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ニューヨークの舞台、劇団四季の舞台と見てそれぞれ楽しむことができたので
今更見に行かなくてもいいやと思っていたが
歩いてゆける吉祥寺の映画館で『オペラ座の怪人』が始まったので
二人で見に行くことになった
舞台を創った作者アンドリュウー・ロイド=ウエバー自身が
映画製作に関わっている(製作・脚本・作曲)こともあり、
素晴らしい出来映えであり、見に行ってよかった
クローズアップや切り返しなど、舞台ではできない技術を使い
映画である良さを十分生かして舞台とは違った魅力も出している
装置、衣装も豪華
撮影のとき17歳であったという、
初々しいヒロイン、エミー・ロッサムが
映画『オペラ座の怪人』の大きな魅力でもある
歌詞の英語が聞き取りやすい
べた褒めになってしまった・・・
オフィシャルサイトはこちら
http://www.opera-movie.jp/
音楽も聴くことができます
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節子・クロフツカ・ド・ローラ『見る美 聞く美 思う美』
祥伝社2004年11月刊行 1600円
節子・クロフツカ・ド・ローラさんは、
2001年になくなられた画家バルテュスの妻
1962年にバルテュスと出会い、
1967年に結婚
1968年長男出産(2歳8ヶ月で逝く)
1973年長女出産
1977年よりスイスロシニエールにある
スイス最古の木造建築グラン・シャレに住む
日本の美を愛したバルテュスとの日々の生活、別れ
スイスの地で、西欧の文明の中で
日本の美、日本の精神を日々の生活の中で
どのように生かし、生きているかを語っている
美は特別の日だけにあるものではなく、毎日の生活の中にあるものだと
教えられる・・・
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前田美千雄追悼画文集『戦場から妻への絵手紙』
講談社1998年刊行 1500円
編者の高澤絹子さんに
戦場にあった夫から送られた手書きの絵葉書と表に書かれた文字
忙しい軍務にあって、唯一の喜びであったことが絵葉書描きであった
ほとんど毎日のように描かれている
伸びやかな筆遣いと水彩の色が素晴らしい
愛情あふれた文章も
前田美千雄さんは
大正 3年生まれ
昭和12年東京美術学校日本画科卒業
三越百貨店美術考案部就職
昭和13年現役入隊。引き続き招集され日中戦線へ
昭和17年暮れ除隊
昭和18年1月に結婚
昭和19年1月再召集 金沢市粟崎の部隊を経て
5月頃フィリピン・ルソン島へ上陸
昭和20年8月5日頃マニラ東北の山中にて戦死と推定されている
婚約時代に中国からもらった251枚
粟崎から345枚
フィリピンから貰った132枚
計728枚の手書きの絵葉書が残された
届かなかった絵葉書もたくさんあった
この絵葉書は
今は上田市の塩田平らにある戦没画学生慰霊美術館
「無言館」に預けられている
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オランダの光をフェルメールの絵で、ゆっくり味あう
『謎解きフェルメール』小林頼子・朽木ゆり子
新潮社 とんぼの本003年6月刊行 1300円
フェルメールの全作品を制作年代順に手際よく解説した本で
写真、図板が多く読みやすい
残っている全作品の絵が掲載されている
(筆者によれば
フェルメールが生涯に描いた絵はせいぜい50数点
残っているのは30数点)
1568年北ネーデルランドハブスブルグ家スペインに反旗を翻す
1588年オランダ共和国誕生
1632年 デルフトに誕生(アムステルダムから列車で約50分)
街中いたるところに運河、
17世紀にはビール、毛織物、デルフト焼を輸出する商業都市だった
1958年頃「牛乳を注ぐ女」(オランダ・アムステルダム国立美術館)
「小路」 (オランダ・アムステルダム国立美術館)
1659年頃「デルフト眺望」(オランダ・ハーグマウリッツハイス美術館)
1662年頃「青衣の女」 (オランダ・アムステルダム国立美術館)
「真珠の首飾り」
「音楽の稽古」
1665年頃「青いターバンの少女」(オランダ・ハーグマウリッツハイス美術館)
「手紙を書く女」 (ワシントン・ナショナルギャラリー)
1675年没
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地域社会が生きていた頃というのは
例えばこんな風景です
藤本義一さんの文章から(『人生の賞味期限』岩波書店 2001年)
小学校2年生の頃の思い出です
〈学校の往き帰りにブリキ屋の店先で魔術のようなハンダ付けを一時間近く眺めていたり、
石屋のおっちゃんが石碑の文字を彫り上げてゆく様子を隠れながら見て感動した。
どうして隠れて見たかというと石の砕かれた小さな破片が飛び散るためにおっちゃんに怒鳴られるためだ。
