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レイモンドの設計した東京女子大講堂に初めて入った
座席は1000席くらい、簡素な建物でした
Z席という最後列でしたが、音響設備を全く使わず
舞台からヴァイオリンの音が響きました
曲目は親しみやすい曲ばかり・・・
途中での天満さんの言葉から
天満敦子さんのお母さんが卒業生とのこと
「東横デパートで買った小さいヴァイオリン」
「6畳と4畳半、小さな家だったのでピアノはおけなかったのでしょう」
「魚屋のお兄さんに聞いた、音大を出たばかりの先生に習い始めた」
「6年生くらいまで練習したことがありませんでした」
「私は音楽というよりも、ヴァイオリンが好きです
もっといわせてもらえば、私のヴァイオリンの音が好きです」
「惚れ込んでいます」・・・・
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東京女子大学創立90周年・100周年に向けて
東京女子大学同窓会主催・東京女子大学協賛
天満敦子 無伴奏ヴァイオリンコンサート
2007年9月15日(土)14時開演 (13時開場)
東京女子大学講堂
アヴェ・マリア シューベルト
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タイスの瞑想曲 マスネ
+
トロイメライ シューマン
+
G 線上のアリア バッハ
+
ねむの木の子守歌 山本正美/小林亜星 編
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中国地方の子守歌 和田薫 編
+
この道・城ヶ島の雨 竹内邦光 編
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ロンドンデリーの歌 アイルランド民謡
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グリーンスリーヴス イギリス民謡
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アメイジング・グレイス 黒人霊歌
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鳥の歌 カタロニア民謡
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パルティータ第2番ニ短調シャコンヌ付 BWV.1004 バッハ
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望郷のバラード ポルムベスク
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六本木 森美術館 ル・コルビジェ展行きました
展示は300点とたくさんあり
模型を各方向から眺めたり、目の高さを模型の窓の高さにして、建物を想像したり
原寸大模型で建築空間を体感したり
10カ所ほどの映像で体感したりと・・・盛りだくさんの内容でした
11時過ぎに入館し、全部見終わってでてきたら18時過ぎ!!!
その間ランチに出ましたが・・・
●原寸の模型
現存するパリのアトリエを実寸大で再現した空間
(彼は毎日午前中 絵を描き、彫刻制作をし、午後建築の仕事のため事務所へ出かけたという)
集合住宅のマルセイユ・ユニテのメゾネットタイプ(2階建てアパートの内部)の原寸大模型
カップ・マルタンの休暇小屋(フランス)の原寸大模型
●会場の構成は10セクションに分けられている
section 01 アートを生きる
section 02 住むための機械
section 03 共同体の夢
section 04 アートの実験
section 05 集まって住む
section 06 輝ける都市
section 07 開いた手
section 08 空間の奇蹟
section 09 多様な世界へ
section 10 海への回帰
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今日の仕事
生け垣の剪定
