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リハビリテーションのため、
市の総合体育館トレーニング室に通い始めました
この体育館には、自転車を使うと5分ほどでゆけるので行きやすいのです
午前中でも、午後、夜、老若男女いろんな人がきています
私から見ると、たくましいなと思える人、
柔軟な人だ、身体が良く動く人だと思える人ばかり、目につきます
最初にトレーナーに相談、メニューを作ってもらっています
着替えをし、トレーニング室へゆきます
自分のファイル(メニューが書いてある、記録を記入する)を取り出す
体重、血圧、脈拍検査
●エアロバイクで準備運動10分ほど
●からだが暖まったところで15秒単位のストレッチを12種ほど
●筋肉トレーニング各種 機械の使い方も教わりました
慣れてきたものは負荷を増やしてゆきます
まだ腕の筋力が落ちているがそれ以外は大丈夫・・・
●酸素運動 これはランニングマシーンを使って
今は時速6キロで30分くらいの「速歩き」をしている
●最後にストレッチ 今度は30秒単位で筋肉を伸ばす
これはとても気持ちがいいです
体重、血圧、脈拍検査
自分のファイルをしまう
これだけだが2時間ほどはかかる
最初の一回目、オリエンテーションもあり、ひどく疲れ、
その夜は11時間も寝ることになった
その後、数回通って、もう慣れてきた
週に2回はやった方がよいとのことです
時々ストレッチ体操や簡単エアロなどにも参加している
もっと前からはじめていれば良かったと改めて思いましたが
忙しいと出来ませんよね・・・・
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セザンヌと近代絵画について まとめ
セザンヌ以前の画家の絵は自然のより素晴らしい模倣、よりすぐれた自然の写実であった
セザンヌにあっては自然は「その表面にあるものよりずっと奥深く」絵画は「彩色された平面にすぎない」
いかに自然から受け取ったものを画面に定着させるかが生涯のテーマであった
模倣、写実を超える表現が繰り返し追求された
テーブルからなだれ落ちそうなリンゴ
ほとんど点描派の絵画のような筆のタッチの風景
色彩のリズム
大胆に残された余白など
りんご、人物、サント・ヴィクトワール山、・・・・
セザンヌは目の前にある対象を、分析し、自分が納得できるまで、再構築していく方法を探し続けた
(ヘミングウェイは文章で 戦争の体験をこの方法で書こうと試みた
『スミルナ桟橋にて』はそのひとつ)
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ガートルード・スタイン 1874~1946 はアメリカ人で、パリに住んでいた
当時、セザンヌの絵を買う人はいなかったのに
セザンヌをいち早く認め、1906年その作品をヴァラール画廊で買った人であった
1907~1914年キュビズム運動
スタインはマチスやピカソをいちはやく認めた人でもあった
「ピカソその他」ガートルード・スタイン
本間満男・金関寿夫/訳 書肆山田
ピカソ論2本と、セザンヌ論、マチス論、ブラック論
1922年ヘミングウェイがガートルード・スタインを訪ねたときにも
彼女のサロンにはこうした画家たちの絵が飾られていた
ヘミングウェイはガートルード・スタインの影響を受けている
新聞社の特派員を辞めて、作家になることを勧めた
ヘミングウェイからスタインへの手紙
「あなたにお会いするまで小説を書くことは、私にとって簡単なことだった
あなたにお会いしてから、小説を書くことは難しいことになりました」
「今、セザンヌがやったように小説を書いています」
In Our Timeの "Big Two-Hearted River''において
"country''をセザンヌのように書こうとした
先週読んだヘミングウェイの『スミルナ桟橋にて』は
7つほどのエピソードが書かれているのだが、エピソードそれぞれの関連が良くつかめなかった
しかし今回の講義で近代絵画の画家たちとの交流について聞き
近代絵画を考えて見るととその意図がわかってきた
セザンヌがマチスがピカソがやったように
写実ではなく、一度解体して再構成しているのだ
