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アイルランドについて 簡単なおさらい 2008/08/29の日記 4 08月29日 (金)
アイルランドは小さな国です

広さは北海道くらい
人口は420万人、日本の県のひとつくらいです
人口の94%がカソリック

氷河によって西から東に削られた地形
高い山はほとんどなく、丘が続く平らな土地

北緯50度以上と高い緯度にあるが、メキシコ湾流と偏西風の影響で
冬は暖かく、牛や羊といった家畜は外にずっと置く
夏は涼しい

もっとも寒いのは1月と2月平均気温は4~7℃程度、
もっとも暖かい7月と8月の平均気温は14~17℃程度
最低気温が-10℃より下、最高気温が30℃以上になることはほとんどない



「一日のうちに春夏秋冬がある」といわれるほど変わりやすい天気
降雨日が200日と雨が多いので、折り畳み傘が手放せない


『アイルランドの歴史には二つの時期しかない

古代ケルト文明の時代を経てヴァイキングの侵攻を受けたまでと
1916年の復活祭蜂起から現在までの90余年間

その中間は大英帝国の歴史であって、アイルランドの歴史ではない
国立博物館にもその中間の時期の展示はいっさいない』
(図説アイルランドの歴史 リチャード・キレーン 彩流社p185)より

英国の植民地の扱いでずっと収奪されてきた歴史
英国との独立戦争をへて、独立 

1921年12月06日 
イギリス・アイルランド条約、アイルランド自治が北部を除き承認される
(北部6県はイギリスの自治領として残された)
(このことの是非を巡ってアイルランド内部の内戦もあった)

1922年01月07日 アイルランド国民議会条約僅差で批准、アイルランド自由国成立
(第二次世界大戦では反英の気分もあって中立)

北アイルランド紛争が停戦合議したのが1998年

反英気分はいまだに強い


古い遺跡はケルト人が来る前の人々 
石器時代は8000年前からの痕跡があるが詳しいことは解明されていない

紀元前500年ころケルト人がヨーロッパから渡ってくる
鉄器を持っていた彼等が先住民を征服したものと思われる
彼等は言霊信仰からか文字を使っての記録を禁じていたので
その文化について詳しいことはわからない

ブリテン島まできたローマ人もアイルランドには手を出さなかった

5世紀ごろからキリスト教が広がる
9世紀ヴァイキングの侵攻、移住 その後キリスト教に改宗
12世紀ノルマン人の侵攻
以後徐々に英国からの侵攻、移住が続く アイルランド人との同化進む


1649年08月25日 クロムウェルがアイルランド蜂起鎮圧のため上陸
        カソリック教会の破壊、教徒の虐殺もあった 

1690年07月11日 イギリス国王ウィリアム3世の軍(プロテスタント)が、
ボイン湖畔の戦いで前国王ジェームズ2世(カソリック)の
アイルランド・フランス連合軍を破る 以後英国による支配収奪が続く


1840年、アイルランドには800万人以上の人口があった
当時の主要作物はジャガイモ
法律の下、カトリック教徒は土地を所有することができず多くは小作人であった
ジャガイモは、収穫量が多く効率の良い農作物であったので広く栽培された

1845年、ジャガイモ胴枯れ病による不作、翌年は収穫なしと1848まで続く 
英国政府は救済策を施さず
100万人が餓死し、100万人がアメリカなどに移住
売るためのジャガイモがなくて賃貸料を支払うことができなかった借家人は、家主によって追い出された
1900年までに、人口は40%以上まで落ちていた

(アメリカ、、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど世界に7000万人いる)
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あいるらんどのような田舎へ行こう 2008/08/28の日記 08月28日 (木)
     あいるらんどのような田舎へ行こう

これは丸山薫の詩の一節、読んでいてとても気持ちのいい詩です


       汽車に乗って

     あいるらんどのような田舎へ行こう

     ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし

     日が照りながら雨のふる

     あいるらんどのような田舎へゆこう

     車窓(まど)に映った自分の顔を道ずれにして

     湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり

     珍しい顔の少女や牛の歩いている

     あいるらんどのような田舎へゆこう

                 (詩集『幼年』から)


