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『オランダの光』はドキュメンタリーです
フェルメールなどのオランダ絵画にあふれる「光」を追求します
オランダに他の国と違った特殊な光があるのだろうか
それを画家はどのようにして描いているのか
というテーマのもと、映像と
美術史研究家や画家、天文物理学者や気象学者へのインタビューによって
「オランダの光」を検証してゆきます
映像作家たちは一年間同じ堤防に立って
そこから見える風景とそこにある光を撮し続けます
全く平らな土地、水平線、
堤防に沿った道路をたまに走って行く自動車、自転車などが映し出されます
画面の上2/3はその時々の空と雲です
また50年代に行われた干拓によって、大きな内海ザイデル海がなくなり
光を反射する「鏡」がなくなった結果
いまではもう「オランダの光」を見ることはできないという
ヨーゼフ・ボイス(ドイツの芸術家)のことばを検証します
これから絵を見るときに
「その画家が光をどのようにとらえようとしたのか」
という視点からもう一度絵を見直してみるという楽しみが増えました
オランダではありませんがフランスに始めていったとき
それは5月でしたが
そこにあふれる光の日本との違いにびっくりし、
感嘆したことを思い出します
オランダはアムステルダムしか行ったことがありませんでしたが
次に行く機会にはぜひ郊外に足をのばして
地平線。水平線のみえるところに立ち
空気そのもの、光そのものを味わってみたいと思いました
★映画『オランダの光』公式ホームページ
http://www.cetera.co.jp/library/holland.html
★こちらでは加藤周一が朝日新聞「夕陽妄語」に書いた『オランダの光』ついてののエッセイを読むことができます
http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.html
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このホームページは
ラボ・パーティ教育活動を応援しているアスベル個人のホームページです
事務局メンバーとしてスタートしたホームページでしたが、
2005年2月以後は「特別参加」による参加ホームページとなります
公式のサイトではありません
また事務局員のホームページではありませんので、
そのことをご理解の上ご参加ください
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以上のことをトップページに書き、一番目立つところに置きました
私が1月に事務局を退職しましたので
私のホームページを「事務局」枠ではなく、「特別参加」枠に移動してあります
そのことのお知らせの意味があります
【ひろば@LABO】はラボ・パーティのコミュニティサイトです
成熟してゆくにつれ参加者を増やしてゆくものとしてつくられてきました
閉じられた宇宙ではなく開かれた宇宙としてスタートしています
「特別参加」のホームページには、
現在まで、ラボ・パーティの関係者、ラボ・パーティ父母、ラボっ子大学生
ラボっ子OB/OG,事務局OB/OGなどに参加していただいてきました
海外各地にまで広がる大きなコミュニテイに育ててゆけば
それ自体、ラボ教育活動の推進ができる場となり
と同時にラボ教育活動全般の紹介のできる場になります
私のページの内容はもともとラボ・パーティ教育活動に役立ててゆくためのものを中心に置いています
しかし公式ホームページとは違って
内容および表現は個人のものとして、個人の責任で書いて来ました
今日、時間をかけて点検してみましたが
事務局員のホームページから特別参加のホームページに変わっても
特に修正を必要とするページはないと思います
キャンプや国際交流のページなど、
(例えばファミリーキャンプやニュージーランド交流、カナダ・マニトバ交流の様子など)
これから参加するラボっ子やその父母のみなさんの参考になるとも思います
これからも役立てていただきたいと思っていますがいかがでしょうか
私自身の気持ちとしては、事務局は退職しましたが、
できるだけラボ教育活動の応援を続けたいと願っています
そのための場としても【ひろば@LABO】の
ホームページを続けたいのです・・・
(これだけの分量をそっくり他へ移動することは、
可能に見えますが、現実には大変な作業量となり、不可能です・・・・
・・・・その場合残念ですが、ホームページを閉じるほかなくなります)