起承転結を持った叙述ではなく
おなじ画面にいろいろなシーンが、同時に、書き込まれているような書き方なのだ
そのことによって単に描写するのではなく
読者がそこにいて行動しているかのような効果をつくりだしている
特派員レポートではない、作品をつくりだそうとしている
『スミルナ桟橋にて』という作品ががよくわかった
目から鱗が落ちた感じ・・・で気持ちがいい
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法政大学沖縄文化研究所の公開講演会
「沖縄古層文化をインドネシアから考える」に出かけた
講演は 長崎国際大学の細田亜津子さん
プロジェクターを使ってインドネシアの伝統的集落が紹介された
1,インドネシアの調査地と沖縄の位置的関係
2,スラウェシ島(旧セレベス島)トラジャ族の伝統的集落
3,スンバ島の伝統的集落
4,フローレス島の伝統的集落
5,上記地域と比較し沖縄を再考する
これらの島々は距離的には近いのに
それぞれ独自の文化今も保持し続けている
例えば家の建て方、集落の配置、葬儀の仕方、世界観など
バリ島とも近かいところに
様々な文化が今も存在し続けてことに驚いた
それでいてインドネシアの文化全体には
沖縄まで広がる文化の共通性を感ずる
神、祖先
家屋の中での祖先との生活・・・・・
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素晴らしい映画を見ました
人生を考えさせるという意味で・・・・見てよかったと思った映画でした
舞台は1960年代のパリ・ブルー通り
オペラ座と北駅のあいだにある
さまざまな人種が入り交じり、昼間から娼婦たちが仕事のために立っているような通りだ
「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のオマー・シャリフが
町の食料品屋の店主である老人、
トルコからきてパリで長く生活してきた老人を
素晴らしい存在感で演じている
彼の店の近くに、ユダヤ人の少年が父と暮らしている
母の顔は知らない
「本を読め」といつも兄のことをいい比較する父
本を傷めると光を嫌ってカーテンを開けない父
突然、失職し、少年にお金を置いて、家を出て行ってしまう父
ひとりで暮らす少年
この少年と老店主との気持ちが通い合いあってゆく
父が死んだと警官が知らせに来る
マルセーユ近くで鉄道自殺したらしい父
身元の確認を「いやだ」と断る少年
老店主が出かけてゆく
ひとりでいるところへ母と思われる女が少年を訪ねてくる
「僕は違う 彼は出かけてしまった 兄を探すといっていた」
「兄なんかいない、私のこどもはひとりだけだわ」・・・・
公式サイト
http://www.gaga.ne.jp/ibrahim/
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抵抗力が落ちていたのか左目が結膜炎にかかった
結膜炎ってこどもがかかるものかと思っていたのですが・・・
眼科へ行くと
「直す薬はない」「直るのを待つしかない」
「抗体ができるまで2週間くらいかかります」
「他の人にうつらないように注意」という
目薬はもらって帰ったが
毎日ひどくなるばかり、目は日毎に赤くなり、まぶたも腫れ上がり
外にも出られない
本も読めないと悲惨な事態に陥りました
確かに2週間ほどで収まってきましたが
この2週間から20日間の長いこと・・・
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日墺文化協会創立20周年
5月19日(木)19時開演 紀尾井ホール
天満敦子 無伴奏ヴァイオリンコンサートに行ってきました
今日は無伴奏とあって、舞台に何もなく、
天満さんがバイオリンを持って出てきて、すぐに最初の曲を弾きはじめられました
天満敦子のバイオリンの音は響きはじめたとたんに、音の素晴らしさを感じます
そしてそれが最後まで続くのです
静かな、堂々たる演奏です
音の違いは、楽器が違う、力量が違うという感じ・・・・
CDでは聞くことのできない音の迫力を毎回感じさせられます