昔読んだこの詩は長い間心に残っていて
この夏、アイルランドに2週間ほど行ってきました

帰ってきてあった人の中には

「アイルランドってどこにあるの」
「どうしてそこに行ったの」

とアイルランドを知らない人たちが結構いました
日本人にはあまり知られてない国なんですね


アイルランドはこの詩が描いているような
のんびりした緑多い田舎でした

1990年代から始まった経済政策による経済成功、躍進は
「ケルテックタイガー」と呼ばれ
一人あたりの労働生産性は日本よりはるかに高く
世界で第2位です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ILOが発表した「労働市場の主要指標」によると、
2006年の労働者一人あたりの労働生産性の 上位五カ国は以下のとおり
(括弧内は労働者一人当たりの付加価値生産額)

 1.アメリカ   (約740万円)
 2.アイルランド (約650万円)
 3.ルクセンブルク(約645万円)
 4.ベルギー   (約640万円)
 5.フランス   (約633万円)

アメリカがダントツ一位の理由は、
アメリカ国民の年間労働時間が他の先進国に比べて長いためとのこと
日本は16位
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カソリック教徒がほとんどであるためもあって
人口も増えてきていて、
人口の半分が30歳以下と未来の明るい国でもあります
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ダブリン市内観光 2008/08/20の日記 08月20日 (水)
聖パトリック大聖堂
 ダブリン最大の教会だがカソリックではなくプロテスタント(国教会)
 カソリックに大きな教会は許されなかった

 大理石の床の模様が美しい
 ジョナサン・スイフト1667-1745とその愛人ステラの墓がある
 スイフトはこの教会の首席司祭であった
 『ガリバー旅行記』1726刊行 はその当時の社会への批判の書であった

 
 大統領の席もある 青地にハープの印章
(このハープはお札にも印刷されている 後で本物を図書館で見た)

 大統領はカソリックだがここは国の教会でなので参加するときはこの席に座るとのこと

 聖歌隊があり、その子たちのために聖歌隊学校がある
 メンバーがほとんどカソリックの子たちというのがおかしい

 アイルランド人にとって国教会はプロテスタントなのだが
 国教会はカソリックの儀式をかなり取り入れているので
 そのへんは寛容らしい・・・



フェニックス公園
 ローマ法王が1976年アイルランドを訪れた時
 ミサがあり
 この公園の丘に125万人が集まったと言うことです


トリニティカレッジ
 図書館「ケルズの書」
 ロングルーム

国立考古学歴史博物館

中央郵便局 1916年イースター蜂起で独立宣言を読み上げ、
      包囲した英軍とカソリックが戦ったところ

      このときの蜂起は失敗だったが指導者が
      裁判もなく即時処刑されたことで
      それまでは英国の自治領でいいと考える人も多かったのに
      アイルランドの意志は独立へ一気に向かいはじめた

      さらに英国は失敗した
      戦争中で兵力増強のため徴兵制をアイルランドに導入しようとして
      アイルランドの諸グループを反対の立場で結束させた

      1918年戦争が終わり1919年に英軍への闘争が始まった
      対英独立ゲリラ戦争である

      1920年英国は南北を分割それぞれを自治領にすると発表
      1921年12月 英国=アイルランド条約調印

      1922年 6月 内戦が始まった 23年まで

市電に乗ってヒューストン駅へ

歩いて現代美術館を通り抜けてキルメイナム刑務所へ
      イースター蜂起のリーダーたち16人のほとんどがここで銃殺された
      そのなかでジョセフ・ブランケットは
      同じく収容されていたグレイスギフォードと
      13:30結婚式を挙げ 10分だけ二人でいることを許され
      15:30処刑された

市電で戻りテンプルバー地区へ
  レストランで夕食

ホテルへ戻る
  少し手前のパブでギネスを飲む
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グレンダーロッホを経由してダブリンに戻る 2008/08/19の日記 08月19日 (火)
ウォーターフォード

 クリスタル工場見学

グレンダーロッホ
 初期教会の遺跡
 二重の門である ゲートハウス
 30mのラウンドタワー 11世紀
 世紀のケビンの十字架 おそらく8世紀
 聖ケビンの教会の教会 
 中は屋根が二重になっていて梯子であがり居住できる
 古い部分の石積みは漆喰を使っていない


ダブリンに着いた 反時計回りにアイルランドを一周したことになる

ダブリン宿泊はクオリティホテル 川の近くに建てられた新しいホテル

リバーダンスを見に行く
 日本で2回見たのとほとんど同じ内容だがメンバーは違うチーム
 プリンシパルの男女二人がとてもよかった

 アメリカのタップダンス
 スペインのフラメンコ 
 ロシアの踊りが間に入りそれぞれの魅力を見せながら 
 アイリッシュダンスを際立たせる

帰りはホテルまで夜の街を歩く 
 サキソフォン
 二人のバイオリン
 ギターで歌う青年
初めて歩くところなのに川沿いの道に人が少なく
多少は緊張があったが、ホテルまで35分で着いた

