教授/林田 孝和
申込:不要
聴講:無料
1時間をたっぷりかけて男女各1名の学生に平安時代の
装束をつけてゆく
男子は束帯
女子は女房装束(十二単じゅうにひとえは俗称)
二人で前後からお方様に着せてゆく
前方の人は立たない 立ち膝
立っているお方様はまったく何もしない
後ろから衣を着かけ、首から前を合わせる
左右に襞をとる
後ろの人からまわされた仮帯を締める
体の両側の部分を少したくし上げる
次の衣を後ろからかける
着ていた衣のたもとは前の人が片方ずつ新しい衣のたもとに入れる
首から前を合わせる
左右に襞をとる
後ろの人からまわされた仮帯を締める
前の仮帯は外す
体の両側の部分を少したくし上げる
これを繰り返してゆく

最前列左端から見たので、着せてゆく様子、帯を結んでゆく様子もよくわかった
お昼は学生食堂でランチ、400円
午後から、源氏物語の登場人物たちの名前似ついての講義を聴いた
ほとんの人物の名前は通り名であって、本名はかかれていない
それはなぜだろうか という講義であった
(女房装束の構成
一番地に肌衣の上に白小袖・緋の長袴・単・五つ衣・打衣・表着・唐衣・裳で髪は「おすべらかし」、櫛・釵子・平額をつけ、帖紙・檜扇を持つ)
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今日は6人で8:30~14:30までの仕事
玉造のイヌマキ、モッコク、ツツジなど担当
暑かったので、帰ってからのシャワーはとりわけ気持ちがいい
夜は三鷹文化センター
三鷹市芸術文化センター+高井浩子(東京タンバリン) Presents
太宰治作品をモチーフにした演劇 第5回 華燭(かしょく)
を見に行った
太宰治を題材にした群像劇
黒澤明の上映会をしていた小劇場星のホールの内部がが一変している
椅子がどう片付けられたのか
仕掛けがどうなっているのか
不思議なので始まる前に三鷹文化センターの方に聞いたところ
いつも座っている椅子の下に空間があって8ブロックに分かれた椅子が
ブロックごとにさかさまに収納される仕掛けがあるとのこと
椅子のなくなった空間に新しく中央舞台を造り、前後から舞台を見る
それぞれ舞台に向かって花道がある
まだくらい照明の中で、
能のお囃子がはじまり、俳優たちがいきなりすり足で登場
暗い中で入場動きまわっているかと思うと
明かりがつき劇が始まる・・・・
舞台の区切りの暗転では装置や小道具の運び込みに
何度かこの動きの変化を使っていてメリハリを付けていた
2時間15分休憩なし
太宰治を題材に
東京タンバリンという劇団の
劇作家高山浩子が料理した世界を楽しんだ
『作家というものは、歩くように、書き続けなければならない
何かのためではなく・・・・書き続ける
何があっても・・・・書き続ける・・・・』
と言っている作家がスランプに陥り、書けなくなり
内心は賞を得たいと切実に願い・・・
友人に評価を求められた作品をあえて評価せず・・・人間の弱さを見せてゆく
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ご近所から頼まれた庭の手入れ
2時近くまでかかった
その庭のお隣に、珍しい木があって調べたところ
ミッキーマウスの木だということがわかった
黒い実と赤いガクがミッキーマウスの顔に見えます
http://www.hana300.com/mikky0.html
http://www.hana300.com/mikky01.html
夜は近くの(歩いて5分)武蔵野文化会館大ホールへ
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮フリューベック・デ・ブルゴス
「ブラームス交響曲全4曲」二日連続プログラムの公演
今日は第三、第一 2時間ブラームスに浸る
(アンコールはハンガリヤ舞曲1、5)
明日 第四、第二
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11時仙洞御所 見学

仙洞御所 (せんとうごしょ)とは、退位した天皇(上皇・法皇)の御所
仙洞とは本来仙人の住み処をいい「せんどう」とも読まれる
転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいう、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われる