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アルンダティ・ロイ『帝国を壊すためにー戦争と正義をめぐるエッセイー』岩波新書 2003年9月
アルンダティ・ロイはインドの女性作家です
今回初めてこのエッセイ集を読みました
インドから今の世界がどのように見えているのか
インドでも進んでいるファッシズムの現状
書かれている現実の痛ましさ
勇気ある発言
歯に絹着せぬ発言・・・
「ファシズムとは、国家権力のあらゆる手段がゆっくりと、しかし、確実に浸透することでもある。それは市民の自由を少しずつ侵し、目立たないうちに不公正を日常化してゆく。ファシズムとの戦いとは、人々の心を取り戻す戦いのこと。・・・政府公共機関を鷲のような目で監視し、責任を追及すること。耳を地につけ、ほんとうの弱者のささやきを聞くこと。・・・それはあなたが読んでいる新聞のコラムや、見ているゴールデンアワーのテレビ番組が芝居じみた熱情と大げさな見かけに乗っ取られるのを許さないこと。ほかのすべての出来事から、わたしたちの注意を逸らそうとしてしまおうとするメディアをけっして放置しないこと、なのだ」
アルンダティ・ロイ著「帝国を壊すために」より
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ベルリンフィルハーモニーの教育プログラム
『春の祭典』プロジェクトのドキュメンタリー
サイモン・ラトル指揮のベルリンフィルハーモニーの演奏に合わせて
8歳から20代まで250人のこどもたちがダンスを踊る
こどもたちはさまざまの文化的背景、人種、国籍、宗教から選ばれている
踊ることも、舞台に乗ることも
ほとんどのこどもたちにとって初めての体験である
6週間前から練習が始まる
振り付け担当のロイストン・マルドゥームとそのチームが指導に当たる
こどもたちへの指導の様子、変わってゆくこどもたちの様子
指導する人々とこどもたちへのインタビューが間をつないでゆく
人生や生活を変えるほどに、表情が大きく変わってゆく様子が素晴らしい
『ベルリンフィルと子どもたち』
http://www.cetera.co.jp/library/bp.html
サイモン・ラトルへのインタビュー
http://www.cetera.co.jp/library/rattle.html
印象的だった16歳の少年の一言
ナイジェリアから来た少年は内戦で両親を殺されている
『こちらの文化はアフリカと比べてあまり高くない
それは毎日の暮らし方を見ているとわかる』
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中央公論社 2004年11月10日発行
2004年5月27日イラク、マフムディアで、
夫である橋田信介さんと甥である小川功太郎さんが襲撃され、
殺害された事件をプロローグに、
その後の経過・・・・
戦場ジャーナリストの夫と生きた日々が語られています
そして橋田さんとの出会い、その後の結婚生活についても・・・
どのような生活がフリージャーナリストである
橋田さんの活動を支えていたのか
橋田さんがどのようにしてマスコミにできない取材をしてきたのか
イラク戦争前になんと
イラクへの入国に必要なあらゆるビザの発給が拒否された中、
ダマスカスで
イスラム義勇兵であるムジャヒデンビザをとって
バクダットに潜入したこともあるそうです
家庭生活はどのようなものであったのか
息子大介との関係は・・・
それぞれの戦争をどう見ていたのか
報道をどう考えていたのか
戦争ジャーナリストではない
戦場ジャーナリストであった橋田信介さんを支えた橋田幸子さんの気持ち
そして橋田信介さん自身のの気持ちが伝わってきました
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橋田信介『戦場特派員』 実業之日本社 2001年12月刊行
橋田さんは昨年イランでなくなられたフリージャーナリストです(61歳)
(2004年5月27日
イラクバグダット南方マフムディアで
「イスラム聖戦旅団」のメンバーにより襲撃され殺された。
甥の小川功太郎さん(33歳)も・・・
その後、妻の橋田幸子さん自身の調査によれば
アメリカのCIAの車だとの誤認による襲撃であったと思われる。)
この本は生前に刊行されていますので
ベトナム、カンボジア、湾岸戦争、ボスニアの戦争、パレスチナなどで
世界の戦場をどのように取材してきたのか
戦争をどのように見てきたのか
その活動の詳細を知ることができました
どの戦場でも一歩踏み込むことがとても危険な仕事であったこと
日本のマスコミの報道では報道されないことがたくさんあること