毎回旅行ではコンパスを身に付けている
地図を手に入れれば初めてのところでもどこでも歩ける・・・・
幸いアイルランドの治安はとてもよい
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アイルランド第9日 ブラ二ーキャッスル、ロックオブキャッセル、ウォーターフォード2008/08/18の日記 08月18日 (月)
キラーニー

ブラ二ーキャッスル
庭が特によかった
   大きな木々
   妖精の出そうな薮や草むら

ロックオブキャッセル
   90mの石灰岩の丘の上にある教会の廃墟
   高台なので見晴しがよい

   12世紀の教会2、13世紀の教会1、15世紀の教会2、
   計七つの教会の跡である

   元は砦だったが1101年に教会に与えられた
   建てられた教会は
   1647年クロムウェルの侵攻の時に破壊された
    
   アイルランドのロマネスク建築の礼拝堂もある

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   90メートルの高さの岩盤(石灰岩)の上に建つ大司教区跡
 5世紀、マンスターのオブライアン王が砦を築く
 450年には聖パトリックが、エンガス王に洗礼を施す
 11世紀ヴァイキングを撃退したブライアン・ボルー王の城となる
 12世紀コーマック王によって建て替えられてから、
 クロムウェル軍来襲まで、
 アイルランドの宗教的中心地として発展した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ウォーターフォード 鉄道でダブリンまでは 23.50ユーロ、2時間半
デイズホテル 
鉄道の駅から橋を渡った左側にある
部屋の窓からこの橋や川が見える


夕食後レジナルドの塔まで散歩

ホテルのパブへ ギネスの後はアイリッシュ珈琲

9時半からギターと歌がはじまった
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アイルランド第8日 キラーニー近郊 2008/08/17の日記 08月17日 ()
馬車で近くの国立公園をまわる
朝の公園で、馬車は森の木々の間を軽快に走り、気持ちがいい
湖のむこうにはロス城が見える

それから車で
リングオブケリーアイヴァラ半島一周 雨が降りはじめた

北に向かって対岸のティングル半島に
デビット・リーンが『ライアンの娘』を撮影したインチ村がある
この映画でアイルランドの美しさが世界に知られるようになったという

残念ながら雨で見えなかったが・・・・


ボグビレッジ見学
レッドフォックスインでアイリッシュコーヒー


ウォーターヴィル 昼食 きのこスープ、薫製のタラの料理、りんごタルト


貴婦人の眺め
ロス城
マックロスハウス

キラーニーのホテルに戻る
珈琲を飲んでから大聖堂まで歩く
帰りに大きなスーパーを見つけたので中に入る
 ビスケットなど買った

夕食後近くの教会の無料コンサートにゆく
当然寄付の缶はあり、コインの人もあったがほとんどの人はお札
5ユーロ、10ユーロの人もたくさん!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイルランドのホテル

アイルランドの水はいいので沸かさないでも飲める
備品として湯沸かし器があり、紅茶や珈琲を飲める
(魔法瓶につめておくと行動中にも珈琲が飲める)

備品として服のプレッサーかアイロンとアイロン台がある

ガラス窓はガラスが二重になっているので、
窓をあけなければ外の音は聞こえない

枕銭の習慣はない
よほど特別のことを頼むのでなければチップはいらない
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アイルランド第7日モハの断崖など 2008/08/16の日記 1 08月16日 ()
ゴルウエイから


バレン高原 
 巨人のテーブル ドルメンである 名前負け、あまり大きくない
 奈良の石舞台の方が迫力がある

モハの断崖 200mの断崖が8km続く 強風の中、崖ぞいに歩く
      迫力のある景観だ
      しばらくは石壁が続いていて安全ですがその先は壁がなく
      歩くのは自己責任

エニス   ここで昼食

リムリック
 条約の石 プロテスタントとカソリックが停戦した時
      宗教の自由は確認されたがこのときの約束は守られず
      以後カソリックは不当な扱いを受け続けることになった
      カソリックにとっては屈辱、悔恨の石だ