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上野 西洋美術館にジョルジュ・ド・ラ・トゥール展を見に行った
2005年3月8日(火)~5月29日(日)
9時30分~17時30分(毎週金曜日は20時まで開館)
国立西洋美術館(東京・上野公園)
17世紀のフランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)は
生前はよく知られていた画家であったが、
その後忘れ去られ,20世紀になって再発見されたという
現時点でラ・トゥールのものであるとされている40点のうち
20点を集めての、二度と実施することが不可能な展覧会だ
ということで足を運んだ
宗教画であっても、同時代の身近な人々をモデルにしたらしく
人間味のある顔が絵を親しみやすいものにしている
彼の生きた時代の衣服をまとっていることもほほえましい
ろうそくやランプの光を使った表現の巧みさ
人物へのまなざしのやさしさ
そこには
名声を得ていたとはいえ
疫病や戦乱の中にあって、苦しんだ画家の未来への希望が託されている
西洋美術館内のレストラン「すいれん」は緑の中庭の眺めが素晴らしい
オムレツを食べましたがとてもおいしかったです
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ギリシャ・トルコ戦争の記録
1919年5月ギリシャ軍がトルコイズミール地方へ攻め込む
トルコ軍の巻き返し
ギリシャ軍のスミルナからの撤退 22年まで
1922年9月ヘミングウェイはトロント・スター社からの特派員として現地へ
12月まで 19回掲載
この時の体験を小説にも5回書いている
「スミルナ桟橋にて」という短編を読む
簡潔な表現にこめられた情景描写に驚かされる
[ギリシャ・トルコ戦争]
1821年ギリシャ独立
ギリシャは、ビザンティン帝国時代の領土回復をめざし、トルコ領土内への国土拡張政策をすすめた。
1912年、13年のバルカン戦争と、つづく第一次世界大戦においていずれも戦勝国となる
トルコ本土の海岸の街スミルナに軍を上陸、占領
しかし当時のトルコは、のちにトルコ共和国初代大統領となるケマル=アタチュルクにより、
近代的な強国に成長しつつあった ギリシャ軍は撤退へ
ギリシャの独立から小アジア侵出までの一連の動きには、イギリスを初めとした西ヨーロッパ諸国の支援があった
キリスト教とイスラムの対決という構図である
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第一次世界大戦とヘミングウェイ
trench 塹壕
trenchmortar 迫撃砲
1917年(大正6年)18歳 高校を出て、8ヶ月ほど働き、
パリからイタリアへ
前線に出てわずか1週間で重傷を負ったヘミングウェイ
(1917年4月にアメリカ合州国が第一次世界大戦に参戦)
1917年5月卒業式直前、父親の強い反対を押しきって
ヨ-ロッパ派遣の兵役に志願するが
身体検査でボクシングによる左目の障害が判明し不合格
オ-ク・パ-クの実家からの脱出意欲高まり、
秋にはミズリ-州カンサス・シティ-に本社のある
「カンサス・シティ-・スタ-」新聞記者の職を得て転居
独り暮らしを始める。約半年の体験だった
1918年4月に「カンサス・シティ-・スタ-」社を辞職
イタリア軍付赤十字要員募集に応募。これに合格
5月末にはニュ-ヨ-クを出発
6月にはミラノに到着、従軍を果たす。
7月8日夜、北イタリア前線フォッサルタ村
戦闘での負傷者輸送中に敵の迫撃砲攻撃か機銃掃射で被弾、
脚部に227もの破片を受ける負傷
翌日朝からミラノ陸軍病院に3か月入院
ここで看護婦アグネス・フォン・クロ-スキ-と恋愛関係に・・・
この体験が後の小説『武器よさらば』を生む
退院後は中尉待遇となり10月には再びイタリア軍と戦線に出る
11月には休戦となり、帰国を考える。
参戦時の功績により1921年にイタリア政府から勲章)
作家 シャ-ウッド・アンダ-ソン
作家 ガートルド・スタイン
詩人・批評家 エズラ・パウンド
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