マスコミでは取材できないことを探り出す
フリージャーナリストの大切さ、今までたくさんのスクープをものにしてきた
そしてその仕事のたいへんさを知ることができました
このような方とその後継者である甥の小川さんを失ったことの大きさを
改めて深く感じました
「ある時はこわごわと、ある時はやけくそで戦場を走った。
その結果、戦争は一部の軍国主義者だけで起こせるものではないと言う結論に達した。
「戦争を知らない大人」が多い中で私は戦争を知っている。
全ての戦争は多数の国民の了解なしには成立しない。
そしてその了解は、今の日本の日常生活の中にもある。」
橋田信介さんのホームページ(エッセイ集あり)
http://www.ubenippo.co.jp/skiji/hashida/hashida_index.htm
橋田信介さんの略歴(本文の記述を加えて作成)
1942年 山口県宇部生まれ
夜間高校卒業後郵便局勤務
東京へ転勤 法政大学の夜間へ行く
1970年 民青全学連活動に参加のため6年かかって卒業
1971年 郵便局をやめフリーターとなる
7年間勤めた退職金で復帰前の沖縄へ旅行
日本電波ニュース社入社
1972年 ベトナム・ハノイ特派員
1978年 タイ・バンコク支局長
1980年 ローマ支局長
1988年 退社 バンコクへ家族で移住(こどもが小学校2年生のとき)
バンコクを拠点にフリージャーナリストとなる
2004年イラクで死去
小川さんの略歴
2003年 夏、7年勤めたNHKを退社
2004年 3月より橋田さんの助手としてイラクでの取材を手伝っていた
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この本は今本屋さんでは手に入りません
あまり読まれていない作品です
図書館のドストエフスキー全集を借りてきました
筑摩書房から昭和37年(1962年)に発行された全集の第9巻です
小沼文彦訳2段組みで584ページあり読み通すのはかなりの苦痛でした
長さも長いのですが、劇的な事件は起こらず、
書き手となっている青年アルカージイ(20歳という設定)に共感できず・・・・
普通なら途中で放り出すところですが
ドストエフスキーの読書会に参加しているのでそうはゆかずやっと読み終えました
1966年(45歳)1月から「罪と罰」を雑誌に発表、12月に完結した
10月「賭博者」
1968年(47歳)1月から「白痴」を雑誌に発表、12月に完結した
1970年(49歳)1月、2月「永遠の夫」を雑誌に発表
1871年(50歳)1月から「悪霊」を雑誌に発表、12月に完結した
1875年(54歳)1月から「未成年」を雑誌に発表、12月に完結した
1879年(58歳)1月から「カラマーゾフ兄弟」を雑誌に発表
1980年11月に完結
1981年1月に死去(享年60歳)
「悪霊」と「カラマーゾフ兄弟」の間に位置する作品である
アルカージイ(20歳)の手記という形で家族のことが語られてゆく
父ヴェルシーロフとの葛藤、
「ヴェルシーロフにはムイシュキンとスタヴローギンが共存している
・・・神でもなければ悪魔でもない」(ジラール)
「抽象的なカリスマにしてリアルな存在感をもつ父の造形」
(亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』)
家庭教師オーリャの自殺、ヴェルシーロフの善意、「意識化の欲望」の罪
まわりの人々の罪
同時代のロシアに一種の流行としてあった自殺への作者の関心
「どのような事実と偶然の積み重ねからなるのか・・・
「悲劇」の現実を分析的に構築してゆく」(「 」内亀山郁夫同書より)
「ロマンティストとしての作家は死んだのです
「悪霊」以前と「未成年」以後を分かつ最大の分岐点がそこにあります」
「日常性への関心」
「人間関係そのもののなかにひそむ原罪」
「人間の原罪に発する神の不在という観念を投影していた」
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TBS世界不思議発見(2005年1月8日)
戊辰戦争外伝 海を渡った幻の会津国
会津戦争のときに武器商人シュネルが会津側で働いたことと
カルフォルニアに会津からの移民おけいの墓があることは知っていたが
二人の人物が今日つながった
ヘンリー・シュネルはプロシャ人、横浜で商売をしていた弟エドワード・シュネルを頼って日本に来た
この商会では日本で初めて牛乳を販売した
プロシャ公使館に職を得る
慶喜による六カ国公使への大政奉還の説明の場で松平容保を知る
その後公使館をやめ、会津藩の侍として働いたこと
髪型も変え服も変えたこと