小さな村アデア わらぶきのコテージがつながった町並みが残っている

キラー二ー インターナショナルホテル
      ホテルの前の広場にに観光用の馬車がたくさん溜まっている

夕食前に町をひとまわり
      レッドロブスター料理は50ユーロだった
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アラン島へ 2008/08/15の日記 08月15日 (金)
朝の散歩
コリブ川ぞいの散歩道をたどって
ゴールウェイ大聖堂まで歩く

今日はアラン島へ渡る

 アラン島といえば
 J.M.シング 紀行文『アラン島』、戯曲『海に騎りゆく人々』
 彼は1899年1902年にアラン島を訪れている
 当時は船で三時間かかった

 ロバート・フラハテイ ドキュメンタリー映画 『MAN OF ARAN』
 1932-1933年一年間現地で撮影 1934年公開
 
 いずれも
 アラン島の過酷な自然と人々を描いている作品で知られている
 アランセーターも有名だ

 今島の人口は冬は900人、夏は2,000人
 夏は観光で忙しくなる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

在ゴルウエイの日本人ガイドさん


 水道料金は無料、各戸にメーターもない
 泥炭はトラックいっぱい買って一冬持たせる
 300ユーロくらい
 朝食をたくさん食べ、昼は食べない人も多い

 わらぶき屋根もまだ残っている 部屋は台所だけ そこに寝る

 
ロッサヴィル港からフェリーに乗る 50kmおよそ1時間の船旅

ミニバスで島の中央へ
ミニバスの運転手はきっと元漁師なのであろう
大きな荒っぽい言葉遣い
今、島の漁業は観光客のいない間だけだとのこと

聖キーラン修道院跡

ミニバスを降りて歩く

ドン エンガス 
この遺跡は87mの断崖に面している

2,000年ほど前に作られた遺跡 城壁のような石積みに三重に囲まれて
祭壇がある その向こうが切り立った崖で海に面している

砦であったのか儀式の祭壇であったのか詳しいことはわかっていない
私には宗教儀式に使う祭壇のように思われた


この岩だらけの島に戦略的価値があるとはとても思えない
村人が外敵に備えたとしたら逃げ込むのには
生活のある海辺から遠すぎるではないか


島唯一のレストランで昼食 ロブスターを食べる

ゴルウエイに戻る
夕食はコンロンズ シーフードレストラン
ムール貝、鮭、白ワイン

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アランセーターについて

  機械織のものは60ユーロくらい 手編みのものは150ユーロくらい

 『アラン島のセーター』伊藤ユキ子、晶文社1993年によれば
  乳白色のものを漁師は着ない ずっと染めたものが使われていた
  乳白色のものは1937年に世に送り出された
  
  今、乳白色のものは、男の子が11,12歳になったときにある堅信礼の時に
  母親が編んで着せる

  セーターの編み目模様が家紋になっていて海難事故の時に見分けがつくとされているが、家紋など(昔はあったかもしれないが)今はない

  セーターの編み目模様
  ケーブル、ジグザグ、ダイヤモンド、ハニーコム、バスケットなど
  ニッターさんそれぞれ得意な柄を組み合わせて編むようだ
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スライゴよりゴルウエイへ 2008/08/14の日記 08月14日 (木)
スライゴより
カイルモア修道院

元は1868年にマンチェスターの富豪が建てた別荘
その後女子修道院となり、寄宿学校も運営されている
湖に映える邸宅が美しい

邸宅は一部を公開 丁寧な木彫り
小さな教会も良く
森を抜けた離れたところにある広い庭園も素晴らしい

コネマラ国立公園ハイキング

『静かなる男』が撮影された村 コング

ゴルウエイへ

インペリアルホテル
夕食はパスタだが ゆで過ぎだった

夕食後街一番の通りを散歩
  ケネディ公園 1963年  
  リンチ家の城 1320年
  ノラの家 ジェイムズジョイスの妻の家
スペイン門  1594年

 楽師たちの演奏が流れている
 エレキギターの青年
 バイオリンとギターの少年たち
 バンジョー、、ギタードラムの3人組
 アコーデオンの男
 バグパイプの青年など

 火を振り回す大道芸の青年
 眠った犬の粘土細工を置いて座っている彫刻家もいる


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ジョン・フォード 1894年2月1日 - 1973年8月31日

父ジョンはゴールウエイ湾スピッダル村に生まれ、伯父の力でアメリカに渡った
メイン州ポートランドに住んだ

ジョン・フォードは22歳の若さで映画監督になり成功した
WASP令嬢と恋に落ち結婚したが、成功とこの結婚のあとアイデンテテイの喪失に悩まされた
自分を見つけるべく26歳で父の故郷であるアイルランドの村を訪ねた
1921年のことである