モチノキ、ジンチョウゲ、サカキ、タケなどを混ぜた生け垣なので
平面ををそろえるのが難しい
ジンチョウゲだけはそろえず他はそろえた
落ちた枝葉の掃除
引っかかっている枝葉をよく落とすこと
生け垣の足元の落ち葉や雑草もきれいにする
真横から見る
とふくらんでいるところが見える
脚立を使って
目の高さで見ると天端(てんば)の高さがそろっているかどうかわかる
今度は正面離れたところから全体のできあがりをチェックする
持ち場を離れるときは
刃物の取り扱い
脚立は必ず横にしておく
立てておく通行の邪魔になる
万一倒れたときの危険
ヒマラヤスギの剪定
脚立をロープで木に固定するやり方
安全帯の使い方 上の枝に架けること
ベルトの器具の位置が身体の真横にあること
ヒマラヤスギは
約20センチ以上の枝を枝分かれしているところから全部切ってしまう
残った枝が柔らかく垂れているように仕上げる
残った枝はほんの少しである
夏にやると枯れてしまうとのこと
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火曜日の11時に切り上げたお宅へ5人で行く
8時半開始
雑草 5月に手入れに人が入っているが夏の間にかなり伸びている
ドクダミが一面に広がっている
サカキの剪定
大きなキンモクセイの刈り込み
高い脚立を道路に置く
注意深く使うのだが、上に乗るとさすがに緊張する
木に登る場合は安全ベルトを枝にかけるし、
木に身を預けるので安定感が在る
脚立の場合の危険は
安全ベルトをかけるところが難しい
脚立から落ちる危険
脚立が倒れる危険 足場、置き方、開き方
道路に置くので下は鋪装されていて危険
ヘルメットの着用は必須である
4時頃あまりの暑さで疲れが出た
4時半終了
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大佛次郎『詩人』『地霊』を読む
『詩人』昭和8年5月『改造』
『地霊』昭和21年3月から9月『朝日評論』
『詩人』というタイトルで一冊となり、昭和21年11月苦楽社刊行
『詩人』セルゲイ大公暗殺を実行したカリャアエフを描く
こどもが大公の馬車に同乗していることで
ダイナマイトの投擲ができなくなるテロリスト
そして二回目は・・・
セルゲイ大公(1857-1905)
アレクサンドル2世の息子、暗殺当時モスクワ県総督(知事)
反動的で知られ、甥で義弟でもあるニコライ2世に影響を与えた
イワン・カリャーエフ(1877-1905)
1905年2月4日血の日曜日事件への報復としてセルゲイ大公を暗殺したエスエル戦闘団員
その罪で同年処刑
『地霊』1902年から1908頃までの社会革命党指導者の一人アゼフが
実は帝政ロシアのオフラアナ(特高)のスパイだったという事件
警察から送り込まれたスパイでありながら
組織の中では重要な役割を果たし、信頼を得て行く
沈着冷静に暗殺の実行にも関わっている
内報者として、組織の摘発に協力しながら
同時に
プレエヴェ内相暗殺、セルゲイ大公暗殺の重要な役を果たしてもいる
その事実が明らかになる経緯
アゼフの逃亡から、事件の影響、死までを描く
ロシヤの特高が使った
革命組織を泳がせ、協力もして、組織を育ててから
一網打尽にするというやり方も出てくる
大佛次郎は
「ロシヤに起こった事情について私が興味を抱いたのは
ロプーシンの『蒼い馬』や『遂に起こらなかったこと』を読んで、
共感が目覚めたからであった」と語っている
ロープシンの『蒼ざめた馬』は、大正9年(1920)に
青野季吉のよって翻訳され、刊行されている
この翻訳書は、古田大次郎(1900-25)や和田久太郎(1893-1928)など、アナーキストに強いインパクトを与えたという
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大佛次郎 のドキュメンタリー小説
新潮日本文学25巻で読んだ
1930年 昭和5年「改造」4月号から10月号に連載された
12月天人社刊行
時代背景 ロンドン軍縮会議・恐慌・失業者40万人の年
次の年9月には満州事変が始まっている
1894.10.15 ドイツのスパイであるとの容疑でドレフュス逮捕
アルフレッド・ドレフュス
参謀本部附き砲兵大尉 妻リュシィと結婚5年 二人の子(3歳、6ヶ月)がいた