現在、京都市にある京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所が位置しているこれは1627年(寛永4)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という
小堀遠州によって作事された庭園が広がっている
仙洞御所の建築群は1854年(安政1)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている。なお、仙洞御所東北に隣接する大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている
今は皇族が宿泊される
1630 仙洞御所竣工 後水尾上皇移る
1636 仙洞御所初期庭園完成
1657 仙洞御所で浄瑠璃、歌舞伎、能、俳諧などの催し盛ん
事前申し込みが必要
指定された時間は11時なので京都御所内を散歩
サミットが近いため御所内に迎賓館もあるので警備の警官が多い
仙洞御所の建物は残っていないとのことだったのであまり期待してはいなかったのだが、庭園は落ち着いた緑とが池に映えて素晴らしいものであった
四季折々に何度も来たい庭である
出町柳まで歩く
電車で一乗寺へ 徒歩15分ほどで曼殊院
曼殊院(まんじゅいん)拝観
伝教大師(最澄上人)の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあり「東尾(とうび)坊」と称した 曼殊院と改称されたのは天仁年間
智仁親王の息子である智忠親王の4歳違いの弟である良尚親王は13歳で出家している
良尚入道親王(りょうしょうにゅうどうしんのう、元和8年12月16日(1623年1月16日) - 元禄6年7月5日(1693年8月6日)
1646 良尚親王、天台座主となる
この寺に明暦二年(1656)に二十九代として入寺され、現在の地に堂宇を造営した
この1656年には、すぐ近く(歩いて10分)、隣といってもいい、で後水尾上皇による修学院離宮の本格的造営がはじまっている
相談されたのであろう
良尚親王の書や絵の格調の高さ、人柄の穏やかさがにじんでいて感嘆した
午後3時 修学院離宮見学
こちらは3時の指定であった 1時間15分ほどのツアー
1626 寛永3年には二条城行幸が盛大に行われ,朝幕関係は好転するように見えたが・・
1626 後水尾天皇は、大徳寺・妙心寺等の禅僧に紫衣(しえ)着用を許可したが、幕府は翌年その勅許を無効とした
1627 この「紫衣事件」を契機として,
1628 寛永6年,にわかに女一宮(おんないちのみや)興子(おきこ)内親王(明正天皇)へと譲位 上皇となる 退位させられたとも言える
公家諸法度など幕府による朝廷圧迫がありながらも
朝廷の権威は維持し
仙洞御所をつくらせ、修学院離宮をつくらせとお金を出させ、
秀忠の娘と結婚させられたが,夫婦の仲はとてもよく(心情こまやかで)
二人で仏教信仰と趣味の世界を送った・・・
したたかに生きたともいえる後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は1596~1680と長寿を全うした
東福門院は1607~1678
1656 修学院離宮本格的造営に着手
1658 桂 新御殿 明暦4(1658)年後水尾上皇のお忍び御幸
1659 修学院離宮 下御茶屋ほぼ完成後水尾上皇御幸、披露がある
1661 修学院離宮 上御茶屋ほぼ完成後水尾上皇御幸、披露がある
以後例年行幸
1663 桂 後水尾上皇の御幸3,11月
修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかの-)、下御茶屋(しもの-)と呼び習わす3か所の庭園からなる
面積は54万平方メートルに及ぶ 各御茶屋の間には棚田が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる (この松並木は明治になってから植えられたもの)
上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した
下御茶屋からは見上げる景
上御茶屋からは見下ろしの景を楽しむ
