|
|
世田谷美術館の「川上澄生木版画の世界展」に行ってきました/
生涯をたどった展示のバランスがよく、すごく良かった/
カタログが1400円と安いのに、装丁もいいし、内容は充実しています/
お買得でした/出展作品リストがないのは残念/
世田谷美術館には無料の駐車場があるのもいい/
1917年 22歳 失恋 痛手をずっと引きずった
1918年 23歳 カナダビクトリアへ渡航
アラスカで鮭の缶詰労働者として、過酷な労働を体験した
1921年 26際 宇都宮中学校の英語教師
自分自身の楽しみのために、一生懸命作り出した木版画
1926年 31歳 アンリルソーの作品に感動する
『初夏の風』ほかが入選
|
|
|
|
|
水村美苗の母、節子が、母のことを中心に書いた小説である
小説というより家族の歴史である
70代を過ぎて八木義徳主催の文章教室に通い、執筆し、出版されたという
水村美苗は小さい頃にこの祖母にかわいがられた
『日本語で読むということ』197p祖母と母と私
水村美苗が手を入れていると認めているが、
一番いいところは母のものだと書いている
節子は1921年生まれなので、私の母とほぼ同じ年代である
母がこどもである私を連れて行ってくれるところは、父母の親戚が多い
いろいろな家庭がある 行ったり来りがある
年ごとの贈答もある
親戚付き合いを大切にしている 付き合い方に厚みがある
あまり豊かではない、歳の差がある父母、
身なりをかまわず、教養もない、
美も知も富もないと母を恥ずかしく思うようになる節子
親戚の高台にある家をうらやましく思う節子
節子が成長してゆく中で、隠されていた母の秘密、父母の秘密が明らかになってゆく
そして父と母の別れ・・・
第二次大戦前の日本人の暮らしや文化の息づかいが細やかに描かれている
母の生きた時代の庶民の暮らし、お金持ちの暮らし、その行き来が見えてくる小説であった
|
|
|
|
|
ジャン=ピエール・メルヴィル 『海の沈黙』を見た
La silence de la mer
1947年【仏】 上映時間:88分
原作: ヴェルコール(Vercors)の同名小説 (1942年、ミニュイ刊)
ドイツ占領下の抵抗文学を象徴する「深夜叢書」の記念すべき第1作
監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
脚本 ジャン=ピエール・メルヴィル
撮影 アンリ・ドカエ
製作 ジャン=ピエール・メルヴィル
編集 ジャン=ピエール・メルヴィル
ジャン=ピエール・メルヴィル監督の長編第1作となり評価された作品
レジスタンス活動家であったメルヴィルは、戦時中にこの原作本を読んでいて
映画化を望んだ 当時30歳
低予算、ロケ撮影、少人数のスタッフ、たった27日間の撮影
メルヴィルは闇市で古いフィルムを買って、それを撮影に使ったと言われている 予算がないので監督・製作・脚本・編集に至るまで、ほとんどの作業を一人でおこなった
モノクロ 35mm
1947年8月から12月まで、パリ、パリ郊外、ヴェルコールの別荘にて撮影
非公式初上映 = 1948年11月11日 パリ公式公開 = 1949年4月22日
レジスタンス活動委員会主催プレミア上映 = 1949年1月20日
2008年映画祭『フランス映画の秘宝』にて国内初公開
国内DVD、VHSビデオレンタルなし
2010年 岩波ホールでの上映の後全国上映
映画冒頭のテロップ
“Ce film n'a pas la pretention d'apporter une solution au problème des relations entre la France et l'Allemagne, probleme qui se posera aussi longtemps que les crimes de la Barbarie nazie, perpétrés avec la complicité du peuple allemand, resteront dans la mémoire des hommes...”