この時期のアイルランドは英軍との抗争が激化し、内戦同然の状態だった

ジョン・フォードが訪ねたとき、村の家のほとんどが焼き払われており
村の若者のほとんどは山の中に逃げ込んでいた

ジョン・フォードが親類を探しているとマーティン・フィーニというのが亡父の甥だとわかった
彼も北のコニマラに潜伏しているとのことだった

彼はIRAの大物で首に懸賞金がかけられていることもわかった

ジョン・フォードは尾行をまいて彼の隠れ家を訪ね食料と軍資金の差し入れをした
この地に入って2週間後、とうとう英国官憲はジョン・フォードを連行し
知名人であるので逮捕はせず無理矢理英国行きの船に乗せた

この旅行はジョン・フォードにとって大きかった
自分の中に流れるアイリッシュの血を自覚した

どこか不器用だが、負けても負けても屈せず音を上げないというアイリッシュの血を・・・

故郷で得た彼自身の投影もしくは幻影を、
その後の作品の主人公にすることで追い求めたのが彼の後半生だという

『駅馬車』 (1939)『怒りの葡萄』(1940)、
『わが谷は緑なりき』(1941年)、『荒野の決闘』(1946年)

時は流れ
1951年アイルランド現地ロケ(コング)を入れた『静かなる男』を完成させる
『静かなる男』(1952)
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アイルランド第4日 デリー スライゴへ」 2008/08/13の日記 08月13日 (水)
デリー(プロテスタントはニューデリーと呼ぶ)には二つの戦いの歴史がある

1688-89年デリー市のプロテスタントをジェームズ2世が包囲
   105日間包囲したが、陥落できなかった
(1690年ダブリン北方40kmボイン川でカソリッック軍が敗れ  
 以後プロテスタントの支配になり、カソリック苦難の時代が始まった
 プロテスタントに改宗させようとはせず植民地の如く、支配、収奪した)

1972年血の日曜日事件
   カソリックの集会後のデモに英軍が発砲、市民26人が射殺された
   以後カソリックの英軍への反対闘争激化
   カソリックとプロテスタント双方の軍司組織が停戦するのは1998年
   それ以後は停戦が守られてきている
   まだ10年しかたっていないが今、町は平和である
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今は市の入り口に和平の象徴である銅像が建てられている
 二人の青年が映画『ET』のように手と手を触れあわせようとしている

 ガイドさんと会う

 城を通り過ぎて、カソリックの住むボグサイトへ降りて行く 
 ボグサイトは泥炭地の地区と言う意味
 城は高いところにあり、カソリックは湿った地区であっても
 こちらに住むほかなかったのであろう

ガイドさんの案内で射殺された場所
「ここで6人が・・・、そちらの道路では・・・・」
慰霊碑
英軍の監視所跡等見てゆく

家の壁に事件を記憶する数々の絵が大きく描かれている
事件を決して忘れないためであろう
犠牲者たちの群像も
射殺された少年の中にはガイドさんの友人がいたと言う
彼もその頃は石を持って戦っていたに違いない

城壁を歩く
事件の現場はすぐ足もと、ボグサイト全体を見下ろす
ガイドさんの住んでいた場所を聞いてみた
あの教会のそばだと指差して教えてもらった

今彼は、街角、街角で知り合いの人と挨拶する笑顔の素晴らしいガイドさんだ
カソリックの人口が増えており、
将来は「(プロてスタントを含めた)みんなのために」
北アイルランドはアイルランドとの併合することがいいと語ってくれた

デリーをでてアイルランドへ再入国
といっても小さな川にかかった橋を渡っただけで、国境を示すものは何もない

イエーツの眠る墓

スライゴーへ
スライゴのイエーツミュージアム

スライゴ クラリオンホテルは元精神病院の巨大ホテル

    1855年、建築家ウィリアム・ディーン・バトラー
        ダブリンのコノリー駅、
        キルケニーの聖メアリー(カトリック)大聖堂の建築家
    1992年病院閉鎖 4500万ユーロかけて修復・改装
    2005年にクラリオン・ホテルとしてオープン

    建物、インテリアともにあまりなじめない建築だった
    明日ホテルの礼拝堂で結婚式があるとのことで
    小さい子を連れたアイルランド人がたくさん泊まっている
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