アルザス生まれ ユダヤ人
1894.12.22 ドレフュス裁判 有罪判決 終身禁錮
1895.2.21 サリュ列島 悪魔島へ
・・
ピカール中佐 ドイツ大使館シュワルツコッペン中佐の手紙(プチ・ブルウと呼ばれる)
エステラージー少佐宛の手紙を発見
・・
・・
1898.1.13 エミール・ゾラ
オーロール新聞に「余は弾劾する 」を発表
30万部を撒く 平常は1万部弱の新聞
ゾラは告発され、裁判を受けて立つ
激こうした民衆に取り囲まれた裁判
有罪判決の見込みの中でイギリスへ逃げ身を隠す
ゾラを守る少数の人びとの描写にモネの名とセザンヌの名があった
・・
・・
・・
1899.6.9 迎えの巡洋艦で島を離れる 囚人のままの扱い
1899.8.7 再審軍法会議はじまる
1899.8.14 軍法会議 ラボリ主任弁護士狙撃される
1899.9.8 再審軍法会議判決 有罪 禁錮10年
1899.9.19 大統領特赦
1899.9.20 出獄
1906 無罪判決 軍籍に戻る
最初の有罪判決の後
真犯人が見つかっても軍法会議の威信、軍部の威信を守るため
ドレフュスは有罪とされ続けた
僥倖のようないくつかの出来事が重なって
やっと再審軍法会議が始まるがそこでも有罪判決
大統領特赦でやっと出獄できた
5年の悪魔島監禁に関わらず無罪を勝ち取る戦いを続けようという意志はしっかりしていたが
髪は白く、老人のようにやつれていたという
そのまま島で生涯を終えた可能性のほうが高かった
ドレフュスを助けようとしたのはごく少数の人びとであって
多数は「フランス万歳!」「軍部万歳!」「ユダヤを許すな」であった
愛国という美名による国家危機感と盲目な民衆感情が結びついたときの恐ろしさ
雪崩を打って良識を押し流す民衆心理の恐ろしさをも描いている
前の日記でふれたジェリー・マネの日記『印象派の人びと』
の記述が参考になった
解説によれば
赤穂浪士や鞍馬天狗でよく知られるようになった大佛次郎が
はじめて自分の書きたい小説を試みたものであるとのこと
その後の日本の歩みを見ると
その先見性に感心せざるを得ない
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マンションの生け垣
カナメモチの生け垣を刈る
カナメモチは一階の住居の目隠しになっている
深さは昨年剪ったところを目安にする
しかしその通りにすると凹凸ができる場合もあるのであくまで目安にすること
刈った葉が一部ベランダに入る
下にはツツジが植えてある
ほかに キンモクセイ、ハナミズキなど
ベランダに飛び込んだもの
ツツジの上に落ちたもの
刈った後の葉を取り除くのがたいへんだった
脚立の建て方
チェーンをたるませないこと
下に枝葉があったら必ず取り除くこと(万一脚立が滑るといけない)
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今日から秋の仕事がはじまった
夏は木のためにもよくないのでしばらくお休みだった
今日の家は5人で行く
2年ぶりの手入れということ
かなり枝が伸びている
かなり大胆に次々に剪ってゆく 後片付けがたいへんだ
涼しい一日で助かった
帰ってシャワー、、ビール
夜右腕に軽い発疹が出た
椿のチャドクガにやられた・・・
注意
はしごを枝に立てかけるとき
はしごの下が土にめり込むこともある
かなり余裕を持った高さで立てかけないと大事故につながる
鉈を買っておくこと 片刃がよい
ロープを買っておくこと はしごを枝に結ぶ
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映画「ボルベール(帰郷)」VOLVERを見た
2006年【スペイン】 上映時間:120分
見てよかった
物語と作者である監督の故郷への想いが
赤と黒を基調に、色濃く重なっている
生きて行くものと死者の物語でもある
その村では使者たちは今も生きているかのように扱われている・・・
墓を掃除する女たちの場面から始まる
どの墓も丁寧に掃除し磨かれている
墓には花が飾られている
東風が強く、墓においた花瓶には石を入れて重くする
生前に墓を買って、そこに休息に来る女もいる
「この地方の風習なのよ」