私の目には、こういった職人と呼ばれるおっちゃんが尊敬の対象だった。
学校の成績がいい友だちは別の頭を持った人としか理解しなかった。尊敬の対象にはならなかった。
そこで、このおっちゃんたちはどういう学校に通っていたのだろうかと考えた。
おっちゃんたちの仕事にはどういう道筋を辿れば到着できるのだろうかと想像した。〉
小学校2年生の藤本はおっちゃんに直接聞いてみることにした
〈ブリキ屋のおっちゃんは、こっちの質問に愕いた表情になり、厚い掌でくしゃくしゃの顔を揉みこむように撫でて、ぼそぼそした口調で言ったものだ。
「いやな、正直言うて学校が嫌いやってん。学校があかんかったさかいにな。
勉強が好きでようでけたら、学校が好きになってたやろな。そいで鋳掛け屋の小僧に出されたんや。
人間、なんぞしていかな生きていけんもんな」
こう喋っている間も鏝(こて)の先で鈍い音を立てた半田の玉は鮮やかな一本の線になって二枚の金属板をしっかりと付着させていった。
おっちゃんはそれが鉛と錫の合金であると教えてくれた。
目の細いおっちゃんの顔には照れくささと誇りが見られた
毎日と言っていいほど、三十分ぐらいおっちゃんの技術を見ていた。鍋、釜、薬缶、ブリキの玩具と修理の対象物はさまざまだったが、
おっちゃんは穴の空いた部分とか毀れた部分を暫く凝視して低い呻きに似た声を上げて修繕方法を決定すると、
手練の早業で半田で付着させ、小さな金槌でトントンと軽快に金属面の凸凹を平らにしたり、元の丸味に戻してゆくのだった。
薄暗い店の奥に幼い子供の叫び声やおっちゃんの嫁はんの叱る声があり、赤ん坊が泣いていた。
おっちゃんとのぼそぼそした会話(やりとり)の人生哲学の背景には生活があった。
はじめて、私は他人と接点を持ち、他人の心と触れあうことで人生とは何であるかと知ったように現在になって思う。
このおっちゃんの心から学ぶことはなにかと多かった。
「お金が仰山あっても、人間なんにも偉くなったわけやない。
使い途を間違うたり、もっとお金が欲しいと思うたりするだけの話やろ」
「他人さんが苦しんではったら一緒に考えないかん。
他人は他人と思うのは死んだ心や」
「あんまり虫を殺したらいかんで。虫かて命があるさかいに生きとる。
虫。小さいよってにな、痛いッというとっても聞こえんだけや」
おっちゃんのこういういった人生哲学を聞いて、
小学校2年生の心(考え方)は毎日いい方向へコロコロと転がって変わってゆくのだった。〉
私にもこんな経験があります
今は職人さんが働いているような小さなお店はどんどんなくなってしまいました。
大人が働いている姿を見ることがほんとうに少なくなっています。
働くと言うことの実感をこどもたちに伝えることがとても難しい時代ですね・・・
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写真展『地球を生きるこどもたち』に行ってきました
http://www.ntv.co.jp/event/syashin/
http://www.ntv.co.jp/event/syashin/03/index.html
渋谷 Bunkamura
3月21日まで
写真展のテーマは「地球の環境」「世界の平和」「子どもの幸福」
この1世紀半の間に、200人の写真家がとった260点の写真の展示
主催者が選び、交渉して展示の許可を得た写真の中には
有名になった写真、よく知られた写真、世界を変えることにつながった写真が含まれています
一枚一枚の写真から地球を生きるこどもたちの喜びや、悲しみが伝わってきました
主催者はこれらの写真によって
これからの世界を生きるこどもたちへの私たち大人の責任を問うている・・・
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ロバート・キャパ 展『キャパ・イン・カラー』
http://www.magnumphotos.co.jp/ws_exhibition/carcolor_1.html
2月20日まで、日本橋三越
昨年発見されたカラーネガフィルムを中心にした展示
ネガフィルムの発色は驚くほど美しい
ロバートキャパは事故の直前日本に来日
京都の写真、こどもたちの写真やメーデーのカラー写真を残している
日本滞在中に
インドシナでの取材を依頼され
インドシナ戦争へ向かう
部隊との行動中に地雷を踏んで死去した
直前に撮した作戦展開中のカラー写真も・・・
上映されていた『キャパ in LOVE &WAR』はキャパの生涯を
映像(キャパの写真、キャパを撮った写真)映画フィルムと
現在生きている友人たち、関係者の証言で構成していて見応えがあった
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ブログってことばよく聞くようになりました
ブログはウエッブログWEBLOGの略です
WEBがインターネットのホームページ、LOGが記録や日記を指します