秋の景色や雪景色も見てみたいものだ
農作業も含めて棚田の風景

浴龍池という人造湖
31回におよぶ行幸の折には必ずといっていいほど船遊びを楽しまれたという
堰堤を隠すための目隠しの大刈り込み 13m×200m
(椿山茶花、ツツジ、榊、杉、ひのきなど66種の灌木や喬木が混植されている)
出町柳まで戻る
鴨川沿いに河原町まで歩く
錦市場を覗いて京都駅へ
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京都旅行3日目 相国寺 銀閣寺 平安神宮神苑
相国寺承天閣美術館『源氏物語錦織絵巻 山口伊太郎遺作展』
平成20年3月3日源氏物語錦織絵巻全4巻完成
昭和45年70歳の時に制作開始
爾来37年の歳月をその完成に費やした
山口伊太郎はあらゆる準備を終え、平成19年6月29日105歳で亡くなられた
山口伊太郎は職人ではなく、西陣織りのまとめ役にあたるかたである
平安時代末期に描かれた源氏物語絵巻
(現存するのは20巻のうちの4巻のみ)
を西陣織りで再現した
絵をそのまま再現しても意味がないと
織物の技術を駆使して源氏物語を描いたので
登場人物の着衣や草花が華麗な色彩を放っている
2巻目からは織物にコンピューターの技術も使いはじめたので完成したが
もし使っていなかったら完成はほど遠かったであろうと言う
銀閣寺までバスに乗り、銀閣寺拝観
哲学の道を歩いて平安神宮神苑へ
小川治兵衛の庭を歩く
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松尾大社
近代の作庭家、重森三玲晩年の作の庭を見る
松尾大社から西芳寺へ歩く
苔の茶屋で昼食
指定された時間に早いので西芳寺の周りを歩く
西芳寺の奥は深い竹林となっていた
西芳寺
奈良時代、行基の開創と伝えられる古刹
暦応2(1339)年に夢窓国師が復興
ここも事前申し込みが必要
拝観料3000円
1時の回は写経を参加者全員がする
80名ほどの参加者が墨で薄く書かれた下書きをなぞる写経に取り組む
写経は永久保存されるとのこと
写経が終わった人から自由に庭を歩くことができる
夢窓疎石の作庭
上段の枯山水と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っていた
境内北方には上段の枯山水庭園の石組みが残る
この石組みには夢窓疎石当時の面影が残っていると言われている
この庭のつくりが金閣寺や銀閣寺の庭園のお手本になっているという名庭である
120種類の苔が濡れて、水滴を含み美しい
西芳寺の近くの地蔵院拝観
地蔵院は孟宗竹や真竹が美しい林をなしている暗い参道を歩いて寺に入るので
竹の寺と呼ばれる
臨済宗の寺で一休禅師が幼少の頃、修養された寺である
貞治6年(1367)、細川頼之が創建し、かつては大寺院であったが、応仁の乱で諸堂を焼失
方丈前の枯山水の庭にはさまざまな形の石が配され、十六羅漢の庭という
頼之は三代将軍義満の管領の命を受け、幕府政治に十二年間にわたり関与する
南朝軍を壊滅させ全国制覇を実現する
頼之は武人でありながら文化人としても知られている
漢詩文を好み、和歌にも秀でていた
(頼之が詠んだ和歌十三首が勅選集に入っている)
宗鏡禅師の門をたたき、地蔵院を建立するに至った
庭を見ている庭の奥の部屋で、お寺の女性の方がちょうど訪問された多分親戚の方とお話をされていた
表の部屋から見ると真っ暗な部屋に見える
その向こうに窓があり、暗い中で裏庭の緑がひときわ美しく見える
暗くても明かりをつけたりせず自然の光で過ごされている・・・・
上桂駅から阪急電車で烏丸へでる
イノダコーヒーでひと休み
入り口は町家のまま、奥は二階建て吹き抜け構造の近代建築
河原町まで歩き 月村を覗くと幸い席があったので夕食
生ビール、茄子、はも鍋、シュウマイ、鳥釜飯等・・・
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庭の勉強中なので、前から計画していた桂離宮見学に行ってきました
初めての桂離宮です
朝東京を出て京都へ 京都駅から東寺へ
東寺を拝観してからから桂離宮へ歩く
JRを北にくぐり抜け、八条通りをたどって
桂川を渡ったところに桂離宮がある
『源氏物語』では光源氏の別荘があったところ