残忍なナチス・ドイツの犯した犯罪が、人々の記憶からぬぐい去られない限り、この映画は仏独関係の改善に寄与しない
登場人物である伯父によって物語が語られる
ナチス・ドイツ占領下のフランス、1941年の冬
とある村の家
伯父と、その姪の二人きりの静かな暮らし
ドイツ軍の命令で一人の青年将校(中尉)が2階の部屋を使うことになる
将校は、戦地で片足を負傷していた
将校は、敵国の将校に対して沈黙をもって抵抗の態度を示す伯父と姪の二人に対して、「私は祖国を愛する人を尊敬している」と礼儀正しく、尊敬と同情の態度で接する
ふたりはあたかも将校が存在していないかのように、生活を変えない
将校の語りかけにも全く答えない
沈黙で答えるのみだ
沈黙にもめげず将校は二人にドイツとフランスの将来の融和への夢と希望を語り続ける
ことばは沈黙を続ける二人の心にかすかに届いてはいるが、二人の沈黙はかわらない
だが将校自身パリへの出張の時、トレブリンカの処刑施設のことを知り
「フランスの牙を抜かなければならない」
「フランスの精神を壊さなければならない」
というドイツ軍将校たちによって、それまでの考えを批判され
ドイツ軍兵士1人の死に対して、12人のフランス人人質の処刑で答える
というようなドイツ軍の占領政策によって、その夢や希望を打ち砕かれる
二か月間に渡るその夢と希望を語ったことばのすべてを二人に取り消し、
自ら望んで「地獄である」前線へと去ってゆく・・・
その日も普段通り朝食を取る伯父と姪だった
窓の外では、もやを通して太陽が弱々しく輝いていた
フランスへの尊敬を隠さず、あくまでも丁重な態度
にもかかわらず沈黙という抵抗を続けるふたり
打ち砕かれた夢や希望の無惨さ
去ってゆく将校への二人の想い
抵抗の映画というより、文化と文化の融合、結婚を信じたドイツ軍将校の
挫折、絶望
それを見届けたふたりの痛ましい想いを描いた映画であった
ことばや物腰、手の動きがたくさんのことを語っていた
|
|
|
|
|
ジャン=ピエール・メルヴィル 『海の沈黙』を見た
La silence de la mer
1947年【仏】 上映時間:88分
原作: ヴェルコール(Vercors)の同名小説 (1942年、ミニュイ刊)
ドイツ占領下の抵抗文学を象徴する「深夜叢書」の記念すべき第1作
監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
脚本 ジャン=ピエール・メルヴィル
撮影 アンリ・ドカエ
製作 ジャン=ピエール・メルヴィル
編集 ジャン=ピエール・メルヴィル
ジャン=ピエール・メルヴィル監督の長編第1作となり評価された作品
レジスタンス活動家であったメルヴィルは、戦時中にこの原作本を読んでいて
映画化を望んだ 当時30歳
低予算、ロケ撮影、少人数のスタッフ、たった27日間の撮影
メルヴィルは闇市で古いフィルムを買って、それを撮影に使ったと言われている 予算がないので監督・製作・脚本・編集に至るまで、ほとんどの作業を一人でおこなった
モノクロ 35mm
1947年8月から12月まで、パリ、パリ郊外、ヴェルコールの別荘にて撮影
非公式初上映 = 1948年11月11日 パリ公式公開 = 1949年4月22日
レジスタンス活動委員会主催プレミア上映 = 1949年1月20日
2008年映画祭『フランス映画の秘宝』にて国内初公開
国内DVD、VHSビデオレンタルなし
2010年 岩波ホールでの上映の後全国上映
映画冒頭のテロップ
“Ce film n'a pas la pretention d'apporter une solution au problème des relations entre la France et l'Allemagne, probleme qui se posera aussi longtemps que les crimes de la Barbarie nazie, perpétrés avec la complicité du peuple allemand, resteront dans la mémoire des hommes...”