米沢藩に言ったときには平松武平衛と名乗っている
シュネルが容保から脇差しを拝領し、屋敷も貰っていたこと
大工の娘であるおけいは会津のシュネルの家で働いていた
1868年9月22日一ヶ月の籠城の後会津降伏
会津敗戦後、新天地を求めて会津の人々二十数名とカルフォルニアに向かったこと
おけいはその時誘われたのであろう
1869年5月 1日横浜「チャイナ号」にて出航
1869年5月27日にサンフランシスコ着
シュネルはエルドラド郡コロマ村に160エーカーを買い取って農場を始めた
(この土地とおけいの住んだ家も紹介された・映像)
しかし作物が育たず、シュネルは金策に横浜へ戻る
謝金の担保として容保から拝領した脇差しを預けている
(葵の紋のある立派なあつらえの一降りが今も残っている・映像)
しかしその後の行くえがわかっていない
残された会津の人々は、作物の育成がうまくゆかず、だんだんと離散
うち3人だけ消息がわかっている
おけいは近所の農家で子守りとして働いていた
ことばはだめだったが、裁縫や料理は上手だった
(シュネルの娘のためにつくった可愛い赤い着物の人形が残っている・映像)
230km離れたところのコルサに移った
会津の人増水国之助が結婚し、子供が生まれたことを聞き
手編みのケープを届けにゆき、帰ってから急に発病
1871年に亡くなっている
後にコロマで死んだ松之助が墓を建てている
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今日は寒かったですね
重装備で出かけました
ちょっとたいへんでしたが、助けを借りて
目黒の庭園美術館 田原桂一「光の芸術」展へ行ってきました
写真家田原桂一はパリに21歳で着き、日本と全く違う<ヨーロッパの光>に魅せられます
「都市」シリーズ ヨーロッパの光をとらえようとする作品
「窓」シリーズははじめて国際的に認められた作品
パリの屋根裏部屋の汚れた窓からの風景のシリーズです
「トルソー」のシリーズは最近のもので
彫刻を写真に撮り、布やガラスそして石にプリントして展示しています
印画紙ではないものにプリントすることで生まれるずれ
素材の中に蓄えられた時間、石の蓄えた時間
その日の光によって変わる印象までも作品に取り込もうとしています
建物の構造をうまく生かした展示でした
この作品展のためにつくった作品もあります
庭園美術館は旧朝香の宮邸で
アールデコの感覚を生かしたとても素晴らしい建物です
前は西武が所有していて結婚式場として使われていました
私事ですが、私たちの結婚式と披露宴はここで行われました
部屋は今美術館の入り口を入ってすぐの大広間でした
美術史に残る建物での結婚式は、生涯の思い出です
と言うわけでこの美術館にはよく行きます
今日はパートナーと建物探訪も兼ねての美術鑑賞ができてよかったです
以下案内より
田原桂一光の芸術展 庭園美術館
午前10時-午後6時(入館は午後5時30分まで)
休館日:12月8日、12月28日~2005年1月3日、1月12日
田原桂一は30年前のパリにおいて、日本では出会えなかった強く鋭い光と出会い、その後「光」そのものを探求し続けることになります。
写真という分野を超えて都市空間での光の設置も多様に実現してきました。これらの「光の彫刻」は、光の物質化を探っています。
光に物質性を持たせるために光を解き放ちますが、その光は照らされたオブジェと合体して、新たな意味を顕在化させてくるのです。
そして現在は、光を物質化することを試みながら「光の彫刻」を都市空間の中に設置しています。
北海道恵庭の「光の庭」、パリのサン・マルタン運河の「光のエコー」、パリのヨーロッパ写真館の「庭Niwa」、
2003年のクリスマスにスイスのレマン湖に設置した「光の木」をはじめ、2004年EU文化首都となったフランスのリール市から依頼を受けた田原は、
城塞都市で歴史的に最も重要な門を選び、そこに「光の扉」を設置しました。また、フランスの世界遺産に指定されているモン・サン・ミッシェルのプロジェクトも進行中です。
強い光、弱い光、やさしい光、鋭い光、また闇も光であると彼は考え、光を自在に操り、幻想的な世界を現出します。
彼の「光」は、私たちを優しく包み、そして語りかけ安らぎを与えてくれます。そこからは「生き物としての光、光の生命力」を感じることができます。
パリに住み始めた頃、自室の窓を写真に撮り始めたことから、彼の作家活動が始まります。モノクロームのコントラストの強い写真、
汚れたガラスからは空気感や光の粒子そのものの存在を感じさせるものです。光が物質としての姿を現し、視線は、空間の中を浮遊するのです。