女同士でもあったとき、別れの時に抱き合うときのキスはとても丁寧
5,6度、音が続く
マドリッドから村に戻った姉妹、妹の娘
(後でわかったがこの村は監督の生まれ育ったラ・マンチャ地方の村である)
4年前に姉妹の父母は焼死している・・・・
ラ・マンチャの村とマドリード
火事で死んでしまった両親
だが娘には深いわだかまりがあった
父親の行為に深く傷ついた心
それに気がつかなかった母親への憎しみ
村を離れ、マドリッドに暮らす
失業する夫に替わって病院の下働きで働く日々
一人娘を愛しているが 絶対に言えない 本当の父親のこと
無くなってしまった生まれた家の絆
何があっても
それでも生きて行く
しなやかな強さ
娘のためにずっと歌わなかった歌を歌う
母親に教わったタンゴ「帰郷」の歌声・・・
監督 ペドロ・アルモドバル
キャスト ペネロペ・クルス(女優) ライムンダ
カルメン・マウラ(女優) ライムンダの母:イレネ
脚本 ペドロ・アルモドバル
音楽 アルベルト・イグレシアス
撮影 ホセ・ルイス・アルカイネ
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
映画『ボルベール<帰郷>』公式サイト
http://volver.gyao.jp/
VOLVER | Un film de Pedro Almod要ar
http://www.clubcultura.com/clubcine/clubcineastas/almodovar/volverlapelicula/sinopsis_fra.htm
記者会見 2996年5月カンヌ より
ペドロ・アルモドバル監督:
今回のこの『ヴォルベール』(原題『VOLVER』=「帰郷」の意)という作品は、今まで色々なテーマを描いてきた僕が、原点に立ち帰った映画なんだ。僕は母や姉といった女性によって育てられて、彼女たちの中で「ドラマ」とは何かを学んできた。自分の子供時代が幸運なものだったのか、不運なものだったのかは分からないけれど、とにかく今回の作品は僕の子供時代を反映しているよ。
僕は今までに16本作品を作ってきているけれど、常に新しい作品を撮るのは冒険だと感じるね。
僕の中にはすごい情熱が渦巻いていて、もう脚本を書かずにはいられないし、映画を撮らずにはいられないんだ。
僕が映画を創るのは、賞のためではなく、情熱のためだよ。
ペネロペ・クルス:
アルモドバル監督の映画に出るのは『オール・アバウト・マイ・マザー』以来。彼が居なかったら、私の今のキャリアはないから、本当に感謝しているわ。彼は本当に女の気持ちの在り方を全て熟知していて、毎回驚かされるの。まさか分からないだろうと思うような気持ちや感情まで、全て気付いている。彼自体がすごい観察者だからだと思うけれど、心のヒダの奥深くの本当に小さい事まで彼は理解していて、私の心を全部分かっちゃうのよ。とにかく凄い人だわ。
別のところで見つけたアルモドバルの言葉
「この映画を通して、私は必要な弔いの時期を過ごしたように感じている。
心の中の空洞は埋められ、自分の青春期などの、とうに別れを告げるべきだった何かに別れを告げることができたのだ」
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ドイツ旅行帰国後の読書
図書館から「黄色い星ーナチスドイツの1933~1945」という写真集を借りてきた
1933年ナチスが政権を取り
街頭でのユダヤ人迫害が盛んになった頃のベルリンやミュンヘンの写真がある
ナチによるユダヤ商店の襲撃や街頭での暴行
ナチスが悪書と指定した本を大学の広場で燃やす「焚書」が行われている
古い建物のならぶ町並みや広場は現在とまったく同じ景色
行われている出来事だけが違うという写真を何枚も見て
不思議な気持ちになりました
(今ドイツでナチスを賛美することは有罪になります)
その後に続くのはゲットーや収容所、絶滅収容所の写真
500万人から600万人が殺されたその証拠写真
しかもこれらの写真のほとんど全部が殺した人々が
記録のため、記念のために撮影したものだということに慄然とする
そのカメラを見ている犠牲者たちの眼、眼、眼・・・・
見ている私たちに『こんなことが許されるのか』と問いかけてくる
(2枚だけ収容所内の抵抗組織が秘密取りした写真が入っている)