残忍なナチス・ドイツの犯した犯罪が、人々の記憶からぬぐい去られない限り、この映画は仏独関係の改善に寄与しない
登場人物である伯父によって物語が語られる
ナチス・ドイツ占領下のフランス、1941年の冬
とある村の家
伯父と、その姪の二人きりの静かな暮らし
ドイツ軍の命令で一人の青年将校(中尉)が2階の部屋を使うことになる
将校は、戦地で片足を負傷していた
将校は、敵国の将校に対して沈黙をもって抵抗の態度を示す伯父と姪の二人に対して、「私は祖国を愛する人を尊敬している」と礼儀正しく、尊敬と同情の態度で接する
ふたりはあたかも将校が存在していないかのように、生活を変えない
将校の語りかけにも全く答えない
沈黙で答えるのみだ
沈黙にもめげず将校は二人にドイツとフランスの将来の融和への夢と希望を語り続ける
ことばは沈黙を続ける二人の心にかすかに届いてはいるが、二人の沈黙はかわらない
だが将校自身パリへの出張の時、トレブリンカの処刑施設のことを知り
「フランスの牙を抜かなければならない」
「フランスの精神を壊さなければならない」
というドイツ軍将校たちによって、それまでの考えを批判され
ドイツ軍兵士1人の死に対して、12人のフランス人人質の処刑で答える
というようなドイツ軍の占領政策によって、その夢や希望を打ち砕かれる
二か月間に渡るその夢と希望を語ったことばのすべてを二人に取り消し、
自ら望んで「地獄である」前線へと去ってゆく・・・
その日も普段通り朝食を取る伯父と姪だった
窓の外では、もやを通して太陽が弱々しく輝いていた
フランスへの尊敬を隠さず、あくまでも丁重な態度
にもかかわらず沈黙という抵抗を続けるふたり
打ち砕かれた夢や希望の無惨さ
去ってゆく将校への二人の想い
抵抗の映画というより、文化と文化の融合、結婚を信じたドイツ軍将校の
挫折、絶望
それを見届けたふたりの痛ましい想いを描いた映画であった
ことばや物腰、手の動きがたくさんのことを語っていた
|
|
|
|
|
二階のベランダに鉢植えのベンジャミンがおいてあります
数日前からメジロがきているな
何かはじめそうだなと思っていたのですが
やはり巣作りだったらしく、2ー3日前には巣の形ができ、
昨日からはどうやら卵をあたためているようです

しばらくはそっとしておいたのですが
今日親鳥が居なくなった一瞬に巣の中をカメラで撮影
卵が五つあることを確認しました

普段は少し離れた小窓から双眼鏡で覗くだけにして
近付かないようにしてます
こちらを向いているときは
あのかわいい目とこちらの目が合ってしまいますが
気付いてはいないか気付いていても警戒していないみたい
多少動きながらずっと卵を温めています
どうやらオスとメスが交代で抱いているようです
一瞬で交代するのを目撃しました
孵るまで2週間ほどらしいです
無事孵るよう応援するつもり
いつもの場所に洗濯物を干すのもやめて
見守るつもりです
人家の方が、外敵が居なくて安全だと思ったのでしょうか
|
|
|
|
|
タマラ・ド・レンピッカ(1898-1980)
ワルシャワの裕福な家庭生まれ
1911年、祖母とイタリアとコートダジュールへ旅行
イタリア絵画に触れている
1921年サンクトペテルブルグへ
スイス、ローザンヌの全寮制学校で学んでいた
1916年、18歳で貴族の弁護士と結婚
1917年、19歳ロシア革命のため亡命
コペンハーゲン、ロンドンを経てパリに落ち着く
働かない夫にかわって、画業で身を立てる決心をする
1919年、娘キゼット誕生
亡命貴族や財界人、文化人などをモデルに肖像画を描き、
画家としての地位を築いた
1923年には主要なサロンに作品を出品できるようになり、
スタイリィシュな服に身を包み、スタジオを借り、車を購入し、
芸術家としてボヘミアン名生活を楽しみながら、
社交界、上流社会の人でもあった
1928年離婚
1920年代の文化が生み出した成功した画家である
アールデコの時代の作品としてもみずみずしく、強い力があり
今もその魅力を放っている
ピカソをして『統合された破壊の斬新さ』と語らせ
「新鮮でクリア、正確でエレガント」だった
彼女は印象派の絵描きたちの多くが下手に絵を描き、汚い色を使っていると考えていたという
集められた作品の多さと
レンピッカ自身をとらせた写真とあいまって
レンピッカの魅力を伝える見応えのある展覧会でした
5月9日まで開催されています
|
|
|
|
|