インターネット上で公開される日記のようなホームページのことを言います
そうです
【ひろば@LABO】もブログのひとつといえます
楽天広場もブログのひとつです
新しいブログはより簡易版のホームペームが作れるようになっています
ブログプロバイダーはいろいろあり、サービスの内容が少しずつ違います
携帯電話からの内容更新や写真の送信がほぼ標準的な機能になってきました
記事の下に意見を書き込む「コメント」機能(これは掲示板と似ています)
ブログ同士を関連付ける「トラックバック」機能を利用して
意見を述べ合い議論をするようになっています
自分のホームページでリンクを作るときは、自分のページから相手のページへとリンクが張られます。
これと逆に、相手のページから自分のページへのリンクを作ってしまうのが、トラックバックの機能です。
昨年12月11日の朝日新聞によれば開設数は
ライブドアブログ 212,178(無料)
ドリコムブログ 142,000(無料)
gooブログ 80,000(無料)
ココログ 48,812(nifty以外の人は月263円)など
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未来を生きる君へ 野田正彰さんの伝言
2004年4月18日 朝日新聞のコラムより
朝日新聞に、若い人たちへの「未来を生きる君へ」という小さなコラムがある
毎回筆者がかわるのだが野田正彰さんの会のものの切り抜きがとってあった
ご紹介します
タイトルは「生きる姿を見つめてみよう」
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「あなたたちは生きることに意味がないと感じていないだろうか。
精神科医として。また大学の教師として若者と接してきて心配なのは、
希薄な人間関係に浸り、自分を中心に世界を理解しようとした結果、空虚な精神に陥る人が増えていることだ。
・・・・
(中略)
・・・・後半1/3
「何故生きるのか」と疑問を持ったなら、
その疑問を「生きるとはどういうことか」と「いかに生きるのか」の2つの問いに分けよう。
そして前の問いについては、生きているものをしっかり見ることを勧める。
例えば動物園のサルの群れを見に行くのもよい。
動物園のサル山は狭い場所に多数のサルが閉じこめられ、騒がしいが、それでも参考になるだろう。
サルの個体と個体の関係を長時間観察していると、生きることはコミュニケーションの連続だと分かってくる。
生きる喜びも苦しみも悲しみも、相互の関係から生まれ、陰影を濃くしている。
草花を育てたり、好きな野山や植物園を見つけて四季折々に訪ねたりしてはどうだろう。
植物は、決まった場所であなたを待っていてくれるかのように成長し、花を咲かせ、実をつけ、枯れてたたずんでいる。
生きるとは静かな循環であるその上でどのように生きるか考えよう。
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「生きることはコミュニケーションの連続だ。」
「生きるとは静かな循環である。」というメッセージはすがすがしいではありませんか。
サル山のサルを見てはどうか、植物を見てはどうかという提案は切実なものだと思いました・・・
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こどもの幸福と地球の未来を考えるシンポジウムに出かけました
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2005年2月5日日テレホール
シンポジウム「子どもの幸福と地球の未来」
主催 日本テレビ(財)日本テレビ文化事業団
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■ 第1部 基調講演「戦争のない世界を子どもたちに」
ファン・ティー・キム・フック
(国連ユネスコ親善大使/キム財団創設者/カナダ・ヨーク大学名誉法学博士)
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ファン・ティー・キム・フック さんが体験とそこから学んだことを話されました。
平易な英語を使ってのスピーチ
(彼女はベトナムからカナダに来て12年です。母語によるスピーチではありません)
スピーチの構成、語り口、笑顔がすばらしかったです
苛酷な体験の中で、でもそれがあったからこそ
平和の大切さ、自由の価値、愛の癒す力、
残されたものの価値、信仰と許しの力などを学んだ。
1972年6月8日、ベトナム戦争の最中、
南ベトナム軍の空軍機が自国民に対して4本のナパーム弾を投下するという悲劇的な過ちをおかした。
現地に居合わせたベトナム人カメラマン(AP通信社)のフィン・コン・ウトさんが、逃げまどう村人たちを撮影した。
この写真「戦争の恐怖」は、世界中に配信され、1973年のピュリツァー賞を受賞し、