そして、光を見ることにより、対象物に反射した光を捉えるのではなく、光の形態そのものを模索することにつながっていくのです。
「窓」の写真を見てフランス国立図書館のルマニー氏は、「田原桂一は、潜水夫が水底に潜るように、光の中に降りてゆく。
そしてそこに彼が見つけだすオブジェは、もはや冷たく鮮明なものではなく、ミステリアスで、総てが光の中で溶け合っているかのように切り離すことの不可能な存在であるのだ」と評しています。
彼は、対象物を介して光の形態そのものの探索を始めます。
「光」への探求は、「白い光」と「黒い光」へと昇華していきます。白い光は感覚であり、オブジェを照らし感性や感情を喚起させる。
黒い光は、内なる光であり経験や知識などを通して想像やクリエーションを触発することになります。
その表現方法として印画紙の上に印画するだけでなく、ガラスや石灰岩やアルミや布の上に印画することにより、
「時間と光の交錯、光の痕跡」を捉えること、すなわち物質を通して光の記憶を探る試みが繰り返されます。
「トルソー」のシリーズの作品は、私たちに、生きている人間以上の生やエロスを感じさせ、
花の写真では、葉脈の一本一本をも大切にし、モノをいとおしむ緊張感を伝えてくれます。
そこでは「視線の浮遊」、すなわち時間と光の継続性を表現することに挑み、光によって「存在するものの意味」を、私たちに問いかけているのです。
1951年、京都に生まれる。1977年にアルルの国際写真フェスティヴァルにおいて、「窓」のシリーズで大賞を獲得して以来、
フランス写真批評家賞、日本写真協会新人賞、第10回木村伊兵衛賞、第1回東川町国際写真フェスティバル東川賞、またニエプス賞、パリ市芸術大賞を受賞、
フランス政府からシュヴァリエ文化功労賞を受章、フランス文化庁主催「光とモニュメント賞」審査員を務めるなどヨーロッパで最も注目されるアーティストです。
入館料:一般1200(960)円、大学生[専修・各種学校を含む]960(760)円、小・中・高校生および65歳以上600(480)円
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今日散歩のついでに、久しぶりで井の頭文化園に寄ってみた
インド象のはな子さんは元気でした
1947年生まれ、タイから寄贈されて2歳半で日本へ(タイでの名前はガチャ)
1949年9月2日神戸港到着
3日夕方に東京・汐留貨物駅に到着し、
上野動物園に着いたのは4日朝とのことです。
日本に來るにあたつて日本名が公募され、
戰前上野動物園にいて1943年に空襲に備へて藥殺された「花子」
(こちらもタイからの寄贈)に因んでこの名前が選ばれたそうです。
1954年に井の頭自然文化園に引越しし、以來そこで暮らしてゐます。
うちのこどもたちが小さい頃は何度も見に行きました
今は歯が一本しかないので
全てのえさをジュースにしたり刻んで貰っている
そのえさを今上手に食べているところ
それでも一日100キロを食べているそうです

同じ年の9月23日に
インドから送られたインディラも上野動物園に着いている
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame31.htm
以下このホームページより
インディラとはな子の来園によって、上野動物園関係者にようやく明るさと
活気が戻ってきた。
「動物園復活祭」「上野象祭り週間」「象歓迎こども大会」
「児童動物仮装行列」「象入京歓迎報告大会」など、相次ぐ行事に職員たちも多忙だった。
ひと目インディラとはな子を見ようと、連日動物園には長い行列ができた。
「いいですか。インド象のインディラ、はな子は、おもに木の葉・木の芽・タケ・草・果物などを
一日200キロから300キロも食べるんです。
インディラの大好物はリンゴです。
象は大体、人間と同じ60から70年も生きるんです。
こんなに大きくて力も強いのに、性格はおとなしくてやさしいんですよ。
インディラは15歳ですから、君たちより少しお姉さんですねえ。」
福田は子供たち相手に、インディラの事を説明して聞かせていた。
満面笑みをたたえていた。
「おじさん。インディラの体重、何キロあるの?」
「インディラは約1900キロもあるんだよ。君たちの50人分くらいはあるねえ。
はな子はまだ赤ちゃんだから500キロぐらいかな。」
「それじゃあ、ウンチもすごいんだ。」
「そうだねえ、すごい量だねえ。」
子供たちは大笑いしていた。福田はトンキーの事を思い出しながらも、
心をなごませていた。
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