浜田政彦『神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘』を読む
********************************************
今日は2.26事件のおこった日である
浜田政彦『神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘』を読む
2000年12月に三五館から刊行された『神々の軍隊』の文庫版である
徳間書店から題名を『神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘ー国体=天皇を護る人々の聖なる敗戦』と
長く変えて、20008年6月に刊行されている
これは歴史本なのか、小説なのかよく分からない本であるが
よく調べて書いてあり、面白い
2.26事件を中心に神風連の乱、大本教出口ナオ、2,26事件、
三島由紀夫と盾の会会員による市ヶ谷自衛隊乱入、自決と
筆者のいう「神々の軍隊」としてつながっている精神の系譜を描いた作品である
金の世の中、無機質、無感動、無表情、偽善と詐術の世の中を良しとせず、
現人神、天皇を中心とした日本を復権させたいという「狂気」の姿を描く
2.26事件の皇道派将校たちの背後には、
彼等を焚き付けた皇道派の将軍たち、将校たちは知らなかったが、利権を求める新興財閥がいた
しかし「神々の軍隊」が求めた変革は天皇自身によって否定され、
激怒され、反乱軍とされ、自決を求められる
裁判で主張しようとした将校たちの願いはかなわず
秘密裁判の結果ほとんどは銃殺刑となり、殺された
「神々の軍隊」を利用し、潰す勢力は皇道派にせよ統制派にせよ
「神々の軍隊」の持つ精神性を本気では持っていない大人たちであるという
皇道派は青年将校を焚き付けたが統制派も暴発を待っていたような節がある
2.26事件の後、統制派とその背後にいる大財閥による
いわばカウンタークーデターによって
その後の日本は、新興財閥も大財閥も一つになって、ひたすら戦争への道を歩んでゆく
国際金融資本が利権を持つ華北への日本軍侵攻は、その逆鱗に触れ日本の敗北をもたらす
ロックフェラーとセオドアルーズベルト大統領は日本との対立は避けられないと
対日戦争計画を1906年から14年の段階でつくりはじめており
日米戦争が始まる頃には「オレンジプラン」という名で呼ばれるようになっていた
このプランどおりに戦争が推移したことに驚かされた p415
敗戦となっても統制派軍部に責任を負わせて、大財閥は戦後も生き延びてゆく
国際金融資本は冷戦の中で、大財閥資本を使いながら、日本を利用してゆく
「神々の軍隊」が求めているのは精神なので、
捨て石となることでいいと、死を厭わず、結果を求めず、潔い
2.26事件の皇道派将校たちも三島由紀夫と盾の会会員たちの行動も
その「狂気」から発していることをこの本が指摘していることで
やっと、かろうじて、理解できるようになった
神風連の乱、大本教出口ナオ、2,26事件、三島由紀夫と盾の会と
「狂気」が「狂気」として、
日本の歴史の中に残ってきたことの意味をあらためて考えさせられた
|
|
|
|
|
NHK大河ドラマ「龍馬伝」を御覧でしょうか
10.02.22NHK大河ドラマ「龍馬伝」
4回目までは見ていたのですが
このところ見るのをやめてしまいました
●わめきすぎだと思います、あまりにうるさい
●1回上士と下士の描き方に違和感あり
上士をあまりに、あまりに理不尽に描く演出
●史実でないのは仕方がないが
何らかの真実が浮かびあがるものであってほしい
参考
平成の虚無僧一路さんの日記
NHK『龍馬伝』岩崎弥太郎
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february
NHK『龍馬伝』上士と下士
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/f06cc70642a517556702a1a55bfabd5c
|
|
|
|
|
今日
市の野外活動センターのプログラムで、鋸山ハイキング参加しました
房総半島の先の方ははあまりいったことがないので・・・・
180人の応募で抽選の結果40人が参加できました
7:00三鷹駅近くに集合してバスで出発
8:00東京湾を横断する道路アクアラインの休憩所 海ほたる着
アクアラインは初めて 初めて海ほたるからの東京湾の景色を見た
8:20海ほたる出発