アメリカの反戦運動を一挙に加速度を加える一因ともなった。
写真の中央で、裸で逃げている少女が、当時9歳のキム・フックさん。
一命をとりとめたキムさんは、重度の火傷のため14回の入院、
17回におよぶ皮膚移植手術を受けた。
今も天候が変わるときに強い痛みがある。
1982年(カオダイ教で育てられていたが)
新約聖書を読みクリスチャンになる
1984年西ドイツでの手術で首が動かせるようになった
しかし戦争の犠牲者のシンボルとしての役割を期待され
ずっと政府の監視下にあった
その後
1986年医師になる希望を持ってキューバに留学。
1992年ハバナで同じ留学中のベトナム人と結婚、
モスクワへの新婚旅行の帰りに、カナダ、ニューファウンドランド島で飛行機が給油中に亡命。
その時手に持っていたのはハンドバックとカメラひとつだけだった。
何もない中でカナダでの生活がスタート
あの写真から逃げたかった
現在はベトナム人の夫と2児(10歳7歳の男の子)ととも
カナダ・トロントに住んでおり、ベトナムから来て貰った両親も一緒に暮らしている。
1997年からはユネスコの親善大使に任命され、世界中を駆け巡って平和のために活動している。
さらに、キム財団を創設して戦争の犠牲になった子どもの救済にあたっている。
2004年10月22日、カナダ・ヨーク大学から名誉法学博士号を授与された。
英語による紹介のホームページ
KIM'S STORY The Road from Vietnam
http://www.peace.ca/kimstory.htm
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■ 第2部 パネル・ディスカッション
「子どもたちにとって平和とは、戦争とは」
● パネラー [コーディネーター] 吉岡忍(作家)
長倉洋海(写真家)
小山内美江子(脚本家/JHP・学校をつくる会代表)
菅波茂(AMDA代表/医療法人アスカ会理事長)
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長倉洋海さんのホームページ
http://www.h-nagakura.net/
JHP・学校をつくる会のホームページ
http://www.ne.jp/asahi/jhp/home/
AMDAのホームページ
http://www.amda.or.jp/
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菅波茂さんの発言から・・・・
何故アジアのNGOは人を助けるのかと問われた
困っている人を助けたい
困っているときには助けて貰いたい
フレンドシップのためだ
民族、宗教、文化を越えて
誰でも助けになりたい
相手のプライドを考えなければならない
NGOは最悪の想定の中で最善のことを追求している
家族の写真こそはパスポートだ
スタッフには写真を持っていって家族のことを話すように言っている
その話が本物ならばそこで信用される
AMDAの呼びかけ「ワクチン注射を打つ間停戦を!」に応えて
北部同盟もタリバーンも岡山本部にやってきたことがある
ワクチンを打てば25%が死なないですむようになる
こどもたちの未来を考えて戦争を超えることは可能だ
平和の定義
今日の生活と明日の希望を実現させる
今日食べられて、生活できて、こどもたちが教育を受けられる
命の普遍性
すぐにできること
すぐ何ができるかとアクションを考えるけれども
悲しみを共有するメッセージを届けることがまず第一
1995年阪神大震災のときに
パキスタン支部から1枚のファックスが届いた
「応援を派遣する用意があると」
それがどんなに力強かったことか・・・
小山内美江子さんの発言から・・・・
1945年鶴見で空襲の中を逃げた
その時泣きながら逃げている母親がいた
その背中の子どもは瀕死の状態であった
自分の身代わりにこどもが死んだという悲嘆だったのだと思う
私はこどもの死ぬ脚本は書かないことにしている
カンボジアに学校を学生たちとつくっている
毎年2000台のピアニカが必要です 家にあったら送って下さい
長倉洋海さんの発言から・・・・
こどもはこどもだけで生きているのではなくて
大人と生きている
何故撮るのかと問われる
自分への問いでもある
吉岡忍さんの発言・・・・
みんながニコニコと話して下さったことがよかった
皆さん楽しいからやっている
違った世界に触れることは楽しいことです
この方たちはみんな違った世界に触れることの楽しさの中毒になった方です
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シンポジウムのパネラーがそれぞれ深刻ぶらず、
率直にご自分の活動を話して下さったことがよかった
助け合うのはお互い様
まず悲しみを共有するメッセージをという指摘に
大切なものと受け止めた
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