参観者入り口へ230mの「桂垣」をたどる
生きた竹を折り曲げてつくった野趣にとんだ、珍しい垣根だ

御成門(表門)を過ぎると「穂垣」となり、その先が参観者入り口の通用門
御成門は、丸太の柱と磨き竹を並べた気品のある簡素な門
この穂垣は竹矢来の如くすっくと立った太い竹に細かな穂竹を横に渡してあり
力強くまた繊細という不思議なおもむきがある

三か月前に申し込んでから返送されてきた許可証を提示
荷物検査があってから待合室へ
ビデオを見てから約1時間の見学ツアーになる
解説の職員とともに進む 後ろから皇宮警察の人が警備につく
(写真撮影は止まったところではできる 移動中は危険なので禁止
建物の中には入れないが茶室などは中もよく見える)
「霰こぼし」と呼ばれる石を敷き詰めた道、御幸道たどって御幸門へ
「霰こぼし」は加茂川の青黒い小石を敷き詰め粘土で固めた道
幅は1,8mだが、長さ44mあり、
両側は。こけ、低い刈り込み、モミジの並木で構成されていてとても気持ちがいい
雨が降ったり病んだりの天気だったので、苔や木々の緑がとりわけ瑞々しい
この道の突き当たりに土橋がありアイストップになっていて
この道は西洋庭園からの影響を指摘されている
住吉松(衝立松)この松によって入ってすぐは庭の全景を見せないという仕掛けになっている
桂離宮全体が、自然の中を歩きながら、その自然は自然そのものではなく
簡素な人工的な造作によって、微妙に変化する空間の楽しさを味わう仕組みとなっている
なんと文化的な空間であることか
州浜を経て松琴亭へ
賞花亭
園林堂
笑意軒とたどり
古書院、中書院、新御殿が並ぶ全景が見えてくる

月見台をとおって御輿寄(おこしよせ)玄関前提
ここに「真の飛び石」「真の延べ段」が置かれている

桂離宮では3種類の延べ段、飛び石、灯籠を見ることができる
その置き方がひとつひとつ勉強になる
文化財保護のためか1時間のツアーになっているのであまりゆっくりはできないのが残念
また来よう
勉強中のメモ
●桂離宮の歴史
1579年 智仁(としひと)親王誕生(1579年 - 1629年) 小堀遠州、正一(こぼり・まさかず)1579~1647と同年生まれ
小堀遠州が桂離宮の造営に関わったという記録はないが、同時代の人として、関係する人々の間に交流があり、影響があったと見られる
また武将であった小堀遠州への公家文化の影響も推測できる
1588年(天正16年)智仁親王は,豊臣秀吉の猶子(ゆうし)後継者となり,豊臣家の継承者として期待される
しかし翌17年に側室淀君に男子鶴松が生まれたために解消
1589年(天正17年)同年12月八条宮家を創設
1591年(天正19年)1月に親王宣下を受けた 八条宮はその後桂宮と呼ばれる
1595年 鶴松が3歳で死んだため秀吉は甥の秀次を関白に継がせたが、秀頼が生まれたため邪魔となり
乱心を理由に切腹させる
1598年 後陽成天皇は,秀吉の死後,慶長3(1598)年10月,突然,天皇の弟にあたる智仁親王への譲位の意を表明
しかし豊臣よりと見られ、徳川の反対にあって実現せず
関白、天皇を望まれた才能ある人物はその後・・・
慶長5(1600)年には,22歳で細川幽斎より古今伝授(こきんでんじゅ)を受け
(甥にあたる後水尾天皇に相伝し、御所伝授の始まりとなった)
名実共に当代を代表する宮廷文化人に成長
桂離宮の最初の建設は1615~1616
1615年 下津村の地に桂川の水を引き入れ「下津瓜畑のかろき茶屋」古書院ができる
関白を継いだ秀頼非業の死はこの年
1620年 智忠親王誕生 母はキリシタン大名、京極高知(秀吉、後に家康につかえた武将)の娘
1624年 智仁親王 一枝を折る身ともかな月の中の 桂の里の住居成せば
雲は晴れ霧は消え行く四方の峰 中空清くすめる月かな
月をこそ親しみあかぬ思ふこと 言はんばかりの友と向かいて
1629年 元服して智忠親王となる
智仁親王(1579年 - 1629年)没51歳 10年で荒れ果てたといわれるが
1631年 相国寺 懸卓「荒廃甚だしく感慨懐旧はなはだ切なり」
このころの智忠親王の歌 なく虫の声もあわれにすむ月の 淋しさいかにあさじふの庭
月を身の友とて向かうよもすがら 思うことなき 窓のうち哉(かな)
1641年 智仁親王の息子である智忠親王が第2次の造営を開始 中書院
1642年 智忠親王 前田利常の娘富姫をめとる(母は徳川秀忠次女天徳院)経済的に豊かになった