『ドイツにおけるナチスへの抵抗1933~1945』を同時に借りてある
現代書館1998年 5800円
(ドイツ人によって書かれ、1994年ドイツで刊行された研究書の全訳)
抵抗し、殺された人々の記録 写真 ビラ 尋問記録
残された手紙
白バラの章もある
1942年ミュンヘン大学 6月に最初のビラ4枚が書かれた
1943年2月18日ミュンへン大学で数百部が撒かれた
その場でゾフィ・シェル、ハンス・シェル兄妹逮捕、
4日後死刑判決、同日処刑
ちょっと一休みと
印象派に関する本を読んでいたら
フランスの世論をまっぷたつに分けたドレフュス事件のことがでてきた
『印象派の人びと ジェリー・マネの日記』
ジェリー・マネはベルト・モリゾの娘
早くに母が亡くなり、ルノアールやドガに見守られていた
母を含めた印象派の画家たちに何度も描かれている
日記には印象派の人びととの交流が語られ
それらの人びとの絵や本人の絵ももたくさん掲載された楽しい本であったのだが・・・
後半
19898年、1899年の日記にはドレフュス事件のことがたくさん出てきた
カソリックの家庭であり、
ルノアールや、ドガの影響のためか
ジェリー・マネは反ドレフュスなのである
反ユダヤ人の記述も何度か出てくる
ドレフュス事件
ドレフュスは参謀本部に勤める陸軍士官だった
1896年 スパイ容疑で逮捕
官位剥奪、終身刑となり孤島に送られる
えん罪であったことが後に明らかになったにもかかわらず
フランス軍の威信を守るため再審でも有罪になる
ユダヤ人であったことが有罪になった大きな原因であった
ゾラなど知識人が運動の影響も在って
1906年やっと無罪になりドレフュス名誉回復され軍隊に復帰した・・・
ドレフュス事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%A5%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
フランスは普(プロシャ)仏戦争でプロシャに敗れた後
ロスチャイルドなどに代表されるユダヤ人の金融資本を恨むことが始まり
金儲けばかりのユダヤ人、祖国を持たないユダヤ人と・・・
ユダヤ人への反発意識が広がった
フランスの世論はまっぷたつ
というより反ドレフュスの動きが強い状況
ルノアールやドガが
反ドレフェスの発言、反ユダヤ発言をしていることに驚く
ゾラは印象派を擁護したはずだが
印象派のなかでもいろいろ意見が違っていたようだ
私が画家を含めて知識人は皆ドレフェス無罪支持派と思いこんでいたのは間違いだった
調べてみると
ルノワール、ドガ、ポール・ヴァレリー、カミ-ユ・クローデル、ロダンなどが
反ドレフュス、反ユダヤ (政治的に発言していない人も含まれている)
ゾラ、プルースト、ピサロなどはドレフュスの無罪を信じ、発言した
ゾラは1902年に一酸化炭素中毒で死去
(暖炉の煙突をふさいで、殺された可能性もある)
当時の反ドレフュス派を支持する人の多くは
無邪気なナショナリスト、熱心な愛国者にすぎないという面もあるのだが
第一次大戦前のフランス人のなかにあった反ユダヤ人意識と
第二次大戦前のドイツにあった反ユダヤ人意識の構造は全く同じであったことに驚く
ジェリー・マネの日記より
1898.1.15ルノワール「ユダヤ人はフランスに金を稼ぎにきていざ戦争となると木の後ろに隠れてしまう」
1899.2.18ルーべはフランス人じゃない だって彼はドレフュス派だからだ
2.24ドレフュス派、ユダヤ人、パナマ汚職のれん中が好き勝手に権力をもてあそぶのだあわれな国フランス!
6.22ドレフュスを無罪にするための陰謀にすぎない。やがてドレフュスは喝采のうちに放免されるだろう。
反愛国的な政府を持つのはうんざり
8. 2ギュスタブ・モローについて「あれはユダヤ人の芸術さ!」とルノワールさんまさに正鵠を射た定義!
9. 9オータンの大ミサに出席
9.10ドレフュスは有罪になった10年の禁錮重労働
9.20「リーブル・パロール」紙主催ユダヤ人をパレスチナに送還するキャンペーンに6フラン寄付
暑いので本を読み進めるのも一苦労です
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