9:00に浜金谷ドライブイン着
ここまで2時間できてしまった 近くなったものだ
ここから鋸山へ歩き、車力道から石切り場、展望台
車力道は車に積んで石を運んだ道、一日3度の往復は女性の仕事、だったという
展望台から金谷港、保田港が見える 東京湾対岸に久里浜港
残念ながら丹沢山塊、富士山は曇っていて見えず
鋸山は標高329.4m 房総丘陵の一部分、凝灰岩から成り、建築資材となる
古くは房州石と呼ばれ、良質石材の産地として、江戸時代から盛んに採石が行われた
その結果、露出した山肌の岩が鋸の歯に見えることからこの名で呼ばれるようになった
石材は、幕末から昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用された
また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されている
採石は昭和50年代を最後にとだえ、現在鋸山は観光資源として利用されている
昼食後鋸山山腹に広がる日本寺を自由散策
1300年前行基によって開かれた関東最古の勅願所
昭和14年に登山者の過失による火事で全山焼けてしまった
終戦まで軍の要塞化
今再建途上
千五百羅漢は、1779年から21年間をかけて、上総桜井の名工大野甚五郎英令が、門弟27名と共に作りあげた
現在、これらの石仏の中には頭がとれて無くなってしまっているものも沢山ある
これは明治初期、政府の政策がきっかけとなって広まった、仏教排斥弾圧運動の廃仏毀釈 によって破壊されたものという
大仏さん前であんぱんを食べていたところ
後ろから何かに襲われた
右手のあんまんをとろうと顔の前をかすめたトンビであった
トンビはあんぱんを取るのに失敗
だが私の目の下に足の爪で傷を残した
かすり傷だがびっくり
残ったあんぱんを食べはじめたところ
しばらくして
もう一度後ろから襲われ、今度は見事に残ったあんぱんを取られた
持っていた左手に傷、血まで出てくる
二度襲われるという不名誉・・・
同じ鳥が襲ったのであろう 甘く見てはいけなかった
雑菌があるので傷口を水洗い
やれやれ
バスに集合したところ
メロンパン、サンドイッチ、おにぎりとほかにも被害者がたくさん出ている
同行した看護婦さんの注意
動物の爪には雑菌があるので傷口を家に帰ってごしごし洗って下さい
ガーゼを使って痛くても、血が出てくるまで、(ブラッシングといいます)
洗い流してして下さいとのこと
後が腫れたりしたら受診して下さいとおおごとである
14:00大仏前集合
17:00前に帰着
早速引っ掻かれたところをブラッシング
とりあえず大丈夫そうだ
|
|
|
|
|
ドストエフスキーと古井由吉を読む月一回の読書会に参加している
ドストエフスキーと古井由吉をほぼ一回交代で読んでいる
ドストエフスキーと古井由吉は当然全然違うのだがそこが面白い読書会だ
今日はドストエフスキー『虐げられた人々』
『虐げられた人々』はドストエフスキーが
1849年に逮捕され死刑判決の後、特赦
シベリアへの流刑と軍務から1860年に帰ることができてすぐの作品
1861年に兄と作った雑誌創刊号から7号に連載された
大衆からは熱狂的に受け入れられたため雑誌は軌道に乗ったという
人物が通俗的、類型的などの指摘は当時からあった
私には初めて読む作品であったが、大変面白く
小笠原豊樹訳新潮文庫版680ページを一気に読んでしまった
推理小説のようにも読めるし、風俗小説としても読める
●黒澤明『赤ひげ』に出てくる女郎屋から救い出されるが
心を開けない少女二木てるみの役は
『虐げられた人々』の少女ネリーをほとんどそのまま持ってきている
黒澤明へのドストエフスキーの大きな影響を見ることができる
●以降の作品に出てくる登場人物の原型がもう出てきている
例えばアリョーシャは『白痴』のムイシュキン公爵
●ワルコフスキー公爵といういう悪者は
近年続発する 金銭への欲や恨みではなく
人を支配すること、人を不幸にすることそのものを楽しむ
恐ろしい犯罪者を描き出している
しかもそれを人に語らずにいられないと言う人非人である
●物語構成の面白さ
作家である語り手が篠前の一年にあった自分の経験を死の床で書いている
だんだん真相が解明されてゆく面白さ
人物関係がずれて重なっている
スミス老人の死ーーーースミスの娘家出ーーーーワルコフスキー公爵が13年前に捨てた
イフメーネフ老人ーーーナターシャ家出ーーーーアリョーシャの心変わり
|
|
|