1644年 智忠親王 病弱、結核を病んでいたため後継ぎに恵まれず後水尾院の皇子を養子にした
三代目穏仁(やすひと)親王
1647年 智忠親王 妹西本願寺良如に嫁いだ梅宮を招待 「目を驚かし」「よそではこんなことはできない」と参加者絶賛
1648年 智忠親王の妹梅宮は29歳で没した
1658年 新御殿完成 明暦4(1658)年後水尾上皇 お忍び御幸
1662年 中書院、新御殿、月波桜、松琴亭、賞花亭、笑意軒を増築
八条宮家2代の智忠(としただ)親王(1619年 - 1662年)没44歳富姫没44歳
1663年 明暦4(1658)年と寛文3(1663)年の後水尾上皇の御幸3,11月
1665年 三代目穏仁(やすひと)親王24歳で亡くなる
1675年 四代目長仁親王21歳で亡くなる
1689年 五代目長仁親王19歳で亡くなる
六代目から八代目はなんとか継承したものの、その後40年間も相続希望者はあらわれなかった
九代目はわずか2歳、十代目も4歳で没す
1881年 11代淑子(すみこ)内親王が亡くなり桂宮途絶
1883年 桂山荘は、宮内省の管轄となり名前が「桂離宮」となる
主を失ったままひっそりと佇んできた桂離宮の歴史である
●縁戚関係
正親町天皇─誠仁親王ー┬ 後陽成天皇 ┬ 後水尾天皇(修学院離宮)
│ └ 一条恵観 (一条恵観山荘)
└ 智仁親王 ┬ 智忠親王 (桂離宮)
(桂離宮) ├ 梅宮 (西本願寺黒書院)
└ 良尚親王 (曼殊院)
後日修学院離宮の近くの曼殊院で智忠親王次男の良尚親王の書や絵を見ることができた
書は格調があり、描かれた絵の鳥も虎も気品があって、人柄が忍ばれる素晴らしいもであった
この方々の素養水準の高さに改めて驚かされた
●宣教師によって伝えられた西洋の造園知識や手法がこの桂離宮に取り入れられたのではないかと言われている
御輿寄前庭の黄金分割平面
御幸門のビスタ
土橋をアイポイントとした御幸道
マツをアイポイントとした亀甲岬
ソテツの植栽
中秋の観月に合わせた方位角の月見台
すべて一定の高さにすべて刈り込まれた生垣
青と白の市松模様の襖など、数多くの幾何学的要素
1606年の宣教師による報告
後陽成天皇とキリシタンの結びつきはキリシタン大名の娘を妻にした
天皇の弟八条宮智仁親王によると記されている
1613年の宣教師による報告によれば
御水尾院の妃が京都の協会を訪れ、自らは入信しなかったが
家臣の入信は許したと言う
後陽成天皇が宣教師にヨーロッパの技術を、宮廷関係の庭園や建築を造る
「宮廷付き工人」と言う人物に教えるよう命じたという
この人物こそは江戸幕府作事奉行小堀遠州なのである
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ツツジの花柄を取り除いてあげましょう
今の時期は、散歩の時いろんな花に出会えて楽しいですね
ただちょっと気になるのがツツジです
ツツジの花も終わって
咲いたあとの花が茶色に変色して
元の枝に貼り付いて残ったままになっています
見事に咲きそろったところでは
一面に茶色く変色した花が残り
花見のあとのゴミの山のようにも思えます
これを早めに取り除きましょう
見た目に美しくないばかりではなく
病気や虫害の発生につながるからです・・・
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昨日剪定を終わっているので今日は除草
ドクダミやシダが広がっている
6人で午前中いっぱいかかった
ドクダミ、シダなどを根から取り去る
ドクダミの地下に広がる根を除くには
長いステンレス棒でつくった手製の道具を使う
シダは細かい根が広がっているのでスコップを使う
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近所で咲いている花
クリーム色のカシワバアジサイ
濃い紫のメドウセージ
黄色のビジョウヤナギ
参考
ビジョウヤナギ 未央柳 中国名は金糸桃
オトギリソウ科 原産地 中国
名前の由来は葉が柳に似ており、中国の長安の都にあった宮殿の未央宮にこの花が植えられていたことからとのこと
江戸時代には日本に入っていた
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